2-23 父親
「……眠ったか」
ランプの小さな灯りが揺れるクロヴィスの寝室。その声に振り向くと、皇帝陛下が部屋に入ってきたところだった。
「はい。先程まで明日トルメアに行くと言って聞かなかったのですが……」
「そうか。せっかちな奴だな」
「いえ……こんなに動いて下さって、申し訳無いぐらいです」
そう眉尻をさげたまま陛下を見上げると、陛下は優しい笑顔を浮かべた。
「遠慮することはないよ、アーシェ。クロヴィスも好きでやってるんだ。……それに、立ち止まってあれこれ考えたくないんだろう」
皇帝陛下は私の横に椅子を持ってきて座った。目の前にはクロヴィスが横たわるベッド。静かな寝息と椅子の軋む音だけが聞こえる。
皇帝陛下は、眠るクロヴィスの寝顔を見つめてから、静かに口を開いた。
「……イザークは、私の歳の離れた異母兄弟でね。国交を正常化した国から友好の証として嫁いできた王女の子供なんだ」
「お母様が違ったのですね」
「そう。当時は国同士の交流のために王女を嫁がせることが多い時代だったからね。イザークは当時の王妃の子供ではなかっだが、それで不当な扱いを受けることは無かった。ただ……ある事がわかってから、皆の扱いが変わってしまった。イザークは、皇族に引き継がれるはずの秘術を使う事ができなかったんだ」
「秘術……」
「クロヴィスが使っていた、己の魔力で人の行動を操る術だよ」
はっと息を呑む。それは、安易に聞いてはならない話だったはずだ。
皇帝陛下は固まった私に優しく微笑むと、もう一度クロヴィスの方に視線を落とした。
「大丈夫、もう君は私たちの家族だからね。どちらかと言うと、クロヴィスのために知っておいて欲しい。あれは統治を重ねてきた皇族だけが使える、皇族の血に宿る魔力で相手の魔力に干渉し、命令に従わせるという術だ。強い魔力の圧力で他者を強制的に従わせることができる。ただ、反動が大きいが……」
「だから、こうして数日苦しむことになるのですね」
「そう。やっていることはつまり、相手の魔力への過干渉だからね。身体への負荷も大きくて、こうして寝込むことになる」
「……寿命にも影響があるのですか?」
そう問いかけると、皇帝陛下は少し私に目を向けてから、一息つくようにクロヴィスの額の濡れ布巾を取り替えた。そして、もう一度椅子に座ると、また静かに口を開いた。
「すぐに死に至ることはない。ただ、この術を使った場合、淀みのように己の身体の中に相手の魔力の残渣が溜まってしまうんだ」
「相手の魔力の残渣……?」
「この術は相手の魔力に過干渉する術だ。つまり、自分の魔力も相手の干渉を受ける」
そうして、皇帝陛下は自分の手のひらを見つめた。その手は、不自然に小刻みに震えている。
「私の手もその副作用にやられていてね。多分もうこの震えは治らないだろう。元々この副作用は知られていなかったんだ。先代の皇帝――つまり、私の父だね。父はよくこの術を使っていた。そして、ある日倒れてしまった。その時だよ、体内に塵のように自分以外の魔力の残渣が溜まり、身体を冒しているのが見つかったのは」
「……陛下の体の中には、どれぐらいその残渣があるのですか?」
不安に思ってそう言うと、皇帝陛下はクロヴィスに似た優しい笑顔で、私を安心させるように笑った。
「ありがとう、大丈夫だよアーシェ。魔力の残渣はそこまで多くはない。ただ、副作用があることを知ったのは術を使い始めてからかなり後のことだったからね。若い頃のツケが回ってきたようなものだよ。……クロヴィスも十歳のときにこの術を使えるようになったから、ある程度術の練習を重ねていた。副作用がわかってからは、すぐに安易に使わないよう方針転換したけどね。それでも、長らくこの術に頼る者が多く、術を使えることが皇太子となる条件になっていたんだ。それに、皇族の周囲には命に関わることも多いだろう?一切使わないという事はできなかったんだよ」
そして、はぁ、とため息をついて宙を見つめた。
「ハイラスは、前皇帝の――父の友人だったんだ。ハイラスは父がなくなるまでずっと見舞いに来ていた。二人は親友だった。だから、父の命を奪った秘術を嫌っているし、その術を条件としたクロヴィスの皇太子就任に反対していたんだろう。親友を殺した秘術が皇帝就任の条件となるなど、反対だってね」
「そうだったんですか……」
「秘術のことだから、大っぴらには言えないし分かりにくいんだよね。更にあの性格だろう?敵ばっかり作って、見てて心配だったんだけどね。何度言っても変わらん頑固爺だからね、ハイラスは」
はは、と笑い飛ばした皇帝陛下は、一息ついてからもう一度クロヴィスの寝顔に目を落とした。その横顔に悲しさが見えて、ぐっと手を握る。
「……イザークは、ずっと秘術が使えないことを気に病んでいた。元々、優秀な奴だったんだ。でも、多くの元老院議員はイザークを次期皇太子として認めなかった。私との年の差を考えればイザークが皇太子となるのも悪くはなかったんだけどね。結局秘術を使えないまま時が経ち、次第にイザークは多くの貴族たちから距離を置かれるようになった。……そんな時にイザークに懐いたのがクロヴィスだった」
「……クロヴィスが、心の支えだったんですね」
「そうだね。当時、クロヴィスの存在はかなり救いだったと思う。……イザークがあんな風に歪んだ気持ちを持ってしまうなんて、思わなかったけどね」
そうして陛下は遠い記憶を眺めるように、寂しそうに目を細めた。
「……今、イザーク殿下は?」
「貴族牢に幽閉しているよ。厳重に拘束しているけれど、ずいぶんおとなしいみたいだ。……ずっと窓の外を見て、ぼんやりしている」
「そうですか…………」
「逆に騎士団長だったリチャードはひたすら謝罪を繰り返してなんとか牢から出ようとしてるらしいけどね」
渋い顔をした私に、皇帝陛下は困ったように笑って背中を叩いた。その優しさに触れて、目に少し涙が滲む。
オリビア様は、今どうしているだろう。
「大丈夫だよ、アーシェ。幸いにも次期皇太子妃である君の友人だ。状況も状況だし、帝国ではオリビアに『傷がついた』と思うものは少ない。どちらかと言うと、次期皇太子妃として躍り出たアーシェと懇意にする令嬢として人気がてているみたいだよ?今後は皇家としてもオリビア嬢に近づく者は調査をかけるし、暫く大変だろうが、あまり心配しなくていい」
「……ありがとうございます」
「あぁ。だから、今君は目の前の男に集中してやってくれ」
そう言った皇帝陛下はおもむろに立ち上がると、クロヴィスの乱れた頭を雑にひと撫でした。
「……きっと、今のクロヴィスには、君が必要だ」
「陛下……」
「クロヴィスが聞いたら、余計なお世話だと言われそうだけどね。これでも子煩悩なんだよ。親はいつまでも子どもの心配をするもんだからね」
そう言って私に微笑んだ皇帝陛下は、語り終えたのかドアの方向へ向かった。退出されるのかと思った矢先、皇帝陛下は部屋を出る直前に立ち止まり、少しだけ私を振り返った。
「アーシェ、クロヴィスを頼むよ」
「……はい、お任せ下さい」
そう答えると、皇帝陛下は父親らしい顔でにこりと笑い、部屋を出ていった。
静かになった部屋で、クロヴィスを見下ろす。
「…………だって、クロヴィス」
「……クソ親父」
薄目を開けて不機嫌そうに言ったクロヴィスを見て思わず吹き出す。クスクスと笑っていると、クロヴィスはもっと不機嫌そうにしっかりと目を開いた。
「笑わないでよ」
「だって、陛下の前ではほんとに子供みたいだから」
「そりゃあ父親の前では息子でしょ」
「そうだろうけど……いつから起きてたの?」
「ないしょ」
「えぇ?」
笑いながらクロヴィスの額の濡れ布巾をもう一度取り替える。クロヴィスの熱は、ベッドにはいってから上がったまま、下がらないでいた。
皇族への術の行使。ハイラスが言う通り、きっとかなり負担がかかったのだろう。どれぐらい苦しいのだろうか――身体も、心も。
「……大丈夫だよ、アーシェ」
「…………うん」
「……言ってなくてごめんね」
そうポツリといったクロヴィスの金の髪を撫でる。秘術は、クロヴィスの寿命を縮める。きっと、それを言わずにいた事をクロヴィスは気に病んでいるのだろう。
曇った表情になったクロヴィスに、優しく微笑みかける。
「ううん……言えなかったんでしょ?」
「……そうだね」
「だから、大丈夫……でも、無理、しないでね」
声を詰まらせながらぼそりとそう答えた私を、クロヴィスは静かに見上げた。それからそっと手を伸ばすと、私をゆるく抱き寄せた。
誰もいない静かな寝室。横たわるクロヴィスの胸元に、倒れ込むように抱きしめられる。トクトクというクロヴィスの胸の音を聞きながら、きゅっとクロヴィスに抱きついた。
「……泣かせてごめん」
「クロヴィスの、せいじゃないわ」
「それでもごめん」
ぽんぽんと私の頭を撫でるその手が優しくて、余計に涙が止まらなかった。己の身を削る秘術。そして、それを命を絶とうとする親族に――秘術を使えず苦しんだイザーク殿下に使ったこと。
幼い頃、クロヴィスが懐いていたイザーク殿下との関係は、もう戻らない。これまでこんなに頑張ってきた人に、こんな悲しい結末があってもいいのだろうか。
「クロヴィス」
「ん?」
「……クロヴィスだって、悲しんでいいんだよ」
私の頭をぽんぽんと撫でていた手がぴたりと止まった。その戸惑うような仕草に、思わずぎゅっとクロヴィスを抱きしめる。
「私の前では弱くてもいいのよ。……これから、夫婦になるんだから」
そう呟いた言葉が、静かな寝室に響く。クロヴィスは何も言わず、動きを止めたままだった。
少しして、ほんの少し、クロヴィスの手が動いて。それから、両方の手が、私をぎゅっと抱きしめた。
「……本当に、かっこよすぎるんだよ、アーシェは」
「そう?でもそれでいいわ、かっこいい私の胸を貸してあげるわよ」
「なんだよそれ」
「なによ、悔しかったらちょっとは弱音はいてみなさいよ」
そう言いながら、手を伸ばしてクロヴィスの金の髪をぐちゃぐちゃに撫でる。クロヴィスは笑ってやめろよと言いながら、もう一度私を抱きしめた。
「――イザーク兄様は、俺の憧れだったよ」
暗い寝室に、クロヴィスの言葉がぽつりと響く。
「…………あんな風に、狂わせるつもりは無かった」
私を抱きしめる腕が、ほんの少し震えている気がして。私はもう一度、きゅっとクロヴィスを抱きしめた。
「クロヴィスのせいじゃないわ。クロヴィスは、ずっとイザーク殿下を支えてきたのよ」
「そうかな……」
「そうよ。ただの憎しみだけなら、もっと沢山の人が死んでるわ。――イザーク殿下なら、わざわざ眠り薬なんか使わないで、大量虐殺だってできたのに」
何も言わないクロヴィスを、しっかりと抱きしめる。それから、クロヴィスの柔らかな金の髪を、優しく撫でた。
「大丈夫。あなたはきっと、これからこの国にとって本当に大事な『皇帝』とはなにかを、ちゃんと学んでいくわ」
険しい道のり。理想通りに歩むのは、今はまだ難しいだろう。でも、クロヴィスならきっとできる。
「一緒に頑張ろう?帝国のことも、イザーク殿下のことも。私も一緒に頑張るんだし、大丈夫だよ。だから、今は弱音を吐いてもいいの」
「……あんまり弱音吐くとアーシェに呆れられそうだけど」
「呆れないわよ。クロヴィスだって人間だもの。たまには弱音吐くぐらい必要でしょう?」
そう言って、クロヴィスの金の髪を優しく撫でる。まだ高い熱で苦しそうだけど。でも、苦しそうに見えるのは、きっと熱のせいだけじゃない。
「……今日ぐらい私に弱音を吐いたところで、この大きな帝国が潰れたりしないわ」
そう言って、いつもクロヴィスがやってくれるように、ぽんぽんと優しく頭を撫でる。クロヴィスは、しばらくの間それを黙って受け入れていた。そして、少しして、小さくぼそりと呟いた。
「…………めちゃくちゃ、悲しかった」
くぐもった声。いつもよりもはっきりと言わないその声を、静かに聞きながら頷く。
「そうよね……当然だわ。叔父様だものね」
「……昔は、本当に仲が良かったんだよ」
「小さかった頃は、一緒に寝たりしたのよね」
「厨房から一緒に菓子をくすねてきたりしたんだ」
「えっ、そんなことまでしてたの?」
「……俺に付き合ってくれてたんだろうな」
ほんのり笑ったクロヴィスは、また少し無言になった。それからまた、小さくつぶやいた。
「――イザーク兄様なら、こんなことに手を染めなくても、きっとみんなに受け入れられたはずなのに」
「…………うん」
「努力の方向がおかしいだろ」
「そうよね」
「おまけに……死のうとするなんて」
「……守れて、良かったね」
「…………本当に、良かったのかな」
きっと、イザーク殿下はもう二度と幽閉された牢から外に出てくることは無いだろう。
それが、本当に良かったことなのかはわからないけれど。
「――私は、良かったと思うよ」
「――――…………」
ぎゅっと私を抱きしめるクロヴィスの頭を優しく撫でながら、これから先のことを思う。
私は、クロヴィスや皆を苦しめたものを許さない。
「――元気になったら、トルメアに行こうね」
悪用された光魔法。それに手を出してしまったイザーク殿下と、長い間眠らされたクロヴィスの臣下達。そして、レオナルド殿下を逃がすために傷つけられた護衛や聖女達や、巻き添えを受けた島のみんな。乱れた祖国トルメアでは、未だ禁術を持ち出し私欲に利用した者が、他者を虐げたまま甘い汁を吸っている。
「正しい光魔法の使い方を、教えてあげないと」
私は暗い寝室の闇に向かってそう呟いた。
――そして、数日後。
私はクロヴィスと共に、祖国トルメアへ向かう船に乗り込んだのだった。
筆頭聖女はお怒りです。
「よっしゃー!トルメア乗り込むぜー!」と拳を振り上げた方も、
「私もアーシェによしよしされたい」と優しいアーシェの胸を借りたくなった方も、
アーシェの最後のひと仕事を見守ってくださると嬉しいです。
いつもいいねやご感想ありがとうございます!
とても嬉しいです!!
引き続きなんでもいいので応援してくださると嬉しいです。
ぜひまた遊びに来てください!