第12話 裂華症と迫る影
物言わぬ純白の彫像となったリカオンの群れ。
氷像をかき分けて進むうちに僕は違和感に気づいた。
「ミュトスさん、見てください」
「……セラドンリカオンの血?」
ときおり、一部が赤く染まっている。
白銀世界の怠惰領の副作用ではないかとミュトスさんは言うが、それは違う。
あの魔法は表皮が傷つく暇さえ与えない。
ゆえに魔法を受ける前から流血していたことになる。
僕は一体の氷像を解凍し、中を確認することにした。セラドンリカオンの特徴的な灰色の体毛が赤く染まっている。
体毛をかき分けると、あちこちに切り傷が開いていた。
「凍傷……違うわね。セラドンリカオンの生息地、雪山だし」
何度でも言うがあの魔法はそんな猶予を与えない。
当たれば最後、術者が解除しない限り時の流れから切り離される。
そしてなにより、この切り傷には見覚えがあった。
それもつい最近の出来事である。
「……裂華症です」
だとするとまずいことになる。
先ほど見たゴブリンとリカオンたちの白骨の山。
あれは食い荒らされた形跡があった。
そして裂華症は血液を媒介に感染を広げる。
「感染個体のリカオンを共食いすることで、リカオンの群れに急速に感染が広まっているみたいです」
セラドンリカオンの異常繁殖もこれで説明できる。
生きとし生けるすべての命は、生命の危機に瀕したとき自らの遺伝子を残そうと躍起になる。
その結果次から次へと繁殖が進み、そのたび感染個体が急増したのだろう。
「セラドンリカオンが絶滅する?」
「リカオンに限りません。下手をすればあたり一帯の生態系が大きく変化します」
肉食動物がいなくなれば草食動物が増える。
なぜなら死亡率が下がるからだ。
そうなると草木が食い荒らされる。
草木がなくなれば草食動物も餓死し、後にはやせた大地だけが残る。
最悪の場合、死の大地と化す。
最悪を逃れれば、長い年月をかけて再生するかもしれない。
だけどそのとき、植生も、そこに縄張りを張る動物も、今とは大きく変わっているだろう。
「むぅ、ギルドに報告」
*
ギルドはいつも以上の喧騒に包まれていた。
いつもは笑ってばかりで涙のなさそうな人たちが、顔に青筋を立てて机を指でたたいたり、落ち着きなく右往左往していたりする。
どうしたんだろうと周囲をうかがいつつ、受付まで歩いていく途中、スキンヘッドが特徴的な大男さんと目が合った。ゲゲルグさんだ。
ゲゲルグさんは僕を見るや否や、血相を変えて駆け寄ってきた。
「お、親分! たすけてくだせぇ!!」
「えっと……何があったんです?」
僕は口角が引きつりそうになるのを抑えて、努めて平静に返した。大きな男の人に迫られると、いくらいい人だと頭で理解していても体は緊張しちゃうんだ。
「オレの大事な弟分が、原因不明の出血で苦しんでるんだ! 親分のヒールで治してくれねぇか⁉」
「原因不明の出血? ……まさか!」
ミュトスさんと目が合った。
お互いに小さく首肯する。
「ゲゲルグさん! やせ男さんはどこに⁉」
「突き当りの医務室でさぁ! 頼んます!」
「はい!」
僕はわき目も振らずに走った。
医務室の前に立つと、中から不快な匂いがした。
鉄臭さと生臭さを掛け合わせたような匂いだ。
扉を開けて医務室に入ると、マスターと、受付のお姉さんと、それから知らないおじさんがいた。
「ロギア君! いいところに来てくれたわ!」
「ゲゲルグさんからおおよその話は聞いています! やせ男さんの容態は⁉」
「さっきまでもだえ苦しんでいたんだけど、今はもう、意識がもうろうとしていて……」
やせ男さんは、首から腰、ふくらはぎから足首にかけて包帯が巻かれていた。包帯は赤黒く染まっていて、呼吸は虫のように弱く浅い。
包帯の一部をほどくと、下からどす黒い切り傷が浮かび上がった。黒いバラ模様のような、十重二十重に積み上げられた傷口だった。
「……ひどい。どうしてこんなになるまで……」
やせ男さんの肌には無数の切り傷があった。
ロヌマードってお医者さんは裂華症について知ってるみたいだったけど、他のお医者さんは知らないんだろうか。
僕の村だと結構有名なんだけど、もしかして風土病的なやつだった?
あれ? だとするともしかして。
僕に付着していた病原菌が大陸間を移動しちゃった?
いや、時系列的にその可能性はないか。
僕がアストレアにきてまだ数日。やせ男さんの症状はすでにステージ4まで進行している。僕がアストレアに来るより前に誰かがこの土地に裂華症を持ち込んだんだ。
「ロギア君、治せる?」
胃の底に、冷たいものが落ちる錯覚。
喉へと逆流する不快感が、不安だというのはすぐにわかった。ステージ4まで進んだ裂華症。僕に治せるだろうか……。
「ぅ……ア、ニキ……」
「っ!」
やせ男さんが、かすれた声でゲゲルグさんを呼ぶ。
やせ男さんにも、大男さんにも、僕はまだ何も返せていない。返せないまま、お別れなんて、絶対に嫌だ。
「……やります」
呼吸を一つ。
目を閉じれば広がる暗闇。
水底に意識が深く深く沈んでいく感覚。
一番深くまで意識を潜らせると、小さな灯がある。
その明かりを指先に灯せば、右肩から先が灼けるように熱くなる。体内の魔力回路で暴走する魔力を、魔力制御で押さえつける。求められるのはこん棒で氷塊に彫刻を刻むような精細さ。
一度も成功したことはない魔法。
それでも、やるんだよ。
「≪ディーコンセンテス・レイリバース≫!!」
刹那、右手から世界が弾ける。
まぶたさえ貫くまばゆい光が、雄たけびを上げる。
「く……っ!」
魔力回路が焼き切れそうだ。
額から噴き出した汗が目に染みる。
瞬間、フッと魔法が消えさった。
限界だった。
やっぱり、無理なのかな。
僕じゃあ、ダメだったのかな。
「……ぅあ、ア、アニキ……?」
その時、やせ男さんの声が聞こえた。
表情から、苦悶の色が抜け落ちている。
胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
それをどう処理すればいいか、僕はまだ知らなくて。
「……よかった」
ただ、そう呟いた。
ほっと息を吐く。
間に合った、間に合ったんだ。
ギリギリのところで今回は助けられたんだ。
でも。
(右手の魔力回路だと、しばらく繊細な魔法を使えそうにないかな)
次にもう一度罹患者が現れれば、次はもう、僕の手には負えない。
病室を抜けて、ゲゲルグさんに治療成功の報告をする。ゲゲルグさんは入れ替わりでダッシュして病室に向かい、やせ男さんの無事にむせび泣いていた。
次に僕が見る涙は、悲しみの涙かもしれない。
口内に鉄の味がにじむ。
手の平に爪が食い込む。
(誰かの力を借りないと)
幸いにして、当てはある。
ロヌマード医師だ。
セフィリアさんは悪徳医師だと言っていたけれど、状況が状況だ。誠心誠意頼み込めば、前とは違う答えが返ってくるかもしれない。
僕はギルドを後にして、ロヌマード医師の待つ大通りへと足を向けた。
空には赤い月が昇っている。