#31 本当の姿
入道雲が聳える空の下に、青い山々が連なっている。俺たち三人はその中にいた。
Tシャツ越しに熱い木漏日を感じる。川のせせらぎが遠くに聴こえた。先頭のツキは緊張した面持ちだった。普段より速足だ。いつ自分の正体を思い出してもいいように、右手に千変鏡をしっかりと握っている。
「ここは西暦六〇〇年の日本です。過去のトゥキ様はこの近くに、元の姿のままでいらっしゃるはずです」
ツキの後を追いながらマキナさんが言った。声がいつもより高い。
「過去のツキは、いつどこでタイムスリップするの?」
俺の質問にマキナさんが即答する。
「この時点からおよそ三時間後、この地点から南へおよそ七〇〇メートル先の、海の上です」
「海?! じゃあ、ツキは海の生き物だったのか」
「わかりません。空を飛ぶ動物だった可能性もあります。獣が海を渡ることだってありますし――」
「二人とも、静かに」
ツキが立ち止まった。俺は身を屈め、その視線を辿った。
木々のあいだを褐色の獣が歩いていた。細身の犬のような動物が、五頭くらいの群れをつくっている。俺は思わず指を差した。
「お、狼だ……!」
ニホンオオカミだった。確か明治時代に滅んでしまって、二十一世紀には一頭も生き残っていないはずだ。それが目の前で生きて動いている。俺は感動でしばらく身動きできなかった。
けれど、ツキは表情を変えなかった。オオカミたちが通り過ぎると、何事もなかったようにまた南へと歩いて行った。
松林を抜けると海に出た。何気なく振り返ると、富士山があった。よく見ると頂きから煙がたなびいている。けれど、紛うことなき富士山だ。俺は「おおっ」と感嘆の声を上げた。
俺はこの時代のこの場所を、遥か昔の遠い国のように思っていた。深い森も鳥の囀りも、ジュラ紀のジャングルや翼竜の声と同じように見聞きしていたんだ。だから、お馴染みの景色を見て意識ががらりと変った。ここは日本なんだ。自分の住んでいる場所と地続きの世界なんだ。
波間にパシャリと飛沫が上がった。
「あっ、イルカがいます!」
マキナさんが昂奮気味に言う。俺は飛沫の上がったほうを注視した。けれど、遠過ぎてイルカかどうか分らない。
「ツキ、イルカだってさ」
ツキは「そう……」と素気ない返事をした。海をさらりと見ただけで、そさくさと先へ行ってしまう。マキナさんと俺は顔を見合せた。
「あっ、雀だ」
竪穴式住居の並ぶ小さな村のそばで、スズメが群れていた。ちゅんちゅん鳴きながら地面を跳ねている。俺の家の庭と少しも変らない光景だ。
けれど、ツキは見向きもしなかった。柵に沿ってすたすたと歩いてゆく。
俺はマキナさんを見た。彼女も黙っている。車内では様々な色の光が目まぐるしく点滅していた。
「なかなか見つからないな」
丘の上に三人並んで腰を下ろす。俺の言葉に、ツキがこくりと頷いた。
のどかな景色だった。丘の下に田んぼが広がっている。ツキはマキナさんに肩を寄せ、うつろな目でそれを眺めていた。
稲が揺らいだ。田んぼが波打つ。その波がザアッと近づいてくる。熱い風がやって来て、俺たちの間をすり抜けた。ツキの真白な髪が青空になびいた。
「田んぼの中に何かが」
マキナさんが言った。俺は遠くを見た。青々とした田の中に、細身の白い影がある。それが五つ、六つ、七つ――十ほどの群れを作っている。
ツキがゆっくりと、どこか怖がっているような表情で立ち上がった。千変鏡を握っている。その目は白い群れに釘付けだった。
白い影が一つ飛び立った。鳥だ。大きな翼を広げて悠々と飛んでいる。その翼の内側は、朱色がかったピンク色だった。俺はその鳥の名前を知っていた。
「トキだ」
「ニッポニア・ニッポン」
ツキが呟いた。
ツキのオレンジ色の瞳に、トキたちの姿が映り込む――赤い脚で歩み、水田に波紋をつくっている。くちばしは黒く細長く、弓のように曲がっている。真赤な顔にオレンジ色の目玉がついていた。
「トゥキ様……?」
マキナさんがおそるおそるツキの顔を覗き込む。
トキ、ツキ、トゥキ、チョキ――頭の中を言葉が飛び交った。四つの言葉が溶け合って、一つになる。
「そうか……!」
俺はツキの両手を取り、言った。
「ツキ、君はトキだったんだよ!!」
ツキが「はっ」と息を飲んだ。千変鏡を握る手に、力が籠る。鏡が白く光った。ツキの体が変化した。頭から青いリボンが外れ、草の上に力なく落ちる。
橙色の大翼を太陽に透かして、一羽のトキが空高く舞い上がった。
群れのトキたちも驚いて飛び上がる。どれがツキなのか、あっという間に見分がつかなくなってしまった。
飛び交う群れをマキナさんと眺める。随分あっさりとした別れだった。俺は拍子抜けた。
「……行っちゃった」
「いいえ、戻ってきましたよ」
旋回していた一羽のトキがこちらへ飛んでくる。その胸元で何かがきらりと光った。四次元ペンダントを身につけたツキだ。
俺たちのそばに降り立ち、いつも通りの白髪の美人に変身した。
「お帰りなさいませ」
マキナさんが言った。ツキは釈然としない表情で「ただいま」と返した。
「どうして帰ってきたの。せっかく本当の姿に戻れたのに」
「それが……」
ツキが拾ったリボンをもてあそびながら、言いにくそうに答えた。
「空を飛びながら群れを見下ろしたの。一羽々々、何をやってるのかよく見えたよ。……みんな餌をついばんだり、羽繕いをしてるだけだった。ここで暮しても、つまらないと思う」
声が尻窄みになる。力ない声で、自分に問いかけるように言った。
「僕は元の体に戻って、一体なにがしたかったんだろう」
マキナさんの車内で仄暗い光が灯っている。俺とマキナさんは顔を見合せた。そして提案した。
「一旦、俺の家に戻る?」
ツキは素直に頷いた。
「うん。戻る」
 




