番外編4【来訪者】
「……何なんだよ、こいつは?」
朝、宿の部屋で目を覚ますと、俺の腹の上で黒猫が眠っていた。
図々しいことに、俺が目を覚ましたのに気づいているはずなのに、知らん顔で再び眠ろうとしている。
「おい、起きろ」
俺は黒猫を抱き上げると、身支度をしていたミーシャたちのところへ連れていった。
「誰か、部屋に入れたのか?」
「あら、可愛い猫ちゃんね! いつの間に部屋に入ってきたのかしら?」
ミーシャが黒猫の頭を撫でると、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「触っても怖がらないところを見ると、飼い猫かもしれませんね。飼い主を探してあげましょう」
イリアは平静を装っているが、どうやら彼女も猫に触りたいらしい。そわそわと動く指先が、その気持ちを隠しきれていなかった。
俺はさりげなく黒猫をイリアのほうへ近づけながら、今日の予定を思い返した。
そういえば、町長から森の廃墟に潜む魔物を退治するよう頼まれていたはずだ。
「俺は用事があるから、ミーシャとイリアでこいつの飼い主を探してやってくれ。……って、おい!」
いつの間に移動したのか、黒猫が俺の頭の上に乗っていた。
しかも、そこから下りようとする気配がまるでない。
「俺の頭はお前の寝床じゃないぞ!」
「あはは、いいじゃない、ラルク。魔物退治をしてから、この子の飼い主を探してあげれば。猫ちゃんを守りながら戦うのだって、苦じゃないでしょ?」
「……はあ、分かったよ。さっさと用事を済ませるか。アウラはどこだ?」
「アウラさんなら、下の階にご飯を食べに行きましたよ」
「……朝から食い意地が張ってるな。まあいい、俺も朝飯を食べてくるか」
情けなく鳴る腹を押さえ、俺は一階へと下りた。
宿の食堂に向かうと、案の定、アウラがいた。
テーブルの上には大量のパンが積まれており、アウラはそれを凄まじい勢いで頬張っていた。
「今日は朝からパンか? お前が肉を食わないなんて珍しいな」
「宿のおかみさんが、パンを焦がしちゃったから、よかったら食べてくれませんかって、こんなにくれたんだぞ。焦げてても美味いぞ!」
アウラは口いっぱいにパンを頬張りながら、嬉しそうに答えた。
よく見ると、どのパンにも焦げ目がついている。とはいえ、少し焦げている程度で、食べるのに問題はなさそうだった。
「一個もらっていいか?」
「たくさんあるからいいぞ!」
そう言って、アウラはパンを食べる手を止めなかった。
「ん? ラルク、頭に何を乗せてるんだ?」
今になって、ようやく俺の頭の上にいる黒猫に気づいたらしい。
「朝起きたら、俺の腹の上にいたんだ。アウラは気づかなかったのか?」
「知らないぞ。朝までラルクと一緒に寝てたけど、起きたときにはいなかったぞ」
「そうか……」
いったい、こいつはいつから俺の部屋にいたんだろうか。
そんなことを考えながら頭の上の黒猫を撫でると、柔らかな毛並みと温かな体温が指先に伝わってきた。
妙な魔力の流れも感じない。どうやら、間違いなく普通の猫らしい。
「こいつ、俺から離れないみたいなんだ。魔物退治を先に済ませてから、飼い主を探してやりたい。お前も食い終わったら、廃墟まで一緒に来てくれないか?」
「分かったぞ!」
アウラは食堂の客たちがこちらを見ていないことを確認すると、顔だけをドラゴンの姿に戻した。
そして、テーブルの上に残っていたパンを一瞬で平らげた。
「これでいいぞ!」
「……お前、無茶するなあ」
あまりにも豪快な食べっぷりに、俺は呆れてため息をついた。
しかし、アウラは何がおかしいのか分からないらしく、きょとんとした顔で首を傾げている。
俺はもう一度ため息をつくと、頭の上に黒猫を乗せたまま食堂を後にした。
「……ここか」
町を出てすぐの森をしばらく歩くと、朽ち果てた屋敷が姿を現した。
おそらく、町長が言っていた廃墟で間違いないだろう。
窓ガラスはことごとく割れ、壁には亀裂が走っている。今にも崩れ落ちそうな有様で、とても人が住めるような場所ではなかった。
「慎重に行こう」
屋敷の中へ入ろうとした俺は、アウラに声をかけた。
ところが、振り返った先で目にしたのは、口の中に炎を溜め、今にも吐き出そうとしているアウラの姿だった。
「ば、馬鹿! 何やってんだ!」
「魔物ごと焼いた方がいいかと思ったんだけど、駄目か?」
「話し合いで解決できるなら、それに越したことはないんだよ!」
アウラは不満そうに頬を膨らませると、口の中の炎を飲み込んだ。
まったく、普段は無邪気なくせに、時折とんでもなく物騒なことをする。
……やっぱり、こいつからは目を離さない方がよさそうだ。
そんなことを考えていると、黒猫が俺たちの脇をすり抜け、屋敷の中へと入っていった。
「あっ、こら! 待て!」
呼び止めても、黒猫は振り返りもしない。
「……しょうがないな」
俺とアウラは、慌ててその後を追った。
屋敷の中に足を踏み入れた途端、鼻を突くカビ臭さが襲ってきた。
床には苔が広がり、あちこちから色の悪いキノコが生えている。壁の染みや剥がれ落ちた壁紙も相まって、長い間、人の手が入っていないことが嫌でも伝わってきた。
奥へ進むにつれて、辺りは次第に暗くなっていく。
俺は手のひらに光球を生み出し、周囲を照らした。
「おーい! どこまで行くんだよ!」
呼びかけながら進んでいくと、廊下の突き当たりに赤い扉が見えた。
扉は半開きになっており、その隙間の向こうへ黒猫が消えていく。
「まったく、手のかかる猫だな……」
俺はため息をつきながら扉を押し開け、アウラとともに部屋へ足を踏み入れた。
――バタンッ!
背後で、扉が勢いよく閉まった。
「……っ!」
反射的に振り返った俺の耳に、アウラの低い唸り声が届いた。
「ラルク! 何かいるぞ!」
アウラは身構え、部屋の奥を睨みつけていた。
その視線の先には、白い球体がいくつも並んでいた。
最初は何かの置物かと思った。
だが、光球を近づけた瞬間、俺は息を呑んだ。
それは、真新しい頭蓋骨だった。
一つや二つではない。
十を超える頭蓋骨が、まるで何かの儀式に使うかのように並べられていた。
「……ふざけやがって」
喉の奥がひりつく。
いったい、どれだけの命が犠牲になったというのか。
込み上げる焦りを押し殺し、俺は部屋の奥へ向かって声を張り上げた。
「姿を見せろ!」
その瞬間だった。
ミシリ、と頭上で不気味な音がした。
裂けた天井の隙間から、黒い塊が次々と姿を現す。
それらは一斉に俺たちめがけて飛びかかってきた。
「アウラ! 行くぞ!!」
アウラが口から炎を吐き出す。
俺はその炎に雷の魔力を纏わせ、襲いかかってくるネズミだけを追尾するように魔力を操った。
炎と雷を帯びた攻撃が、黒い塊を次々と呑み込んでいく。
だが、焼かれたネズミたちは、悲鳴を上げる間もなく青白い光を放ち、跡形もなく消滅した。
「何だ、こいつら……!」
消えていく光を見つめた、その直後。
散り散りになった青い光が、空中でうごめき始めた。
まるで何かに引き寄せられるように、一つ、また一つと集まっていく。
やがて、青い光の塊は巨大な影を形作った。
ギチギチと、何かを噛み砕くような音が響く。
光が弾け、姿を現したのは、巨大なネズミの化け物だった。
濁った目が、俺たちを見下ろしている。
「ここからは逃げられんぞ。お前らは、わしの餌だ」
化け物は、口元を歪めて不気味に笑った。
「町長の言っていた魔物は、こいつだったのか……!」
「魔物だと? そんなちんけな存在と一緒にするな。私はネズミの王、クライシェッド! 低俗な魔物どもなら、そこに転がっておるわ!」
クライシェッドは、足元に転がる頭蓋骨を指さし、高らかに笑った。
「……お前が食ったのか?」
「味は最悪だったが、腹を満たすにはちょうどよかった。さて、次はお前たちを齧らせてもらおうか」
魔物を食らう化け物か……。
話し合いで解決できる相手ではなさそうだ。倒すしかない。
俺が身構えた、そのときだった。
不意に、黒猫が姿を現した。
「おい、今出てくるな! 食われるぞ!!」
だが、黒猫は俺の忠告など気にも留めていない様子だった。
のんびりと毛づくろいを済ませると、ひと声鳴いて、クライシェッドへと歩み寄っていく。
「猫か? これはいい!」
クライシェッドは猫を見下ろし、醜悪な笑みを浮かべた。
「散々、我らネズミの仲間を食らってきたお前たち猫には、恨みがある。ここでたっぷり晴らさせてもらおうか!!」
クライシェッドが大きく口を開き、黒猫に食らいつこうとした。
その瞬間、黒猫の影が膨れ上がった。
一瞬にして巨大な影となり、クライシェッドの体をすっぽりと覆い尽くす。
「な、なんだ……? うわああああっ!!」
悲鳴が響き渡った。
続いて、バリバリと何かを噛み砕く音が聞こえてくる。
そして、静寂が訪れた。
やがて、何事もなかったかのように黒猫が姿を現した。
その口元は、もぐもぐと動いていた。
俺は、しばらく言葉を失っていた。
あれだけ大口を叩いていたネズミの王が、あっという間に食われてしまったのだ。
「……お前、何者なんだ?」
俺が問いかけると、黒猫は答える代わりに、俺の膝へ頭をこすりつけてきた。
そして、ひと声鳴くと、その姿をふっと消してしまった。
二度と現れることはなかった。
「……ただの猫じゃなかったのか」
呆然と立ち尽くす俺の隣で、アウラも黒猫が消えた辺りをじっと見つめていた。
「あれは、ただの猫じゃないぞ。ほんの一瞬だったけど、凄まじい魔力を感じた」
「お前にも分かったのか?」
「うん。でも、悪い奴じゃないから、放っておいて大丈夫だぞ」
アウラは、あっけらかんと答えた。
確かに、悪意があったのなら、俺たちにもいつでも危害を加えられたはずだ。
それなのに、黒猫は俺たちには何もせず、気まぐれに現れて、気まぐれに去っていった。
どうやら、敵意があって近づいてきたわけではなさそうだ。
「……結局、あいつは何がしたかったんだ?」
「気まぐれに遊びに来たんじゃないか? 猫っていうのは気まぐれなんだぞ」
「まあ、そうかもしれないな」
アウラとそんな他愛もない話をしながら、俺たちは宿へと戻った。
部屋に近づくと、ミーシャとイリアの慌てた声が聞こえてきた。
「ラルク! ちょっと、これ見て!」
部屋に入るなり、ミーシャが駆け寄ってきた。
その手には、鈍い輝きを放つ金塊が握られていた。
「どうしたんだ、それ?」
「買い物から戻ったら、部屋に置いてあったの! ラルクたちが持ってきたんじゃないの?」
「いやいや、知らないぞ。町長に魔物退治の報告をして、銅貨三十枚はもらったけどな」
俺が首を振ると、ミーシャは困惑した表情でベッドを指さした。
そこには金塊だけでなく、薄汚れた金貨や小さなダイヤモンドまで置かれていた。
いったい、誰がこんなものを?
騒ぎを聞きつけたのか、宿の主人まで部屋にやってきた。
「どうかされましたか?」
俺たちは、部屋に戻ったら財宝が置かれていたことを説明した。
すると、宿の主人は財宝を眺めながら、何かを思い出すように考え込んだ。
「……なるほど。気まぐれのアリアは、本当に実在したようですね」
「なんだ、それ?」
俺が尋ねると、宿の主人は少し羨ましそうな顔で答えた。
「神様とも妖精とも呼ばれる、不思議な存在ですよ。ふらりと人前に現れて、富を授けたり、災厄から守ってくれたりするそうです。もっとも、いつ、どこに現れるのかは誰にも分かりませんけどね。お客様は、本当に運がよかったようですね」
宿の主人は、どこか羨ましそうに財宝を見つめていた。
「アリアっていうのは、猫の姿をしているのか?」
「いえ、決まった姿はないそうです。人間だったり、馬だったり、出会う人によって姿を変えると言われています」
あいつ、猫じゃなかったのか。
そういえば、あれほどの魔力を持っていながら、俺たちには何も要求してこなかった。
ただ気まぐれに現れて、俺たちを助け、何事もなかったように去っていったのだ。
「今度会ったら、何か礼をしないとな」
俺は、ベッドに置かれた財宝を見下ろした。
金塊の大半は町長に預けて、町の人々のために使ってもらおう。
俺たちだけで使うには、いささか多すぎる。
そんなことを考えていると、ふと、どこからか猫の鳴き声が聞こえた気がした。
俺は思わず、声のした方へ顔を向けた。
もちろん、そこには誰もいない。
「いつでも遊びに来いよ」
誰に聞かせるでもなく、俺はぽつりと呟いた。
それから財宝を袋に詰めると、俺たちは宿を後にした。




