第三章 魚の店 六
大通りを疾駆する三人の水夫は大いに目立ったが、波止場で荷運びをする連中はさして気に留めなかった。
板屋根を石で押さえたあばら家の並ぶ漁師町を抜けると広い坂道に出る。やや上った先の路地の入口で、先頭のトッティが足を止め、ゼイゼイと息を整えながら宣言した。
「着いたよ。ここで《魚》が必要になるんだ。出入りの日本人たちによると、バスチャンの店のバスチャンっていうのは人の名前で、別名ピスキスの店とも呼ばれているんだそうだ。きっとそれが看板なんじゃないかな」
「魚の看板? そんなものありそうか?」
路地を覗くと袋小路のようで、突き当りに扉を閉じたアーチ形の門があって、奥に瓦屋根が突きだしているのが見えた。左右に並ぶのは板作りの二階屋で、どれも戸口に藍色の暖簾をかけている。一軒ずつ検めながら進むうちに、ボールスが足を止めて心許なげな声をあげた。
「なあ、魚って、もしかしてこの本物の魚か?」
見れば戸口の右手に大きな青磁の甕が据えられ、縁まで漲る碧緑の水のなかに黄金色がかった朱色の金魚が泳いでいた。
「綺麗だなあ! エナメル細工みたいだ」
トッティが感嘆する。途端に暖簾が分かれ、柔らかそうな栗毛を肩に垂らした背の高い娘が現れた。
淡い紅色のガウンを纏ったごく若そうな娘だ。
色白の頬の輪郭を初夏の桃のような産毛がぼやかしている。
ボールスが笑いかけるなりびくりとし、暖簾を戻して店内へ駆け戻ってしまう。
――姐しゃ、於松姐しゃあ、南蛮人や! オランダ人やなか!
すぐに、今度は黒い巻き毛を結い上げた青いガウンの女が出てきた。
濃い睫に縁取られた大きな黒い眸が南欧の血を感じさせる。
女は三人を見あげてから、思いがけないほど流暢なスペイン語で訊ねてきた。
〈あんたたち浦賀から来たのか?〉
〈いや違う。バンタムからだ〉
エヴァンスが応えると女が目を見開き、何故か薄く笑ってから手招きをした。
〈入れ〉
入ると中は土間だった。真中にテーブルがある。左手が一段高い板の間で、此処に六、七人もの女がいた。色とりどりのガウンを纏い、巻き毛や栗毛を垂らして、膝の上に白い布を広げて皆で針仕事をしている。
〈あんたたちはイギリス人か?〉
〈そうだ〉
〈女を買いにきたのか?〉
〈ああ。此処で買えるのか?〉
〈買えるよ。一晩一メースだ〉
〈一晩はいられないんだが〉
〈イギリス人、此処は宿屋だ。女は部屋についている。本物の女郎じゃない〉
〈何処かに本物がいるのか?〉
〈いるよ。川内の犬山に〉
〈何処だそこは?〉
〈平戸の南の港だ。綺麗な女は犬山に売られる〉
〈ならどうしてあんたはそっちに売られなかったんだ?〉
エヴァンスが思わず口を挟むと女が剣呑な眼つきで睨みつけてきた。エヴァンスは何故怒られているのか分からなかった。
だって、あんたはそんなに綺麗なのに。
そう言葉を重ねようとしたとき、栗毛の娘が女にしなだれかかりながら訊ねた。
――姐しゃ、こン南蛮人ども二階ン客か?
娘の声は砂糖菓子のように甘ったるかった。トッティが陶然としている。巻き毛の女が思いがけないほど柔和に微笑して頷き、娘の手の甲を軽く叩いた。
――重かけん放さんね。南蛮人でなかばい。紅毛人や。
――何が違うんか?
――こン娘は物ば知らんねえ。南蛮人いうたらポルトガルとスペイン、紅毛人はオランダとエゲレスやろ。
萎びた無花果のような顔をした女が尺を振りながら口を挟むと、他の女たちも堰を切ったように話し始めた。
――ならこン紅毛人らエゲレス黒船ン水夫か?
――あン五月五日の船か。法印様ン御下知で舟手町が曳き舟ば出したというとはほんまやろか?
――ほんまやろ。エゲレスいうたらあれや、木田町ン旦那ン御屋敷ばお宿所にしとーあの、なんたらいう偉か御方ンご生国やろ? 法印様も無下にはできんて。
――阿茶、何たらはあんまりやろ、按針様や。三浦ン按針様。
――そやそや按針様や。エゲレス黒船検分にじき駿河からござらっしゃると聞いたばってん、木田屋ン旦那はうちらば御座敷に呼んでくるるやろか?
――どうやろねえ。駿河ン御旗本やし、犬山から傾城ば呼ぶんやなかかん。
――按針様かて紅毛人やろ? 紅毛人は赤っ毛だのくせっ毛だの好いとーというやないか。犬山にそがん傾城おらん。
――ばってん駿河ン御旗本やで。
女たちの囀りはいつ果てるとも知れなかった。
巻き毛の女が苦笑して奥へと何か叫ぶ。ややあって緋色の暖簾が分かれて、右目に黒い眼帯をかけた小柄な老人が現れた。
――旦那様客や。三人とも二階やとさ。
〈あんたがバスチャンか?〉
ボールスが興味深そうに訊ねると、巻き毛の女が代わりに答えた。
〈この人は違う。バスチャンは神父様だ〉
〈父親? あんたのか?〉
〈違う。教会の神父様だ〉
〈神父様が女郎屋を営むのか?〉
揶揄すると女は眉を顰めた。
〈パードレ・バスチャンを侮辱するな。此処は宿屋だ。私たちが自由に罪を犯しているだけだ〉
女の目には混じりけなしの怒りが燃えていた。エヴァンスは惚れ惚れした。「おいジョニー、三シリング払ってやってもいいからあの巻き毛は俺に譲れよ」
耳打ちするとボールスが呆れ声で答えた。
「金貰ってもいらないよ。お前しゃべれる女好きだよな」
「お前は嫌いだよな」
「まあな」ボールスは気まずそうに認めた。エヴァンスはふと昔のリトル・ジョニーの呟きを思い出した。
でもあいつらはしゃべるよ。