銀城の地下牢
牢獄に囚われる。それはこの大地に住む人間種にとって死ぬよりも屈辱的なことだ。
かつて、アスカラオルト帝国成立よりもはるか以前、大長城が建設されるよりもはるか以前、多数の人間種国家が乱立していた頃、亜人種との果てしない抗争を繰り広げていた頃、多くの人間が殺された。平和だった村落の小高い丘の影から無数の黒色の奇怪な化け物共が現れ、陵辱と虐殺の限りを尽くした。だが殺されることは幸福だ。少なくとも殺されなかった人間はそう考えた。
亜人種達とてバカではない。知性がないわけではない。当時のゴブリン下等種と蔑まれ、今ほどの知性を持たなかったが、その時でさえ10歳の子供程度の知性は有していた。ゴブリンよりも上位種であるオーガやオークの知性はその上を行き、上位種の他の亜人種は人間と同等かそれ以上の知性を有する。
人間が考えることは彼らも考え、それは人の殺し方、戦い方に限らなかった。城郭を落とした亜人達はさながら黒鼠のように瞬く間に場内へと侵食し、目に映るものすべてへその凶牙を立てた。男、女、子供、老人、赤子、盲、聾、腕なし、脚なし、口なしの区別なく、差別なく、忖度なく、一巡二巡三巡となんどとなく探し回り、見つけ出し、その髪を肌を足を腕を引っ張って連れ出した。
連れ出された人間、それは城郭が落とされてもなお生き残った人間だ。彼らを待っていたのは屠殺、そう形容するのが適切な地獄だった。
あるいは虐殺、鏖殺、陸殺。言葉はなんだって構わない。身の毛もよだつ血の宴を恐悦のままに彼らは催した。それが生来の楽しみ、愉悦であるかのように悲鳴をあげる無抵抗の人々を彼らは陵辱し、断った四肢を炙り、焼き、あるいは生のままにかぶりつき、頭蓋を盃に、滴る血の甘悦に浸して飲み干した。
肛門から口腔へ、喉を刺し貫かれ、悲鳴を上げられないかつての隣人が弄ばれる姿を見ながら、生き残った人々は必死に自分のことを見ないでくれ、他を見てくれ、と懇願する。疑心暗鬼に囚われ、友人を恋人を家族を差し出そうとするもの、つまるところの内応する者も出てくる。あるいはその内応した人間を背後から一突きする亜人達もいた。必死に生にしがみつこうとする滑稽な姿を見て、げひひと下卑た笑みを浮かべる亜人達は当時の人間達には絵物語で語られる悪魔達よりも悪魔に見えた。
文化形成とは経験の積み重ねの結果である。捕虜となること、虜囚となることが地獄の幕開けだという認識が根付いたアインスエフ大陸東岸部文化圏にとって鎖で縛られることはまさに恥辱。己の尊厳をすべて陵辱されるような地獄以外の何者でもない。それは最北の地、ロサ公国でも変わらない。凍つく寒冷地ということも相待って、冷たい牢屋に繋がれるなどは誰だって嫌だった。
だから地下牢に繋がれた人間が呑気にあくびをしている現状に牢屋の監視をしている二人の看守は顔を見合わせて困惑した表情を浮かべていた。
「いやー退屈。ザッツ退屈」
仮面を取った黒衣の少年、灰髪金眼の少年、界別の才氏シドは後ろ手を回し、石壁に寄りかかりながらそうぼやいた。防寒具も着ていないのにどうしてこいつは寒そうじゃないんだ、と看守達は眉をよせる。
シドがカスト・グアンザムの地下牢に繋がれてすでに四日が経っていた。朝夕に食事は出されるが、防寒具などは配られていない。本来ならば手足がかじかむような寒さが体を襲っているはずなのだが、けろりとした様子で金眼の得体のしれない少年は出された食事をたいらげ、日がな一日ずっと「ひまーひまーひまー」とぼやいていた。
「シド、本当にこのままでいいんですか?一応ここ、敵地なんですけど?」
隣の牢から陰険な声が聞こえてくる。シドと同じように牢屋にぶちこまれた純黒の師父カルバリーの諌言をシドは鼻で笑う。
「今はこの状況が俺らにとって最良だ。まだ話すことがあるから俺らをここにぶち込んでるんだろうしな。でなきゃ今頃俺らは玉座でふんぞり返ってるさ」
シドの大言壮語にカルバリーはため息を吐いた。戦えば俺らが勝つ、と断言する彼の言葉を間近で聞いている看守達は気が気ではないだろう。どう見ても不利な状況にあって「勝てる」と明言する愚者ほど付き合っていて面倒な存在もそうそういない。もしかしたらその力を持っているのかもしれない、そんな疑心が熾り、シドを見る看守達の目は一層澱んでいき、また鋭くなっていく。
そんな看守達の心などそっちのけでシドはカルバリーとの会話を続けた。
「——俺らを捕まえる、捕らえておくってことはまだ話す余地があるってことだ。少なくとも俺にはヘルムゴート王が愚者には思えない。帝国という脅威が間近にある中、衰退の一途を辿るこの国に未来はないってことをあの王様が考えられないわけがない」
「他人を信用することほど愚かしいこともありませんが?」
「味方以上に信用してるんだよ。俺は口下手だからな。あの場で王様がブチギレて処刑を命令することも十分あった。しないってことは理性がブレーキをかけたか、一旦周囲の視線を俺らから逸らそうとしているかのどっちかだ。ま、確かに信用っていうだけじゃ価値はーねぇーなー」
「最悪、逃げ出す準備だけはしてください。というか、これはただの予想なんですが、アスハンドラ以外の使節はみんな今の自分らと同じ状況になってるんじゃないですかね?」
なんじゃそりゃ、とシドは腹を抱えて笑い出した。そのまま床の上に転げ落ち、なおもゲラゲラと笑うシドにごほんとカルバリーは咳払いをした。
しかしシドは笑うのをやめない。それほどに虜囚となっている氏令達の姿を想像することが面白いのだろう。悪趣味ですね、とツッコむと、いいじゃん別に、と子供のような答えが返ってきた。
「そうか。いいじゃん、か。では余が現れるのはもうちょっと後でもよかったな」
刹那、シドとカルバリーは鉄格子に向かって振り返った。シドもカルバリーも現れた人物に動揺した素振りはない。当の本人はその可愛げのない反応が口惜しいようで、渋面を浮かべていた。二人の代わりに動揺の色を見せたのは二人の看守だ。即座に片膝をつく彼らの首の裏筋には寒さの中だというのに汗が滲んでいた。
その男、ヘルムゴートは人払いを命令すると、看守達はサッとその場から姿を消した。三人だけの空間、熊の毛皮で作られたコートを纏う王冠を戴いた美髯の男に相対するのは片や黒衣の少年、片やとんがり帽子をかぶった男というのは奇妙な構図だった。
「ようこそ、地下牢へ」
「軽口を叩く程度には体力はあるようだな。いや、笑うほどの体力はあった、というべきか」
「どちらでも」
「まぁいい。時間が惜しいのでな。単刀直入に言おう。余個人としては貴様らの要求を受け入れてもいいと考えている。だがそれは我が国の国是に反する」
国是。その言葉を聞き、シドはなるほどと合点がいった。王自身が国家の存続を諦めているわけではなかった。言うなれば国是という鎖こそが問題だった。それはヤシュニナ氏令国が広い海原の先を目指し、商路の拡大を目的とするのと同じく、ロサ公国はひたすらに外界との交流を断つことで国家を守ろうとしていた。
しかし面倒だな、と脳内の地図と睨めっこしながらシドは唸った。ロサ公国は東側を断崖で隔てられた国だ。ヤシュニナ氏令国の東方航路を利用する、ということは現実的に難しい。断崖を登るための大規模な道を建設することはできなくはないが、投資が博打にすぎる。
唸るシドに代わりカルバリーがヘルムゴートへ質問を口にする。国是を捨てることはできないのか、というシンプルな質問、当然ながらヘルムゴートは首を横にふった。
「すでにこの国是によって安寧を得た世代がほとんどだ。極寒の大地とはいえ、争いとは無縁のこの国の国是を今更捨てようと考える人間はおらん。いや、考えようとも思わんだろうな。冷気が我らの思考を停止させてすでに400年近く、とっくの昔に」
「ええ。確かに手遅れでしょう。このまま何事もなく平穏が訪れれば」
沈黙を破り、声を発したシドに視線が向く。彼の発言の真意がわからないヘルムゴートはやや責めるような目を向けた。
「反乱でも起こさせようとするのか?」
「いえ、もっと確実で明瞭な話です。帝国を利用するんですよ。より具体的には帝国北方方面軍を」
「——言っている意味はわかる。が、都合よく攻めてくるか、あの者どもが。今は12月だ。連中もこの零下の中攻めてくるほど物好きではないだろう」
「ええ、まさしく。ですから来るように仕向けるんですよ。何がなんでもね」
麗俐にシドは笑う。その精悍な顔つきからは想像できないようなひどく歪んだ笑み、ドス黒い汚濁に両足まで使ったゲスの笑みにヘルムゴートは低く唸った。
✳︎
次話投稿は二日後を予定しています。




