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後編

 結果的に(あおい)の両親は、高遠紫(たかとう ゆかり)の提案をのんだ。正確にはのまざる得なかった。蒼が千秋と離れたがらないのだ。それに、誘拐事件は大々的にマスメディアに取りざたされて、蒼や家族の情報がどんどん世の中に流布された。父親は一度だけメディアの前にたち、娘を静かな場所で療養させることと、警察は引き続き犯人の捜索を続けるということ、どうかそっとしておいてほしいことを述べるに止めた。


 月島夫妻は必要最低限のものをトランクにつめて、田中の運転する車で高遠家へやってきたときは、その邸宅と敷地の広さに驚いていた。明治ごろに建てられ洋館の威圧感、迷子になりそうな広い庭。出迎えてくれたのは高遠夫妻と先に高遠家に越していた自分たちの娘、そして五人の使用人らしき人々だった。

 蒼は千秋からもらったサングラスをかけ、残暑の厳しい夏だというのに長袖とジーンズ姿だった。表情もよく読み取れないことが、母親の月島陽子は不安だった。


(いつになるのかしら……)


 一生このままではないと佐久間先生はいっていたが、陽子の不安はどうしても払拭されなかった。夫の時郎(ときお)も同じように不安を抱いていた。使う部屋に案内され、荷物を整理して一階のリビングへ降りる。

「くつろげそうですか?」

紫は、微笑んで尋ねてきたので、陽子は慣れるまで時間がかかりそうですと苦笑いを浮かべた。

「古くて大きいだけの家ですからって言っても、緊張が解けませんでしょうけど……そうね、ちょっと奮発していいホテルに家族で泊まりに来ていると思ってすごしてみてください。お仕事の方はどうです。ここからは遠くなるっていってらしたけど」

「ええ、二駅ほど遠くなります。会社側と話し合って、半日出勤という特例を作ってもらいました」

「あら、それはいいわ。朝は千秋が学校だから、蒼ちゃん勉強がしたいみたいなんですけど、私や他のひとだと緊張するみたいで。陽子さんが見てあげれば、きっと安心だわ」

「そうでしょうか」

 陽子は不安をこぼす。

「大丈夫。病院にいたときより、健康状態もよくなりました。ただ、まだ表情や言葉を発するのはできないんですけど。それにお母さんが回復を信じてあげなくちゃ、がんばってる蒼ちゃんに申し訳ないとおもいません?」

 紫は最大限、蒼ががんばっていることを強調した。陽子はそれを聞いて恥ずかしそうに笑った。

「そうですね。あの子が一番つらいのに、がんばっているのに……私が信じてあげなくちゃダメですよね」

「ええ、陽子さんには陽子さんにしかできないことがあるんですから」

 紫にそういわれて陽子はなんだか落ち着いた気分になった。夫の時郎は、会社が近くなり通勤に問題はない。ただ、蒼の頭を撫でようとすると、彼女が一瞬身を引くようにするのがショックで悩んでいるようだった。それについては、佐久間先生から男性に対しての恐怖心が反射的に出ているだけですから、決して蒼のまえで傷ついたそぶりを見せないよう注意されている。時郎にはそうしない自信がなかったので、残業だけ免除してもらい、普通に会社に勤めることになっていた。こうして、月島一家の高頭家逗留がはじまったのだった。


 一週間ほど経つと月島夫妻も緊張がとけたようで、親戚の家にいるようなくつろぎを感じ始めていた。蒼も午前中に母に勉強を見てもらうのがうれしい様子で、陽子が仕事に行く時間になると必ず見送りに玄関に立って手をふるようになった。時郎にたいしても、触れられることを恐れなくなり、時郎は仕事からかえってくると必ずただいまといいながら、蒼の頭を撫でた。

 そして、千秋に対してはすっかり懐いていた。千秋が学校から帰ってくるなり、本を持って部屋にやってくる。読んでほしいと差し出すのだ。千秋はその仕草が可愛くて、蒼を膝にのせて本を朗読する。最初はほとんど棒読みだった。最近はうまく抑揚がつくようになった。蒼がもってくる児童書は、はなやぎみどりという作家の児童文学で『魔法の使い方』というシリーズだった。

 物語の主人公は、コトダマという魔法を使いさまざまな困難を乗り越えていく、そんな話だった。蒼がその本を読んで欲しがる理由を最初はわからなかった千秋だったけれど、口がきけない自分の呪いを千秋に解いてほしいと願っているのかと彼は解釈していた。

 物語の主人公がコトダマを使うことで、さまざまな苦難を抱えた人を助けることがあるのだ。蒼はしゃべりたいと思っているのにしゃべれない自分が歯がゆいのかもしれない。

 そして、両親といっしょに眠っていた蒼だったが、怖い夢をみると決まって千秋の部屋にやってきた。最初は千秋も戸惑っていた。どうしたとたずねたところで説明はできないことはわかっている。だから、あてずっぽうで千秋は言った。

「怖い夢をみたのか?」

 蒼はこくりと頷く。

「お母さんたちは?起こせなかった?」

 こくり

「俺といっしょに寝るか?」

 こくり

 千秋はわかったと言って、横になっていたベッドの上の自分の体をすこしずらして掛け布団をめくる。蒼はサングラスをかけたまま、おずおずとベッドに入った。

「サングラスはずさないとこわれるぞ」

 蒼は首をふる。まだ、顔を見られるのが怖いのだと千秋は悟った。

「そうか、じゃあ、俺は背中向けて寝るから、サングラスははずして、そのテーブルに置くんだ。いいか?」

 蒼は、こくりと頷いた。

 よしっと千秋が笑いながら頭をなでると蒼は少し笑った。約束通り、千秋が壁側に向い蒼に背を向けるとサングラスを外してベッドサイドのテーブルに置く音がした。そして、小さな蒼の手が千秋のパジャマをにぎり、頭を背中につけてすぐに寝入ってしまった。

 以来、怖い夢をみるたびに、ふたりは一緒に眠るようになった。


 そんな風に過ごして、一月経ったある日曜日。天気がいいからと紫が全員で庭で食事をしましょうと提案した。丁度、庭の大きな楓が赤々と染まり、銀杏の黄色も美しく輝きはじめたころだった。楓の樹の下に大きなシートを引き、紫と陽子、料理を担当している尾崎の作った運動会のときのようなにぎやかな食べ物がならんだ。

 蒼はそのころになると表情が少し戻ってきたようで、小さく笑えるようになっていた。そして、みんなで楽しく食事をしていたとき、奇跡はおきた。千秋の隣にいた蒼が小さな声で「ちぃ」と千秋をよんだのである。

「今、なんて」

「ちぃ……」

 俯かないように必死で蒼は言った。それは千秋と呼ぼうとしていることが、その場の全員にはわかった。千秋は満面の笑みで答えた。

「よし、俺は今日からちぃだ。蒼、他に何か言えそうか」

蒼は立ち上がって、両親を見つめた。口を何度かパクパクと動かして、のどから絞り出すように「パパ、ママ」と言ったのだ。陽子と時郎は、わが子をぎゅっと抱きしめた。もう、それだけで胸がいっぱいだった。

 それからの蒼は片言で話をできるようになり、怖い夢を見て千秋のベッドにもぐりこむ回数も減り、二か月目に月島一家は、陽子の実家に引っ越すことをきめた。

 旅立つその日、千秋は蒼とほとんど変わらないくらいの大きな熊のぬいぐるみを彼女に渡した。

「こいつはちぃだ。怖い夢をみないように蒼をまもってくれるからな」

 蒼は泣きそうな顔で一生懸命笑って頷いた。



 あれから十年、十歳だった蒼は二十歳になり大学に通っていた。千秋は大学時代に株式や為替などで、一生遊んで暮らせるほどの資産を築いたが、二十七歳で小さな出版社のオーナー兼児童書の編集長となった。もともとそこの会社は、蒼の好きだったはなやぎみどりの作品を出版していたところで倒産しかけていたところを、まるごと千秋が買ったのである。そして児童書以外はネットによるダウンロード型小説の販売とライトノベルの出版をはじめて、なんとか二十人の社員を食わせていけるだけの収入を得られるようになった。


 そして、蒼はオトナシアオという作家としてダウンロード版およびライトノベルの作者として千秋の会社と契約を結んだ。そのとき、編集を担当した岡部あゆみと千秋、蒼でデビューのお祝いとしてささやかな食事会をした。だが、蒼は千秋のことをすっかり忘れていた。千秋は忘れられていることにショックをうけた自分にショックだった。それでも、元気そうに笑い、どんな物語が書きたいと夢を話し、笑う蒼をみて


(思い出さない方がいい。それでいいんだ)


と自分に言い聞かせるようにして、オーナーとして児童書の編集として彼女との再会を喜ぶことにした。それと同時に彼女への愛情を当分は微塵も表に出さないようひっそり心の奥にしまっておくことにしようと誓うのだった。



 蒼を誘拐した犯人は、あの公園の近くに住んでいた医者の息子だった。蒼が田舎に引っ越したあと、警察は証拠を固め、犯人の家に家宅捜索をかけた。そして、家の地下室はいると、おぞましい光景を目にする。大量に壁に貼られた少女たちの写真。児童ポルノと思しき雑誌や本。標本の作り方や防腐処理に関する本もころがっていた。そして何より衝撃的だったのは巨大な水槽に十歳前後の二人の少女が白いロリータ服で着飾ったままホルマリン漬けにして飾られていたことだった。母親と父親は共犯として逮捕され、当の息子は地下室のシャワールームで練炭をたき、すでに自殺を図って絶命していた。こうして、少女誘拐事件は、陰惨な殺人事件として幕をおろしたのであった。


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