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青い魔女の通過儀礼  作者: 籠り虚院蝉
Ⅰ 青い魔女と記憶失き獣
20/77

Ⅰ-17 猛獣の疾走

「別に、どうもしないわ。ただ」


「ただ?」


 そこで私は俯いた。しばらく黙ってから控えめに言う。


「記憶を取り戻しても、あなたは何も変わらないでいてほしい」


「えと、どういう意味」


「そのままの意味よ。記憶を取り戻したら同時に元の性格も取り戻すというのはよくある話じゃない。あなたもそうなのかはわからないけれど……エリクでもなくて……私は今のマルールが好きだから、そんなふうになってほしくない──て、何言ってるのかしら、私。ごめんなさい。忘れてちょうだい」


 言葉の中途まで言って、少し慌てて言い直した。すると、私のそんな様子を見て琴線に触れるものがあったのか、肩をそっと引き寄せてくれる。


「ありがとう。エルネスティー」


 今のわたしのこと好きでいてくれて、嬉しいよ、と耳元で囁くように言われ、妙に気恥ずかしい気持ちになる。そんな気持ちに耐えられず、私は慌ててマルールの腕から離れた。


 そして繕うようにまくし立てた。


「それじゃ、私ちょっとクランのところへ買い物に行ってくるから、ベッドの中でおとなしくしているのよ」


「うん、わかってる。行ってらっしゃい」


 顔が熱くなっているのを悟られないよう急いで部屋から出ていく。マルールは笑顔で手を振って私を見送ってくれた。一旦気を落ち着かせるため、扉に背を預けて静かに大きな息を吐く。


 マルールの気持ちは痛いほどわかっている。素っ気なく接して、体の模様も見せたのに、それでも彼女は私を「好き」だと言ってくれて──素直になれない自分がいる。


 マルールの姿がエリクと重なっていつまでも剥がれないのは、大変なものを残したまま消えてしまったエリクが、今の私を素直にさせてくれないからだろうか。ただの責任転嫁とわかっていても理不尽な終わり方をされてしまっては、私にだって、どうにもならない。


 扉から背を離すと音を立てないように歩き出した。クランのところへ行って新しい薬の材料を買わなければならない。


 マルールが来てから治療薬の効能の検査が容易になった。エリクが消えマルールが訪れるまでの期間は、もっぱらその技術の向上に打ち込んでいたから量産体制は整っている。それが功を奏していたのか、エリーヌの難病にも対応できるほどの治療薬を準備することができていた。


 それだけ、長い長い時間を機械人形のように過ごしていたのだと。


 マルールに直してもらった財布を取りに向かう通路で、不意に喉がつかえる感覚がして立ち止まった。手で顔を覆う。


「今さら……」


 泣いてしまうだなんて、いつ以来だろう。そういえば、エリクが消えてからもうずっと、泣いていない気がする。


 はっとした。泣いても意味がないなんてわかりきっているはず。それなのに、私はまた誰かにすがろうとしている。今まで生きてきてそれが報われたことなんて一度も無かった。マルールだって時が来れば私の前から消えてしまう存在には違いないのに。


 私は、いつだって置いていかれる存在なのだから。


 つかえていた喉を深呼吸で黙らせ、顔を覆っていた手を離すと、また財布を取りに歩き出した。お店でクランが待っている。


 家を出て商店街を通り抜け、路地裏へと体を滑らせた。その道を何度か曲がるとクランのお店はすぐそこだ。


 私は扉を開けて中に入った。


「クラン、来たわ」


「あ、エル姉。待ってたんだよ」


 中に入るなり私の姿を視界に入れたクランが飛び込んでくる。私は少しかがんで飛び込んできたクランを抱きしめた。


「ごめんなさい。少し野暮用で遅くなって」


 謝罪の言葉を入れると、クランは少し口を尖らせて言った。


「んもう。まあいいけどね」


 そうして彼女は私から離れ、私を見て訊ねる。


「それで、今日は何買うの?」


「今日はキングコブラの毒と麻の葉」


「麻薬でも造るの?」


「麻酔ね。それと、子どもが簡単に麻薬とか言わないの」


「はあい」


 素直でよろしいと言うとクランは、エル姉は座ってて、と椅子に座らせ品物探しに駆け出した。


 それで朧気ながら気づかされるものがあった。早くに父親と母親が亡くなってしまったクランでさえ、努めてこんなにも元気であろうとしている。それに比べて私はいつまでもいつまでも、こんなに暗い性格でクランにも申し訳が立たない。


「クラン」


「ん、なあに」


「私のこと、どう思うかしら」


 突然の私の問いに彼女は呆気にとられたらしい。棚に手を伸ばしながらこちらを向き、口を「え」の形にして動かない。しばらく待っていると、体をかたかたと震わせながらこう言った。


「も、もしかしてエル姉、あたしのこと」


「ええ」


「あたしのこと、好きなの?」


 もじもじしながらそう言うものだから、何か勘違いしていそうだとすぐに気づいた。けれど、クランが好きなことには変わりない。やんわりと答えつつ、真意を言う。


「クランは好きよ。大好き。でも、そうじゃないの。私は今のままでいいのかしら。もう随分前からこんな自分になっているけれど、マルールと会ってから、いつまでもこんな自分でいいのかなと思い始めてる」


「エル姉……」


 クランは品物探しをやめ、親切にも私の手をとってくれた。


「顔、上げて、エル姉。こっち向いて」


 言われるがままに顔を上げると、目の前にはクランの顔があった。けれども、その表情はこれ以上ないほどの笑顔で、まるで綺麗な花が咲き誇っているように見えた。


 クランは笑顔のまま言う。


「そういう時は笑えばいいんだよ。無理やりにでも笑うと、そのうち嫌でも笑いがこみ上げてきちゃうから。そうしたらこっちのもの。いっぱい笑えばいいの。嫌な気持ちをなんでも吹き飛ばしちゃうんだよ」


 ね、だから笑ってみよう。


 そう言ってまた花が咲いたように笑ってみせるクラン。そんな彼女の顔を見ていると、たしかになんだか可笑しくなってきた。お腹に少し力が入り、わずかにほほえむほどの笑いが自然と漏れる。そうすると先ほどのしんみりとした気分も晴れ、私は優しいクランの頭を撫でた。


「ありがとう、クラン。おかげで元気が出てきたわ」


 そう言ってほほえむと、彼女は「やっぱ惚れちゃうよね、そりゃ」と意味深な言葉を漏らした。


「どういうこと」


 ああ、と気づいたように改めてこちらを向く。


「いつかマルールに買い物を頼んだ時があったでしょ。ほら、イクラ」


「ええ。そんなこともあったわね」


 クランは考え込むように腕を組んだ。


「その時一緒に喫茶店に入ったんだけど、ちょっとだけお話したの。エル姉について」


「なんて」


「どうしてそんなにエル姉を気にするのって言ったら、一緒にいたいんだ、って言ったの。どうしてかわからないけど一緒にいなきゃいけないとかなんとかで。それで、エル姉の病気のことも話しちゃった」


 まさか、と眉間に力が入る。


「言ったの」


「全部じゃないよ。体に模様が浮き出て、治し方がわからないってだけ」


 慌てて言うクランに、私は静かに息を吐いた。


「言う訳ないじゃない。だって、いくらマルールでも全部病気について知っちゃったら、きっと驚いて、幻滅して……本当にエル姉のこと、嫌いになっちゃうかもしれないから」


「……クラン」


 私は全てを言わないでいてくれたクランに感謝した。全てを知られてしまえば、いくらマルールでも、幻滅され避けられてしまうのは目に見えている。


 町の人たちが私を嫌う本当の理由も言葉にはあえてせず隠している部分にある。町の子どもたちの親はきっと「黒い模様が浮き出るから、魔女に近寄っては駄目だよ」というくらいの言い聞かせに過ぎないのだろうと思う。しかし、そんな子どもたちも日々を過ごしていく内に、私が抱えている病気の本当の恐ろしさに自ずと気づいてしまう。


 そして、それはきっとマルールも同じに違いなかった。私を好きでいてくれるというその気持ちは私に本物の愛を与えてくれているのだと思う。しかし、だからこそ長くいると、その愛は名実ともに衰えていってしまう。


 エリクは知らずに消えてしまったが、マルールはきっといつか気づくだろう。だって、彼女はそれだけ私を好きでいてくれている。近くにいすぎて、近寄りすぎて、重大な秘密を知ってしまった時、誰だって距離を置きたがる隠し事なのだから。


「エル姉は悪くないよ。悪いのはエル姉をいいように使ってた悪い人たちなんだから。そうでしょ」


「ええ……そうね」


 クランのフォローに私は力無く応えた。こんな小さな子どもに励まされてしまうなんて、彼女の両親にも申し訳が立たない。


「私は大丈夫。さあ、目的のものを包みましょう」


 もう元気になったから、と言うと嘘になると思われたけども、私はしゃんとした声でクランにそう告げると、毒物の棚に向かった。


「うんっ」


 クランは弾けるように返事をすると、私についてくる。


 そして、私はキングコブラの毒を数グラムと麻の葉の束を包み終え、クランのお店を出る。店を出ると来る時には降っていなかった雪が視界を遮るほどにちらついていた。乾燥したアンルーヴの町には珍しく綺麗な牡丹雪になっている。


 青のフードを目深に被り、降りしきる雪をしのぎながら気持ち急ぎめで家路を歩く。短時間で降り積もった雪は歩くたびに甲高く鳴った。この珍しい天候のためか、周囲には人っ子ひとりいない。


 かのように思われた。


 私の背後で誰かが雪を踏みしめる音が聴こえる。しかも一定の距離を置いてついてきているのか、その音は近づくことも離れることもなく、私の背後にぴったりとくっついているように思われる。


 誰かがつけている。


 一体誰が、クランかしら、と思うが、クランなら一目散に私へ駆け寄ってくるはず。ドックスおじさんもミゼットおばさんも、私に用があるならばまず初めに呼びかけるはずだし、ジャックやエリーヌならばそれはなおさらだと思う。


 しかし、そうではないのは、彼らとはまったく違う別の誰かだから。


 考えて一気に怖気が走った。私の知らない誰かが私をつけている。目的がわからない以上、わざわざ振り返るのも相手を刺激するだけだと感じた。ここは平静を装って注意しながら家へたどり着いたほうがいい。家にたどり着けばマルールもいる。そうしたらマルールに事情を説明しよう。マルールならきっと守ってくれる。


 誰かに後ろをつけられるなんて、こんなことは初めてだ。けれど、ここで焦っては元も子もない。私は焦りと不安を悟られないように、さもこの天候から自然と逃れる限りの早さで歩き続けた。そして、ようやく目的地の入り口が見えた。


 背後についている謎の存在はまだ一定の距離を保っている。そして、その距離はだいぶ、遠い──距離が一気に詰まり出した。雪を踏みしめる音も気配も全力で走っている。


「……っ」


 距離は、もうすぐ後ろまで来ていた。振り返ると顔は──猪?


「っ……!」


 叫び声を上げるよりも先にするりと手首を強く掴まれ鋭い痛みを感じると、途端に私の体から力が抜けて雪の上に膝を着く。買った物を落としてしまい、同時に強烈な睡魔も襲ってきた。


 何をされたのか一切わからないまま、私は意識を手離した。



━━━━━━━━



「ん……」


 身じろぎすると、手首に痛みが走った。


 そして、首も手も足も、革のようなベルトで縛られているのがわかる。白く丈の長い衣服に身を包まれ、少し視線を巡らすと青のクロークと黒いドレスがぞんざいに投げ捨てられていた。


「目が覚めたか」


 くぐもった声のするほうへと視線を向けると、そこには猪の頭をした人の姿があった。しかしそれは被り物のようで、それを掴むと脱いでみせる。


「ようこそ。お姫様」


 知らない顔の男がにやりと笑った。中年を思わせる白髪混じりの黒髪に綺麗に整った顔つきはどこかの貴族のような印象を受ける。雰囲気は狂気的。腰には大小さまざまな形のナイフがぶら下がっている。


「あなた、誰」


「Cold Boar。初めまして」


 Cold Boar、エリクの残したレースのハンカチに残されていた詩にも、同じ言葉が書かれていた。今一度、その詩を思い出す。




 Cold Boar


 忘却の彼方にぶんなげろ


 悪しきこの名前 牙振るう遊撃の士


 忘却から現れた 過去の亡霊が囁いている


 報いを受けよ


 Erricc Erricc 失ってしまった


 過ぎ去ってしまった Ernestii Ernestii


 耳を傾けてくれよ


 呪われた人の 呪われた願いを


 Corps De Bois




 悪しき名前、牙振るう遊撃の士、この男がCold Boar、しかしエリクではない。


 どういうことかわからない。


「Cold Boarというのはあなたの名前なの」


「違うな。Cold Boarは最高の栄誉。世界最強の遊撃隊の、そのリーダーに与えられる呼び名だ。自分は名をフォルジェロと言う」


 詩に書いてあった言葉と同じだ。しかし、その遊撃部隊のリーダーに与えられるという称号をエリクが知っていた理由とは──彼が、Cold Boarだったからなのか。


「フォルジェロ、ね。Cold Boarについて、ひとつ質問があるのだけど」


「冥土の土産さ。言ってみな」


「これまでのCold Boarに一年以上部隊に帰ってくることのなかった人はいるかしら」


 はっ、とフォルジェロは嘲笑する。


「Cold Boarの結束は強かった。だが皆、一度離れてしまえばただの放浪者と同じ。中には自分のように暗殺業を続けているやつもいるかもしれないが、そいつを知っているやつも極少数だろう」


 フォルジェロは言う。「さて、ここに連れてきた理由がわかるな、魔女」


「ええ」言われなくとも「私を殺すためでしょう」


「ご明察だ。さすが魔女。だが、ただ殺すだけじゃつまらない」


 見ろ、と指された方を見てみると、そこには様々な鉄の塊が並べられていた。「何するの」


「女の悲鳴はそそられる。お前はなかなかしぶといらしいし、楽しませてもらうよ」


 意地悪く口を歪めて笑うフォルジェロ。こんな卑しい人間がエリクのような人間の地位に座する事ができてしまうのか。エリクも、記憶を失う以前はこんな性格だったというのか。思いたくない。


 けれども、ここで死ねるのならば、それは私にとって本望かもしれない。


 極一部の優しい人に救われてきた。でも私の病気のせいで、必ずその人たちの死を目の当たりにしなければならない。いくら時を経ようと私は変わらない。ただ彼らが変わり果ててゆく姿と、その死を見届けることしかできない。嫌な目にも、痛い目にも、死んでも死に切れない目には数え切れないほど遭った。そして、これも恐らくそのひとつになる。


 もう、生きるのに、疲れた。


「殺せるなら殺してみなさい。その前に、きっとあなたが死んでしまうから」


 だから、絶対に私を殺せないフォルジェロに向けて、私は声が震えてしまうほどに哀れみの言葉をかけたのだった。


 しかし、フォルジェロはその言葉を挑発と受け取ったのか、顔と声を憎悪に染めて言い放つ。


「いいだろう。そんなに気持ち良くなりたいようならさっさと始めてやる。そうだな、最初は」


 こいつがいい、と手に取ったのは鉄槌と太い釘だった。


 こちらににじりよるフォルジェロを尻目に、私はそっと瞼を下ろす。

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