26.蟻地獄の入り口
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。稲塚君。心配してくれるのは嬉しいけどね」
白鳥愛は屈託のない笑顔で稲塚薫に向けてそう言った。どうやら彼はよほど不安そうな表情を浮かべていたようだった。
メリリンから、“夢の世界”へ、案内すると彼女に連絡が来たらしいのだ。しかもそれが今晩だという。
それは講義終わりの廊下での事で、彼女はもう今日は講義がないらしく、大学を出ようとしていた。少し迷ったのだが、それで彼はその時に彼女のバックのポケットに盗聴機能のあるGPS装置をこっそりと忍ばせたのだった。
“夢の世界”の場所は知っている。近くで待機しておけば、何かあったら彼女を助けられる。
そんなつもりだった。
ただ、鈴谷凛子からは、
「まずは信頼関係を築いてから、性的サービスを行わせると思うから、初日は心配ないはず。余計な警戒をさせるリスクがあるから、何もしない方が良いと思う」
と、彼はアドバイスを受けていた。少々冷静さを欠いている。彼自身もそれは自覚していたのだが、それでもどうしようもなかった。何かをしなくては落ち着かない。
――聞いた話だ。
白鳥愛は洋館で“夢の世界”の面接を受けていた。面接をしていたのはブラジル人のように見えるボーイ風の男で、彼女は少しばかり彼を“ちょっといいな”と思っていた。頼りになりそうだし、男らしいし。
「オーケー。問題なしだ。君みたいなタイプはここじゃ珍しいから喜ばれるよ」
爽やかな笑顔でそうボーイは言った。
「良かったです」と、彼女はニッコリと笑って返す。褒められたのが嬉しく、やや顔を赤らめてしまった。その表情で何かを察したのだろう。近くにいたメリリンが言った。
「もしかして、愛ちゃんって、意外に男好き?」
それを彼女は慌てて否定した。
「そんな。わたし、ほとんど男の人と付き合った事ないわよ。高校時代に付き合っていた人とは、トラブルがあって途中で別れちゃったし」
その説明の“途中”という言葉のニュアンスを、メリリンは敏感に嗅ぎ分けたようだった。
「って事は、“経験”もないの?」
「ないけど…… それって恥ずかしい事?」
白鳥は自分くらいの年齢ならまだ普通だと思っていたのだ。メリリンは首を横に振って「ううん。とても素晴らしい事だと思うわよ」と何故か嬉しそうにしている。見るからに上機嫌になっていた。それから彼女はボーイに向かって言う。
「ね? そんな訳だから、A班に彼女の相手をお願いしたいのだけど良いかな?」
ボーイは軽く溜息を漏らすと「良いんじゃねぇの? そーいうのはお前に任せるわ」などと謎の返事をした。
“A班”、“任せる”
言葉の意味がやや気になったが、白鳥は深くは尋ねなかった。そして、それから洋館の奥の部屋に彼女は連れて行かれたのだった。
――稲塚は夜の街の空を見上げていた。都会の街は光に溢れている所為で、星がほとんど見えない。
夕刻を過ぎて、夢の世界の窓口である洋館へ白鳥が足を踏み入れた事を、GPS装置で彼は確認していた。盗聴機能で声を拾っているからもし悲鳴が聞こえたり、不穏な気配があったりしたら乗り込むつもりでいた。
が、それは不可能になってしまった。音声がまったく聞こえなくなり、位置情報も掴めなくなってしまったのだ。恐らくは洋館の中に電磁波を遮断する仕掛けがあって、盗聴などを防止しているのだろう。
“まずい。これじゃ、彼女がピンチになっても分からない”
稲塚は軽いパニックに陥った。
洋館の周りを歩き、何か中の様子が少しでも分からないかと観察する。もちろん、何も分からなかった。時間が異様に長く感じられ、30分が過ぎた辺りで彼は我慢ができなくなった。
ブラックフェイスになって乗り込むべきか、それとも稲塚薫のままで正面から入ろうか悩んだが、変身せずにそのままの姿で彼は洋館に入る事にした。穏便に済ませられるのなら、それが一番なのだ。
真面目そうな男の受付係が、彼を見て深く頭を下げる。
「いらっしゃいませ。会員カードをお見せください」
それに彼は頭を掻きながら、「いや、僕は会員じゃないんです」と断ってからこう続ける。
「実は知り合いの白鳥って女の子がここに入っているのですけど、ちょっとした急用があって。会わせて欲しいんです。この中ってスマートフォンが通じないみたいで」
淡々と受付係は返す。
「そのご依頼は請けかねます。当クラブではそのような行為は禁止されています」
「いや、でも、急用なんですよ。少しだけで良いから」
「ルールですので」
「いや、でもっ!」
稲塚が納得する様子を見せず、しつこく食い下がっていると不意に受付の奥の方のドアが開いた。
ブラジル人っぽい見た目のボーイ風の男が出て来る。
「なんだ? もめ事か?」
「いえ、この方が白鳥という女性に会いたいと仰られまして」
それからボーイは、稲塚を粗野な仕草で見やった。“雰囲気が違う”と彼は思う。それなりの立場にいる男で、恐らく、用心棒もかねているのだろうとそれで判断した。大柄ではないがスーツの上からでも分かるくらいに、確りとした質の良い筋肉の存在感があった。
「急用なんです。どうしても伝えなくちゃいけない事があって」
「オーケー。なら、言伝てやろう。言いなよ」
「いや、ちょっと長くって……」
そう彼が言い訳をしようとすると、ボーイはスタスタと近寄って来た。そして、何も言わずに拳を彼の鼻先に放つ。矢鱈とスピードの速いパンチで、当てても構わないと思って打ったのか、それとも数ミリの距離を見切って打ったのか、拳の先が彼の鼻先を掠めた。ダメージにはならないが、脅しにはなっている。彼は冷や汗をかいた。
「悪いが、ここには女に会いたくてやって来る変なのも来るんだよ。だから、安全上の理由で会わせられない。分かったら、さっさと帰れ」
「いや、でも……」と彼は返そうとする。すると、再びボーイはパンチを打った。ジャブを鼻先に。しかし彼は今度はそれを手の平で受け止めてしまった。狙っていると分かっているのなら、いくら速くても彼ならば防ぐのは容易だったのだ。
「てめぇ……」と、ボーイは彼を睨む。引こうとする腕の感じで、彼はボーイが打撃中心の格闘技をやっていると予想した。組み技は苦手だろう。このまま腕を極めてしまえば勝てる。
“どうする? 中に乱入して騒ぎを起こせば、彼女がどんな目に遭っていたとしても邪魔できるかもしれない……”
が、そう悩んでいると奥のドアが再び開いたのだった。
身体の大きな凶悪な顔の男が姿を見せる。まるで鬼のようだった。恐らくは用心棒専門の男だ。首藤ノブ程ではないが、かなりの圧があった。
“手練れが二人…… しかも、丸腰。何の準備もない。流石に無理か……”
彼はボーイから手を放すと、ニッコリと笑いながら言った。
「分かりました。なら、彼女に言伝てください。“直ぐに天野小夜子に連絡をするように”と」
自分の名を出すと、後でブラックフェイスとして闘った時に正体がバレてしまうリスクがあると考えて、咄嗟に天野の名を出したのだ。
ボーイは気に入らなそうな顔をしてはいたが、それでも何もせず「分かった。伝えておいてやる」と言って彼が外に出て行くのを見守っていた。
――聞いた話だ。
白鳥愛は青い顔をしていた。
アラビア風の高級そうなソファ。それが二段組みの階段のようになっていて、大きく囲んでいるという変わった構造の部屋で彼女は問い詰められていたのだった。
途中までは和やかな雰囲気で、とても楽しかった。その部屋には二十代後半くらいの男性が三人ほどいて、とても紳士的に彼女やメリリンの相手をしてくれていた。
男達はいずれもイケメンで、彼女が高校時代に付き合っていた三城に近い雰囲気があった。その所為か、彼女は多少舞い上がってしまっていた。彼女自身には三城に酷い目に遭わされた記憶はない。理屈では理解できていても、今でも、“騙されていた”という感覚は彼女にはないのだ。
彼らはトークが上手で、出された料理もお酒も美味しかった。気分が良くならないはずはなかった。まるで何処かの国のお姫様にでもなったかのような気分だった。
が、そこにいきなり従業員だろう男達数人が乱入して来たのである。そして、彼女の制止の声を無視して無遠慮に彼女のバックを探ると、
「ありました。盗聴器です。GPS機能も付いているようです」
などと言って、コインくらいの大きさの物を取り出したのだ。どうもこの洋館にあるセキュリティシステムが不審な電磁波を検知したらしい。
“盗聴器?”
彼女には寝耳に水だった。
だから、「覚えがありません」と訴えたのだが信じてはもらえなかった。先ほどまで自分をお姫様のように扱っていた男達は冷たい態度になり、従業員達はすっかり自分をスパイだと思い込んでいた。ただ、その中で唯一メリリンだけは彼女を擁護していたのだが。
やがて、ブラジル系っぽいボーイ風の男が呼ばれてやって来る。彼は彼女を問い詰めようとしたが、メリリンが庇った。
「決めつけるのは良くないよ。これだけ可愛い女の子だったら、部屋とかに盗聴器を取り付けられているくらいよく聞く話だし」
白鳥は「そんな事があるのですか?」とビックリした。
「うん。ストーカーとかがそういう事をするのだって」
それを聞いて彼女は“ストーカー?”と心の中で呟き、そして、ほぼ反射的にこう言っていた。
「わたし、ちょっと前にストーカーの被害に遭っていました!」
従業員の一人が反応する。
「それを証明できるか?」
「ネットでも有名になっていますから、検索をすれば直ぐにヒットするはずです。その人、“ブラックフェイスに襲われた”って主張していて、それで珍しがられたんです」
「ブラックフェイス? 黒人の真似していたって事か?」
「いえ、黒いヘルメットを被っている何者かに襲われたらしいです」
従業員の一人が電波の通じる廊下に出て、スマートフォンで調べたようだった。確かに彼女の言うようにそんな記事があったようでオーケーのサインを出している。
「だが、その被害者があんただって証拠はないだろう?」
「そうですけど……」
しかし、そこでボーイが言った。
「いや、待て。あんた、白鳥だよな? さっき、玄関であんたを訪ねて来た変な男を追い払ったぞ」
「え?」
「“天野小夜子に連絡しろ”って言っていたけど、心当たりはあるか?」
「天野さんはわたしの友達ですけど……」
それを受けると、ボーイは顎で指し示した。電波が通る場所でスマートフォンで連絡を取れという意味だろう。彼女は頷くと、廊下に出て天野に電話をかけた。
『何か用?』
という天野のいかにも面倒臭そうな声がスマートフォンの中から聞こえる。
「ううん。天野さんに連絡を入れてって伝言をもらったからかけてみたのだけど……。その様子じゃ何も知らない?」
『知らないわよ。変な悪戯じゃないの?』
そう言うと、あっさりと彼女は通話を切ってしまった。
その会話を従業員達は聞いていた。
「嘘だったっぽいな。あの言伝は」と、ボーイが言う。つまり、ボーイが追い払ったのはストーカーであった可能性が大きいという事になる。
「でも、まだ……」と従業員が言いかけたが、そこでメリリンが声を上げた。
「ねぇ。そろそろ良いのじゃない? 疑いは晴れたわよ。それに、この娘、未経験よ?」
ここで言う“未経験”の意味は、もちろん処女という意味だ。彼らは顔を見合わせた。そして「決まりだな」と、ボーイが言う。
「悪かったな。あんたは白だ。お詫びに、今晩は店の奢りにさせてくれ。大いに食べて飲んで楽しんでくれ」
その言葉にホッと白鳥は胸を撫で下ろした。そして、信じて庇ってくれたメリリンに心の底から感謝したのだった。
ただ、どうして“未経験”だと疑われないのかは分からなかった。こっそりとメリリンに尋ねると彼女は「それだけ純真だって思われたのよ」と説明したが、いまいち納得はできていなかった。
『――あのさ。あんた、白鳥に私に連絡をするように言った?』
天野はその後、直ぐに稲塚に電話をしていた。勘の良い彼女は、白鳥から連絡があった時点でなんとなく察していたのだ。
「うん。言った。良かった。彼女、無事だったか」
その返答に天野は溜息をついてから、呆れた声で抗議をする。
『あんた、私を便利に使うのいい加減に止めなさいな』
――次の日の大学。
「大変だったのよ、昨晩、こんな事があってね……」
と、白鳥は稲塚と天野に昨晩の出来事を語った。
「後少しで、わたし、スパイ扱いよ。怖かった」
その説明で、天野は大体の経緯を察したようで稲塚を睨みつける。そして、稲塚は“なんてこった! 裏目ったかぁ!”と、大いに苦悩していたのだった。




