帝国の使者
帝国暦531年、ヤシュニナ暦153年3月20日、グリムファレゴン島にほど近い海域にて二隻の巨船が並んで錨をおろしていた。どちらも五本マストの大型帆船であり各メインマストには各々の国旗が掲揚されており、互いの船には張り詰めた空気を漂わせる猛者達が牽制しあっている。
そんな絶妙な緊張感の間に少し大きめの船が漂っていた。
大きさはクルージングボートほど、船のほとんどを大机が占めておりその机を挟んで左右に三人ほど座っていた。片や仮面を被った者、鋭い八重歯を見せる男、そして鹿頭の獣人。片や身なりを整えた貴族然とした男達だ。年齢に差こそあれ全員が外見上は人種とわかる見た目をしている。
両者の間にはいくつかの紙束と孔雀石の小箱、そして漆塗りの小箱が置かれ、貴族然とした男達は仕切りに孔雀石の小箱へと目が泳いでいた。
「つまり貴国としては此度の一件はなかったことにする、ということですかな?」
中央に座っていた壮年の男性が口を開く。やや窪んだ瞳の男であり、並んでいる男達の中では最も歳をとっているように見える。その人生経験の豊富さゆえか彼の言葉は物怖じをする気配が一切なく、固い飾り襟が彼の胸部を強調しているせいか威厳さえ感じさせた。
「その通りです。エーデンワース卿。人類の防人であらせられる貴国と事を構えることほど西方の脅威を喜ばせるものは存在しません。少なからぬ混乱はかの蛮族の台頭を助長させるでしょう」
エーデンワースの問いに答えたアルヴィースは柔和な笑みを浮かべる。男も色を覚える美青年である彼に微笑まれ、エーデンワースの両隣の二人の男がそれぞれ頬を染める。しかし当のエーデンワース本人は全く動じることはなく、アルヴィースに続いて口を開いた。
「それは困ったことになりましたな。仮にここで決着したとてすでにヤシュニナの領海内にて外交交渉へ向かう予定だったテリス・ド・レヴォーカ伯が亡くなられた、と噂になっております。なかったことになればそれは無用な推測を民草に流布する結果になりかねません。それは互いに本意ではない。そうでしょう、アルヴィース殿」
めんどうな、とシドは仮面の向こうで顔をしかめた。今エーデンワースが口にした話が、今日この秘密会議が始まるまでに何らかの手段でテリスの死を把握した帝国の上層部が仕掛けた罠であることは明確だ。普段はさほど敵愾心を剥き出しにしていなくても自国の人間が他国で死んだとあれば扇動は容易だ。ましてネットなんて存在しないこの世界では事実の確かめようがない。言われたことを鵜呑みにするか、虚言だと笑い飛ばすの二択しか大多数の人間には与えられていない。
今ここでそれはお国の事情でしょうと返すことは容易だ。しかしそれでは戦争回避というシドやアルヴィースの目標が崩れてしまう。こちらだけがナイフを首元へ突きつけていたはずだったのに、気がつけば相手もナイフをこちらの首に突きつけていたなどちゃんちゃら笑えない話だ。
「貴国の要求は確か例の文書の返却と要人誘拐の責の公表でしたか。ですがその二つは真意ではないと愚考いたしますがいかがでしょう」
「こちらの質問が先です。アルヴィース殿は無辜の民が根も葉もない噂に踊らされる結果をお望みかな?」
「——それは本当に可能なことでしょうか?先月より西側の国境に10万以上の人員を動員している貴国が」
言い淀み沈黙するアルヴィースに代わり発言したのは鹿頭の獣人であるチェルシコイだ。アルヴィースと同じ議氏であり主に人口管理と労働環境の維持・改善を行なっている。大橋の議氏と呼ばれ、その所以は彼がまだ氏令となる前にヤシュニナ内の橋建設事業にて功績を収めたからだ。
その時の経験ゆえか、とにかく人事と労働事情にチェルシコイはうるさい。自国はもちろん他国の労働事情すら集められた情報からかなり正確に予測するほどだ。その彼が口を開いた、ということはよほど帝国の西方戦線がひっ迫しているということだ。
帝国が人口大国であるとはいえ、10万の国民を動員することは難しい。国民の大多数が農民ないし第一次産業に従事している帝国の主産業は無論、農業や林業だ。人手が多くいる仕事であり、特に春先の種まきの頃ともなれば、人員を引っこ抜かれてはたまったものではない。
それでも人員を徴集できたということは西部の国境、すなわち大長城と呼ばれる対西部最前線に異常があったことを意味している。だからだろう。エーデンワースは不愉快そうに眉をひそめた。
「前年、貴国は大規模な治水工事という名目でヴィッド男爵領へ3万人規模の国民を徴集していると聞き及んでおります。同じ時期に本来であれば軍内の定例人事で中央の首都に戻っているはずの第三軍計5万がなぜか同男爵領へ移動となっています。これは偶然でしょうか?」
エーデンワースは答えない。ただ黙ってチェルシュコイの言葉に耳を傾けた。彼の両隣で若い貴族がはらはらしながら状況を見守っていた。
「では続けましょう。過去10年の間に貴国は大規模な貴族家の領地替えを行なっていますね。中には家紋を剥奪された家もあったとか。その際の領地はすべて皇帝家直轄領となっているとか。そして大幅な財政変動と徴兵規模の拡大が各地で展開され、現在は予備も含めて80万規模の軍が帝国へ仕えている。すばらしい軍隊だ。
——ですが。いささかやりすぎましたな。帝国の徴兵法はたしか満18歳の男児並びに女児を3年間集団生活にて訓練させるというもの。訓練過程終了後は成績上位者は軍に在籍し、下位の者は予備役となる。ですがこれは働き盛りの若者を引っこ抜くという行為に他なりません。当然仕事の能率は落ちるし、税収は下がる。加えて軍の規模が大きくなればなるほどに締め付けられる度合いは半端なくなる。
その際たる原因が帝国の西方戦線。貴国が100年をかけて築き上げたあの万里の長城です。維持だけでも途方もない上に補修を欠かせば崩れ去る。ちょうど去年の国民徴集と第三軍の移動は城壁修理だったのでは?一体いくら死にました?どれだけ国民からその補填のために絞りました?本当に国民は噂に流されるだけの余力があるんでしょうかね?」
他国の財政事情、人事の事情まで把握できるほどヤシュニナの氏令は暇ではない。シドやチェルシコイのような例外こそあれ、ほとんどの他国の情報はヤシュニナ内にいくつかある情報機関が集めてくるものがほとんどだ。そして帝国西方について語る報告は決まって「芳しくない」か「ひどい状況」の二つだ。
帝国国民が自国の貴族の死に怒りを覚えたから、と言って出せる余力はそう多くはないとシドは考えている。平時の徴兵の時でさえ一部の村落が反抗して反乱を起こすほどだ。いわんや新税案が発布された後に「ヤシュニナを攻めるぞ」と言ったら国内がとんでもないことになる。
本当に帝国内でテリスの死が流布されているかも謎だ。例によってこの世界にネットはないし、電話もない。噂が流れているという話にすら疑いの目をむけなければならない。
何より、テリスの、というか帝国貴族の死は宮中を大いに激らせるだろうが、国民はどうだろうか。近場の地主が死んだからって許せない、となる人間が果たしてどれだけいるというのか。
「帝国について随分と物知りなお方ですな。ではこれもご存知でしょう。帝国はやると言ったことはやる国家である、ということを。この場においては我らは貴国の要件を呑みましょう。そちらの孔雀石の小箱と引き換えに今回の件はなかったことになりました」
「エーデンワース伯!?」「それでは皇帝陛下の御璽に逆らうこととなりますぞ!」
左右の若い貴族はエーデンワースの言葉に動揺した。それを見てシドは三者の関係性をなんとなく察した。つまり元々この秘密会談で帝国側から立っていたのはエーデンワースただ一人だったということだ。左右の二人はせいぜいが見識を広めるために同席した程度なのだろう。
そう考えると、とシドはエーデンワースの末恐ろしさを感じた。たった一人で嘘と脅しだけでよくもまぁ掻き乱せたものだ。きっと名うての外交官なのだろう。
外交の儀礼以上の会釈でシドは自分の船に戻っていくエーデンワースを見送った。対してエーデンワースはわずかな微笑をたたえて船内に入ってしまった。
「シド、あいつらは退くか?」
「いや?すぐにまた仕掛けてくるよ。あくまで帝国はこの件については手を引いただけだからね。右手がダメなら左手を。それが帝国のやり方だからな。エーデンワースも言ってただろ?『帝国はやると言ったらやる』ってさ。有言実行って嫌な言葉だよね」
「酒飲まないか?どうせ船の上で船室に閉じこもってるくらいしか俺らはできねーんだからさ」
「それもいいけど、俺はまだやることがあるんだよ。ちょっと探偵みたいなことをな」
「なんだそりゃ?」
適当にはぐらかし、シドは船底へと降りて行った。そしてとある一室の扉を開き、その中にいる人物に声をかけた。
「よぉ。元気?」
「突然ついてこいと言われ、こんなところに密輸品でも扱うかのように詰め込まれた人間が元気です、と答えるとでも?」
室内に広げられた海図をバックに眠たそうに一ツ目鬼の男は答えた。