第11話 第一工区施工* 後編
昼前、道路占用の残り時間が少なくなった。
市場側から、荷馬車の列が戻ってきている。
ドランが遠くからこちらを見ていた。顔には、もう時間だぞ、という表情がある。
マルカは、足場の上から叫んだ。
「道側の荷、全部外へ逃がす! 占用札、あとどれくらい?」
カルムが、札と水時計を見た。
「残り、三分の一刻です」
「言い方!」
「ええと、荷下ろしなら十分。足場材を残すなら不足です」
「それでいい」
マルカは足場から下りた。
「足場材、道の外へ。線枠は台木の上で固定。余った白冠陶片は清浄側。濡れた板は準汚染側。混ぜないで」
リゼがすぐに補う。
「使用後工具台に置いたものを、清浄工具台へ戻さないでください。封拭き前です」
「聞いた? 戻さないこと」
職人が返事をする。
「聞いた」
その時、レンの声がした。
「マルカさん。水切り板の向きです」
マルカは振り返った。
レンは、荷馬車道の端から水門側の石壁へ回り込み、作業中の職人の肩越しに水切り板を見ていた。
「今の向きだと、雨の時に板の端から封瘴井の蓋へ落ちます。蓋縁を避けて、石垣側の溝へ逃がした方がいい」
「分かった。動かしてみる」
マルカは水切り板を持ち上げ、向きを変えた。
「これでどう?」
「はい。雨水は封瘴井の蓋ではなく、既存の石溝へ流れるはずです」
マルカは、水切り板の端を押さえたまま、レンの指した水の逃げ道を目で追った。
今はただの乾いた蓋縁に見える。けれど雨が降れば、そこへ滴が集まる。
先に向きを変えておけば、明日こすり落とす泥を一つ減らせる。
レンの言葉は、時々、今ではなく次の手間を見ている。
面倒は増える。けれど、まだ軽いうちに増える面倒なら、現場は受け取れる。
リゼが測線の外から見た。
「石溝側は、今日の反応は低です。ただし、雨天時は再確認してください」
カルムが書く。
水切り板、向き変更。
封瘴井蓋縁への滴下を避ける。
雨天時、石溝側再確認。
「それ、次の紙?」
マルカが訊く。
「次の確認事項です」
「紙が増えた」
「はい」
「でも、これは要るね」
「はい」
カルムは、少しだけ嬉しそうに見えた。
マルカは、すぐに別の職人へ声を飛ばした。
「道を空けて! 荷馬車を通すよ!」
足場材が道の外へ引かれる。
白縄が一本、張り直される。
荷馬車道が、ぎりぎり通れる幅に戻る。
ドランが、遠くで腕を組んだまま頷いた。
市場の荷馬車が通る。
車輪が、さっきまで線枠を置いていた石の上を軋んで進んだ。
そこには、もう何も置かれていない。
マルカは、ほっと息を吐いた。
「なんとか二刻以内で終われた」
カルムが言った。
「守りました」
「紙が勝ったね」
「現場が守ったのだと思います。記録します」
「記録しなくていいよ」
「いえ、これは少し書きたいです」
そう言われると、マルカは少し返しに困った。
「じゃあ、短くね」
「はい」
カルムは、紙の端に小さく書いた。
道路占用、時間内解除。
現場札位置、維持。
短い。
確かに、短かった。
*
午後は、線を張るための準備に入った。
まだ送魔はしない。
線を固定し、冠石碍子列を仮合わせし、接地導魔線をどこへ通し、どの封瘴井へ導くかを見るだけだ。
それでも、現場は静かではなかった。
主線用の蒼銅線を、冠石門塔の仮腕へ乗せる。
煌銅留め具を置く。
白冠陶片を挟む。
封瘴布は必要な箇所だけへ入れる。
濡れた場所には普通鉄を使わない。
昨日の職人組合で言っていたことが、次々と現場作業に反映される。
言葉なら簡単だ。
煌銅留め具は直接触れさせない。
でも実際には、片手で線を浮かせ、片手で白冠陶片を差し込み、横から留め具を合わせ、雨水が落ちる向きを見なければならない。
足場の上で、長い文章は読めない。
マルカは、はっきりそう思った。
手が忙しい時、人は字を読まない。
雨が降っている時、人はもっと読まない。
怒鳴り声が飛んでいる時、人は見たい字だけを見る。
だから、札は短くなければならない。
ただし、短すぎるとリゼが困る。
そこが厄介で、少し面白い。
「カルム」
「はい」
「煌銅留め具の使い方の札を作ってもらえる?」
カルムが現場札案を少し考える。
「煌銅は直接当てない。白を挟む」
「白って何?」
「白冠陶片」
「職人なら分かる?」
ベリオが横から言った。
「分からんこともない。だが、若いのもいるから、陶片と書け」
「では、表は『煌銅は直当てしない。白冠陶片を挟む』。裏に、封瘴布代用可、湿潤区画用、と入れます」
「それなら読めるね」
マルカは頷いた。
リゼが、少しだけ眉を寄せた。
「封瘴布代用可は、使いすぎると足りなくなります」
「裏に、緊急時のみ、を足します」
カルムがすぐ書き足す。
裏。
封瘴布代用は緊急時のみ。
「よいです」
リゼが頷いた。
マルカは足場の上で笑った。
「いいね。だんだん現場の声になる」
「削りすぎていませんか」
カルムが訊く。
「リゼが頷いたから大丈夫」
「私だけで判断しないでください」
リゼが言う。
「でも、頷いた」
「頷きましたが」
レンが、少し離れた位置で口元を緩めた。
マルカはそれに気づいた。
「レン、笑った?」
「少し」
「記録する?」
「しないでください」
短い笑いが現場を流れた。
その直後、リゼの声が細くなる。
「待ってください」
全員が止まった。
マルカも、足場の上で体を止める。
リゼは、地面に置かれた白冠陶片の箱を見ていた。
「その箱は、使用後工具台の近くに置かれています。清浄側へ戻す前に外側を拭いてください」
職人が、箱を持ち上げかけた手を止める。
「中身は清浄だぞ」
「箱の外側です」
「外側だけで?」
「清浄工具台へ戻すなら、外側も見ます。台が汚れれば、次に置くものまで疑います」
職人は面倒そうな顔をした。
マルカは足場から降りずに言った。
「箱の外だけ拭いて。中身を疑われるより早いから」
「それはそうか」
職人は吸瘴布を受け取り、箱の外側を一方向に拭いた。
リゼが測る。
「低。清浄側へ戻せます」
「戻せるなら、さっき戻してもよかったんじゃ」
職人がぼやく。
「今、戻せると分かりました」
リゼは真顔で言った。
マルカは笑いそうになったが、こらえた。
細かい。
清浄側と、そうではない側。
工具と紙と箱。
足跡と泥。
リゼの世界は細かい。
けれど、細かくないと、瘴気は荷物に乗って歩いていく。
マルカは、足場の上でそのことを少しだけ理解した。
*
日が傾く頃、第一工区の線の形が見えてきた。
南水門側の仮主線。
市場北口へ向かう補助支線の位置。
湿潤区画用の煌銅留め具。
白冠陶片を挟んだ箇所。
封瘴井蓋縁を避ける水切り板の向き。
線は所定の位置に渡ったが、まだ魔流は通していない。
マルカは、それを見上げた。
魔流を通していない線は、少し不思議だ。
縄と同じで、張っただけでは仕事をしない。
荷を掛ける前に、結び目を見る。
滑車を見る。
足場を見る。
掛ける人と下ろす人の声を合わせる。
送魔線も、たぶん同じなのだ。
点ける前に、止める場所を見ておく。
ガルトが、外周送魔環図と現場を見比べていた。
「今日はここまでだ」
ベリオが鼻を鳴らす。
「線を張って終わりじゃないのか」
「終わりではない」
ガルトは言った。
「明日は第一送魔準備だ。段階負荷、測瘴症状票、材料控え、現場札、通行記録を照合する。まだ灯らせん」
「焦らすねえ」
ベリオは言った。
「線を張った直後は、札と控えがまだ現物に追いついていない。どこで止めるかを揃えてから通す」
ガルトの声は短かった。
カルムが、今日の控えを読み上げる。
「南外暫一、第一工区施工。資材通行証、使用済み。道路占用札、二刻以内解除。南外材一、仮主線へ配置。南外灯二、南水門側への誤搬入未遂、是正。湿区留一、煌留絶一、使用箇所三。水切り板、向き変更。清浄工具台、白縄外へ半歩移動。雨天時再確認事項、石溝側」
「長い」
マルカは言った。
「正式記録です」
「うん。長い方でいいやつ」
カルムは、少しだけ目を細めた。
「短い方もあります」
「え」
カルムは別の紙を出した。
今日動かしたもの。
主線用の線を張った。
水場不可の線を入れなかった。
道を時間内に戻した。
清浄側と使用後側を分けた。
明日は、灯らせる前に止める条件を決める。
マルカは、それを読んだ。
「うん、読める」
「よかった」
「最後の一行、いいね」
「明日は、灯らせる前に止める条件を決める、ですか」
「うん、そう」
カルムは、紙を見直した。
「これは、マルカさんのやり方を参考にしました」
「どのやり方?」
「荷を掛ける前に足場と結び目を見ていたところです。灯らせる前に、止める条件を見る、という形にしました」
「そんなふうに見てたんだ」
「見えていました」
カルムは、少しだけ目を伏せた。
「現場の動きは、短い方が残ります」
マルカは、返事を探した。
からかうこともできた。
でも、今は少し違う気がした。
「カルムの紙も、今日は現場に残ったよ」
そう言うと、カルムは一瞬、完全に黙った。
「……ありがとうございます」
小さい声だった。
マルカは、少しだけ肩の力を抜いた。
褒めるのは慣れている。
村でも、できた人にはできたと言う。
カルムは、できたことを言われると、次の紙を少し良くしようとする顔になる。
浮かれているというより、仕事の姿勢が一つ前へ出る感じだった。
そういうところは、見ていて悪くない。
「マルカさん」
レンの声で、マルカは我に返った。
「はい?」
「今日、助かりました」
「急にどうしたの?」
「足場と水切り板の件です。僕が気づいたことを、マルカさんが形にしてくれました」
マルカは、少しだけ肩をすくめた。
「どういたしまして。こちらこそ、見つけてくれてありがとう」
「はい」
レンは、張られた線の先、まだ何も流れていない石門塔の向こうを見ているようだった。
昼に水切り板の向きを直した時と同じように、何かを見落とさないよう目を動かしている。
そのせいで、札は増える。確認事項も増える。
面倒ではある。けれど、そのいくつかは、たぶん明日の誰かを守る。
「明日は、灯らせる前に、もう一回みんなで見よう」
「お願いします」
リゼが横から言った。
「私は、測る値と、人の立つ位置を見ます」
「では、僕は条件を拾います」
レンが言う。
「そう。拾って、勝手に抱え込まない」
マルカは言った。
レンは、少し困ったように笑った。
「必要ですね」
「必要です」
リゼが即答し、マルカも頷いた。
「必要だね」
その言葉が三人の間で少しだけ軽く響いた。
*
夕方、第一工区の現場札が立てられた。
工事中。
赤紐は主線用。
青斜め線は水場不可。
清浄側と使用後側を混ぜない。
灯らせる前に、送魔局へ戻す。
右下には、カルムの字で番号が入っている。
南外暫一・工一。
マルカは、その札を読んだ。
「ちょっと長いけど、まあ読める」
「明日、もう一度削ります」
カルムが言う。
「削りすぎたら、リゼに戻されるよ」
「分かっています」
リゼは何も言わなかったが、記録板にはしっかり何かを書いていた。
レンは、張られた線を見ていた。
まだ、灯りは点かない。
魔流も走っていない。
零偏環で値を見るのも、まだ先だ。
でも、線はそこにある。
線置場で名前を持った線が、職人の手を通り、札と番号を持ったまま、街の外縁へ来た。
マルカは、縄を片付けながら思った。
紙は、ただ置いてあるだけなら退屈だ。
長いし、読みにくいし、雨に弱い。
でも、紙が荷馬車を動かし、縄の位置を決め、誰かの手を止めるなら、少し話は違う。
紙が現場の動きを作る。
現場の結果が紙に記録される。
たぶん、カルムが言っていたのは、そういうことだ。
マルカは、最後の縄を巻き取った。
明日は、灯らせる前に止める条件を決める。
その言葉は、現場札のどの行よりも、彼女には分かりやすかった。
荷を掛ける前に、結び目を見る。
送魔に必要なのも、それと同じこと。
たぶんね。
【用語】
(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)




