カイルノート王国
グリムファレゴン島北西部の峻険なる山岳地帯にカイルノート王国はあった。国土の約七割を山岳地帯が占め、人が住める土地はほとんどない。わずかに山と山の間にできた平野に街が点在し、また山の裾野に都は造られた。おおよそ人が住めるような土地ではなく、農作物などはほとんど取れない。国内に点在する銀鉱山、鉄鉱山によってかろうじて国が生きながらえているのが現状だ。
人口は500万人もおらず、グリムファレゴン島内では最低だ。国民の実に1%近くが兵士として徴用されているため産業関連の発達に遅れが生じ、貧困にあえでいる国民は止まるところをしらない。冬には二割の確立で北部の村が全滅する、というひどい有様だ。
人口は減少の一途をたどり、国内の銀鉱山、鉄鉱山にも限りはある。生まれてくる次の世代に残せるものはほとんど残されておらず、国家としては完全に行き詰まっていた。何かを変えるだけの力はもうなく、ただ安定を求め続けた代償が100年後の今になってカイルノート王国を蝕んでいた。
加えてカイルノートには貧困や資源の枯渇以外にも別の外部的脅威があった。それがグリムファレゴン島北部を横断する1万メートル級の山々がひしめく霧の大連山の向こう側から襲来する龍やその従僕たる竜だ。
かつて創造神エアによって創造された世界に11体の神龍、その一柱である轟雷龍ゼアヌアの配下達が不定期に耳をヤシュニナ、ムンゾ、カイルノートを襲うのだ。もたらされる被害は尋常ではなく、人や家畜が殺されることはもちろん、家屋は焼かれ大地はえぐれ、時には地図すら書き換えなければならないほどの甚大な被害をもたらす。
これに対してヤシュニナが四邦国建国以前から行ってきたのが竜狩りだ。霧の大連山を超え、集落を襲いにきた龍や竜を殺して回る、という非常にシンプルな狩りだ。基本的には氏令が三人一組が軍を率いて狩りにあたるが、人不足の時などは傭兵屋や自由組合などから人を回してもらって狩りをする。龍や竜の素材は高値で取引されたり、武器や防具へと加工することが可能であるため、商人達が私兵を参加させることなどもある一大イベントだ。
最初こそただの掃討戦だったが、いつしかグリムファレゴン島の名物となり、遠目から竜狩りを見ようと観光客が押し寄せてくるようになった。もちろん群れから逃げた竜が観光客をパクリといくこともあるため、安全とは言えない。しかし間近で龍や竜を見る機会などない人間からすればこの上ない娯楽だった。
そして今カイルノート王国の首都キーネには王炎の軍令リドル、羽飾りの軍令シュトレゼマン、弓絞りの刃令アドウェナの三人の氏令がいた。
リドルはいつも着ている神話級の白いコートの袖をさすりながら、雨降る外を眺めるシュトレゼマンに声をかけた。
「軍令シュトレゼマン。雨は止みそうですか?」
首都キーネに到着してからすでに一週間が経った。最初は四日ほどで北部へ向かおうと考えていたが、予想外の大雨によって足止めを食らっていた。雨中行軍は平野が多いヤシュニナならばできなくはないが、峻険な地形が多いカイルノートでは自殺行為と言えた。三千もの兵士を雨で失いました、など軍人の恥だ。
シュトレゼマンが首を降り、リドルは盛大にため息を吐いた。そんな彼にアドウェナが酒が入ったグラスを手渡した。一瞥しグラスを受け取るとそれまであったアドウェナの手が霧散した。いつものことだが唐突にこれをやられると少しだけドキっとする。
アドウェナは人間種ではない。亜人種でもない。シドやリドルと同じ異形種と呼ばれる存在だ。黒い等身大の塊に青い帯がストライプ状に入った奇怪な外見からそれは明らかだ。一見すると喪服を着た女性がベールをかぶっているように見える。だがよく見ると無数の瞳がベールの奥底に潜み、見ていると言い知れない拒絶感に襲われる。
性別などがないため便宜上彼と呼ばれているが、彼の種族「名もなき者」は果てしなく大昔からこの地上に存在している。それは創造神エアが誕生するよりもはるか昔、「水底の監視者」らと起源を同じくするほど昔の存在だ。もっともアドウェナは比較的新しい個体のようで彼が生まれたのはおおよそ9000年前だ。
「リドルちゃん。陰鬱そうだにぇー」
「まぁそうですね。自分は火属性の精霊なので雨はどうも」
「ほきょきょ。そいつぁごしゅうしょさま!でもぼっちゃんからすりゃーここはてんごっくって奴さー。なんせ山がいっぱいある。あーおもいだすなーはるかなる霊峰オーグ=モリア!あそこでの仲間との日々をさー」
アドウェナは饒舌に語る。外見的な陰鬱さと打って変わった快活さに初めて彼と接するものは戸惑いを覚える。陽気な彼はその後もぺちゃくちゃぺちゃくちゃと雨でじっとりとした部屋の中で話し続けた。だがそれは決してこの場の暗い雰囲気を取り除こう、という考えからではない。
アドウェナが喋っている間にリドルは防諜用を含めた複数の対監視用のマジックアイテムを起動させた。最低でもレベル130代の間諜系スキルがなければ突破することはできず、よしんばすり抜けたとしても、突破した人間への手痛い対抗魔法が発動するという意地悪なマジックアイテムだ。
「——さて刃令アドウェナ。もう結構ですよ」
「あらそ?ぼっちゃんとしてはもうちぃーと喋ってたかったんだけど」
黒い塊が可愛らしげにうねうね動いても琴線には全く触れない。あれで動悸を覚えるのならそいつはよほどの変態だな、と密かにリドルは思った。
「軍令シュトレゼマン。少々宮中が騒がしいとは思いませんか?」
話を振られたシュトレゼマンは重苦しい雰囲気を漂わせながら頷いた。今彼らが仮の宿としているカイルノートの王宮はちょうど5日ほど前からやけにゴタゴタとし始めていた。理由はわからない。聞いたとしても教えてもらえないだろう。
シュトレゼマンもその気配を察してかここ数日は全く寝ていなかった。もうかなり年なのに無理をする、とはるかに年長者のリドルはため息をついた。いざとなれば鬼気迫る活躍をしてくれるのだろうが、シュトレゼマンのような人間種にとってやはり睡眠は必要だ。
今年で80代にもなるが依然として羽飾りの軍令シュトレゼマンは精悍な顔つきと独特な気配を漂わせるヤシュニナの重鎮だ。白い美髯をなでながら近づいてくる威風堂々とした老人には貫禄があり、年上であるリドルもつい敬語になってしまう。もっともシドやアドウェナのような無礼を絵に描いたような人間は平気でやっほーシュトちゃんと呼ぶが。
「カイルノートは国家としては脆弱です。二万の兵士を有していると言ってもその平均レベルは30前半。軍団技巧を用いれば多少は使い物にはなるでしょうが、個々の実力ではいかんともしがたい面があり、同規模の軍と戦えば敗北は必至でしょう。もしそんな国がなんらかの事件に巻き込まれているとすればそれはいずこの国から軍事的、ないし経済的圧力をかけられた、と考えるべきでしょうな」
「ふみゅみゅ?でぇーも?今のカイルノートの王サマって白面の王キシュアだよねぇー。あの日和見主義者が慌てるってそれってどんな事態ぃー?」
「恐らくは脅されているのだろうな」
アドウェナの問いにシュトレゼマンは素早く答えた。それにはリドルも同意する。キシュアという男は常に安定を求めている。自国の国力の低さを自覚し、なんとかして生き残ろうと画策する策士だ。そのためには国土の切り売りだって平気でする。だが必ず最後の一線は譲らないし、いざとなれば国民総玉砕くらいはしそうな危うさを秘めていた。
そんな男が慌てるということは身近に下手人がいる、ということだ。誰だろうか、とリドルは一週間前に自分達を出迎えた時のキシュアの側近の姿を脳裏に描いた。
「軍令リドル。もし白面の王キシュアが脅されていた、として我らはどういたしますか?雨が上がれば竜狩りに出られます。その際に本国へ戻ることもできるでしょう」
「いや、それは。思うにこのまま我らが止まることに意味があるのでしょう。ヤシュニナの精兵3000ですらカイルノート軍2万でどうこうできるかと言われれば答えは否です。たった3000でも四小邦国群の一角を潰すくらいはできます」
質と量で比べれば多くの場合量が勝つ。だがコンキスタドールの一例があるように、あまりにもかけ離れた質と量ではその前提は意味をなさない。平均レベル50の猛者の軍団を相手にしてカイルノートが勝つ見込みは万に一つもありえない。
加えて今この場には氏令が三人とその副官にあたる将軍や大府が六人もいる。竜狩りに来た、というだけあって多くが武力に優れている。争って勝てないということはない。
「ぼっちゃんらがここに止まることがぁカイルノートの動きを封じることになるってことぉ?うーん?それってぇなんのためぇ」
「少なくともカイルノートが巻き込まれているゴタゴタに対応することはできような。首都に同盟国とはいえ他国の軍隊がいるという事実は相手の動きを鈍らせ、言い訳を立てやすくする。ひょっとしたら王キシュアはそれを見越していたのやもしれぬな」
「このままここにとどまり続けるぇうねー。そいつぁーぼっちゃんにとっちゃ別にぃ悪いことじゃーないけんどさー。なーんかつまらねー」
アドウェナはしきりに体を左右へと揺らす。その都度彼の無数の瞳をブーケの向こう側覗かせ、わずかにでも見てしまったリドルは不快な気分に襲われた。種族としての特性だからアドウェナに悪意がないことは理解している。だがあからさますぎれば嫌にもなる。
「本国にことわりもなく動くこともできませんしね。——とりあえず雨が上がり次第早馬を飛ばしましょう。ひょっとしたらシオン辺りが何かを掴んでいるかもしれない」
「そうあることを望ませていただこう」
そして5日後、リドル達はムンゾ王国が他の四小邦国群の王を王都レクシスへ参集したことを知った。
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次話投稿は8月19日21時を予定しています。




