第一章 海峡の王 九
ようやく第一章終了
「法院様」は初代平戸藩主の松浦法印鎮信。わが最愛の戦国大名です。
たぶんぎりぎり戦国だよね?
何とも言えない虚しさを堪えながら海面に集中していると、視界の左半分に突き出る岬を廻って船が現れた。
聞いた通り小型の櫂船だった。モルッカ海域でよく見た舷外浮材は着けず、両舷からそれぞれ二〇本ばかりのオールを突きだして規則正しく回転させている。角張った舳先の左右に矩形の白い旗が立っていた。枠に嵌めてあるのか全く靡かない。真中に切り妻屋根の屋形があって、その後ろにもう一竿、これも矩形の大きな赤い旗が見える。次に来るのも同型のガレーだが、こちらに赤い旗は立っていなかった。
縦列に並んだ二艘のガレーの後ろを大小のボートが着いてくる。
小船の一大船団だ。
小型とはいえあのサイズなら半カルヴァリンまでは搭載できそうだ。何処かに砲口が見えないかと目を凝らしていたとき、階段を踏む硬いブーツの足音に続いて船団司令官が駆けつけてきた。
〈先頭の旗を確かめてくれ!〉
通訳を介して命じられた水先案内の漁民の一方が腰帯に望遠鏡を挟んで横静索を登っていった。熟練水夫のような身軽さである。たちまち檣楼に至り、先頭のガレーに筒を向けるなり頓狂な声を上げる。
――おおなんと、三ツ星に二つ引両に平戸梶や! 松浦ンご宗家やぞ!
――まさかそりゃ、松浦法印様ン御座船っちゅうことか?
――いやいや、六万一千石ン大殿様がそがん易々(やすやす)……――お? 艫ン赤旗も三ツ星か? よもやな、いや……おう三ツ星ばい、赤地三ツ星に吹き流し――……法印様ン御座船やああ!
〈彼は何を驚いているのだ?〉
〈あの旗艦は平戸の王のものだ。王の名はフォイン・サムという〉
〈王自身が乗っているのか? では後ろの副旗艦は?〉
まるでその問いに答えるように甲板から声があがる。
――後ろン小関は殿さまや! 御家老ン佐川主馬様がござらっしゃる! 主馬様はうちらン頭領と昵懇なんや!
―主馬様は銭もっとりゃ何処ン頭領とも昵懇や! あっちン鎧武者は宇野内膳正様か? たまがったな、こりゃもう松浦水軍勢揃えや! 音に聞く福田ん焼き討ちか太閤様ん唐入りのごたあなかか!
〈副旗艦にはトノ・サムが乗っている。他にも多くの貴人が船に乗っている〉
〈トノ・サムとは?〉
これには甲板の漁民が答えた。
――平戸ン今ン殿様は肥前様や。松浦肥前守様。法印様が隠居なさって、御孫ン肥前様が家督ば継ぎなされた。ばってん今でも大殿様が何でん好きになさるちゅう話や。
〈彼は老いた王の孫で、別名はフィゼン・サムだ。彼もまた王だ〉
〈老若二人の王がいるのか。なかなか複雑なのだな〉
船団司令官は頷くと、中部甲板に屯する水夫たちを見おろして告げた。
「みな聞け! 我々を歓迎するためフォイン・サムとトノ・サムという二人の王が船を出してきた! 原住民とはいえ王は王、我々は最高の印象を与えなければならない! 甲板長、舷梯を用意しろ! ミスター・メルシャム、君は大船室を調えてガラスの器を用意したまえ! 商人諸君は最高の身形を調えて半甲板に整列して欲しい!」
「はい司令官!」
事務長と商人が船尾へ急ぐ。甲板長が索具係の水夫を集めて船首楼内へと走る。船影が大きくなっていた。潮に乗っているのだ。まるで満潮の川を遡るような速度で近づいてくる。
じきに先頭の船の舳先に立つ一対の旗の意匠が見て取れた。上部に三つの黒い丸を配し、二本の黒い横線を挟んで、下半分に樹木か葉のような紋様を描いている。そこまで見えるようになると、オールの動きに合わせて打ち鳴らされるドラムの音も聞こえてきた。
海が大きくうねっていた。後ろから風が吹きつける。セーリスの帽子の焔のような羽根が押されて前へと靡く。セーリスは全身で風を遮るように両腕を広げ、朗々と響く声で名のった。
〈平戸の王たちよ、私はイギリス人ジョン・セーリスという! 我々の同朋であるキャプテン・アダムスがすでに当地に来ているだろう! 彼の手紙は我々に届いた! 我々は誉れある会社の代表として我らの国王ジェームズ陛下の親書を携え、当地での自由な交易を求めに来た!〉
二人の通訳を介した口上を、檣楼の漁民が大声で伝え直した。
――平戸ン殿さまがたぁ――エゲレス黒船やぁ―――手前ども長崎ン漁夫でそうろ――口之津沖で行き逢うて案内いたしそうろ――
――漁夫どもけなげのはたらきやぁー―なんぞ証はありそうかぁー―!
――かぴたんが按針様ン御文ば持っとるよでそうろ――!
どことなく間延びした応酬が交わされるあいだに、旗艦の屋形から小柄な人物が出てきた。老人のようだ。禿げている。白い肌着に黒い絹のガウンを重ね、藍の地に細かい紋様のあるゆったりした長いズボンを履いて、腰に長短二本の刀を挿している。後から出てきた黒い鎧姿の男が何か叫ぶのを手で制して、老人は危なげのない足どりで舳先まで出てきた。そこでしっかと甲板を踏み、掌をかざしてクローヴ号を見あげてきた。
王だ。
エヴァンスは何故かそう思った。
あれが王だ。
この海峡の王だ。
王は一対の旗の間に真直ぐに立っていた。皺深く小さな品の良い貌は一目で貴人だと分かるが、足を開いた蟹股の立ち姿は熟練の船乗りのそれだ。王の眼が船首楼甲板の左舷へと向けられるなり、漁民がヒッと喉を鳴らし、平伏して額を甲板に擦りつけながら喚いた。
――法印様、法印様、頭が高うござりましたぁ! 何卒お許しおばぁ!
前からまた大きな波が来た。甲板が浮かんで引き下ろされる。小さな旗艦も揺れているのに老王は小動もしない。ガウンの長い袖だけが風に靡いている。おい馬鹿王様さがってろよ、とエヴァンスは怒鳴りつけたくなった。見てわかんねえのか? この通り、俺たちには砲があるんだぞ?
そのとき王の目がファウラー砲を見た。エヴァンスは気品ある顔に怯えが走るのを怖れた。あの堂々とした老王が、黄金のジパングの王様が、鞭を怖がる奴隷みたいに跪いて頭を垂れる。そしてまたセーリスがイギリス万歳と叫ぶのだ。
そう思うと胸が悪くなった。
おい王様。
頼むから引っ込んでいろよ。
エヴァンスが祈るように思ったとき、老王が両腕を広げ、セーリスと同じほどよく響く声で答えた。
『イギリス人、よく来てくれた! お前たちが来ることは按針から聞いていた! 彼はいま駿河の宮廷にいるが、呼べばすぐ戻るだろう!』
言葉は流暢なポルトガル語だった。中国語やマレー語と並ぶ東インドの国際共通語だ。眩く白い歯を見せて笑う老王の顔からは微塵の怯えも感じられなかった。




