第16話 出発
ルミエールが十九年前の地球へ向かう回です。
三日後の朝、月の空気はいつもより静かに感じられた。
まだ早い時間だというのに、ルミエールはもう支度を終えていた。
大きな荷物は持たない。目立たない服と、最低限の身の回りのもの。
それから、祖父が整えた封筒と、小さな記録端末。
机の上に並べると、それだけで胸が少し苦しくなった。
手紙。
写真。
映像。
未来のおじいちゃんが、過去のおじいちゃんに信じてもらうために用意したもの。
ルミエール自身が書いた手紙も、その中に入っている。
ママとパパが出会う流れを消さないでほしいこと。
お見合いをなくさないでほしいこと。
そして、自分が結婚式の日までに帰るつもりでいること。
全部を完璧に書けたとは思わない。
それでも、何も持たずに行くよりはずっとよかった。
ルミエールは封筒をそっと持ち上げ、小さく息を吸った。
「……行くんだ」
言葉にした途端、現実味が増した。
怖い。
でも、それ以上に、もうここまで来たのだという気持ちが強かった。
扉が静かに叩かれた。
「ルミエール」
ブランシュの声だった。
「うん」
扉が開き、ブランシュとパパが入ってくる。
二人とももう着替えていた。
見送りに来たのだと、それだけでわかった。
ルミエールは思わず少しだけ笑った。
「まだ早いのに」
「こんな日に寝ていられるわけないでしょう」
ブランシュの声はやわらかかった。
けれど、その目の奥には、眠れなかった夜の気配が少しだけ残っていた。
パパはルミエールの前まで来ると、机の上の封筒を見た。
「それが手紙か」
「うん」
「写真と映像も入ってる」
パパは短くうなずいた。
「おじいちゃんらしいな」
その言い方に、ルミエールは少しだけ肩の力が抜ける。
ブランシュがそっとルミエールの髪を整えた。
「忘れ物はない?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困るわ」
「じゃあ……大丈夫」
そう言うと、ブランシュはほんの少しだけ笑った。
けれど次の瞬間には、その表情は静かなものへ戻る。
「無理しないで」
「うん」
「ノアールのことを助けたいのはわかる。でも、あなたまで向こうに飲まれないで」
その言葉は重かった。
でも、ルミエールはちゃんとうなずけた。
「わかってる」
パパも低く言う。
「まずは準備だ。背負い込みすぎるな」
「うん」
「王女を迎える前に、過去のおじいちゃんに会うこと。住む場所と学校の段取りを整えること。それ以上は先走るな」
ルミエールはその一つずつを胸の中で確かめるようにうなずいた。
そこへ、また扉が叩かれる。
今度は祖父だった。
「そろそろ時間だよ」
その声で、部屋の空気が少しだけ変わった。
*
出発場所は、研究棟のさらに奥にある特別区画だった。
普段は立ち入りも限られている広い格納室で、床の中央に見たことのない機体が静かに置かれている。
先に目に入ったのは、タイムマシンだった。
祖父とパパが作っていたものより、ずっと洗練されて見える。
丸みのある白い機体の表面には細かな光の線が走り、中心部には淡い青い輪が浮かんでいた。
その奥には、小型のUFOも待機している。
月の施設の中にあるのに、それだけ別の星の空気をまとっているようだった。
宇宙側はすでに到着していた。
大臣。
使者。
そしてソレイユ。
ソレイユはルミエールの姿を見ると、静かに一礼した。
「おはようございます、ルミエールさん」
「おはようございます」
前回の会議の時よりも、少しだけ声が出しやすかった。
宇宙側の大臣が進み出る。
「準備は整っています」
その後ろで、技術者たちが最終確認をしていた。
聞こえてくる言葉は難しいものばかりだったが、動きには迷いがない。
「到着先は、十九年前の地球。スターリング家の周辺圏です」
使者が言う。
「誤差はできる限り抑えますが、完全に同一地点とはいきません。安全圏内に降ろします」
祖父が短くうなずいた。
「わかっています」
「帰還条件も昨夜の通りです。現行未来が維持されていれば月へ。地球居住未来へ変化した場合は、スターリング家近辺の地球側座標へ。さらに大きく変わっていた場合は、宇宙防衛隊が誘導します」
ルミエールは、その言葉を聞きながら封筒を抱え直した。
もう何度も聞いた説明だった。
けれど、今日はいつもと違う。
もうこれは机の上の話ではない。
「ルミエールさん」
ソレイユがそっと声をかける。
ルミエールがそちらを見ると、ソレイユはほんの少しだけ表情をやわらげた。
「先に地球で準備してくださること、本当に感謝しています」
ルミエールはすぐには言葉が出なかった。
感謝されると、ようやく本当に“行く側”になったのだと感じてしまう。
「……うん」
やっと出た返事は短かった。
「頑張る」
ソレイユは小さくうなずいた。
「私も、後から必ず向かいます」
その一言に、ルミエールの胸が少しだけ引き締まる。
自分だけの旅ではない。
ここから先は、本当に二人で同じ目的地へ向かう話になるのだ。
祖父がルミエールのそばへ来た。
「封筒は中で失くさないように」
「うん」
「映像端末は、まず過去の私にだけ見せること」
「うん」
「そして、少しでも危険を感じたら無理をしない」
祖父の声は最後まで落ち着いていた。
けれど、その目だけは少し違った。
ルミエールは知っている。
その目は、止めたいのを我慢している時の目だ。
「おじいちゃん」
「うん」
「ちゃんと帰る」
祖父は、すぐには返事をしなかった。
やがて、小さくうなずく。
「待っているよ」
ブランシュは少し後ろにいた。
きっと、近づいたら泣きそうになるのをこらえていたのだろう。
ルミエールがそちらを見ると、ブランシュは自分から歩いてきた。
「これ」
差し出されたのは、小さな布の包みだった。
「何?」
「向こうで開けて」
ルミエールはそれを受け取る。
軽い。
でも温かかった。
「ありがとう」
ブランシュはすぐには何も言わなかった。
代わりに、ルミエールをそっと抱きしめた。
その腕の力は思っていたより強くて、ルミエールの喉が少しだけ熱くなる。
「消えないで」
耳元に落ちた声は、小さかった。
ルミエールは目を閉じた。
「うん」
「ちゃんと帰ってきて」
「うん」
離れたあと、ブランシュはもう泣きそうな顔を隠さなかった。
それでも笑おうとしているのが、余計につらかった。
パパは最後まで近づきすぎなかった。
その代わり、まっすぐルミエールを見て言う。
「時間を守れ」
「うん」
「約束したな」
「した」
それで十分だ、と言うようにパパは短くうなずいた。
使者が一歩前へ出る。
「では、そろそろ」
技術者がタイムマシンの縁を開いた。
内部は思ったより狭くなく、白い光がやわらかく満ちている。
ルミエールは一度だけ振り返った。
祖父。
パパ。
ブランシュ。
ソレイユ。
みんなの顔が、一度に視界に入る。
ここで立ち止まりたくなる気持ちは、まだ消えていなかった。
でも、その気持ちの上に、もっと強いものがもう乗っていた。
行かなきゃ。
ルミエールは機体の中へ足を踏み入れた。
座席に腰を下ろすと、封筒と包みをしっかり抱え込む。
外では何人もの声が交わされ、最後の確認が進んでいた。
「時空接続、開始します」
低い音が、床の下から伝わってくる。
光が少しだけ強くなった。
ルミエールは深く息を吸った。
十九年前の地球。
ノアールがまだ生きていた時間。
ママも、パパも、まだ若い時間。
そこへ、本当に自分が行く。
その現実が胸に落ちてきた瞬間、急に怖さが押し寄せた。
でももう、戻るつもりはなかった。
視界の外で、ソレイユの声がした。
「ルミエールさん」
ルミエールが顔を上げると、機体の外からソレイユがこちらを見ていた。
「次は、地球で」
その一言に、ルミエールは小さくうなずいた。
「うん」
外の音が遠くなる。
光が白く満ちていく。
身体がふっと軽くなったかと思うと、次の瞬間には足元がなくなったような感覚が来た。
息を止める。
耳の奥で高い音が鳴る。
光が流れる。
何もない白の中を、何かに引かれるように進んでいく。
封筒を抱える腕に力が入った。
目を閉じてはいけない気がして、ルミエールは必死に前を見た。
長いのか短いのかわからない時間のあと、急に身体が重くなる。
白い光がほどけた。
次に見えたのは、青かった。
空だった。
ルミエールは息をのんだ。
月の人工天井じゃない。
本物の空だ。
機体の扉がゆっくり開く。
風が入ってくる。
少し湿っていて、土のにおいがした。
ルミエールの胸が大きく鳴る。
「……地球」
声が震えた。
十九年前の地球。
本当に来てしまった。
機体の外には、見たことのない緑が広がっていた。
遠くに建物。
その上に、どこまでも高い空。
ルミエールは封筒を抱えたまま、ゆっくり立ち上がる。
ここから始まる。
ノアールがまだいた時間。
ママもパパも、まだ今とは違う顔で生きている時間。
その中へ、これから自分が入っていく。
怖い。
でも、その怖さの向こうに、もう一歩進むしかなかった。
ルミエールは機体の外へ、静かに足を踏み出した。
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