日常風景
ヤシュニナ歴153年8月23日、いつもと変わらぬ空気が流れるヤシュニナの首都ロデッカの街を眺める界別の才氏シドは本来だったら感じるはずのない腹痛を覚えていた。下腹部のあたりがプレスで圧縮されているかのようにギリギリと痛み、そんなデバフは受けていないはずなのに座っているだけで身悶えしてしまう。
それもこれもすべてがすべて氏令の不足が原因だ。
今年に入りヤシュニナは立て続けに氏令を失った。春先の旗の軍令ジグメンテの死に始まり、一大派閥を率いていた賽の才氏リオール及びそのメンバー五名が相次いで死んでしまったことで特に立法・行政の分野で大きく権力の空白地帯ができてしまっていた。早急に新たな氏令を任命する必要がある、と声高に叫ぶ氏令もいるが、その選定には最低でも二ヶ月を必要とする。旧来ならば師父や将軍といった同じ系列で次席に位置する人間を当てるのが慣例となっていたが、春先の反乱やリオールのムンゾ王国での死亡に伴い、決して少なくはない数が命を落とした。
特に才氏がリオールを含めて三名も欠場してしまったことがシドの悩みの種だった。才氏は国家の知性の象徴、法案の策定、提出からヤシュニナ内のあらゆる書物の管理、諸外国の風土や伝統、情勢の把握まで幅広く扱っている。それこそ長持ちする油ランプの作り方、なんていう日常の知恵まで求められる。その候補が師父だ。だが現状師父も足りているとは言い難い。
一人師父を昇格させればその穴を埋めるためにその下の人間を一名昇格させバランスをとらなければならない。だがただでさえ短期間に二度にわたる出兵を行ったがために仕事は爆増、とても余裕などなかった。未だに片付けられていない書類の中には直接の上司の不在により査定が終わっていないものや書式が異なっているものもあり、混乱が生じてしまっていた。
平時ならそれでもよかった。通常才氏ごとに書式が違っても、担当している才氏が規定の書式へ変更して氏令会議などに法案や意見を提出していたからだ。他民族国家である以上ある程度そういった弊害は避けられない。才氏個人の裁量で行っていると言えばそれで済む話だった。
だが今はそうも言ってられない。ちらりとシドは机に視線を戻し、かつてはリオールが担当していた部署の書式に目を落とした。
貴族然としたリオールが担当していた部署らしく言葉遣いというか言葉選びがどことなく華美なものへと変えられていた。いっそ平易な文章に変えちまえばいいのに、と50年くらい前から口をすっぱくして言っていたが、今更新しく記入方法を変えても混乱が起きる、といくつかの部署から反対が起こり結局今の今までズルズルとこの状態が続いてしまっていた。
「ああー嫌だ嫌だ。なんだってこうも人が足りないんかねぇ。いや人が足りないってことはないんだけどさぁ」
そう実を言えば人が足りないということはない。才氏や師父が足りないとは言ったが、それはあくまでこの書類地獄の中での話であり、平常運転に戻れば適切な数と言える。この難業を乗り越えれば改めて師父から才氏への昇格を考えてもいい優秀な人材は何人か目星をつけている。
才氏昇格、もとい氏令への昇格手順はいたってシンプルな三段構えだ。まず第一に直属の氏令含め、同系列の氏令三人による国柱への紹介状の提出、第二に同系列以外の氏令四名の下での実地研修、最後に国柱自らがその結果を踏まえ、是か否かの裁断を下す。最終的な決定権が国柱にあるとはいえ、同系列外の氏令からのお墨付きとなれば無視はできない。ざっと二年をかけて晴れて氏令の仲間入りだ。
「ん?なんだこりゃ」
日も暮れる頃、うーうーとうめきながらもとりあえず一山の精査を終えたシドはポロリと第二の山からこぼれ落ちた一枚のメモ書きに目を落とした。書式からして早口の才氏ジャナリフの担当部署のものだろう。
書かれていたのは数字だ。「A150〜168、B162〜183……」といった形で延々と数字が羅列されていた。Zまでかと思いきやその後もAa、Abと続き、最終的にはZaまで数字は続いていた。メモの左上部にはヤシュニナ語で「調査番号135」、右下部には「備考:状況は極めて悪し」と書かれていた。こんなわかりにくいメモを使うのはジャナリフぐらいなものだ。
しかしジャナリフの部下のメモとわかっても誰のメモかはわからない。恐らくはジャナリフが何かの調査を依頼していて、番号で識別していたのだ。だからメモを描いた当人の名前がない。
すぐにジャナリフの部下を集めれば自ずと筆者はわかる。だが、とシドは上がりかけた腰をストンと落とし、軽く鼻から息をこぼした。
「いや、今はやめておこ。気には留めておくにしても今はまだやることがあるし」
デスクの引き出しへメモ帳を戻し、シドは再び書類の山へと手を伸ばした。ちょうどその時だ。コンコンとタイミングを見計らったように扉をノックする音が聞こえた。シドの扉をノックする人間など限られている。まして夕方、一人の青年の姿を思い浮かべ、シドは入れ、と声高に伝えた。
失礼します、とことわりを入れてドアは開かれた。現れたのは青みがかったグラデーションが入った銀髪の青年だ。黒スーツに身をつつんだ童顔の青年、彼は脇に大きめの板を挟み、笑顔でシドに近づいていった。
「そろそろ一山の処理が終わると思い、回収しに参りました。僕から見て右側の奴が終わった書類ですか?」
「そうだ。さっさと持っていってくれ。ああ、それと運び終わった後でいいから何かつまめるものを買ってきてくれないか?気分転換って奴だ」
「わかりました。チーズと……ベーコンの類を差し入れましょう。でも食べる必要ないのになんだって食べ物なんか、と聞くのは野暮ですか?」
「野暮だな。俺が食べたいから食べたいものを持ってこい。そんなシンプルな話のはずだぜ?」
シドの言葉に呆れたのか青年は肩をすくめてみせた。口元には微笑をたたえ、空いていた両手を机の上の書類の山へと伸ばした。
「それにしても厄災極まれりですよ。僕もう三徹ですよ?才氏シドみたいな異形種でないただの人間にこんな重労働を課すだなんてひどくありませんか?」
「見解の相違だな、アディン。俺は働ける奴は死ぬまで働けという主義だ。無論休みや気分転換は大事だが、それは短時間に収めるべきだ。人生死ぬまで勉強することばかりだからな」
「そりゃ実年齢200歳近い御老はそうやって金言めいたことを言いますが、今を生きる若者は遊びたい盛りなんです」
それを聞き、思わずシドは吹き出してしまった。まさか目の前の青年の口から若者なんて言葉が出るとは思っても見なかった。確かに人間以外の換算で言えばアディンは若者だ。だが人間換算で見れば十分に老齢のはずだ。
「笑わないでください。自分でも言ってて悲しくなります。西の王者の呪いとでも言いますか。困ったものですよ、死ぬことも昇天することも許されないというのは」
だがそれは自業自得だ。少なくとも目の前の銀髪の青年、アディンの境遇や背景を知っているシドからすれば彼の呪いはそれ相応と言えた。古代の地球のとある地域で盗み働いたものが盗んだ方の手を切り落とされるように、因果応報という奴だ。
「愚痴は仕事で生産してくれ。あと俺の買い出しも頼むぞ」
そんな仕事の合間の談笑と食事を楽しんだのち、再びシドは書類の山へと突っ込んでいった。
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