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自由への逃走  作者: 真魚
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第一章 海峡の王 八

ようやく回想終了

作中現在に戻ってきました

 改めて考えてもさっぱり分からない。

 奴は一体俺の何が気に喰わなかったのだろう?


 考え込んでいたとき、頭上から警笛が響いた。

 はっとして仰げば、フォアマストの檣楼(トップ)の手すりから見張りが身を乗り出していた。


「おい坊主、船尾楼甲板(クォーター・デッキ)に伝えてくれ! 北から小型の櫂船(ガレー)が来る! 二艘だ! 後ろからボートの群れも来る!」


 ジャックが弾かれたように立ち上がって階段を駆け下りてゆく。エヴァンスは慌てて暇そうな水夫に声をかけた。

「フェール、砲を戻すのを手伝ってくれ!」

「ああん、俺は非番だぞ?」

「俺だって非番だよ」

「非番なのに何で働いてやがる」

「旋回台の捩子が緩んでいたから気になっていたんだよ。暇なら手伝えって」

「偉っそうに命令するなよ、たかが砲手補のくせに。お願いしますだ砲手補さんよ。ほれ言ってみろ、お願いします!」

「お・ね・が・い・し・ま・す!」

 苛立ち交じりに吠え立てるとフェールがにやりと笑い、それっきり背を向けてしまった。エヴァンスが拳を振り上げたとき、トッティが気づいて駆け寄ってきた。「おい砲手、やめとけって! 俺が手伝うからさ!」

 ファウラー砲は小型とはいえ一〇〇キロ弱はある。重い鉄の筒を二人がかりで馬蹄型の台へと乗せ直していると、船尾の方から(パイプ)小鼓(タイバー)の旋律が聴こえてきた。フェールが首を傾げる。

「なんだこの曲? ダンスでも始めんのか?」

「馬鹿、総員配置につけ、だよ!」用具箱を抱えて昇降口へと急ぎながらトッティが怒鳴る。

「そいつはトランペットだろ?」

「バンタムからこっちでトランペット吹きは全員死んじまったじゃないか! それっくらい覚えとけよう!」

 バンタム以来人死が続いたクローヴ号では最低人数で船を操るために頻繁に配置換えがなされている。フェールの今の配置が何処であるのかは神のみぞ知る、だ。エヴァンスは銃火器室へ走って一ポンド半の砲弾を一箱受け取ってから船首楼甲板(フォクスル)へと戻った。



 ファウラー砲は船首の左右に二門据えてあるものの、人手の足りない今、この場所を預かるのは今はエヴァンス一人だ。とりあえずいつも通り左の砲の前に立つ。

 堅実な仕事をするトッティのおかげで旋回台が安定を取り戻していた。砲身の向きをまっすぐにしながら海面を窺うと、バウスプリットの下の三角形の小甲板に鷗が群れているのが見えた。あそこは水夫の便所だ。吹き晒しの場所だから大した掃除はされていない。あの鳥どもは格子の隙間にこびり付いた糞でも啄んでいるのだろうか? そう思うと急に悪臭を感じた。腐った水と糞と尿と自分の汗の臭い。甲板下にいつも充ちている家畜小屋みたいな悪臭が格子の隙間からゆらゆらと立ち昇ってくる気がする。


 気を取り直して目を上に向けると、バウスプリットの先端で翻るセント・ジョージアン・クロスが見えた。南風を受けてハタハタと音を立てている。エヴァンスは旗に視点を定め、旗竿と垂直に交わる軸を思い描いて視界を二等分した。これは昔知り合ったスペイン人の砲手から教わったやり方だ。


 いいかクリストバル(クリストファー)、世界を二つに分けるんだ。

 分ければ照準が定めやすくなる。

 

 分かっているさメルヒオールとエヴァンスは記憶の中の男に応じた。メルヒオールはエヴァンスの人生における唯一最大の教師だ。砲の種類も大きさも、それぞれの射程距離も皆その男から教わった。

 エヴァンスは記憶の中の男が指示する通りに目の前の光景を観察した。右側の海岸線はほぼ真直ぐ、左には岬が張り出して海峡の幅を狭めている。一方から対岸へ撃ったとして、セーカー砲の乱射ならぎりぎり届くかもしれない。となると一七〇〇フィート〔*490m.〕。あの両岸に大砲を据えて獲物を狙うのはどうだ? 


 旗が大きく揺れた。


 前から後ろへと、潮の大きなうねりがやってくる。


 エヴァンスは甲板を踏む足に力をこめた。

 足の下で甲板が持ちあがり、見えない奈落(アビス)に落ちるようにまた戻るのが分かった。この激しい潮は悪くない。渦でも起これば船は岸へと寄らざるを得ないだろう。そこを砲で狙える。狙うのは舵か? いや、できればメーンマストが良い。舷側に穴をあけて積荷が濡れたら大変だ――積荷はきっとマカオの生糸か、マニラ経由のアカプルコの砂糖だろうから。そいつをみんな奪うってのはどうだ? 船倉は空になるから、命乞いする商人どもを片っ端から縛って閉じこめてやる。そいつらはあとで身代金と交換だ。船長とは握手をしてやってもいい。故郷(くに)に帰ったら船長仲間と人づきあいが要る――そうだ、俺は帰るのだ。

 ひと財産拵えたらいつかは故郷に帰る。

 キャプテン・エヴァンスの凱旋だ。船の名は決まっている。

 ニュー・デザイアー号だ。大きさは一二〇トンばかりでいい。俺の船は満ち潮の朝にテムズ川を遡る。デドフォードの埠頭にびっしり人が群がって俺の名を呼ぶ。キャプテン・エヴァンス! キャプテン・エヴァンス! 俺はそいつらに手を振り返してやる。そうしてじきに来るのだ。川上から美しい御座船が。我らの女王ベスを乗せたキラキラした船が――



 そこまで夢想したところでエヴァンスは苦笑した。

 昔馴染みの古ぼけた夢想だ。女王陛下の御代に生まれた船乗りなら、少年水夫の頃に一度は思い描いただろう。だがもう叶わぬ夢だ。

 貧民生まれの海賊を騎士にした我らの女王エリザベスは十一年前に死んでしまった。今の国王ジェームズ陛下はオランダともスペインとも戦うつもりはないと聞く。

 つまりもう奇跡は起こらないのだ。


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