ミュネル王国
ミュネル王国は荒野広がりし大地の国だ。国土の面積では四邦国群の中で第二位だが、単純な国力で言えばムンゾ、ガラムタに劣る。人口ではムンゾと並び他の二国に勝る一方、国内の産業はムンゾ、ガラムタに劣る。兵力至ってはカイルノートとどっこいどっこいだ。
主要と呼べる国内の産業は畜産業しかなく、その畜産業すら現在は満足に国庫を潤すには至らない。国内の多くはムンゾ、ガラムタに出稼ぎに行っている。まさに貧乏暇なしというわけだ。ムンゾやカイルノートのように竜狩りのような祭りや名物があれば良かったのだが、それもない。
このようにミュネル王国は永遠にカイルノートと言う三位争いをしている三流国家に過ぎない。それも今は四位直行の悪路に足を踏み入れようとしていた。
カツンカツンと回廊を歩くガラムタ王国宰相である蜻蛉の宰相アザシャルは苛立ちを隠さずに目の前の闇を睨みつけていた。このところ普段から燻っていた怒りの鍋が沸騰してしまいそうなほどに彼のはらわたはかつてないほどに煮え繰り返っていた。その理由は至極明白だ。
エッダだ。ムンゾ王国王弟エッダこそが彼の怒りの元凶にして絶対の悪因だ。彼とその配下の兵3,000がミュネルに入って以来、それまでは健康そのものだった腹が痛くて痛くて仕方ない。何度となく女王にエッダを引き渡すべきだ、と進言した。何度となくムンゾ王から引き渡せ、と書状を送られた。分からず屋の親族と怒り狂う烈王という板挟みの中、アザシャルはつい昨晩のこと決断した。
「殺してしまおう」と。
彼の背後には志を共にする軍吏が百数十人追従し、全員が全員腰に剣を携帯していた。物々しく、全く殺意を隠そうとしていない。出くわす王宮務めの侍従や召使い達はこの猛々しく殺意にまみれた集団に出くわすとぎゃーと喚くか、隅の方へと移動し体を震わせながら目の前を過ぎ去るのを待った。
喚き震える臣下達を見てアザシャルはこの国の限界を肌で感じ取った。もしこれがムンゾやヤシュニナだったらどうだったろうか。震えはするだろう。だが、心から怯えるなどということはなかったはずだ。骨まで抜き取られた脆弱な国民性は王宮にまで侵食し、そして今やミュネル王国から最後の再生の機会すら奪わんとしていた。
それはあってはならない。あっていいはずがない。かつてはアスカラオルト帝国すら追い返し、その武威をアインスエフ大陸に轟かせた第二代ミュネル王デネソールに対して泥を塗るような行為だ。
幼い時分、アザシャルは父や母、教育担当の翁からミュネル王国の歴史や英雄譚を聞かされ育ってきた。その中でも最たるものが第二代ミュネル王であった双剣の王デネソールだ。黒き獅子の毛皮のコートをまとい、二本の双剣を以て侵略者達を成敗したミュネルの英雄王、彼にあこがれアザシャルは自分こそがミュネルを再生させると確信していた。
そのためにひたすらに勉強し、実績を積み、宰相位にまで上り至った。すべてはミュネルのため、今のヤシュニナに依存した自国の尊厳を取り戻すためだ。
「——だというのに、叔母上。なぜエッダを庇う?彼の者が我が国を亡国へ誘う死神であるとなぜお気づきになられない」
夜闇の中、燭台の灯りに照らされるミュネル王国女王、英才の女王サーベラはアザシャルの問いに柔和な笑みを浮かべてみせた。
年齢はすでに70を越え、在位期間は実に60年を越えている。かつての美貌も今は過ぎ去り、しわくちゃで白髪ばかりの老婆を前にしてもなお、アザシャルは余裕を覚えることができなかった。相手はベッドの上、いつも身につけているマジックアイテムもなく、護衛は今さっき切り捨てたというのに。
ベッドを囲む軍吏達は手に冷えた鉄の剣が握り、瞳を血走らせていた。彼らは一重に女王の次の一言を待っていた。どんな弁明が繰り出されるのか、その弁明によっては命を断つことも視野に入れていた。アザシャルに従っているとはいえまだサーベラは彼らの主人だ。率先して殺したいなどとは思っていない。だがサーベラはそんな彼らのことなどいに返さずにアザシャルただ一人を見つめていた。
「わかりきったことですよ。ムンゾの提案に乗ったところで私達の国に未来はありません。国王として最善の手を取るのは当然でしょう?」
「わかっておられない。今、ムンゾと敵対して我が国になんの利得があるというのですか!ヤシュニナにでも援軍を頼むのですか!?」
「わかっているではないですか。そうです。ヤシュニナを頼りましょう。私達がムンゾを引き受けている間に後背を脅かすのです」
戯言だ、とアザシャルは一蹴する。ヤシュニナがそう都合よく動くわけがない。いくらムンゾとの間に摩擦が起きていると言ってもあのヤシュニナがたかが小国一つのために兵を動かすなどありえない。まして自国の氏令が国内にとどまっている間になど。
いや、そもそもヤシュニナを頼りにするというサーベラの考え方自体がアザシャルの癪に障った。どうして自国で倒そうと考えない。どうして他国をそんな恥じることなく頼ることができるのだ。
すべては先代のミュネル王ファラミルの失策だ。偉大なる英雄王デネソールの国内改革を彼の死と共に中断し、ミュネル王国は癒えぬ病を抱えるに至った。その悪政を目の前のサーベラは引き継いでしまった。なにが英才、笑わせる。愚鈍ではないか。60年以上の治世で全く国力を回復できなかったのだから。
「やはり叔母上は分かっていられない。偉大なるデネソール王の政策を引き継がず、暗愚なあなたの父上の政策を引き継いだばかりに我が国は閉塞した!そればかりか叔母上は今や亡国へ誘わんとしている。ミュネル王室の恥さらしだ。親子二代で恥じるべきでしょう!」
「は。随分と威勢のいいことを」
突然サーベラの雰囲気が変わった。それまで漂わせていた柔和な雰囲気が消えた。色をなくした肌が赤くなり、彼女の体に生気が戻っていく。巨大化でもするんじゃないかという錯覚すら覚えるほどにサーベラの雰囲気は180度変わっていた。
何かが彼女の心の中で弾けたのか、往年の英才と呼ばれていた頃の覇気が戻ったかのようだった。瞳はギラギラと輝き、先ほどとは違って野性味のある笑みを彼女はこぼした。
「随分とデネソール王を買っているようですが、彼が具体的に何を成したか、何を成そうとしたか知っていますか?」
「わかりきったことです。彼の王は80年以上昔の帝国のグリムファレゴン島侵攻の折、双剣を手に獅子奮迅の活躍をしたまさに英雄王と呼ぶにふさわしき御仁です。そればかりか、国内に農業を導入し、肥沃な土地を増やそうと開墾を奨励したまさに」
「その開墾、はっきり言って失敗でしたよ。だから私達の国はいつまでも貧乏だとどうして気付かないのか」
サーベラの一言にアザシャルはおろか彼の同志である軍吏達すら眉を顰めた。互いに顔を見合わせ、、ひそひそと話し合う声がサーベラの寝室にこだました。
「土地を開墾する。それ自体はありふれたことです。ですが、それは行きすぎれば毒になります。あのバカジジィは土地を開墾し、農作物が取れるようになれば出資分を回収できるとか考えたのでしょうが、全くもって浅慮にすぎる。森がなくなれば我が国の主要産業である畜産業が立ち行かなくなる。防雪林は減り、寒波が凌げなくなる。平野と森林の国、ミュネルから森林は消え、私の父ファラミルが事業を辞めさせた頃には国土の実に八割が平野となっていた。残った森林すら、もう」
「そこまでです、叔母上。やはり聞くべきではなかった。言うに事欠いて自身の正当性をただ言い述べるだけとは。見損ないましたよ。ミュネル王国第四代国王がこの程度の脳みその持ち主だったとは」
「アザシャル、私を殺しても貴方が求めているものは手に入りませんよ?」
「それは叔母上にはわからないことでしょう?」
腰の剣を引き抜き、アザシャルはサーベラの首筋に剣をぴたりと当てた。彼女の次の言葉を待たずにアザシャルは剣を振る。ストンと毛布でも落ちるかのような気軽さで、サーベラの首はシーツの上に落ちた。その首をベッドの上から拾い上げた時、アザシャルはギョッとした。彼女の目が自分のこと睨んでいるように見えた。すぐにそれは目の錯覚だと気づいたが、初めて人を殺した感覚は本物だった。
剣を持つ手が震えていた。震える右手の手首を押さえ、アザシャルは必死に自分の心を冷静に保とうと深呼吸を繰り返した。剣を鞘に戻し、アザシャルは側に控えていた軍吏にエッダのことを聞いた。
「はい、エッダ殿の邸宅にはすでに数百の兵が突入しているはずです。もうそろそろ一次報告が来る頃、おお。きましたぞ」
寝室の入り口に立つ影に軍吏が近寄った。何やら小声で報告を聞き、一瞬だけ表情をこわばらせた後、申し訳なさそうな表情でその軍吏はアザシャルの前に膝を屈した。その流れで大体の想像はできる。しかし確信を得るためにアザシャルは軍吏に報告を促した。
「申し訳ありません。突入時にすでにエッダ殿の邸宅はもぬけの殻だった、と。そればかりか。配下の兵3,000もいずこかへ消えてしまった、と」
「そう、か。ではすぐに国内に手配書を配れ。賞金をかけろ。それと叔母上の件だが、事前に取り決めていた通り、病死と公表する。よいな?」
異論など出るはずもなかった。今日この寝室に集まったというだけで全員が共犯者だ。全員がもはや一蓮托生だ。たとえ自らが手を下さずとも王が殺されるのを傍観していたというだけで極刑は免れ得ない。すでに賽は投げられた。
「ムンゾ王であられる赤獅子の王シースラッケン殿に使いを出せ。我々は大業をなした。彼の王にもそろそろ動き出してもらいたいものだからな」
そう、アザシャルはシースラッケンをこそ至高の強者としていた。絶対なる強者だと。動くを待つに値し、動いて欲しいと願うような強者だ。だが、そのシースラッケンですら——弱者である。
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次話投稿は9月9日21時を予定しています。




