きのこ狩り(作:梨香)
『きのこ部長め!』
昨夜の雨で湿った落ち葉で、思いっきり山の斜面を滑り落ちてしまった夕希は、こんなきのこ狩りを社内旅行に選んだ岸辺部長を内心で罵った。
「溝端くん、大丈夫かい」
かなり山の上の方から、滑り落ちたのに気づいた岸辺部長の声がする。
「大丈夫です」
岸辺部長にきのこ狩りを熱血指導されたくないので、大きな声で返事をしたが、夕希はリタイヤする気満々だ。
「でも、何本かは採っておかなきゃ」
宿泊先の山荘で、今夜は採ったきのこ鍋の予定なのだ。
松茸を探すことは最初の三十分で諦めた夕希だが、何も背負い籠に入れずに山荘へ引き返したら、やる気の無さが悪目立ちしてしまう。
他の女子社員も行く前は散々に岸辺部長の悪口を言っていたのに、松茸と聞いた途端に俄然張り切って山へ登って行った。
「ここを下ったら山荘への近道かな? 途中で何本かは見つけられるでしょう」
かなり下まで滑り落ちたので、このまま山荘へと帰ろうと夕希は考えたのが間違いの始まりだ。
それでなくても方向音痴なのに、すっかり迷ってしまった。
「あれっ? どんどん山の奥になってない? 引き返した方が良いのかも……」
紅葉した木々を楽しむ余裕など夕希には無い。滑り落ちた時、きのこ狩りを始めて一時間が過ぎていたが、山荘からさほど遠くへ来てはいない筈だった。
このまま山奥へと進むより引き返した方が良いと、やっと気がついた時、少し先の大きな木の根元にきのこが群生していた。
「やったぁ! でも、このきのこ食べられのかな? まぁ、山荘へおじさんが知っているでしょう!」
夕希は赤ん坊の頭ぐらいのきのこの群生を一つ二つ採ると、元の滑り落ちた場所まで引き返そうと背負い篭を持って立ち上がった。
「ぎゃあ〜! 熊!」
木々の向こうで黒い大きな熊がノソッと立ち上がった。夕希は熊を刺激してはいけないと、遅まきながら口を手で塞ぐ。
『こんな時は死んだ振りをするんだったけ? いえ、それは嘘だとテレビで言っていたような……確か、そっと後ずさるのよ』
木々から見える熊から目を逸らさないようにして、一歩、一歩、後ずさっていると、またもや濡れた落ち葉に足を滑らせてズッテンと転んでしまった。
「痛っい!」
思わず叫んでしまい夕希は動転する。のっそりと木々の向こうで熊が此方へと身体の向きを変えた。
『熊に気づかれた! こうなったら死んだ振りをするしかないわ』
地面に横たわったまま目を瞑っていた夕希だが、枝を掻き分けて熊が此方に近づいてくる音で、心臓がドキドキして本当に気絶しそうだ。
「大丈夫ですか?」
ハッ! と目を開けた夕希の前に、黒のヤッケを着た髭面の大男が立っていた。
「なんだ! 脅かさないでよ! 熊かと思ったわ」
見知らぬ女の人から熊呼ばわりされても、大男は慣れているのか苦笑して、手を差し出した。
「立てますか?」
意外と紳士的だと夕希は大男を見直して、手を取って立ち上がったが、ズキンと左足首に痛みが走った。
「大丈夫ですか?」との問い掛けに「大丈夫です」と強がったものの歩けそうにない。
「そこに座って下さい」
熊に間違えるほどのむさ苦しい大男なのに、岩に腰掛けさせて、左足首の様子を見る手つきはとても優しい。
「骨は折れてないみたいですね。山荘のお客様ですか?」
「そうなんですけど、ここからだとかなり距離がありますよね」
どうにか立ち上がったが、左足を付くと激痛が走る。
「それでは歩けないでしょう。さぁ」と背中を向けて座る。
「でも……」見知らぬ男に背負われるのは恥ずかしいと夕希が躊躇っていると「わぁ! 採られた!」と大男が大声を出した。
夕希が転んだ時に手から放した背負籠を大男がガシッとつかんで大騒ぎしている。
「親父に一度だけ連れて来てもらった舞茸の群生地! ここだったんだ! ああ、採られちゃったのか」
がっくりと肩を落としている大男に夕希は呆れる。
「あのう、松茸ならいざ知らず、舞茸ってスーパーでも売ってますよね。ちょっと大きさは違うけど……舞茸なら、そこにまだ残っていますよ」
「天然の舞茸が生えている場所は子供にも教えないって程、大切なのです。それに舞茸を全て取り尽くすのは良くないのです。さぁ、負ぶさって下さい」
残念そうに籠の中を見つめる大男が気の毒になった。
「助けて下さったお礼に、舞茸を差し上げます」
捻挫したのできのこは採れなかったと言い訳しても、誰も非難しないだろうと夕希が簡単に口にする。
「貴女は舞茸を食べた事が無いから、そんな事を言われるのです。山荘で今夜、これを食べたら舞茸の凄さがわかります」
熱血に舞茸の美味しさを語る大男に背負われて、夕希は山荘に無事に到着した。
「おや、朝倉の坊ちゃん! うちのお客様かね」
この大男が『坊ちゃん?』と吹き出しそうになった夕希だが、背から下ろしてもらって、頭を下げる。
「ありがとうございました……朝倉の坊ちゃん」
「やめて下さいよ。もう子供じゃないのに……それより、おじさん、湿布は無いかな? 捻挫しているみたいなんだ」
「そりゃ、大変だ」
朝倉は山荘のおじさんが持ってきた救急箱の中にあった湿布を少し腫れている箇所に貼り、伸縮性のある包帯で軽くとめた。
夕希が手際の良さに驚いていると、おじさんが笑った。
「朝倉病院の坊ちゃん、いや若先生だけあって治療はお手の物だなぁ」
「えっ、お医者さんなのですか?」
「まぁ、医者と言っても……久し振りに帰省したので、父の機嫌を取ろうと舞茸を採りに来たんだけどなぁ」
「お礼にこの舞茸を差し上げます」
「いや、また他所に行くと言ったら、舞茸ぐらいじゃ機嫌は治らないでしょう。それに舞茸の美味しさを知って欲しいから」
「えっ、また危険な海外にボランティアで行かれるのですか? そりゃ、朝倉先生も怒られますよ」
「いや、戦争地域での医療はもうこりごりです。でも、恩師に離島で医師が足りないと言われて……父に叱られるのは覚悟しています」
「離島医療は立派な志ですが、朝倉病院が無くなると儂等も困るんですよねぇ。帰って来てくださいよ」
「それは姉や義理の兄がいるから大丈夫でしょう」
「それは、そうかもしれませんが……」
離島と聞いて夕希はドキンとした。大学からずっと東京暮らしだが、両親は八丈島で暮らしている。
何処の島に? と尋ねようとしたが、間が悪くドヤドヤと皆がきのこ狩りから帰ってきた。
「溝端くん、大丈夫なのか?」
岸辺部長が病院へ行くべきだと騒ぎ出したので、夕希は「朝倉先生に診てもらいました」と断った。
岸辺部長のお礼の言葉に「いえ」と素っ気なく応えると、山荘から出て行った。
夕希は朝倉という苗字しか知らないのではお礼もしようが無いので、追いかけて尋ねようとしたが、生憎と捻挫していて思うように歩けなかった。
「痛っ……もう! 名前も分からないままじゃ……」
がっかりしている夕希を尻目に、仲間たちは自分の背負籠からきのこを出しては、山荘のおじさんに食べられるかどうか聞いて大はしゃぎしていた。
「ほら、私は松茸を採ったのよ」
自慢げなお局様を「凄いですねぇ」と力なく褒めた。
「いやぁ、今日の一番はこの舞茸ですな」
山荘のおじさんが夕希の背負籠から赤ん坊の頭ぐらいある舞茸を取り出して、一等賞だと褒めてくれた。
「舞茸より、松茸の方が良いんじゃないの?」などと口にしていた皆だが、鍋を食べると納得した。
「ええっ! こんなに舞茸って美味しいの!」
「当たり前だ! 名前の由来は、採れたら嬉しくて舞いだしてしまうから舞茸なんだぞ」
岸辺部長の長々しいきのこ談義を聞きながら、夕希は『やっぱり、お礼にあげたかったな……』と呟いた。
秋の社内旅行も終わり、12月の慌しい日々も過ぎ、夕希は久しぶりにお正月を実家で過ごすことにした。
幼馴染の舞が子どもを産んだと便りがあり、帰省ついでにお祝いを渡そうと思ったからだ。
「舞、おめでとう! 可愛い赤ちゃんだね」
まだ島の唯一の病院に入院中の舞を見舞いに行った夕希は、一緒に遊んでいた友だちがママの顔になって赤ちゃんを抱いているのを見て、自分も結婚したいなぁと心から思った。
「夕希は東京に良い人いないの?」
「いたら苦労はしないんだけどね」
ふと、あの熊と間違えた朝倉を思い出して「まさかねぇ」と笑った。
「何がまさかなのよ」
「それがさぁ、秋の社内旅行できのこ狩りに行ったのよ。そしたら足を滑らせちゃって、熊のようなお医者さんに助けて貰ったの。その人が離島に赴任するとか……何? 舞、痛いわよ」
話の途中でバンバンと腕を叩かれて、舞は興奮するとすぐに人を叩く悪い癖があったと文句をつける。
「秋にこの島に熊みたいな先生が赴任したのよ。外科だから、私は診て貰ってないけど……もしかして、運命の再会?」
「えっ? 嘘でしょ! 朝倉先生なの?」
「挨拶してきなよ」と囃し立てる舞には悪いが、向こうにしてみれば一度会っただけの女なのだ。それも、自分が探していた舞茸を横取りした上に足を捻挫した鈍臭い女。
「忘れているよ。それに……まぁ、今回の帰省は舞の出産祝いがメインだもん」
朝倉だったとしても、彼方は関心ないだろうと、夕希は病院から出て駐車場へと向かった。
「えっ、これは……困ったなぁ」
大学生の夏休みに免許は取ったが、東京では車を運転する機会がないので、ほぼペーパードライバーの夕希は特に駐車に自信が無い。
なので、両隣りが空いているスペースに停めていたのだが、舞と話している間にびっしりと車が埋まっていた。
「どうしよう……相手の車に当てたら困るし……」
夕希の車がちゃんと真っ直ぐに駐車していれば、両隣の車に接触などしないのだが、生憎と斜めっていた。
「どうかされましたか?」
父親に電話して、駐車場から出してもらおうか? 悩みながら立ち尽くしていた夕希は振り向いて驚く。
「朝倉先生!」
「ええっと……あっ、舞茸の人ですよね。捻挫は大丈夫でしたか?」
『舞茸の人』と記憶されているのだと、夕希は可笑しくなった。
「その節はありがとうございました。私は溝端夕希と申します。お礼をしたくても名前は朝倉としか知らなかったので……」
今回も格好の悪いところを見られたと夕希はがっかりする。少し気になっていた朝倉だが、こんなに失敗ばかりする女なんか相手にしないだろう。
「あのう、厚かましいお願いですが、車を出して下さいませんか? 東京では車を運転しないので、駐車とか下手なのです」
やけくそになって頼んだが、朝倉は「運転が下手なんですか」と笑いながら、キーを受け取り簡単にバックしてくれた。
「ありがとうございます」
これで恥も書き捨てだと夕希は頭を下げた。
「運転が下手なのに運転させられません。私は朝倉雄介と言います」
「朝倉雄介さんですか……でも、運転しないと家には帰れないし……それに前進するのは上手いんですよ」
朝倉は夕希の言葉に爆笑した。
「ええっと、上手く伝わらなかったみたいですね。家まで送っていこうと言っているのです。きのこ狩りの時に『溝端』だけしか知らなかったので、連絡もしようがなくて、縁が無かったのかなぁと残念に思っていたのに……」
二人は笑って島を何周もドライブした。舞茸の美味しさも話題になったが、それよりお互いの話が多かった。
『きのこ部長には感謝しなくちゃね』
家まで送って貰った夕希は「このくらい歩きます」と帰っていく熊のような後ろ姿を見送りながら、岸辺部長の気まぐれで連れて行かれたきのこ狩りで恋が始まりそうだと笑った。
おしまい




