第34話 朝のサンドイッチ
第33話「星のシャワー」の翌朝です。
本編第19話「朝のピンポーン」の少し前、ルミエールとソレイユ側の朝を書いています。
朝早く、別荘のキッチンには、パンの香りが広がっていた。
テーブルの上には、食パン、レタス、トマト、ハム、ゆで卵。
窓の外は、まだ少しだけ静かだった。
昨夜、星の光を降らせた空は、もう朝の色に変わっている。
「ノアール、食べてくれるかな」
ソレイユが、パンを一枚持ったまま言った。
ルミエールは、ボウルの中でゆで卵をつぶしながら、少し手を止めた。
「分からない」
「うん」
「でも、食べられそうなら、少しだけでも」
「少しだけでも食べてくれたら、うれしいね」
ソレイユはそう言って、パンをまな板の上に置いた。
いつもなら、朝食はメイドが用意してくれる。
きれいに切られた果物も、温かいスープも、焼きたてのパンも、何も言わなくても並ぶ。
けれど今日は、二人で作ることにした。
ノアールに渡す朝ごはんを。
「手作りって、なんか楽しいね」
ソレイユが笑った。
「私、あまり料理しないから、ちょっとぎこちないけど」
「じゃあ、ソレイユ。パンにマヨネーズを塗ってくれる?」
「それくらいならできるよ」
ソレイユは明るく答え、パンの上にマヨネーズをのせた。
少し多かった。
ルミエールは、そっと手を伸ばす。
「もう少し薄くていいかも」
「え、そう?」
「うん。こうやって、端まで広げるの」
ルミエールはナイフを持ち、白いマヨネーズをパンの端まで静かに伸ばした。
ソレイユが横からのぞき込む。
「ルミエール、慣れてるね」
「ママの手伝いをしてたから」
「宇宙でもサンドイッチ作るの?」
「作るよ。パンの形は少し違うけど」
「へえ。宇宙のサンドイッチ、食べてみたい」
ソレイユが楽しそうに言う。
ルミエールも、少しだけ笑った。
「レタスは、洗ったら水をちゃんと切ってね」
「水切り?」
「うん。水が残っていると、パンが濡れてしまうから」
「料理って、思ったより細かい」
ソレイユはレタスを両手で持ち、慎重に振った。
水滴が、ぽたぽたと落ちる。
「こう?」
「もう少し」
「こう?」
「うん。いいと思う」
卵サンド。
レタスとトマトとハムのサンドイッチ。
色がきれいに見えるように、ルミエールは少しだけ並べ方を整えた。
ノアールが見た時に、食べたいと思ってくれたらいい。
そう思いながら。
(食べられなくても、いい)
ルミエールは、包み紙を広げた。
(でも、少しでも手を伸ばしてくれたら)
それだけで、今日の朝は昨日と違う。
そう思えた。
サンドイッチを包み終える頃には、朝の光がキッチンに入ってきていた。
ソレイユは包みを大事そうに持った。
「コーヒーも持っていく?」
「うん」
「ブラックで大丈夫かな」
「分からない。でも、飲めなかったら残してもらえばいい」
「そうだね」
ルミエールは、黒いポーチ型のペンケースと、マットな黒のシャープペンを小さな袋に入れた。
金色の糸で刺繍された猫と三日月。
その下の「LUMISORA」の文字。
昨日の夜から、何度も確認していた。
(これも、受け取ってくれるかな)
ペンダントだけでは、学校では目立ってしまうかもしれない。
でも、ペンケースなら毎日机に置ける。
シャープペンなら、授業中にも使える。
言葉で全部を伝えなくても、そばに置けるもの。
それがいいと思った。
「行こうか」
ソレイユが言った。
「うん」
二人が玄関へ向かうと、祖父がそこに立っていた。
「ルミエール」
名前を呼ばれただけで、次に言われることは分かった。
だから、ルミエールは先に口を開いた。
「ノアールが、今日は行きたくなさそうだったら、すぐに諦めます」
祖父は、少しだけ黙った。
「学校へ連れて行くことが目的ではありません。ノアールが、外に出ても大丈夫だと思えることの方が大事です」
ソレイユも、サンドイッチの包みを抱えたままうなずいた。
「無理には引っ張らないよ」
祖父は二人を見た。
それから、静かに言った。
「……それならいい」
「はい」
「行ってきなさい」
「行ってきます」
玄関の外には、黒い車が待っていた。
運転席には、人のようで、人ではない運転手が座っている。
ソレイユはサンドイッチの包みを膝の上に置き、ルミエールは小さな袋を両手で持った。
車が静かに走り出す。
朝の街は、まだ少し眠っているようだった。
「ドキドキするね」
ソレイユが小さく言った。
「今日、学校行くかな」
ルミエールは窓の外を見た。
「分からない」
「うん」
「でも、行きたくなさそうだったら、今日はやめる」
「そうだね」
ソレイユは、膝の上の包みを両手で持ち直した。
「でも、サンドイッチだけでも食べてくれたらいいな」
「うん」
昨日、ノアールはペンダントを受け取ってくれた。
それだけでも、ルミエールには大きなことだった。
でも、今日会った時、ノアールがどんな顔をしているかは分からない。
昨日より遠くなっているかもしれない。
昨日より近くなっているかもしれない。
(押しすぎない)
ルミエールは、心の中でそっと繰り返した。
(でも、手は離さない)
車は、ノアールのマンションの前で止まった。
見上げると、昨日来たばかりの建物が、朝の光の中に立っている。
「着いたね」
ソレイユが言った。
「来るのは二回目だけど、ドキドキするね」
「うん」
ルミエールは、小さく息を吸った。
ソレイユがインターホンの前に立つ。
「押すよ」
ルミエールはうなずいた。
ソレイユの指が、ボタンに触れた。
ピンポーン。
少し待つ。
返事はない。
ソレイユは、もう一度ルミエールを見た。
ルミエールは小さくうなずいた。
ピンポーン。
「おはよー。迎えに来たよー」
ソレイユの声は、明るかった。
けれど、ルミエールには分かった。
その明るさの奥で、ソレイユも少し緊張している。
足音が近づいてきた。
ドアの向こうで、鍵の音がする。
ドアが開いた。
ノアールが、そこに立っていた。
まだ状況が分からないような顔をしている。
けれど、ルミエールは最初に胸元を見てしまった。
小さな三日月のペンダント。
昨日、ソレイユが渡したものだった。
受け取ってくれただけじゃない。
ちゃんと、身につけてくれている。
(つけてくれたんだ)
胸の奥が、ふっとあたたかくなった。
ソレイユも気づいたのか、一瞬だけルミエールを見た。
言葉にはしなかった。
でも、同じことを思っている気がした。
(繋がってる)
昨日より、少しだけ。
ノアールとの距離が近くなった気がした。
(今日は、一緒に学校へ行けるかもしれない)
ルミエールは、そう思った。
でも、その気持ちは口に出さなかった。
期待を押しつけたくなかった。
「一緒に学校に行きましょう」
声は小さかった。
けれど、はっきりと言えた。
「私たちを、信じて」
ノアールは、すぐには答えなかった。
その沈黙の中で、ソレイユが包みを持ち上げる。
「朝ごはんも持ってきたから」
そう言うと、ソレイユは靴を脱いだ。
「まだ私たちも食べてないの。一緒に食べましょ」
返事を待たずに、ソレイユはダイニングへ向かった。
ルミエールも、その後に続く。
強引すぎないように。
でも、ノアールが考えすぎて止まってしまわないように。
テーブルの上に、サンドイッチの包みを並べる。
コーヒーの香りが、部屋の中に広がった。
卵サンド。
レタスとトマトとハムのサンドイッチ。
ノアールは、しばらくそれを見ていた。
ルミエールは何も言わなかった。
(食べなくてもいい)
そう思っていた。
けれど、ノアールの手が少し動いた。
サンドイッチに伸びる。
ノアールが、一口かじった。
「……おいしい」
小さな声だった。
それでも、ルミエールには十分だった。
ソレイユが、すぐに笑いそうになって、少しだけこらえたのが分かった。
ルミエールも、胸の奥で息をつく。
(よかった)
それだけだった。
でも、その「よかった」が、心の中で静かに広がっていった。
「ありがとう……」
ノアールが言った。
ルミエールは、顔を上げた。
ありがとう。
その言葉が、ノアールの口から自然に出た。
それだけで、朝の光が少し強くなった気がした。
ショコラは、まだ部屋で眠っているようだった。
ブランシュは、少し離れたところから静かに見守っていた。
何も言わない。
けれど、その表情には、昨日とは違うやわらかさがあった。
朝食を終えたあと、家を出る準備をする時間になった。
ノアールは、まだ少し迷っているように見えた。
けれど、制服を着ている。
カバンも持っている。
ルミエールは、小さな袋をそっと握った。
「待って」
ノアールがこちらを見る。
ルミエールは、黒いポーチ型のペンケースを差し出した。
細長く、落ち着いた形。
表面には、金色の糸で刺繍が入っている。
横向きに座った猫と、そのそばの小さな三日月。
その下に、「LUMISORA」の文字。
「これ、私とお揃い」
ルミエールは、自分のペンケースも軽く持ち上げた。
同じ形。
同じ黒。
同じ金色の刺繍。
ノアールは、ペンケースを見つめていた。
「シャープペンも」
ルミエールは、マットな黒のシャープペンも一緒に渡した。
軸には「LUMISORA」の文字と、太陽、月、星、猫のマークが金色で並んでいる。
「使いやすそうに見えるでしょ?」
ルミエールは、できるだけ普通の声で言った。
「これ、私も使ってる」
本当は、もっと言いたいことがあった。
一人じゃない。
机の上に置いておけば、少しだけ思い出せる。
怖くなった時、握れるものがある。
けれど、全部を言葉にすると重くなる気がした。
だから、言わなかった。
「ネックレスもあるけど……」
ルミエールは、ノアールの胸元に一瞬だけ視線を落とした。
三日月が、静かにそこにある。
すぐに視線を戻した。
「毎日使うのは、こっちの方がいいと思って」
ノアールは、ペンケースとシャープペンを受け取った。
その指先は、少しだけ慎重だった。
「お揃いにはね、ちゃんと効果があるの。お守りみたいなもの」
ルミエールは、それ以上は言わなかった。
マンションを出ると、エントランスの前に黒い車が止まっていた。
朝の光を受けて、車体が静かに光っている。
ブランシュが、少し離れた場所に立っていた。
その隣に、起きてきたショコラもいる。
二人とも、何も言わなかった。
ただ、ノアールを見ていた。
心配そうに。
でも、止めることはしない。
その足元で、黒猫が静かに座っていた。
誰にも気づかれないように。
音も立てずに、ノアールの背中を見つめている。
ノアールは車の前で少し立ち止まった。
ルミエールは、すぐに声をかけなかった。
(大丈夫)
そう思いたかった。
(でも、怖かったら戻ってもいい)
昨日の夜、学校の上に降らせた星の光を思い出す。
それが本当に届いたのかは、まだ分からない。
学校の空気が変わっているのかも、分からない。
でも今、ノアールはここに立っている。
制服を着て。
ペンダントをつけて。
ペンケースとシャープペンを持って。
それだけで、昨日とは違っていた。
ソレイユが、先に車のドアを開けた。
「行こう」
明るい声だった。
けれど、無理に引っ張る声ではなかった。
ノアールは少しだけ迷って、それから車に乗った。
ルミエールも隣に座る。
ソレイユが、反対側に座った。
ドアが静かに閉まる。
黒い車が、朝の道を走り出した。
ノアールは、窓の外を見ている。
その胸元で、小さな三日月が揺れていた。
ルミエールは、それをもう一度だけ見た。
(大丈夫。まだ、ここから)
学校は、もうすぐだった。
読んでいただきありがとうございます。




