第五章 レビヤタン 七
外科医に伴われて大船室へ向かうと、室内は柔らかな獣脂蝋燭の光に充たされていた。チーク材の大テーブルの正面に商人頭が坐り、左に船長と事務長が坐っていた。商人頭の後ろにはイートンが書記よろしくノートを手にして立っている。
マティンガはドアの左手にひっそりと立っていた。
今日は青いガウンではなく、赤い地に大きな白い花を散らしたガウン姿で、巻き毛を結い上げて珊瑚の髪飾りを挿している。見慣れない場所にいるためか、俯きがちに肩を落とした立ち姿がはっとするほど小さく見えた。
何で坐らせてやらないんだとエヴァンスは苛立った。と、視線に気づいたのか、商人頭が微苦笑した。
「彼女は控えめだね。椅子を勧めても、身分が違うと言って坐ってくれないんだ」
「どうして彼女がここに?」
「それは君の友だちから説明して貰おう。トッティ、頼むよ。事実を簡潔にね」
「はい商人頭」
船大工の徒弟が強張った声で答えて進み出る。
「私は昨日VOCの商館から釘を一樽買うために上陸許可を貰いました。その帰りに彼女の働く宿屋へ寄りました」
「何のために?」フォスターが訊ねる。
「ええと――知り合いの女の子に挨拶をするためです」
「名前は?」と今度はコックス。
「カタリナです」
「さっき彼女に聞いた通りだ。君はその赤毛のカタリナに挨拶をしにいったと」
「カタリナは栗毛ですよ」
「ああそうか。栗毛ね。それからどうしたんだい?」
「そこで、ふと気になって、砲手が――エヴァンスが此処で誰かから手紙を預からなかったかと聞いたのです。そうしたらマティンガが、手紙を預けたのは自分だと教えてくれたのです」
「なるほど」
フォスターが頷いた。「それで彼女を商館へ?」
「はい。もしもエヴァンスが無実だったら、キャプテン・コックスなら正しい裁きを下してくださると思ったので」
「光栄だよトッティ。彼女の話が本当なら、確かにエヴァンスは無実だ。しかし、此処に一つだけ問題がある――」
商人頭が視線をマティンガに向けた。
〈お嬢さん(セニョリータ)、貴方が手紙を預けたのはその男で間違いないか?〉
〈ああ商人頭。間違いない〉
マティンガが低く堂々とした声で答えた。後ろに控えるイートンが意外そうに目を見張る。エヴァンスは妙に得意な気分になった。見ろよ。彼女は女王様だ。
〈手紙は誰に充てたものだったんだ?〉
〈私の姉妹にだ〉
〈姉妹の名前は?〉
〈イザベラ〉
商人頭が頷いて今度は事務長を見やる。
「ミスター・メルシャム、あの小島の酒場の女はイザベラと呼ばれていたか?」
「いや、そこまでは確かめていません」
事務長がすまなそうに言う。「しかし、手紙が誰からかという点に関しては、証言が食い違いますね。私があの後確かめに行きますと、あの酒場の女は、赤い封蝋の手紙は預かっただけで、すぐに後から来たヨーロッパ人に渡してしまったと言っていました」
「本当に姉妹からだったら、隠す必要はない筈だな」
フォスターが沈んだ声で呟く。
部屋中の空気が重くなっていく。商人頭がまたマティンガに視線を戻した。
〈お嬢さん、もう一つ訊きたい。君はこの男に、手紙のことを秘密にして欲しいと頼んだか?〉
〈ああ〉
〈それは何故だ?〉
商人頭が鋭く訊ねた。瞬間、マティンガの顔に怯えが走った。エヴァンスは咄嗟に口を挟んだ。
〈マティンガ、答えなくていい!〉
〈え?〉
〈秘密なんだろう? 答えなくていい〉
マティンガが大きく目を見開き、戸惑ったように瞬きを繰り返した。その後でおずおずと訊ねる。
〈商人頭、クリストバルはもう自由になるのか?〉
〈君の答えによる〉
〈私が答えなかったら?〉
〈また鎖に繫ぐ〉
商人頭が厳粛な声で宣言した。マティンガは追いつめられた小さな獣のように部屋中を見回していたが、不意に一点に視点を定めた。
視線の先にあったのは、商人頭の後ろの壁に架けられた小型の油彩画だった。乳白色の裸身を晒したヴィーナスが、青い翼を生やしたキューピットの頬に掌を添え、今にも口づけをするように顔を近づけている。セーリスの趣味の煽情的な画だ。
マティンガはその画をまじまじと見つめた。
黒い目が僅かに潤んでいる。
男たちが何となく極まり悪くなったとき、マティンガが不意にまた向き直って訊ねた。
〈あれはサンタ・マリアか?〉
「いや、あれは――」
フォスターが否定しかけたとき、その声に被せるようにコックスが答えた。
〈そうだ。サンタ・マリアだ〉
その瞬間――
マティンガの顔に混じりけなしの歓喜の笑みが広がっていった。
彼女は目元を拳で拭いい、跪いて両手を組み合わせるなり、たどたどしいラテン語でアヴェ・マリアを唱え始めた。
〈――君は、キリスト教徒なんだね?〉
祈りが終わるのを見計らってコックスが立ち上がり、マティンガを立たせてやりながら柔らかな声で訊ねた。マティンガが素直に頷いた。
〈そうだ。私はキリスト教徒だ。イギリス人もキリスト教徒なのか?〉
〈そうだよ。スペイン人やポルトガル人とは種類が違うが、キリスト教徒であることには変わりない。イザベラというのは信仰の姉妹かい?〉
〈そうだ〉
〈手紙には何が書かれていたんだ?〉
〈暦だ。長崎の神父様が作った〉
〈日本の皇帝は、確か去年からキリスト教を禁じているのだったね〉
〈信仰は今までにも何度も禁じられた。危ないときは隠れていろと私たちの神父様は教えている〉
〈それは賢明な神父様だ〉
〈ああ〉
マティンガが得意そうに頷く。〈私たちの神父様は長崎の近くに隠れている。そして時々暦を送ってくれる。暦がないと祭ができないから〉
〈なるほどなあ。それで《魚の家》か〉
コックスが万感の思いを込めたような声音で相槌を打った。〈その秘密を、君の大事なクリストバルにだけは話してあったんだね?〉
〈いや〉
マティンガが泣き笑いのような表情を浮かべてエヴァンスを見た。
〈何も話していない〉
マティンガの証言を商人頭が認めたために、エヴァンスは晴れて無罪放免となった。となると、残る問題はマキアン島のスケッチの紛失だけだ。お偉方にとってはこちらのほうが遥かに大問題だったらしく、嫌疑の晴れた元被疑者は、証人たちともども早々に追い立てられた。
「マスター・ワーナー、立ち合い有難う。トッティ、あの怠惰なオランダ人を捜してきてくれ。ボールスはご婦人をロングボートで波止場まで送ってさしあげろ。エヴァンスは――動けるなら着いていってもいい。刀は後で返してやる。船室に取りに来い」
「有難うございます船長」
「無断上陸はするなよ」
半甲板へ出るとまだ柔らかな雨が煙っていた。ボールスが赤い傘を広げてマティンガに差し掛ける。エヴァンスはまだ夢を見ているような気がした。クローヴ号にマティンガがいる。決して混ざらない二つの世界が互いを透かしながら重なり合っているかのようだ。
中部甲板へ続く階段を降りながら、エヴァンスは前を行くトッティに告げた。
「トッティ、有難う」
「何がさ」
「手紙のこと、お前が彼女に報せてくれたんだろう?」
「礼を言われるほどのことじゃないさ。俺はカタリナに会いたかっただけだし。――あんたが感謝すべきなのは、どっちかっていうと親方にだよ」
「ジャスパー親方に?」
「ああ」と、トッティが声を潜めた。「大きな声じゃ言えないが、あんたたちにならいいだろう。俺があんたに話しかけたとき、親方が止めたことがあったろう?」
「あったな」
「あのあとさ、親方から言われたんだ。ジェームズはスケッチブックを、キャプテン・アダムスが船に来た次の日にイートンに渡したんだって。俺はその意味をずっと考えていたんだよ。そしたら思いついた。あんた自身も思いつくだろう?」
「ああ」エヴァンスは頷いた。「俺は同じ日に船に戻って来たんだ」
「だよな。俺も覚えている」後ろからボールスが同意した。「お前はその日からずっと船にいたんだ。トッティに教えて貰って、俺はようやくお前が無実だって確信できたんだ。悪いな、初めは疑って」
「気にするなって。普通誰でも疑う」
エヴァンスは肩を竦めてやった。
中部甲板の左舷によると、左手にスキフが、右手にロングボートが並んで横づけにされていた。ロングボートに垂れているのは縄橋子だ。ボールスが眉を寄せる。
〈マティンガ、降りられるか?〉
〈降りられる〉
狭い水面を斜めに過ぎると岸はすぐそこだった。マティンガが陸に上がって赤い傘を差し直す。そして、二、三歩歩み出してから、ふり返り、傘をずらして呼んだ。
〈クリストバル〉
真摯な声で呼んでから、彼女は微かに笑った。
「有難う」
英語だった。
エヴァンスは世界の半分から微笑みかけられた気がした。
船へ戻ると中部甲板に外科医がいた。霧雨のなか縄梯子を登ってきたエヴァンスを見て顔を顰める。
「おう砲手補、塩梅はどうだ?」
「上々だよマスター」
「てめえは頑丈だなあ! 御気の毒なミスター・ポーリングにも、その血の気を半分分けてやりてえ」
「ミスター・ポーリングの具合はどうなんだ?」後から昇ってきたボールスが気づかわしそうに訊ねる。ちょうどそのとき、半甲板から当のポーリングが、ジャックに傘を差しかけられて階段を降りてきた。
「ミスター・ポーリング!」
ボールスが親しげに声をかける。「具合はどうだ? 寝ていなくていいのか? こんな雨のなか出てきて大丈夫なのか?」
「おいボールス、病人の前で騒ぐんじゃねえ」と、ワーナーが下から凄んだ。「ミスター・ポーリングは今日から商館の別棟で静養なさるんだ。コックスの旦那がようやく取り計らってくれた。ボールス、エヴァンス、暇ならちっとミスター・ポーリングの船室から衣装櫃を運んでこいや」
「待ってくれマスター」と、ポーリングが口を挟む。「ジャックの話じゃ、エヴァンスも今は病み上がりなんだろう? 俺の衣装櫃なんてあとでいいよ」
「いやあ、衣装櫃は重要ですよ」
エヴァンスはできるだけ気軽に言った。久々に見るポーリングは夏だというのに黒羅紗のマントをかけているため、一見体格は分からなかったが、額や頬に濡れた褐色の髪を張りつかせた顔が骨と皮ばかりにやせこけていた。頬が削げ、眼窩が深く窪んで、目ばかりが異様に大きく見える。外科医とジャックは見慣れているのか、そんな病人と当たり前のように話していた。エヴァンスとボールスは無言で目配せを交わした。
この人はたぶん、もうそう長くはないだろう。
上陸は商人頭の最後の恩情なのかもしれない。
ポーリングが舷梯を降りようとすると、ジャックがマントの端を掴んで言い募った。
「ミスター・ポーリング、きっと良くなってくれよ? あんたがいない船になんか、俺は乗っていたくないよ」
ジャックは幼い子供の顔で泣いていた。ポーリングが笑って濡れた巻き毛の頭に一瞬だけ掌をのせた。
「大丈夫さジャック。北東の季節風期まではまだ三ヵ月もあるんだ。俺は必ず良くなって一緒に故郷に帰るよ」
その声は優しく柔らかだった。
そんな約束してやるなよとエヴァンスは病人をなじりたくなった。
あんたは戻って来られないのに、その可哀相な子供に希望を持たせてやるなよ。




