第39話 秘密を抱いた朝
昨日はうまくいった。
けれど、今日もうまくいくとは限らない。
ノアールがまた一歩進めるように。
ルミエールは、いつもより少しだけ早く迎えに向かった。
車の窓の外には、朝の街並みが流れていた。
隣で、ソレイユが窓の外を見ながら言った。
「今日もノアール、学校行けるかな」
ルミエールは小さく頷く。
「ええ。無理はさせない。でも、信じて待ちましょう」
「うん。そうだね」
車は、ノアールのマンションへ向かって走った。
マンションの前に着き、インターホンを押す。
少し間があった。
いつもより、少し長い。
(……何かある)
そう思った直後、ドアが開いた。
出てきたノアールは、制服を着ていた。
けれど、その腕の中には、小さな黒猫がいた。
黒い毛並み。
細い体。
ノアールの制服に、小さな爪をかけている。
ソレイユが先に反応した。
「え、猫?」
一瞬驚いたあと、すぐに顔を明るくする。
「なにそれ。めっちゃ可愛いじゃん」
ノアールは、猫を抱いたまま、視線を下げた。
指先が、少し震えている。
ルミエールは、猫ではなく、ノアールの顔を見た。
(何かあった)
(責めてはいけない)
(まず、安心させる)
ルミエールは声をやわらげた。
「ノアール。その子のこと、話してくれる?」
ノアールは、すぐには答えなかった。
猫を抱きしめる腕に、少しだけ力が入る。
それから、小さな声で話し始めた。
昨夜、コンビニへ行ったこと。
帰り道で、この黒猫を見つけたこと。
一人で、痩せていて、放っておけなかったこと。
ルナ、と名付けたこと。
お姉さんたちには、まだ言えていないこと。
ノアールの声は、何度も途切れた。
それでも、最後まで話した。
「……どうしたらいいか、わからなくて」
その言葉を聞いた瞬間、ルミエールの中で順番が並んだ。
学校へ行く時間。
猫をこの部屋に置いていく危険。
お姉さんたちに黙ったままにはできないこと。
今日だけ、安全な場所へ預けること。
帰りに、きちんと話すこと。
(ソレイユに任せる)
ルミエールは、ソレイユを見た。
「ソレイユ、少しノアールと話していて」
ソレイユはすぐに頷いた。
「うん。任せて」
そしてノアールに向き直り、明るく言った。
「ルナっていうんだ。いい名前じゃん。黒くて、夜みたいで、ノアールにぴったり」
ノアールの表情が、ほんの少しだけゆるむ。
ルミエールはその間に、少し離れた。
スマホを取り出し、祖父へ連絡する。
すぐに通じた。
「おじいさま。急ぎで相談があります」
祖父の声は、いつも通り落ち着いていた。
「どうした」
「ノアールが昨夜、黒猫を保護したようです。今日は学校があります。このまま部屋に置いていくことはできません」
ルミエールは、短く必要なことだけを伝えた。
「今日一日、別荘で預かれますか。猫用品はあります。運転手にも頼めると思います」
少しの沈黙。
それから、祖父が答えた。
「分かった。運転手と屋敷の者に伝える」
「ありがとうございます」
「ただし、命を預かるのだ。軽く扱ってはいけない」
「はい」
ルミエールは、すぐに頷いた。
「放課後、ノアールの家にも一緒に行って、きちんと話します」
「そうしなさい」
通話が終わる。
ルミエールは、一度だけ息を吐いた。
(今日は預かれる)
(でも、これで終わりじゃない)
ノアールのもとへ戻ると、ソレイユがルナに向かって小さく手を振っていた。
「ルナ、学校には連れて行けないからね。今日はいい子にしてるんだよ」
ノアールはまだ困った顔をしていた。
ルミエールは、その前に立つ。
「ノアール」
「……うん」
「今日は、うちで預かるわ」
ノアールが顔を上げる。
「え……?」
「家には猫がいるし、猫用品もある。運転手も慣れているから大丈夫」
ソレイユも頷く。
「放課後、ペットショップ行こ。必要なもの、ちゃんと見よう」
ノアールは、腕の中のルナを見た。
小さな黒猫は、何も分からないまま、ノアールの制服に爪をかけている。
「……いいの?」
「ええ」
ルミエールは、まっすぐ答えた。
「でも、帰ったら、お姉さんたちには話しましょう」
ノアールの肩が少しだけ揺れた。
「……うん」
その返事は小さかった。
けれど、拒んではいなかった。
(受け取ってくれた)
ルミエールは、胸の奥で少しだけほっとした。
すぐに運転手へルナを預ける。
運転手は、祖父から連絡を受けていたらしく、落ち着いてキャリーを用意していた。
ルナは一度だけ小さく鳴いた。
ノアールの手が、思わず伸びる。
「……ルナ」
ルミエールは、その手の動きを見逃さなかった。
「大丈夫。学校に着いたら、様子を確認できるようにするわ」
「……確認?」
「うちには見守りカメラがあるの」
ノアールは少し驚いた顔をした。
そのまま三人は車に乗った。
車の中で、ノアールはいつもより静かだった。
視線は窓の外に向いている。
けれど、景色を見ているわけではない。
ルミエールには、それが分かった。
(ルナのことを考えている)
学校に着いても、ノアールの様子は変わらなかった。
靴箱で靴を履き替える時も、少し動きが遅い。
教室に入ってからも、席には座ったけれど、いつものように落ち着いてはいなかった。
一時間目が始まる。
黒板には、今日の内容が書かれていく。
ノアールは前を向いていた。
けれど、ノートの文字はほとんど進んでいない。
シャープペンを持ったまま、手が止まっている。
ルミエールは隣の席から、その横顔を見た。
(集中できていない)
(ルナが気になっている)
ノアールの瞳は、黒板を見ているようで、別の場所を見ていた。
今朝、ルナを預けた車。
知らない場所へ向かった小さな黒猫。
そのことが、頭から離れないのだろう。
ルミエールは、すぐに声をかけたい気持ちを抑えた。
今は授業中。
ここで話しかければ、ノアールは余計に目立ってしまう。
(休み時間に)
そう決めて、ルミエールは前を向いた。
一時間目が終わった。
教師が教室を出ていくと、教室の空気が少しだけゆるむ。
ルミエールは、隣の席のノアールに小さく声をかけた。
「ノアール」
「……え?」
ノアールは、少し遅れて反応した。
「ルナの様子、見る?」
その一言で、ノアールの顔が変わった。
「見られるの?」
「ええ」
ルミエールはスマホを開いた。
別荘の猫部屋の見守りカメラにつなぐ。
画面に映ったのは、柔らかなクッションの上で丸くなっている黒猫だった。
ルナだ。
近くには、ルミエールの家の猫もいる。
少し距離はあるけれど、同じ部屋の中で落ち着いている。
「……寝てる」
ノアールの声から、少しだけ力が抜けた。
その時、執事からメッセージが届いた。
『ルナ様は少量ですが食事を召し上がりました。水も飲まれています。現在は猫部屋で落ち着いてお休みです』
ルミエールは、その画面をノアールに見せた。
「ちゃんと食べて、水も飲んでいるわ」
ノアールは画面をじっと見つめた。
「……よかった」
本当に小さな声だった。
でも、朝から張りつめていたものが、その一言で少しだけほどけたように見えた。
ルミエールは、ノアールの横顔を見る。
(ルナは、ノアールの心を救えるかもしれない)
けれど、すぐに現実が浮かんだ。
猫は、気持ちだけでは飼えない。
ごはんも、トイレも、病院もいる。
(ママは、何て言うだろう)
(ショコラおばさまは、受け入れてくれるだろうか)
ママは猫が嫌いではない。
けれど、それとこれとは別だ。
ノアールの家族にも、きちんと話さなければならない。
今朝のノアールは、ひとりでは言えなかった。
それを責めるつもりはない。
言えないほど、抱え込んでいたのだ。
(今日の帰り、一緒に話しに行こう)
ルミエールは、そう決めた。
「ノアール」
「……うん」
「放課後、まずペットショップへ行きましょう。それからルナを迎えに行って、あなたの家へ一緒に行くわ」
ノアールの手が、机の上で少しだけ止まった。
「……一緒に?」
「ええ」
ルミエールは静かに頷く。
「でも、話すのはノアールよ。私が全部代わりに話すことではないから」
ノアールは不安そうに目を伏せた。
「……できるかな」
「途中で止まったら、手伝うわ」
ノアールは、スマホの画面に映るルナをもう一度見た。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
ルミエールは、その返事を聞いて、スマホを閉じた。
朝、ノアールは秘密を抱えて玄関に立っていた。
腕の中には、小さな黒猫。
その秘密は、重くて、不安で、どうしたらいいか分からないものだった。
けれど今は、少しだけ形が変わっている。
ひとりで隠すものではなくなった。
誰かと一緒に、外へ運ぶものになった。
ルミエールは、次の授業の準備をしながら、隣の席のノアールを見た。
ノアールはまだ不安そうだった。
けれど、朝よりは少しだけ前を向いている。
その横顔を見て、ルミエールは静かに思った。
(次は、家族に話す番)
今日の放課後。
ノアールの家へ行く。
その時、自分はどんな顔でママとショコラおばさまに向き合うのだろう。
胸の奥に、少しだけ別の緊張が生まれた。
けれど、今はまだ考えすぎない。
まずは、ノアールが今日の授業を終えられるように。
そのために、隣にいる。
ルミエールはノートを開き、いつも通りの声で言った。
「ここ、さっきの続きよ。分からなければ、あとで一緒に見直しましょう」
ノアールは、少し遅れて頷いた。
「……うん」
その返事は、まだ弱い。
でも、消えそうではなかった。
秘密を抱いた朝は、まだ終わっていない。
けれど、その秘密はもう、ノアールひとりのものではなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、本編25話の裏側をルミエール視点で描きました。
ノアールが抱えていた秘密を、ルミエールは責めずに受け止め、すぐに現実的な段取りへ変えていきます。
次回は、ノアールの家へ向かう回になります。
ルナのこと、そしてノアール自身のこれからについて、家族に話す時間が始まります。




