六十六話 あの日
私はげた箱の前で上履きに履き替えた。脱いだ靴を蹴り飛ばした誰かの顔は覚えていない。
教室に入るなり刺さる視線。
「来たし、うざ」
という日課の挨拶。
机の上にある、汚い字で罵詈雑言が寄せ書きされた紙切れに一度目を通し、丸めて屑籠に投げ入れる。放物線を描いて上手く入った。
幸先は良さそう。
椅子に座ろうと背もたれを掴んだ時、指先に鋭い痛みが走った。
人差し指に小さな血の球が浮かぶ。綺麗な半球状の鮮やかな赤い血。
私を遠巻きに眺めるクラスメイトが下品な忍び笑いを浮かべている。
椅子の背もたれを確認してみる。
死角になる部分に無数の画鋲が張り付けられていた。
「ぷっ。固まってるし」
後ろで頭の軽い男子が噴き出す。
この嫌がらせは始めてやられた。独創性はあまり感じない。次からは気を付けるとしようか。
手早く画鋲を回収して屑籠に棄てる。物が物なので丁寧に紙で包んでおいた。
私は気の利く良い娘である。画鋲を頭の可哀想な奴らに差し込んであげようかとも思ったけど、辞めておいた。
ネジの代わりに画鋲を刺しても効果は望めないだろうから。
古人曰わく『バカは死ななきゃ直らない』そうだから、いざとなれば殺せばいい。きっと感謝されるだろう。
「ノート新しくなってるし」
「破く? 落書きにする? 燃やすのもよくない?」
よくないよ。お馬鹿ちゃん達。
三人寄れば文殊の知恵だけど、水に水足しても水なのね。
「返してほしい?」
席に戻った私にノートを掲げて汚い笑みを浮かべるクラスメイト。その仲間は一歩後ろにいる。
ノートを投げつける時に振り被った手が当たらない位置ね。
「ほら『返して』って言えよ」
さて、何を返してもらおうか。
安らぎ?
信頼?
時間?
思い出?
友達?
最後のは最初から持ってなかったから今の状況があるのよね。私としたことがうっかりしていた。
人間大のゴミをもらってどうする。
「笑ってるし、キモいな」
嘲笑ってますよ。本当に気持ち悪い方々ですね。死体の方が口を利かないだけマシよ。
死体に変えてあげようか?
こいつらが死ねば次の被害者もでない。とても良い案だと思う。
私が罰せられさえしなければ、ね。
「何とか言えよ」
肩を小突かれる。
バランスを崩して他人の机に手を突くと持ち主が嫌そうな顔をした。
「人の物汚すなし」
それ何語よ。語尾がおかしいのか言語野がおかしいのかどっちなの?
性格と頭、顔が悪いのに言葉もおかしいとは可哀想に。
「次体育だし、早く着替えよ」
私にノートを投げつけてお馬鹿ちゃん達は解散した。
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体育の授業が早めに終わり、更衣室に戻った私はため息をついた。
「こんな事だと思った」
予想通りに制服が盗まれていた。
体育着に着替えろと教師が常より五月蝿く言うからその通りにしたのにこれだもの。
仕事が早すぎないだろうか。
ない物は仕方がない。ジャージで教室に戻るとしよう。
更衣室を後にして教室に戻る。
中ではまだ男子が着替えているのが話し声で分かった。
手持ち無沙汰に廊下から窓の外を眺める。
さほど広くもない道路を一組の夫婦が歩いていく。男性の背中には一歳ほどの子供が背負われていた。
男性が幸せそうな顔で唇に手を当てる仕草を女性に見せる。
背負われている子供が寝ているのだろう。
穏やかな微笑を女性が返していた。
私のいない風景は何時も優しげで暖かい。
欠伸を噛み殺して空を見上げる。
青い空が能天気に太陽の光を届けていた。
「いた、いた!」
濁った声がして廊下に視線を戻す。
クラスメイトの女子が数人、こちらに向かってくる。
既に制服を着ているけど髪などを見れば急いでいた事くらい分かる。
怪訝に思う私を囲んだ女子は逃げられないように距離を縮めてくる。
「男子、ドア開けて」
手が余っている女子が声をかけると教室のドアが開かれる。
男子は着替えているとばかり思っていたけど、勘違いだったようだ。男子は全員、体育着のまま。
こいつら私に何をする気よ。
小首を傾げる私の腕を取った女子に反発してその手を振り払う。
何か分からないけど嫌な予感がする。
一連の流れからみてもかなり計画的な嫌がらせなのは間違いない。
「暴れんなし」
「男子も手伝って」
汗臭い男子が加勢して、私は教室に押し込まれた。
取り押さえようとしてくるクラスメイトを振り払い教室の窓に駆け寄る。四階だから逃げるのは無理だと気付いても後の祭り。
「……何の用?」
教室の扉を閉めた主犯格の女子に訊く。
しかし、それに答えたのは別の女子だった。
「脱げ」
告げられた一言に体が硬直し、鳥肌が立つ。
「ぬーげ、ぬーげ」
手拍子を始める女子に男子が唱和し始める。
体格の良い男子がジリジリと近づいてくる。
教室の扉が開いて数学担任が入ってきた。教室内の状況に眉を顰めはしたけど、止める様子はない。
「ぬーげ! ぬーげ!」
絶対に嫌。
この一件には体育教師も絡んでいるはずだ。エスカレートするのは目に見えてる。
……もう、いい加減にしてよ。
私は近くの机を思い切り蹴りあげて男子の動きを止め、椅子を持ち上げた。
机を避けて姿勢が不安定な男子にその椅子を振り抜き、床に転がった彼に追い討ちをかける。
手加減抜きで叩き付けた椅子が人の頭に当たる硬い感触。
一拍の間を空けて女子が悲鳴を上げた。
気にしてられない。早く、こいつら全部倒さないと。私が危ない。
近くにいた痩せた男子に椅子を投げつけ、別の椅子で教室の扉を目指す。
主犯格の女子が怯えて扉を開けようとした。
後ろから椅子で殴りつけて床に倒す。
「やめてよ。何でこんな事すんの!?」
倒れた女子が妙な言葉を口走った。
私は首を捻る。こいつは自分達が何をしてきたかも理解できないのね。
「殺さないと、あなた達は反省しないでしょう?」
青ざめた顔で尚も言葉を発しようとした女子に蹴りを入れて黙らせる。
自分でも感心するくらい冷静だった。
私を制止する声も確かに聞こえていた。しかし、誰の声か判別出来ない。自己保身に必死な教師や罵声と暴力の結果に怯える同級生、いずれかが声の主だと思うけど、あるいは私に残された良心の欠片が断末魔を上げたのかもしれない。
「どうでもいいや」
呟いて私は振り上げていた椅子を力の限り叩きつけた。
しかし、横から椅子が投げつけられ、私の椅子が弾かれる。
犯人を見てみると見覚えのある男子だった。
何時だったか、私に告白した男子生徒。
「止めろ。頼むから」
こいつ彼の彼女だったのか。
そういえば、彼を巻き込まないようにと告白を断ったのよね。
私は足下に倒れている女子から数歩離れる。
男子は私を警戒しながら女子を抱き起こした。
……私のいない世界は何でこうなのかな。
私がいなかったらもっと綺麗な世界になるのだろうか。
そんな美しい世界に住めないのは残念ね。
「……壊しちゃえ」
呟いて、私はきびすを返す。廊下の窓なら下は路面、つまりはコンクリートのはず。
頭から落ちれば死ねそうね。
学校で自殺すれば色々と調べられるだろう。その過程でいじめが明るみに出るのは想像に難くない。
私が自殺しなければ、殴られた奴らですら口を割らない。教室での暴行事件はもみ消される。そして元の生活に逆戻り。
私が死ねば同級生は世間から罰を与えられるだろう。
ジャージを着ていて良かったと、場違いに安堵して路面を見下ろす。
私は窓を開き、飛び降りた。
「ーー神様いい加減にしてよ」
ベリンダが起こした津波で意識を失いかけたのか。
気絶中まで出しゃばるなよ。
円形魔法陣を展開し土の魔力を込める。
発動した瞬間、まばゆい光と共に私を沈めていた水が吹き飛んだ。
胸の内にある暗い物もこんな簡単に吹き飛べばいいのに……。