第16話 紫陽花
週末になった。学校が休みの香織と由梨乃は、自宅に構えている茶室にいた
茶室では香織がもてなす側におり、お茶をたて、それを由梨乃に差し出す。
「お点前頂戴いたします。」
由梨乃は茶碗を手に取り、お茶を飲み干した。
茶碗を床に置くと、由梨乃は香織に声をかけた。
「香織、何か考え事でもしてるでしょ。」
彼女はにっこりと笑う。
香織は表情こそ変わっていないが、少し動揺していた。
「茶碗を差し出すとき、左手になっているわ。今日はお母さんはいないし、指導のためにやっているわけじゃないから、それをとがめることはしないけど、どこか上の空ね。」
ほんの些細な様子も、由梨乃には見抜かれていた。
元左利きで、今は両利きとなっている香織は、うっかりすると左手が出る癖があった。茶道の家元であり由梨乃の母、眞梨子から指導を受ける時も、時々これを指摘されることがある。
「ごめん。私が誘ったのに。」
茶道の作法の練習がしたいと言い出したのは香織だった。
由梨乃は即答で了承し、今に至る。
「ううん。多分、ご両親の話を聞いたりして、少し整理したかったんだろうなと思って。気持ちの。」
彼女は香織の心情を読んでいたようだ。四歳から一緒に暮らし、今年で十三年。お互いの性格は知り尽くしていた。
茶道には「和敬清寂」という言葉がある。
和は平和、敬は尊敬、清は清浄、寂は静寂を表す。
この言葉のおかげで、香織は自身が置かれた複雑な状況を受け入れることができていたが、先日両親の話を聞き、知りたい欲ができた。そのため、「寂」を求めて冷静さを取り戻そうとしたのだった。
「まあ。」
何とも言えない複雑な心境を香織は言葉にすることができなかった。
「今日はこれで終わりにして、せっかくお茶をたててくれたし、お菓子でも食べましょう。」
そういって由梨乃が差し出したのは、紫陽花だ。
花の名前が付けられたこのお菓子は、丸めた白あんに賽の目切りした青や紫の寒天を付けたもので、梅雨の時期の茶菓子として親しまれている。
まだ梅雨入りはしていなかったが、湿度を感じる季節となってきた中、涼しげで鮮やかさを感じる紫陽花と味に、二人の表情は和らいだ。
週明けは雨だった。天気に関わらず学園の入り口には由梨乃の花道ができる。
「おはようございます、由梨乃様!」
「傘が邪魔でお姿が見えにくいのが残念だわ。」
傘越しに挨拶をする生徒達に、由梨乃は笑顔で手を振り返していた。
その後ろを歩く香織にも声がかかる。香織は控えめに会釈して彼女の後ろに着いていった。
教室に入ると、先に来ていた千佳、花音、はるひが二人を出迎えた。
「おはよう、由梨乃、香織。」
「雨なのに今日も出迎え凄いわね。」
「湿っぽくなくて良いじゃない。」
二人は机に座ると、鞄から教科書を取り出し、机の引き出しに入れていく。
すると千佳が口を開いた。
「そういえば裏庭の紫陽花が今見頃よ。」
学園内には何ヶ所か庭園があり、季節によってさまざまな花を咲かしている。
とはいえ、わざわざ庭園に花を見に行く人はそういない。
「園芸部員に聞いてみたら、色々な品種や色ができるように工夫したって言っていたわ。」
「園芸部員?」
「庭園を管理しているのは園芸部だから。」
「園芸部員にも知り合いがいるなんて、さすが情報通ね。」
千佳は学園の情報通で、どこから仕入れてくるのかはわからないが学園内の噂話などをよく知っている。これなら新聞部や情報処理部にでも入ればいいのに、と四人は思っているが本人にその気はないらしい。
「じゃあ雨が上がっていたら休みに時間、見に行ってみましょう。」
はるひの提案で、昼休みの予定が決まった。
朝から降っていた雨は、昼前には上がっていた。
朝の約束通り、五人は昼食を食べた後、庭園へと向かった。
道がぬかるんでいるところがあるため、泥が跳ねて制服や靴をなるべく汚さないようにと気を付けて歩いていた。
裏庭には、紫陽花が並んで植わっていた。
「確かに形が違う紫陽花がいくつかあるようね。」
「色も青、ピンク、白、紫とばらけていて綺麗ね。」
「ここにあるのはざっと三種類かしら。」
「香織、紫陽花に詳しい?」
「そこまでじゃないけど、花が集まっているのが西洋アジサイ、中央に小さなつぼみ、その周囲に花びらが囲っているのがガクアジサイ、ちょっと山みたいな形になっているのはカシワバアジサイだったかな。」
ちなみに紫陽花は小さなつぼみが本当の花で、周囲は装飾花であるという説明も付け加えた。
「へえ、いろんな形や色があるとは思っていたけど、きちんと種類があるのね。」
「挿し木でも育つし、梅雨の時期の代表的な花だから、お茶室でも飾るわね。」
「確かに一つのまとまりが大きいし、映えそうね。」
「今度部活用に頂けないか聞いてみようかしら。」
すると五人の元に二人の生徒が現れた。
「あら、お客さんなんて珍しいね。」
「もしかしてわざわざこの紫陽花たちを見に来てくれたの?」
二人とも高等部の制服を着ており、男子生徒と女子生徒だった。
「はい。園芸部員の同級生からここの紫陽花が見頃だと聞いて。」
千佳が言う同級生の園芸部員に心当たりのない四人は頭に疑問を浮かべていた。
二人は園芸部員の高等部三年で、男子生徒は中園拓実、女子生徒は高丘瑞季と名乗った。
五人もそれぞれ挨拶をし、紫陽花の話を聞くことにした。
「今年はちょっと気合入れて、色も綺麗にばらけるようにしてみたからね。」
「あの、どうやって色を分けるんですか。」
「基本的には肥料だよ。酸性土壌では青、アルカリ性土壌では赤になると言われているから、植えている木々それぞれに酸性土壌とアルカリ性土壌の肥料を使い分けているんだ。」
「まあでも雨が降ると酸性になるから、青が多くなりがちなんだけどね。」
そう言っても、複数の種類や色を育てるのは容易ではないはず。五人は紫陽花に心を奪われていた。千佳は二人から紫陽花について更に説明を聞き、由梨乃は茶道部で飾る用に花を少し分けてもらえないかとお願いし快諾され、どの紫陽花をもらうか花音やはるひと選び始めていた。
香織も紫陽花の品種と色を見て特徴など見比べていた。
すると、裏庭の隅に一つだけ三種類の紫陽花とは異なる品種を見つけた。
それは、緑色の装飾花が手毬上の大きさに集まったものだ。
「中園先輩、高丘先輩。これはアナベルという品種でしょうか。」
香織が尋ねると二人が答えた。
「ええ。あなた詳しいのね。」
「少し調べたことがありまして。アナベルはここだけしかないようですが、どうしてでしょうか。育てやすい品種と聞いたことがありますが。」
「ああ、これはここだけしか作らないことになっていてね。それも緑一色だけってね。」
アナベルという品種は一般的な紫陽花と異なり、土壌のpHによって色が変わることがないもので、最初は緑になり時期が進むにつれて白になる。品種改良によってピンクや、他の種類もある。
だが、園芸部としてはこの隅に緑色で一つだけ、というのが習わしなのだという。
「理由はわからないけど、代々そういうことになっていて。隅に一つだけというのもなんだか寂しいんだけど、まあ他の紫陽花は青やピンクなどがあるし、見つけられたらこっちとしてはラッキーかなという具合で毎年育てているよ。」
遠くの方で、部室に飾りたい紫陽花を選んでいた由梨乃達が中園と高丘を呼び、二人は彼女達の元に向かった。
一人になった香織はアナベルを見ていた。
色鮮やかな紫陽花たちよりも、このただ一つだけ咲いている緑のアナベルが何故か気になっていた。
香織は花から根元まで見ていると、土に埋もれかけている小さな木の板を見つけた。
年月が経ち、書かれている文字も消えかかっていたが、かろうじで読める文字を見ると、
「Since xxxx To S From T」
と書かれていた。
Sinceはどうやら二十五年前の年のようだ。
Sという人物宛にTが贈ったということになるが、これは一体何を指すのだろうか。
香織は一つ心当たりがあった。
二十五年前、香織の両親はこの学園の高等部に在籍していた。
Sは「詩織」、Tは「貴仁」。
彼女の父が母に送ったものではないかと推測した。
アナベルの由来は諸説あるが、アメリカのイリノイ州アンナ町で発見され、「アンナ(Anna)」という町の名前と、イタリア語で美しいを意味する「ベラ(Bella)」を合わせてアナベルとなったことが有力とされている。
緑のアナベルの花言葉は「ひたむきな愛」。一般的に土壌の性質で色が変わる紫陽花は、「移り気」「浮気」と言ったマイナスなイメージの花言葉が多いが、アナベルは品種で色が固定されるため、ウェディングなどでも使われることがあるという。
二人は身分が違うが故に結ばれてはいけない、誰にも知られてはいけない関係だった。
由梨乃の両親と優介の父の援助があったとは言え、ろくに恋人らしいことはできなかっただろう。
その中で些細なやりとりのひとつがこの紫陽花だったのかもしれない。
おそらく緑のアナベルの花言葉を使って、父が母へメッセージを伝えたのだろう。
当時の園芸部員の協力を借るなどして。
「香織、そろそろ教室戻るよー!」
「休み時間終わっちゃう!」
香織はその小さな木の板を元の場所に埋め、由梨乃達の元へと向かった。




