【青】灰色のフリーダ
そうして一日が過ぎ、次の日も同じような弛緩した時間が流れた。
ケイはその間もずっとクレイユの近くで話し相手を務めた。
それも、クレイユが一方的に会話を切り出し、一方的に打ち切られるというパターンがほとんどであったが。
「……白い」
その日も、クレイユは最上層の街を歩いていた。
ケイもそれに合わせて、隣を歩く。
酷評はしているが、どうやら彼女は塔の中で唯一空が見えるこの場所を気に入っているようだった。
「本当に、白いわ」
「ええ、まぁ確かにそうです」
真っ白な道、染み一つない壁、雪の銀色とも違う純白の色彩で塗り固められた街。
この場所には、色というものが欠けている。
「お前」
歩きながら、クレイユは呼びかけてきた。その視線は空にある。
「ええと、名前なんだったかしら」
「ケイです」
一応、彼女の世話をするようになって数日経ったが、ケイは未だに名前を覚えてもらえていなかった。
基本的に彼女は人を呼ぶとき「お前」で済ませる。
「そうお前、なんでこの街が白いか知ってるの?」
わざわざ名乗ったのに、このときも呼んではもらなかった。
しかしケイはさして気にせず、ニコリとほほ笑んで、
「ああ、それはですね。この塔の管理している……」
と、説明しようとしたケイを遮る形で声がかけられた。
「ああ、いたいた」
見れば、前からひどく見覚えのある少女が歩いてくる。
修道服を着た集団から抜け出す形で彼女はこちらにやってきた。
漆黒の髪に、白金の肌、それに紅い瞳。自らと同じ特徴を湛えた彼女の名を、ケイは呼んだ。
「ルーシィ」
すると、やってきたルーシィは微笑んで、
「兄貴」
そうケイのことを呼んだ。
ルーシィ。機械伯の子供としても、本当に同じ血が流れているという意味でも、家族である少女の名前だった。
「よかった、会えて。仕事の方はどう? 失礼していない?」
ルーシィは穏やかな口調でそう尋ねる。
どうやら彼女は子供としての作業の最中、偶然この場所を通りかかったらしい。
他にもぞろぞろと列を組んで歩く子供の姿が見えた。
ケイは、ちら、と隣に立つクレイユを一瞥しながら、
「そのつもりだけど」
「兄貴は、変なところで緊張しちゃうからね」
「否定はしないけど、なおのこと茶化さないでくれよ」
クレイユと歩くときはいつも緊張しているのだ。
その想いを滲ませて返答すると、ルーシィはくすりと笑って、
「ま、いいよ。大丈夫。兄貴の抜けているところは、私が埋めるから」
「言うなぁ、確かに助けてもらっているけど」
「うんうん、あ、これ。今日の授業のまとめ。持っておいて」
「ああ、ありがとう」
差し出されたメモをケイは受け取る。
そこには教会に行われる授業の内容がまとめられている。生まれたときから続く機械伯の教育だ。
今日は“国語”の文法の復習のようだった。
ケイはこうした語学の類はかなり得意な部類だったので、少しの間授業を離れていてもこうしたメモさえあれば問題なく追い付けるだろう。
「じうやって生きていこうね」
冗談めかしてそう言うと、くるり、と彼女は一回りして、クレイユを見た。
「兄貴を――よろしくお願いいたします」
そう言って、頭を下げた。
突然の行動にさしものクレイユも当惑したように瞳を揺らした。
だがそれを知ってか知らずか、「では」と言い残してルーシィは子供たちの列へと戻っていく。
その背中をクレイユは無言で見つめていた。
「ああ、アイツは変な奴なんで、気にしないでください。いつもああやって……」
「お前」
そこで――クレイユは初めてケイのことを見た。大きな青い瞳に見据えられ、ケイは思わず声を喪う。
「妹がいたのね?」
「ええ……まぁ二重の意味で」
すっ、とケイは瞼を閉じる。
生まれた時には、既に自分はこの塔に拾われ、そしてその傍らにはルーシィがいた。目の前には機械伯がいて、自分へと手を差し伸べてくれた。
それが自分にとっての初めての記憶であり、忘れられない過去だった。
「僕たち子供は、機械伯に孤児として拾われ、養子となった者たちです」
目を開き、クレイユを見上げてケイは言った。
近くでは数十人の修道服を着た子供たちが行きかいしている。
「この戦争で、多くの街が焼かれました。特にこういう“冬”と“春”の境界近くなんかは、直接戦場にはならずとも人は死んでいきます」
「お前の、本当の親はその時に」
「その時に死んだのだと思います――僕はもう覚えてはいないですが」
そう告げると、クレイユは押し黙った。
「“冬”の勝利が大方見えてきた今でこそ落ち着いていますが、昔は、この当たり一帯が焼け野原になったこともあるそうです。一人として残さず、殺された街もあったと聞きます。そこで僕とルーシィは、二人で生き残ってしまいました」
「そして、新たな親に見初められた訳ね」
クレイユはそう帰した。そこでケイは彼女が自分の話に興味を持ってくれていることに気づく。
それまでの会話と違い、明確に彼女はこちらの言葉に耳を傾けていた。
それが何を意味しているのか、ケイには掴めなかった。
だが話を聞いてくれたことが嬉しく、少し声のトーンを上げて、
「でも僕は今、幸せですよ。何も――つらいことは覚えていないんですから。僕の思い出はここから始まっていて、そこから何も不自由はありません。家族にも、友にも、先生にも、もちろんお父様にも恵まれましたから」
そう、告げた。クレイユはその言葉にこくりと頷き、
「……そういうものよね。どこにだってある、幸せな物語……」
そう口にした。意味の判然といない言葉だったが、しかしその穏やかな声色は、ケイが今まで聞いたことのないものだった。
そこで、大きな音が響き渡った。
鐘の音だった。幾重にも重なる重低音がケイとクレイユの身体を揺らす。
見上げると、白い街の近くの教会にて鐘が鳴っていた。
ずっしりと重く、それでいて透き通るような音色に耳を傾けながら、ケイはクレイユに言った。
「あ、さっき言いそびれた理由が、今わかりますよ」
「さっき? なんだったかしら」
「この街が白い理由、ですよ」
おもむろに、教会の前に幻想が集まっていく。
そこに含まれた色彩は黒と白を混ぜ合わせた灰色であった。
灰色は次第に濃くなり、明確な形を取る。
まるで真っ白なカンバスにインクを垂らしたかのようにして――彼女は現れた。
「フリーダです」
ケイはそう彼女の名を呼んだ。
ゆったりとしたドレスを纏い、その背中には燐光を放つ翅を何枚も広げている。
そして、美しい顔は慈愛に満ちた表情を浮かべていた。鐘が鳴り響く中、フリーダは教会の前で手を広げ空を仰いだ。
「あれは――妖精?」
「はい。この塔を維持しているのは、他でもないあの人ですよ。昇降や空調は、あの人の書いた言語で展開されています」
「確かに幻想の操作はお手の物でしょうけど、珍しいわ。妖精がきちんと仕事をこなすなんて」
クレイユはフリーダを見上げながら言う。
「それにあの大きさ。どうやって身体を維持しているの?」
「ああ、それは僕ら子供が祈っているんですよ」
「祈り?」
「はい、今はちょうど礼拝の時間で、教会では四季女神だけでなく、フリーダさんにも祈りを捧げるんです」
子供の数は数百人規模だ。
それだけの想念が毎日あれば、妖精である彼女もその身を維持することもできる。
「それと機械伯の元々の知り合いだったとか、そう聞いていますけど。だから今でも協力してくれるとか」
「……ふうん、そうなの」
そのあたりの事情はケイも詳しくは聞いていない。
だが、少なくとも彼女は数百年前――機械伯がまだ生身であった頃を知っているとは聞かされていた。
ケイはフリーダの顔を見上げる。
慈愛に満ちた顔を浮かべる彼女は、一体何を想いながら、子供の祈りを受け止めているのだろうか。
仮に子供の祈りが途切れた場合、妖精であるフリーダはその身を維持できなくなる可能性が高い。
だが、フリーダがいなくなれば子供たちは自分たちの唯一の世界を喪う。
そんな関係だった。
「××××、××××、××××、××××、××××、××××、××××、××××、××××」
不意にフリーダが何かを唱え始めた。
「あれは?」
「わかりません。ただ、たまにフリーダさんはあの言葉を唱えるんです。言語とかではなく、単に昔のこの地方の言葉らしいのですが……」
「聞けばいいじゃない。意味を」
「で、できませんよ、そんなこと。僕たちじゃ、その、畏れ多くて、話しかけることも難しいです」
「ふうん」
クレイユはそう短く漏らし、じっとフリーダを見据えたのち、
「幸せな人……妬いちゃうわ、みんなから愛されてる」
そう言った。
フリーダはなおも言葉を続けていた。
灰色の翅を広げながら、「××××、××××」と短い単語を連呼する。
それが何を意味をしているのかはわからないが、きっと自分にはわからない高尚なことなのだろうと、ケイは思った。