第19話 祖父の別荘
ルミエールが、祖父の別荘へ向かう話です。
昼を少し過ぎたころ、祖父は会議室へ戻ってきた。
「待たせたね」
「いえ」
ルミエールはすぐに立ち上がった。
祖父は朝より少しだけ疲れて見えたが、動きに無駄はなかった。机の上に残していた資料へ目を落とし、それをひとまとめにして封筒へ戻す。
「ここで話し続けるより、場所を移したほうがいい」
「はい」
「別荘へ向かおう」
その言い方は静かだったが、もう決定は変わらない響きだった。
ルミエールは小さくうなずいた。
「お願いします」
会社を出る時も、祖父のまわりには人がいた。
社員たちが足を止め、一礼し、短く挨拶を向ける。祖父はそれに応じながら歩いていく。その隣を歩く自分が、少し浮いているように思えた。
けれど祖父は、ルミエールを隠そうとはしなかった。
車に乗り込むと、朝とは違って、祖父が先に口を開いた。
「別荘には、普段から人を置いている」
「はい」
「だが、事情を細かく話すつもりはない」
「わかりました」
祖父は短くうなずいた。
「身内の子を預かることになったと伝える」
窓の外の景色が、少しずつ変わっていく。
街の建物が減り、道の幅がゆるやかに変わる。木が増え、空が広くなる。月の景色はもっと整っていて、もっと人工的だった。地球の緑は、どこか勝手で、揃いすぎていなかった。
そのことが、妙に目に残る。
「疲れたか」
祖父の声に、ルミエールは顔を上げた。
「はい。少し疲れました」
「そうか」
祖父はそれ以上は言わなかった。
無理にやさしいことを言わないところが、少しだけ未来の祖父と重なる。
車はやがて、門の前で速度を落とした。
高い塀と、大きな門扉。
門の向こうには、手入れの行き届いた庭が広がっていた。家というより、小さな迎賓館のようにも見える。けれど本宅ほど人の気配は濃くない。
「ここだ」
祖父が短く言う。
門が開き、車が中へ入っていく。
玄関の前に着くと、数人の使用人がすでに待っていた。
先頭に立っていた年配の男性が、一歩前へ出て深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
祖父は短く応じると、ルミエールを振り返った。
「こちらへ」
玄関をくぐった瞬間、空気が変わった。
外の気配とは違う、静かに整えられた涼しさ。広い廊下。磨かれた床。月の建物とも、未来の家とも少し違う。落ち着いていて、どこか昔の重みがある。
ルミエールが見回していると、祖父が足を止めた。
「彼女はしばらくここに滞在する」
使用人たちの視線が、いっせいにルミエールへ向く。
「細かい事情は私から必要な範囲でだけ伝える。詮索は不要だ」
「かしこまりました」
そろって返る声は静かだった。
祖父はそのまま、年配の男性へ視線を向ける。
「空いている東側の部屋を使わせてくれ。生活に必要なものを揃えておいてほしい」
「承知しました」
「それから、しばらく外部の出入りは絞る」
「はい」
年配の男性はそこまで答えてから、ルミエールへ向き直った。
「どうぞこちらへ」
「ありがとうございます」
案内された部屋は、思っていたよりずっと広かった。
大きな窓。やわらかな色のカーテン。整えられた机と、本棚。ベッドも広い。短く滞在するだけの部屋というより、最初から誰かを迎えるために用意されていたような空間だった。
「何か必要なものがございましたら、お申しつけください」
「はい」
使用人が一礼して出ていくと、部屋は静かになった。
ルミエールは鞄を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
今日だけで、いくつものことが起きた。
地球へ着いた。祖父に会った。未来の話をした。別荘へ来た。
まだ半日も経っていないのに、何日分も進んでしまったような気がする。
窓の外では、木の葉が風で揺れていた。
本物の風だ、とあらためて思う。
その時、扉が軽く叩かれた。
「入ってもよろしいかな」
祖父の声だった。
「はい」
入ってきた祖父は、部屋をひととおり見てから、ルミエールへ視線を向けた。
「落ち着けそうか」
「はい。ありがとうございます」
「タイムマシンの件だが」
ルミエールは姿勢を正した。
「はい」
「移動は今日のうちに済ませたい。君のほうで動かせるのか」
「はい。装置を操作すれば、空間移動で別の場所へ送れます」
「一人でできるのか」
「操作はできます。ただ、到着地点まで距離があるので、車で連れていってくださると助かります」
「わかった。日が落ちる前に向かおう」
祖父は少しだけ間を置いた。
「今、うちの会社でもタイムマシンの研究は進めている」
ルミエールは顔を上げた。
「やっぱり、そうなんですね」
「知っていたのか」
「はい。行く前に、少し調べました」
祖父の目が静かに動く。
「どこまで知っている」
「完成まではしているけれど、人を乗せた実験はまだだと聞きました」
祖父は黙って続きを待った。
「物を送るだけなら成功しても、人は別です。座標のずれも、身体への負荷も大きいから」
ルミエールは続けた。
「だから最初は、地球側のタイムマシンで行く案には反対が多かったんですよね」
祖父はそこで、ほんの少しだけ息をついた。
「……そこまで見ていたのか」
「はい」
「異星の機体は違うのか」
「違います。向こうの技術のほうが上です。安全性も九十五パーセントあると聞きました」
「九十五か」
「残りの五パーセントは、隕石とか、通信障害とか、予期しない誤差です。絶対安全ではないですけど、地球側よりはずっと安定していました」
祖父はしばらく黙っていた。
興味深そうに聞いているのがわかった。
「……なるほどな」
その声は低かった。
「勢いだけで来たわけではないらしい」
ルミエールは少しだけ口元をゆるめた。
「そのつもりは、ありません」
祖父は小さくうなずいた。
「未来の私が止めきれずにではなく、最後には認めた理由もわかる気がする」
その言葉に、ルミエールの胸が少しだけあたたかくなる。
「ノアールのことだが、今、こちらでも確認を進めている」
ルミエールの胸が、すぐに緊張で固くなる。
「何かわかりましたか」
「まだ断定できるほどではない」
祖父はそう前置きしてから続けた。
「ただ、通っている学校と、芸能関係の動きは確認できそうだ」
「……はい」
「君の言う通り、同じ学校へ入る道もゼロではない」
その言葉に、ルミエールは思わず顔を上げた。
「本当ですか」
「急がない方がいい」
祖父は落ち着いた声で言う。
「可能かどうかを調べるのと、すぐ実行するのは別だ」
「すみません」
「謝らなくていい。ただ、焦って動くと足元が崩れる」
ルミエールは小さくうなずいた。
わかっている。わかっているのに、ノアールの名前が近づくだけで心が急ぐ。
「芸能事務所のほうも探らせている。だが、こちらは下手に触ると痕が残る」
「はい」
「先に学校の線を見たほうがいいかもしれんな」
祖父は独り言のように言った。
その口調はもう、完全に「どう扱うか」を考えている人のものだった。
信じるかどうかで立ち止まっていた朝とは違う。
「ソレイユさんには、いつ……」
そこまで言って、ルミエールは口を止めた。
祖父はその続きを待たなかった。
「合流の件か」
「はい」
「まだ来ていないなら、しばらくは来ないほうがいい」
ルミエールはまばたきをした。
「来ないほうが」
「君が先に地球へ入った意味が薄くなる」
祖父ははっきり言う。
「こちらの足場が決まる前に、さらに他星の姫まで抱えるのは危うい」
たしかに、その通りだった。
ルミエールは反論できず、口を閉じる。
「まずは君の居場所を安定させる。ノアールへの接点を探る。話はそのあとだ」
「はい」
祖父はそこで少しだけ間を置いた。
「だが、連絡は必要になるな」
ルミエールの目が上がる。
「取れますか」
「手段があるなら、こちらに見せてくれ」
「あります」
ルミエールは鞄から小さな通信端末を取り出した。
「長くは使えませんが、短い連絡なら」
祖父はそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
珍しい機械を見ているのに、不思議そうな顔はしない。ただ、仕組みを見極めようとする目だった。
「あとで詳しく確認しよう」
「はい」
祖父は扉のほうへ歩きかけてから、ふと止まった。
「ひとつ聞いてもいいか」
「はい」
「君は、ここへ来るまでに、何度くらい覚悟を決め直した」
思っていなかった問いだった。
ルミエールは少し黙ってから答える。
「何度もです」
「そうか」
「そのたびに、やっぱり怖くなりました」
祖父は振り向かないまま聞いている。
「でも、そのままやめるのも違うと思いました」
そこで祖父が振り返った。
「今もか」
「はい」
ルミエールは祖父を見た。
「今も、怖いです」
「それでいい」
祖父は短く言った。
「怖くなくなった時のほうが危ない」
それだけ残して、祖父は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ルミエールはしばらく、その場に立ったままだった。
未来の祖父にも似たところがある。けれど同じではない。この時代の祖父は、まだ知らないことが多くて、そのぶん言葉に迷いがない時もある。
少し不思議だった。
そのあと、ルミエールは祖父とともに再び車へ乗った。
到着地点までの道中で、余計な会話はほとんどない。
それでよかった。
あの場所に戻るだけでも、もう胸は十分騒がしかった。
地球へ着いた場所は、朝と変わらずひっそりしていた。
人目につかない木立の奥。そこに、他星の技術で造られた機体が静かに隠れている。
祖父は数歩手前で足を止めた。
「これか」
「はい」
未来では見慣れた姿でも、この時代の地球で見ると異様だった。地球の空気の中に、本来ここにないものが置かれている。
ルミエールは近づき、操作盤に触れた。
指先が少し汗ばんでいる。
「落ち着いてでいい」
後ろから、祖父の声がした。
その一言で、呼吸が少し戻る。
「はい」
起動音は低く、短かった。
機体の表面に淡い光が走る。祖父は息を詰めるように、その様子を見守っていた。
「移動だけなら、すぐ終わります」
ルミエールはそう言って、座標を入力した。
祖父の別荘の地下。
受け入れ空間は、すでに祖父の指示で空けられている。
小さな震動のあと、機体の輪郭がゆっくりと歪む。
次の瞬間には、その場から消えていた。
地面の上には、もともと何もなかったみたいな静けさだけが残る。
祖父はしばらく、機体があった場所を見ていた。
「……本当に移動したのだな」
「はい」
ルミエールは小さくうなずいた。
別荘へ戻り、地下を確認した時、機体はたしかにそこにあった。
広い保管室の中央に、静かに置かれている。
祖父はしばらく無言でそれを見ていた。
そして低く言う。
「これなら当面は大丈夫だろう」
ルミエールはようやく肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「まだ始まったばかりだ」
「はい」
「だが、隠すべきものは隠せた」
その言葉に、ルミエールは小さくうなずいた。
それは大きかった。
帰るための道を、失わずに済んだのだから。
地下から地上へ戻ると、空はもう夜に近づいていた。
別荘の窓に、やわらかな明かりが映っている。
使用人が夕食の支度を始めている気配が、廊下の向こうにある。
祖父は階段の途中で足を止めた。
「今日はここまでにしよう」
「はい」
「ノアールの件は、明日にはもう少し形になるかもしれん」
その一言で、ルミエールの胸がまた早くなる。
「明日……」
「期待しすぎるな」
「……はい」
そう返したものの、期待しないほうが無理だった。
祖父はそれをわかっているような顔で、少しだけ息をつく。
「夕食のあと、ソレイユへの連絡を考える」
「はい」
「君一人では連絡はさせない。内容は一緒に決める」
ルミエールは、そこでやっと少し笑った。
「はい」
祖父も、それ以上は何も言わなかった。
夕方の別荘は静かだった。
会社とも、本宅とも違う静けさ。
けれど今のルミエールには、その静けさがありがたかった。
部屋へ戻る前に、ルミエールは廊下の窓の前で足を止めた。
夜の空には、丸い月が浮かんでいた。
白いようで、少しだけ黄色がかって見える。
未来では、あそこに人が移り住む。
けれど、今はまだ誰もいない。
ママも、パパも、この時代では地球にいる。
知っているはずの月が、今夜は少しだけ知らない場所に見えた。
その景色を見ながら、ルミエールはそっと思う。
今日は、たしかに進んだ。
祖父に会えた。
別荘へ来た。
タイムマシンも隠せた。
そして明日には、ノアールへ近づくための何かが動き出すかもしれない。
怖さは消えていない。
けれど、それだけではなくなっていた。
十九年前の地球で迎える最初の夜は、まだ静かに始まったばかりだった。
読んでいただきありがとうございます。




