第1話 薔薇の令嬢は、鋼鉄の筋肉を隠したい
神の祝福を一身に浴びたかのような、豊かな緑と清らかな清流に囲まれたフローレンス男爵領。
南方に位置するこの領地は、一年を通じて色とりどりの花が咲き乱れ、特に初夏の今平原を埋め尽くす野生の薔薇は、旅人の目を引いて離さない美しさがある。
そんな自然豊かな領地の中央に佇む、古風だが手入れの行き届いた男爵邸。
その朝は、小鳥のさえずりと共に――地を震わせるような重低音で幕を開けるのが常であった。
「だらぁぁぁッ!!」
「はぁッ!!」
ドゴォン!!と、およそ可憐な貴族の邸宅からは鳴り響いてはならない、空気を引き裂くような破壊音が朝の庭園にこだました。
衝撃の風圧で、庭園に見事に咲き誇っていた白薔薇の生け垣が激しく揺れ、純白の花びらがハラハラと舞い散る。その土煙がゆっくりと収まる中央で、一人の青年が仰向けにひっくり返り、白目を剥いてピクピクと痙攣していた。
フローレンス家の長男、ライナス(二十二歳)である。
中央の近衛騎士団からもスカウトが来るほどの剣の達人であり、並の兵士なら十人がかりでも敵わないはずの彼が、今は無惨に地面の泥にまみれていた。
そして、その彼を見下ろしているのは、一人の少女だった。
エレノア・フローレンス、十七歳。
波打つ蜂蜜色の美しい髪を高い位置でポニーテールに結い上げ、息一つ乱さずに木刀を構え直す姿は、神話に登場する戦女神のそれである。スラリと伸びた手足に、一点の曇りもない白い肌。しかし、彼女がその完璧な形の唇から紡ぎ出したのは、じっとりと湿度の高い、およそ戦女神らしからぬ怨嗟の声であった。
「――もう嫌。本当に嫌。どうしてフローレンス家の朝の挨拶は、お父様の『おはよう、よく眠れたかい?』ではなく、お兄様の『上段の構え』から始まるのかしら。私、今日こそお肌のゴールデンタイムを守って十時に起き、テラスでハーブティーを嗜むって決めていましたのに!」
「がはっ……いや、エレノア……お前、突きの速度がまた、音速を……超えて……」
「超えていません!私はしなやかで、おしとやかで、そよ風に吹かれただけで『あら、少し寒いわ……』と気絶できるような、儚い男爵令嬢なのです!そんな化け物みたいなスピードが出るわけがありません!」
エレノアはふんぬ、と愛らしい鼻を鳴らし、握っていた特注の(通常より三倍重い)木刀を容赦なく地面に突き刺した。レンガの床にヒビが入ったが、彼女は気づかないふりをした。
フローレンス男爵家は、王国でも知る人ぞ知る「剣術特化型」の戦闘狂一族であった。
代々、中央の騎士団長や戦功を挙げた英雄を輩出してきた家系であり、その戦闘民族の血は、末娘であるエレノアにも恐ろしいほどの純度で受け継がれてしまっていた。
物心ついた時には、ガラガラのおもちゃの代わりに鉄の素振り棒を握らされ、ハイハイを覚えるより先にステップを覚えた。結果として、彼女は二人の兄を赤子のようにひねり潰し、父である男爵すら遠に超越した、一族史上最高傑作の「怪物」に仕上がってしまったのである。
だが、本人の望みはただ一つ。
(私は、結婚がしたいのよ……!!)
それも、絵本に出てくるような、甘くて、おしとやかで、旦那様の後ろを三歩下がって歩くような、絵に描いたように幸せな、守られる側の結婚だ。
間違っても、朝起きて旦那様と「どちらが先に間合いを詰めるか」の心理戦から始まるような、あるいはベッドの中で寝返りを打った拍子に旦那様の肋骨をへし折るような、そんな殺伐とした新婚生活は御免だった。
「おーい、エレノア!ライナス兄上をまたのしたって本当かよ!」
庭園の奥から、今度は次男のサイラス(十九歳)が木刀を二本抱えて嬉々として走ってきた。フローレンス家の人間は、家族が負けると悔しがるどころか「次は俺の番だ!どんな技で負けたんだ!?」と目を輝かせる悪癖がある。
「次は俺が相手だ!新しく編み出した二刀流の連撃を――」
「サイラスお兄様……」
「ひっ」
エレノアが、にっこりと完璧な「令嬢の微笑み」を浮かべた。
しかし、その背後にはドス黒い、それこそ魔王のようなオーラが立ち上っているように見える。サイラスは本能的な恐怖を感じてピタリと足を止めた。額から冷や汗が流れる。
「私、これからお湯を浴びて、薔薇の香油を肌にすり込み、お茶会のための刺繍をしなければならないのです。これ以上、私の淑女としてのスケジュールを邪魔なさるなら……次は木刀ではなく、素手で背骨を真っ二つにへし折りますわ?」
「は、はい……お邪魔しました……」
サイラスは這うようにして、まだ気絶している長男の足を掴み、ずるずると引きずりながら退場していった。
それを見送り、エレノアは深く、深いため息をつく。
「いけないわ、つい乱暴な言葉が出てしまったわ。おしとやかに、お上品に……」
一時間後。
お湯を浴び、メイドたちに徹底的に磨き上げられたエレノアは、自室の鏡の前で完璧な淑女のポーズをとってみせた。
薄緑色の清楚なドレスに身を包んだ彼女は、どこからどう見ても深窓の令嬢だ。波打つ蜂蜜色の髪はハーフアップにまとめられ、細い首筋が白い。誰も、この細い腕が先ほど大男を十メートルほど消し飛ばしたとは思うまい。
「ふふ、これなら大丈夫。誰も私がゴリラ並みの腕力と、ドラゴン並みの反射神経を持っているなんて気づかないわ」
満足して微笑んでいると、部屋のドアが激しくノックされ、父親であるフローレンス男爵が血相を変えて飛び込んできた。その手には、金縁の豪奢な、一目で最高級品とわかる封筒が握られている。
「エレノア!大変なことになったぞ!王都の、それも王宮からお前に直接、招待状が届いた!」
「えっ?王宮からですか?」
エレノアが小首を傾げて封筒を受け取る。
蝋印に刻まれているのは、王家の紋章である「双頭の鷲」。そして、差出人の名を見た瞬間、エレノアの心臓がドキンと大きく跳ね上がった。
『王太子フェルナンド・アレクシス・オルティス主催・夜会への招聘』
「ふ、フェルナンド殿下……!」
エレノアは思わず、その名前をうっとりと呟いた。
フェルナンド・アレクシス・オルティス。現王国の王太子であり、その冷徹な美貌と、いかなる政務も完璧にこなす頭脳から「氷の至高王太子」と噂される人物である。
巷の令嬢たちの間では、彼の写真や噂話が載った新聞がプレミア価格で取引されるほどのカリスマ。そして何より、エレノアにとって彼は、夜な夜なベッドの中で妄想する「理想のスパダリ」そのものだった。
(冷たくて、誰にも興味を示さない殿下が、私にだけ『……君のような、放っておけない不器用な女性は初めてだ』なんて言って、ぎゅっと抱きしめてくださるのよ……!!)
妄想の中で、エレノアはすっかり可憐なお姫様になっていた。
もちろん、その妄想の中の自分は、剣の「け」の字も知らない、守られる専門の存在である。
「よし!神様が私に『そろそろ筋肉まみれの実家を卒業して、玉の輿に乗りなさい』と言っているのね!」
「エレノア、行くのはいいが……くれぐれも、王都で暴れるんじゃないぞ?お前が本気を出すと、王宮の壁くらい簡単に崩れるからな」
「お父様失礼ね!私がいつ暴れました!?私はただの、か弱いエレノア・フローレンスです。王都では、爪を隠した猫のように、いえ、生まれたての小鹿のようにおしとやかに過ごしてみせますわ!」
エレノアは胸を張り、高らかに宣言した。
絶対に、この夜会でフェルナンド殿下のハートを射止めてみせる。そして、この忌々しい木刀と筋肉痛の日々に別れを告げ、薔薇色のお妃様ライフを手に入れるのだ、と。
――しかし、この時のエレノアはまだ知らなかった。
彼女の憧れる「冷徹王太子」フェルナンドが、猫かぶりなど一瞬で見抜く、最悪に鋭い「野生の勘」の持ち主であるということを。
そして、フローレンス家の「お出かけ準備」が、普通の貴族とは決定的に異なっているという事実にも、彼女はまだ気づいていなかったのである。




