感情茸(作:marron)
舞台人としてやらなければならないことがある。
―― 感情のコントロール。
これができなければ、観客が舞台上の物語に移入できなくなってしまう。それだけはあってはならないのだ。
「違う!そこは、泣くんだよ。そんなケロっとした顔で哀しいセリフ言ったって、誰も感動しないぞ!」
「はいっ」
演出家に怒鳴られて、思わず本気で泣きそうになる。
だけど、ここで“泣いて”しまえば、セリフは良いとしても、次の歌が歌えなくなってしまう。
無理やりに息を吐きだして、自分を叱咤すると私は演出家を睨みつけた。
稽古が終わると逃げるように稽古場から走って出た。細い路地に入ると、足を止める。
「ふう・・・う」
ため息をついたら、さっきまで我慢していた涙が出てきた。
どうしたら良いの。あそこで泣きの演技をするためには、本当に泣かなければならないのかしら。
ミュージカルを演る役者にとってこれは難しい問題だと思う。
人間は“泣く”とどうしても顔の表面や咽喉の辺りが充血、つまり腫れてしまう。涙や鼻水が邪魔するだけじゃなくて、腫れた喉ではいつも通りには歌えない。それは分かりきっているから、歌う役者は泣いてはいけない。―― 少なくとも私はそう。
「でもなあ、演出家には泣けって言われてるし」
またため息が出た。もう涙は出ないけど。
「マミちゃん」
誰もいないと思ったのに、ポンと肩を叩かれた。
振り向くと、仲良しの先輩が、いつもみたいに無表情で立っていた。
「先輩」
「いいとこ、教えてあげようか」
私が何か言う前に、先輩はかぶせてきた。相変わらず人の話を聞かない人だな。
「ついておいでよ」
ちょ、ちょっと?どこ行く気?いいとこ、ってどこよ。
「先輩?」
速足の先輩に置いてかれないように焦ってついていく。まあ、先輩は悪い人じゃないっていうか、ちょっと言葉が足りないから誤解を受けやすいタイプではあるけど、良い人ではあるから構わないけどね?でも、どこ行くのか教えてほしいなあ、
「ここ」
「ここ?」
ここら辺にこんなお店があったかしら?通いなれた路地ではあるけれど、入り組んでるし、知らなくても不思議はないけど・・・狭い黒い扉には干からびたエノキダケがひとつ、直に貼りついている。
怪しいお店。
先輩が扉を開けるとチンと硬質な音が響いた。そして薄暗い店内に先輩は吸い込まれるように消えた。
「えっと」
ちょっと怖いけど、仕方がない。行くか。
狭い短い廊下の先には、明るい蛍光灯に照らされた、見慣れた感じの懐かしい部屋があった。
「マスター、お客さん」
私が部屋に入ると、先輩が私を紹介してくれた。
「お客さん?」
マスターと呼ばれた人は、部屋の一番左側、つまり黒板前の教卓から立ち上がると、ビーカー類の乗った黒い大きな机をスイスイとかき分けてこちらへやって来た。
ぼさぼさ頭に瓶底眼鏡の白衣のマスターはどこからどう見ても、理科の先生だった。
「あ、どうも、マミです」
あまりの理科の先生っぷりが可笑しくて、思わずちょっと笑ってしまったけど、マスターは全然気にしていないみたいだった。ていうか、先輩と似てるわ、この無表情が。同類だわね、きっと。
「何をお求めで?」
「例のヤツ、ナキダケ」
答えたのは私ではなくて、先輩だった。
「ナキダケ?このお嬢さんに?」
マスターは瓶底眼鏡のツルを持つと、私の顔に詰め寄ってきた。ち、近いっ。
「俺と同じとこの役者なんだよ」
先輩がそう言うと、マスターは先輩の方を向いて、それからまた私の方を向いて頷いた。
ていうか、ナニ?
何の話してるの?
1人話題についていけない私など気にせず、マスターは理科室の後ろの方へ行くと、棚から小さな瓶を出してきた。
「はいコレ。ナキダケ」
マスターは私にそれを手渡した。思わず受け取っちゃったけど、何コレ?ナキダケって何よ。瓶の中を見ると、小さな1センチにも満たないキノコがギュウギュウと詰まっていた。何だこりゃっ!
「1日1個まで。それ以上飲むと死ぬから」
ちょっ、なに無表情で恐ろしいこと言っちゃってんの!?
「え、えっと、私、いいです。いらないです」
「依存を形成しないから、その辺は大丈夫だよ。安心安全」
先輩も無表情で勧めてくるけど!?
「でも死ぬって」
「コレで死ぬってわけじゃなくて、まあ、なんていうか、泣いてばかりだと、ねえ」
どういうことですか!?
私が思いっきりキョドキョドしていると、先輩が鞄から同じ瓶を出した。もう半分くらい減っている。それに他にも似たような小瓶をいくつか出した。
「俺も使ってる。こっちはワライダケ、こっちはイロケダケ。舞台の時だけ使うようにしていれば問題ない」
ワライダケは聞いたことある。笑いが止まらなくなるやつでしょ?
「それって毒キノコじゃないの?」
つい聞いてしまった。
「そんな危ないもの売らないよ」
マスターが無表情で言った。
「マスターは天才だ。安全なキノコを開発してるから大丈夫だ」
そうかなあ。
だけど、わかる気はする。
だって、先輩って普段ものすごく無表情なのに、舞台に出ると人が違うみたいに、喜怒哀楽がはっきりしている。場合によってはものすごく色気むんむんだったり、こっちがつられて笑い出したくなるくらい、陽気だったりするもんね。それって、このキノコたちのおかげだったのか。
私が小瓶を睨んでいると、マスターが言った。
「試しにひとつどう?」
「え」
いやでもなあ。たった一度のナントカで取り返しのつかないことになるとかって聞くし、怖いよなあ。
「まあ、無理強いはしないよ」
マスターはあっさりと引き下がった。
そう言われると、追いかけたくなる、乙女心。って、ちょっと違うけど、先輩も飲んでるみたいだし。
「じゃあ、試して、みます」
「噛むとめちゃめちゃ不味いけど、水で飲みこめなければ噛んでも良いよ」
とのことだ。あんまりにも不味いから無害でも食用にならないんだとか。
ちょっと大きいけど、水をごくごく飲んでなんとか嚥下する。さて、どうなるか・・・
私がナキダケを飲んだ後、先輩たちは普通にお喋りをしていた。無表情な2人のお喋りは奇異な感じがするけれど、きっと二人は楽しんでるんだろうなあ。それを見ていたらなんとなく分かった。この二人の無表情をなんとかするためにこのキノコを開発したんじゃないかなーって。そのくらい二人は表情筋が乏しいもんね。
「じゃ、そろそろ演技してごらん」
おもむろに先輩がこちらを向いた。
あ、そうだったね。
「はい」
私は演技を思い出した。素の二人の前で演技をするのは恥ずかしいけれど、こう見えても役者だからね。
泣きの演技。それを思い出すとひとりでに涙が出た。
だけど、あの涙が出る時の顔が熱くなるような、気管が震えるような感覚はなかった。ただ涙が出ているだけのような気がする。これなら歌えると思う。
私はあの歌を歌った。
♪~
いくら歌っても、苦しくもなくいつも通り声が出せる。
だけど、ただ涙が出ているだけでは泣きの演技になるのかしら。そう思った時、先輩が私に鏡を見せた。
「あっ」
鏡の中の私は、本当に泣いている顔をしていた。涙が出ているだけでなく、目は潤み、鼻と目じりが赤く染まっていた。
本当に泣いてるみたい。
これはすごい。
泣いてるのに、ちゃんと歌声が出せるなんて。
私はこれを買った。ひと瓶たったの500円。
一日一個まで。依存は形成しないけど、それ以上飲むと死ぬ、という恐ろしいキノコ。大丈夫、それくらいのことならできる。
早速稽古の時にナキダケを飲んで歌った。
「よし、良くなったぞ!」
演出家にも褒められた。自分でもとても演りやすい。稽古の後先輩が親指をグッと立てた。無表情だけど、なんか嬉しい。
できる。私はできるんだ、と思うと、もっともっとやりたくなる。だけど、気を付けないといけない。あのナキダケは一日一個まで。それ以上飲んじゃダメなの。しかも効能時間がわりと短いと思う。朝飲んで、午後にはもう消えてる気がする。だから、あのシーンが午後の日は、朝じゃなくて、午後に飲むようにしなきゃならない。
今朝は飲んだっけ?
明日は午後だっけ?
今日の稽古は午前だっけ?
明日はお休みだから飲まなくて良いのよね。
毎日良く考えて飲まなければならない。わけがわからない。
気が付くと、ナキダケを飲まずに稽古をしている日もあった。飲むのを忘れるってことは、依存していないことだから良いんだけど、それはそれで困る。
そしてついに舞台本番当日。午前中ゲネプロがあって、夕方から(ワ)本番だった。
舞台直前にナキダケを飲めばいい。そのつもりだった。
ゲネプロが終わり、昼食を食べ、控室に戻って荷物を見た時、それに気づいた。
「あっ、ない、ない!?」
よりにもよってナキダケを忘れてきた。
どうしよう。家に戻る時間はない。アレなしで泣きのシーンができる自信もない。どうしよう。
一か八か飲まずにやるか。いやダメだわ、前に飲むのを忘れた時、また演出家に怒られたし、絶対無理。
どうしよう。
「先輩」
そうだ。先輩ならきっと持ってる。先輩にひとつ貰えばいいんだ。
大急ぎで先輩の楽屋に行くと、先輩はちょうどナキダケを飲もうとしているところだった。
「先輩!」
「あれ、マミちゃん。着替えは?」
おっと、ヅラだけの怪しい恰好で来ちゃった。けど気にしなーい!
「先輩、それ、私にもひとつください!」
先輩はすぐにわかってくれて、無言でナキダケをひとつ私の手に乗せてくれた。良かった!
「先輩ありがとう!じゃ!」
大急ぎで自分の楽屋に戻り、それを飲んで、衣装を着けて準備万端。
ふう・・・助かった。あとは本番を待つのみ。
そして迎えた本番。
いつものように、歌い踊り演じる私。この劇場はライトが明るくて客席が見えにくいけど、お客さんの反応は良いみたい。
今日は声もよく出ていてとても気持ちが良かった。
そしてあの泣きのシーンが来た。
さあナキダケ、今日も頼むわよ。頬に力を入れて天を仰ぐように演技に入る。そして涙を・・・涙を・・・
涙が出ない。
代わりに出てきたのは、お腹の底から湧き出るキチガイじみた笑い声。
「あーはっはっはっは!」
ぎゃあっ、何コレ!ナキダケ、どうした!泣かなきゃ!泣かなきゃいけないのに!なんで笑いたくなっちゃうの。ここは泣かなきゃなのにぃいいい!
こうなったら根性で泣いてやる。顔が怖くなろうが頬が引きつろうが構わない。
「あーっはっはっは、うわあ~~~~っはっはっはぐわあ~~」
泣きながら笑う。笑いながら泣く。そして歌う。自分でも怖い。
お客さんがドン引きしているのが見える・・・
どうやら先輩があの時飲んでいたのはワライダケだったらしい。それを根性で無理やり泣いたせいで、狂気じみた泣きのシーンとなってしまった。
「いや、あれはあれで迫力があってよかったよ」
演出家の顔は若干引きつっていたけれど、私の気持ちはわかってくれたらしい。
泣こうと思えば、たとえワライダケに笑わされていても泣けるもんだ。今度からは自分の力で演技をしよう。
その時から、ナキダケはもう必要なくなったのだった。