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生贄の巫女 ~偽りの巫女と仮面の守護者~  作者: 雨包おん
第13章 聖都/神域:虚妄の献身
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第86話 禊



 山を背負うように建てられた聖都にある教団の神殿。最上階から山の斜面に出られるようになっており、城壁で囲われたその庭は神域と呼ばれ、教団にとって最も神聖な場所だ。


 小川が朝日を反射して光を煌かせ、その側で小鳥がさえずっていた。のどかで、牧歌的ですらある神域の最奥。そこに生い茂る森の中までは日の光は届かず、鬱蒼としたその茂みの奥の暗闇は、人の力の及ばないものの存在を感じさせた。


 そんな神域の中ほどに、その大きな黒い天幕は張られていた。



 その中で、ユオーミは独り所在なげに椅子に座っていた。


 普段の告解の儀で使う天幕の三倍はあろうかという大きな天幕。その中央にテーブルと、それを挟んで向かい合う形で配置された椅子があった。

 そのテーブルの左右方向、天幕の両端に一つずつ寝台が置かれ、その周りで蝋燭の灯りが揺れている。

 天幕の生地は随分厚いようで、外の光は全く入らず、時間の感覚が失われてゆく。


 直後に控えた生贄の儀式のための「みそぎの儀」は三日三晩続く。その間、大導主と巫女は二人きりでこのとばりの中で過ごす。

 勿論、食事等の身の回りの世話のため、最低限の世話人は出入りするが、それだけだ。


 幕舎から少し離れた位置、東西南北に一人ずつ守護神官たちが立っていた。奉献の徒は管理神官を入れて五人。彼らは、三日続く儀式の間交代で休憩を取り、昼夜関係なくここを守護する。



「大丈夫、天幕は常に奉献の徒が守っているんだ。何かあれば声を上げて。すぐに君を助けに行く」


 優しく微笑みながらアガナタはそう言っていた。この黒い幕の内側から外の様子は全く分からなかったが、近くにアガナタたちがいるという事実が、ユオーミにとって心の支えだった。



 それにしても、とユオーミは思う。

 この儀式に、三日間も自分は耐えられるのだろうか?


 告解の儀であれば、今まで何度も経験してきたから何とかなるが、禊の儀式の内容は全く分からない。教団の頂点たる大導主とともに「身を清める」儀式とだけ伝えられているものの、それが一体何を意味するのか彼女は計りかね、ましてそれが長時間続くという事実に不安が膨れ上がる。


 そして、儀式の終焉は即ち、ユオーミ自身の終わりを意味していた。


 ユオーミは胸苦しさを覚え、体が震えだした。

 思わずここから逃げ出したい衝動に駆られ、声を上げてアガナタを呼ぼうかと何度も考え、けれどその度に、まだその時ではないと自分に言い聞かせる。


 呼吸が乱れ、視界が滲んだ。


「アガナタさん……」


 その姿を思い浮かべると、唐突に涙が迫り上がってきた。彼女は慌て、目を瞑って口元をきつく結び、自分の太ももをつねった。痛みで意識をそらそうとするが、なかなか上手くいかない。


 ようやく涙が引いてきた時には、こらえ続けた彼女の顎は酷く強張っていた。



「失礼する。入るぞ」


 ふと、天幕の外から男の声が響いて入口の布が動いたかと思うと、朝の光がユオーミの目を刺し、彼女は思わずまぶたを閉じた。


 暗転した世界の中で、耳が、その形を探る。


 風が吹き込み、天幕内の空気が大きく動いて灯りが揺れる。

 大地を踏みしめて歩く音が近づき、それから彼女の目の前の椅子が僅かに軋む音がした。


 そっと目を開いた彼女の正面に、鋭く大きな瞳を持ち、口元と顎に白いひげを蓄えた老人が座っていた。


「私がユスノウェルだ。大導主とも呼ばれている。君が、今年の巫女殿か」


 ユオーミは、胸が潰れるような圧迫感を感じながら、無言で首を縦に振った。

 そんな彼女の様子を見てユスノウェルは鷹揚に頷き、その瞳でユオーミを捉える。

 居心地の悪さに、ユオーミはそっと目をそらした。


 彼と同時に入ってきたであろう世話人らしき女が、机の脇に置かれた台の上の香炉に手を触れるのが見えた。香を焚くのだろう。


 やがて香炉から薄い煙が立ち上り、よく知ったほのかに甘い香りが漂いだす。


 世話人の女が大導主の後ろにある出入り口へと向かう姿をぼんやりと見つめていると、彼女は無言で一礼し、天幕から姿を消した。


 薄暗い天幕に、大導主と二人きりとなったユオーミは、なんとなく彼の顔を見ることが躊躇われ、テーブルに視線を落とす。


 そんな彼女の様子を見ながら、ユスノウェルは少し目を細め、懐から取り出した丸薬を机の上の水で喉に流し込んだ。


 そこで、ユオーミはまだ自分が気付け薬を飲んでいないことを思い出す。

「あ、あの。すみません、私、まだ薬を飲んでいませんでした……」


 彼女の、窺うような瞳を受けて、ユスノウェルは微笑みを浮かべる。

「いや。禊では、君は薬は飲まなくていいんだ。

 ……緊張しているようだな。無理もない。なに、禊と言っても大したことは無い。ただ、私と話をしていればいいんだ」


 ユオーミは小首を傾げる。ただ話をするだけとは、どういうことだろう。大導主さまと話すことで、身が清められるということなのだろうか。


 そんな彼女の疑問をよそに、ユスノウェルは再び懐に手を入れる。

「そうそう。儀式の前に、済まないが一つ確認をさせてもらえるかな。少し痛いかも知れないが、なに、前に一度やっていることだ」


 そう言い、彼は取り出した薄い石の板と細い針を、そっと机に置く。

 その時の彼の瞳は慈愛を感じさせるものだったが、なぜかそれがユオーミの胸をざわつかせた。



 遠巻きにユスノウェルの背中を睨みつけていたアガナタは、彼の姿が天幕に消えた後も、風にたなびくその黒い幕を凝視していた。


 どれくらいそうしていただろうか。ふと我に返ったアガナタは、守護神官たちの配置を確かめながら、禊の天幕の周りを歩き始めた。


 警備状況を確認する瞳は険しいものだったが、実のところ彼の心は千々に乱れ、目に映る光景は殆ど記憶に残らなかった。


 ユオーミの身を案じ、身悶えするのを耐えながら、アガナタは目を瞑る。


 これから起こることをユオーミに何一つ伝えることができず、禊の儀式が始まってしまったことに気が気ではなかった。それは仕方ないことではあったのだが、だからといって気が晴れるわけでもなく、胸を焼かれるような焦燥感を抱えて、アガナタは歩き回った。



 最も心配しているユオーミの身の安全について、これは、恐らく禊の最終日の夜までは大丈夫だと彼は睨んでいた。


 王都における告解の儀が、一日に二人のみで、かつ儀式の間に一日休養日を設けていたという事実。清めの砂か、気付け薬か、はたまたその両方か。恐らくは、体への負担が大きく、長時間連続して続けることが困難との判断なのだろう。


 禊の三日というのは、生贄の儀式という「その後」を考える必要が無い中で設計された日数だとしても、相当の休憩を挟んで行われる筈だ。そして、全ての情報を引き出す前に愚かな真似をすれば、精神的な損傷から、下手をすれば情報を引き出せなくなる危険がある。


 ――だから、最終日の夜までは恐らくは、彼女の身の安全は保証される筈だ。



 唇を噛んで自分にそう言い聞かせていた彼は、やがて、天幕から離れて歩みを進める。少し行くと、小川に掛かった橋が見えてきた。橋の前に立つ警備の男は、半面を着けたアガナタの姿を認めると、何も言わずに道を譲った。




 燭台の上で揺れる蝋燭の灯りを頼りに、ユスノウェルは、針で器用に掬い上げた血液を小ぶりな石の板の上へと、そっと垂らす。

 ユオーミは、痛む指先をさすりながら、その様子を窺っている。


 次第に緑へとその色を変えてゆく液体を見つめ、ユオーミは唇を固く結ぶ。心のざわめきが、耳鳴りとなって彼女の耳に響いた。

 ユスノウェルは、石の板の上のそれに視線を落としたまま黙り込んでいる。


 ほのかに甘い香が満ちる天幕の中で、無言で向かい合う二人。沈黙に耐えかねたユオーミが、意を決したように口を開いた。

「あの、それは一体何なのでしょうか? 私の血の色が、変わったように見えるのですが……」


 けれど、ユスノウェルは答えない。替わりに、ぼんやりとした視線を上げ、ユオーミを凝視した。

 彼女は、彼の瞳を覗き込む。

 掴みどころのないその双眸に浮かんでいるのは、悲しみか、哀れみか。それとも、失望か、はたまた怒りだろうか。


「君は」

 唐突にユスノウェルが言葉を発し、ユオーミは驚き、身を固くした。


「君の名前は、何という?」

「……ナ、ナァラ、です」


 男の顔に、様々な感情が浮かんでは消えたように見えた。

「もう一度聞く。よく頭の中に思い浮かべてから答えてくれ。君の名前は、何というのかな?」


 ユオーミは思わず息を呑み、自分の手が震えるのを感じた。

 それでも、意を決して答える。


「わた、わたしの名前は、ユオ……」

 香りが鼻腔の奥にまとわりつき、思考が薄い膜に覆われていく。うまく舌が回らず、何だか思考の輪郭がぼやけるような感覚を覚えながら、彼女は一瞬自分が何の話をしているのか分からなくなって口ごもった。


 視線が定まらないような違和感の中、意識して目の前の男の顔を見ると、彼と視線がぶつかった。

 その瞳に浮かぶ感情の色が全く分からなくなっていることに違和感をぼんやりと感じる中、ユオーミは頭の片隅で誰かが危険だと叫んでいる声を聞いた。けれども、口は止まらなかった。


「ユ、ユオーミ、で、す……」


 何だか取り返しのつかないことを言ってしまったような気がして胸の奥が締め付けられたが、すぐにその感情の輪郭がずれ、やがてそれは形を失い霧散した。


 その言葉を聞いて、ユスノウェルは、深く、深く息を吐き出す。

 そして、暫しの沈黙の後、絞り出すように重ねて問いかけた。


「そうか。……では、君の母親の名前は?」


「……お母さんのなま、名前は、ラ、ラニーア」




 アガナタが橋を渡り、更に進んでゆくと白い天幕が見えてきた。大きさは告解の儀で使われるものより一回り大きく、五つあるそれらは、それぞれ、かろうじてお互いの姿が見えるような距離を取って設営されていた。


 それは、四つの国の王とユラーカバネが、禊の最終日に宿泊する天幕だった。


 主のいないその天幕の周りには、既に警備が貼り付いていた。王族たちは三人の共を連れてこの天幕に入るが、まかり間違って小競り合いや衝突が発生してしまえば国家の、そして大陸の一大事となってしまう。


 それぞれの王族の接触を防ぎ、そんな不測の事態を避けるため、この一帯には多くの警備が配置されている。


 何も今から警備を敷かなくても、とも思うが、天幕に何かが仕掛けられたり、誰かが潜むようなことが絶対に起こらないよう、今から目を光らせている。


 アガナタは警備の視線を背中に受けながら、天幕を迂回して通り過ぎる。そして更に進んだ先に、神殿の入口が見えてきた。


 神域を囲う城壁。そこにぽっかりと空いた入口。

 扉はなく、鉄格子の向こうに神殿の内部が見えている。


 重い鉄格子を上げ下げするための機構として、鉄格子の真上には城壁から突き出すような形で操作室が設けられ、その昇降を司る仕組みになっていた。この操作室は神殿側には繋がっておらず、神域側からしか開閉できない。


 アガナタが鉄格子の横に立つ男に手で合図を送ると、その男が操作室の横から垂れている紐を引いた。操作室の中でカランと乾いた音が鳴ると、やがて、鈍い音を響かせながら鉄格子の上部に繋がれた鎖が操作室へと巻き上げられてゆき、重い鉄格子がゆっくりと宙に持ち上がって神殿内部への道が開かれた。


 アガナタは更に進む。


 背後で鉄格子が降ろされる鎖の音を聞きながら、彼は白磁の螺旋階段を下ってゆく。

 人一人がようやく通れる幅しか無いその階段は、神域の入口と大導主の執務室のある最上階から五階へと通じる唯一の道だ。


 一方で、五階から一階までは東西に通常の階段が一つずつある。

 神殿内においても多くの警備とすれ違いながら、アガナタはその内の一つを進み、四階へと辿り着く。


 そして、奉献の徒の控えの間へと至り、無言で扉の中へと姿を消した。




 何事もなく一日目が過ぎ、あっけなく二日目もじきに終わりを迎える。


 夕日に赤く燃えた空を見上げながら、アガナタは風に吹かれ、深く息を吸い込む。


 あと二度朝を迎えれば、生贄の儀式が始まる。

 それまでに、なんとしても父アーオステニアを味方に引き込まなければならない。


 だが、一体どんな言葉で父を説得すべきなのか、アガナタは思い悩んでいた。


 アーオステニアは、大導主ユスノウェルと共に小さな教団を育て上げ、そこから十五年続いた大陸戦争を終結へと導いた、いわば盟友だ。


 多くの苦楽を共にし、アーオステニアは教団において大導主に次ぐ地位である神官長として、その能力を遺憾なく発揮し教団の発展に寄与してきた。


 アガナタで言えば、もしかしたらオッドーのような存在だろうか。そんなことを考えながら、だからこそ、この二人を引き裂くのは容易ではないと感じていた。


 自分の知らない絆で結ばれた二人。恐らく、小細工は通用しない。


 説得に失敗すれば、クーデターは露見し、お互いが守るもののために、命を懸けて衝突することになるだろう。


 アガナタは、アーオステニアのことを敬愛していた。父として、そして一人の人間として。

 ユオーミを救うことを諦める気など毛頭なかったが、それでも、できれば父とは争いたくなかった。


 争えば、どちらかが死ぬ。

 ユオーミを守れず自分が死ぬのも、彼女を守って父と刃をまじえるのも、どちらも耐え難く感じられた。


 だが、自分がユオーミの為に戦わなくて、一体誰が戦うというのか。


 彼は、赤い光が力を失い、次第に紫にその色を変えてゆく空をぼんやりと見つめながら、不意に胸苦しさを覚えた。それはまるで、大切なものが永遠に失われてしまうという、恐れの影を抱いた予感。


 どこまでも続くこの空の広さに胸を押され、彼に心の内に己の無力さが滲んだ。まるで、彼の中でも日が沈んでゆくように、暗く、冷たい色に染まってゆく。


 強く握りしめた彼の拳は、僅かに震えていた。




 ついに三日目の朝を迎えた。


 十五年前とは異なり、空は晴れ渡っている。


 白い天幕の周りで、王族受け入れの準備が粛々と進められている様子を、アガナタは遠目に見つめていた。


 彼はしきりに溜息をつき、無意識に後頭部の髪を掻きむしった。

 呼吸は浅く、無意味に歩き回るその様子には、隠しきれない動揺が滲む。



 午後になり、王族たちが順に、時間をずらして神域に姿を現し始めた。


 一国の王でありながら、たった三人の供と共に天幕に入る彼ら。

 それは、教団の権力の巨大さを物語る。


 四つの国の王たちがそれぞれの天幕に入った後、しばらくしてユラーカバネが姿を現した。


 一人の女と二人の男を従えた彼は、天幕に入る前、振り返って周りを見渡した。

 遠目だったため、その表情までは伺えないが、恐らく彼からもアガナタの姿は見えていたはずだった。



 禊の警備に加わり、天幕を睨みつけるアガナタ。

 外から天幕に変化は見られない。


 この中で、独りユオーミは大導主と向かい合っている事実が、どうしようもなく彼を苦しめた。

 顔を歪め、浅い呼吸を繰り返しながら、じっと耐える。



 ――そして、最後の夜が来た。


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