二話 魔王
足下がふらつく。酷い吐き気に胸を押さえながら周囲を見渡すと人の手が入っていない鬱蒼とした森だと分かった。枝葉を広げた広葉樹が太陽光を遮っている。
『では思い出させてやろう』
神の声を思い出す。何のつもりか知らないけど、こんなところに送り込まれるとは思わなかった。
水場を求めて歩き出す。顔を洗って水を飲めば吐き気も治まるだろう。
目当ての水場はすぐに見つかった。青く透き通った水を豊富に湛えた湖だ。水中を泳ぐ魚すらはっきりと見える。ただどう見ても有り得ない形状の魚で背びれが二枚あったりするのが気になった。
ここは一体どこだ? 改めて近くの木を観察するとこれまたおかしな事に気が付いた。木に張り付いていた虫が小さな火を噴いたのだ。驚いて小さく悲鳴を上げてしまった。私としたことが……。少し顔が火照ったのは単純に驚いたからだ。虫が噴いた火は幸い火の粉に毛が生えた程度なので火傷せずに済んだ。
夢だと思いたいけれどこの吐き気は本物だ。一度は自殺して捨てたとはいえ、見返りも無しに粗末に扱うほど私の命は安くない。
不用意に虫に近づかないよう注意して観察する。そして一つの法則性を見いだした。虫全体に赤い光の粒子が集まり、その光を発散するようにして火を噴く。
「魔法、とか?」
バカバカしい。自殺した時に頭でも打ったか。そこそこ使える頭だったのに勿体無い。
水で口を濯いだ私はひとまず木陰で休むことにした。妙な魚を見るとどうしても飲む気にならなかったので喉が渇いている。野生動物でも来て水を飲んでいけば安全を確かめられるのに……。
そんなことを考えながら嫌味に晴れ渡った青空を睨んでいると視線を感じた。反応を伺うようにジロジロと無遠慮な視線の主を耳を澄まして探る。猛獣の類なら下手に動いて刺激したくない。けれど、木の葉が擦れる音に混じって聞こえてきたのは押し殺した話し声。紛れもない人の声。
私が声のする方向に目を向けて立ち上がると同時、木々の裏に隠れていた男達が出てくる。西洋甲冑に身を包んだ男達が三人、それぞれが剣と槍、そして色ガラスがはめられた杖を握りしめて私に敵意をむき出しにしている。
私が暴れて死ぬ前日まで教室はこんな空気だったな。
「黒髪に黒目、女というのは予想外だったがこれが魔王と見て間違いあるまい」
聞こえてくるのは日本語だった。酷く場違いな印象だけど、神が何等かの対処をした可能性もある。言葉が通じなければ『人の痛みを思い出す』どころじゃないだろうから。
ふいに杖の男を赤い粒子が包んだ。火を噴く虫と同じ、けれど遥かに量が多い。
警戒する私を見ることもせず杖を頭上高く掲げた男が何か呟くと彼の足下に赤い円が広がった。
私は思わず息を飲む。男の足下に広がった円は複雑な模様をしていて、魔法陣にしか見えなかった。赤い粒子の過多で火の大きさが変わるなら、あの男が放つ火を受けた私は火傷じゃ済まない。
湖に走り込むタイミングを計っていると男が持つ杖が赤く輝き、空に向けて人間大の火の玉を放った。
何故? とっさに考えて理由が分かった。
「すでに森中に我ら騎士団が散らばっている。すぐに増援が駆けつけるぞ。魔王よ、大人しく死ね!」
酷薄な笑みでそう言い渡された。