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THE RE-BUILDER —深宇宙の修復者—  作者: 寝不足魔王


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第40話:沈黙の炭鉱、動力の枯渇

 拠点の隅で、唯一の文明の証であった制御盤のインジケーターが、不吉な橙色の明滅を最後に、吸い込まれるように黒い沈黙へと堕ちた。


 その瞬間、エリックを襲ったのは、耳を劈くような「音の消失」だった。二百八十年の間、一度も途切れることなくミラの周囲で微かな唸りを上げていた生命維持装置の冷却ファンが、慣性のままに数回空転し、やがて物理的な死を告げる静寂へと至る。情報の海やエデンの騒乱とは異なる、絶対的な「無音」。それは、惑星の冷酷な重力だけが支配する現実が、拠点の隅々までを侵食し始めた合図だった。


「……アステリア、バイタル。……ミラの、体温を……出せ」


 エリックの声は、熱を失った大気の中で白く凍り、虚しく霧散した。義手内のチップへ問いかけても、網膜に投影されるはずの黄金色の数値は現れない。砕けた右目のサイバーアイは、電力の供給を断たれたことで構造解析を停止し、今はただ、ひび割れたレンズの隙間に固着した自身の鮮血と、死んだピクセルが作り出す黒い斑点ノイズで視界の半分を塗り潰している。


 エリックは生身の右手を伸ばし、ミラのポッドの強化ガラスに触れた。指先が触れた瞬間、そこにあるはずの「管理された温もり」は消え失せ、代わりに惑星の冷気を吸い込んで急速に結露し、凍りつき始めた氷の層が、彼の指の皮膚を無慈悲に貼り付かせた。ガラス越しに伝わってくるのは、ミラの命が外部へと漏れ出し、周囲の闇へと溶け出していく「熱の逃走」の感触だった。彼女の指先が、見る間に血色を失い、青白く透き通っていく。


『……エリック、……電力、完全……喪失。……私の、……思考領域を……九割……閉鎖……。……ミラを、……このままでは、……あと……三十分で、……心肺停止……』


 義手の奥底から聞こえるアステリアの声は、電圧降下によって音程が不気味に歪み、錆びた歯車が擦れ合うような異音に変わっていた。エリックは右手の掌を自身の左胸、あの決して凍ることのない火傷の傷跡へと押し当て、肉を焼くような疼きで自身の意識を覚醒させた。

 計器の針は自重で力なく垂れ下がり、回路を流れる電子の鼓動は絶えた。だが、エリックは泥にまみれた右手を握り込み、暗黒の地底へと続く岩山の亀裂を睨みつけた。電気という清潔な血が止まったのなら、この星の臓物から、煤と煙に塗れた「黒い熱」を力尽くで引き摺り出してやる。エリックは冷え切ったミラのポッドに自身の毛布を被せ、一本の錆びたスパナを杖代わりに、底知れぬ闇が口を開ける地底への潜行を開始した。


 岩山の麓に口を開けた亀裂は、地表の冷気さえも拒絶するような、重苦しく湿った闇を湛えていた。


 エリックは右手に、船の廃材と樹脂を焼き固めた急造の松明を掲げ、一人その喉元へと足を踏み入れた。砕けた右目のレンズ越しには、松明の揺らめく火光が乱反射し、赤黒いノイズとなって視界を遮る。彼は生身の左目を細め、天井から絶え間なく滴り落ちる、不純物を含んだ泥水の「ピチャリ」という粘りつく音に耳を澄ませた。一歩進むたびに、足下の腐植土から噴き出すメタンに近い鼻を突く異臭が、肺の奥底を直接汚していくような不快感をもたらす。


「……アステリア。深度、……三〇メートル。……記憶にある……『層』は、まだ先か」


 問いかけに対する返答は、義手の内蔵スピーカーを介したものではなかった。電力を失った義手は、もはや主人の意志で動くことのない、数〇キログラムの冷徹な「鉄の枷」としてエリックの左肩を圧迫している。アステリアの意識は、エリックの脳幹に直接触れるような、か細い電気信号の「脈動」としてのみ存在していた。


『……エリック、……酸素濃度、一四パーセントまで……低下。……この先、……地層の歪みが……集中しています。……崩落の、……音を、……聞き逃さないで……』


 脳裏に直接響く彼女の声は、電圧の不足によって細く、今にも情報の深淵へ消え入りそうな震えを帯びていた。エリックは右手の掌に、松明の火が発する生々しい熱と、煤が肌にこびりつくざらつきを感じながら、地底の圧迫感に抗った。頭上の岩盤からは、惑星の重力がもたらす「ギギ、ギ……」という、岩同士が数トンの力で押し合い、軋む断末魔のような構造音が絶え間なく降り注ぐ。


 エリックは自身の右肩で、湿った岩肌を抉るようにして進んだ。ナノマシンによる構造解析を失った彼は、自身の生身の肩に伝わる振動の「質」だけで、この地層が崩れるか否かを判断せねばならない。背後の拠点では、ミラの体温が刻一刻と失われている。その事実が、閉所恐怖に似た窒息感を、生存のための冷徹な衝動へと作り替えていた。エリックは、松明の光が照らし出した、粘土層の奥に隠された「黒い断層」の端を捉え、血走った眼で闇を睨み据えた。


 エリックは、粘土層の奥に沈む黒い岩盤の前で、動かぬ左腕の義手を垂直の支柱として壁面に強く押し当てた。


 彼は右手の錆びついたスパナを逆手に握り、その硬い顎を岩の裂け目へと力任せに突き立てた。かつてであればナノマシンによる超振動が一瞬で岩を砂に変えていたはずだが、今の彼にあるのは、泥に汚れた自身の筋肉と、重力に逆らう執念だけだ。エリックは右手に拾い上げた別の鋭利な石塊をハンマー代わりにし、スパナの柄を渾身の力で叩き付けた。


 カキンッ、という、閉塞した空間を切り裂くような鋭い打撃音が響き、火花がエリックの鼻先で爆ぜた。

 暗黒の底で散ったその火花は、砕けた右目のレンズに乱反射して網膜を灼き、焦げた火薬のような匂いを立ち昇らせる。一撃ごとに、右肩の三角筋が引き千切られるような激痛を上げ、首筋の血管が怒張して心臓の拍動を脳髄へと直接叩きつける。ナノマシンの補助を失った生身の肉体は、一回の打撃ごとに莫大な酸素と糖分を要求し、エリックの肺は酸欠の地底で「ヒュー、ヒュー」と悲鳴に似た喘鳴を漏らした。


「……ミラが、……冷える前に、……出ろ……! この、……石っころが……っ!!」


 咆哮と共に叩き下ろした一撃が、スパナを通じて右腕の骨を直接揺さぶる。打撃の衝撃が逃げ場を失い、エリックの肘関節を物理的に摩耗させていく。だが、彼は止まらない。アステリアの意識が電圧降下で「……エリック、……もう、……右腕が……」と断続的なノイズとなって脳裏を過るが、彼はその警告を自身の血の混じった唾と共に吐き捨てた。


 手のひらの皮が剥け、スパナの柄が自身の鮮血で赤黒く滑り始める。エリックはその滑りを止めるために、さらに強く、骨が軋むほどに鉄を握り締めた。暗闇の中で繰り返される、単調で凄絶な槌音。それは洗練されたエンジニアの仕事ではなく、一人の父親が、凍える娘のために死神の門を叩き壊そうとする、剥き出しの生存本能の響きだった。ついに、数千キロの圧力を耐えてきた岩盤に、物理的な限界を告げる一本の亀裂が走った。


 岩盤が断末魔のような低い破砕音を上げた直後、湿った闇の奥底から、鼻を突く有機溶剤のような、重厚で生々しい異臭が溢れ出した。エリックが剥き出しの指先をその割れ目にねじ込み、指の爪が剥がれるのも構わず泥と共に抉り出したのは、松明の火を吸い込んで鈍く黒光りする、高分子の可燃鉱石の塊だった。それは惑星エデンが供給していた、触れても熱すら感じさせない洗練されたエネルギー結晶とは対極にある物質だった。


 手に持てば掌が煤で黒く汚れ、ずっしりとした重みが腕の骨を直接叩く。指先で強く擦れば、粘りつくようなやにが滲み出し、そこには数億年という時間が閉じ込められた圧倒的な密度の「質量」が宿っていた。かつてのアステリア号であれば、この石は「不純物」として即座に廃棄される対象だっただろう。だが今のエリックにとって、この薄汚れた石塊こそが、凍てつくミラの命を繋ぎ止めるための唯一の、そして最後の解答だった。


 エリックは、その黒い塊を自らの顔に近づけた。砕けた右目のレンズ越しに映るのは、不規則に乱反射する鉱石の断面と、そこにこびりついた自身の赤い鮮血だ。この石は魔法ではない。燃やせば煙を吐き、煤を散らし、灰を残す。そんな不完全で泥臭い物質だけが、今、絶望的な冷気に晒されている娘を救うための「部品」となる。彼は自身の体温を奪い去ろうとする冷たい地底の闇の中で、その黒い熱源を愛おしむように抱え込んだ。


『……エリック、……それは、……天然の、……高炭素化合物です。……不純物ノイズ……だらけですが、……確かに、……熱を……孕んでいます……。……汚い、……けれど……美しい、……本物の……火種……』


 義手の中のチップから漏れるアステリアの声は、微弱な放電を繰り返し、もはや論理的な解析結果ではなく、驚嘆に近い震えを帯びていた。ナノマシンの再構成能力に頼り切っていた頃には決して気づくことのなかった、物質が持つ「燃えるための覚悟」のようなものを、エリックは痺れる右手の感覚を通じて分かち合っていた。


 エリックは、泥だらけの顔に希望という名の「汚れ」を刻みつけ、欠けた前歯を見せて不敵に笑った。彼は自身の心臓が、この石と同じように熱を求めて激しく拍動しているのを聴いた。黒い鉱石を、折れた義手と胸の間にしっかりと挟み込み、彼は自身が掘り当てた「新しい世界の動力」を失わぬよう、酸欠で意識が遠のく地底を、獣のような執念で這い上がり始めた。


 地底から這い上がったエリックの視界に入ったのは、結露が氷へと変わり、白く凍りついたミラのポッドの無慈悲な静寂だった。加温装置が停止してから数十分。強化ガラスを透かして見える彼女の肌は、死者のような青白さに沈み、吐息の曇りさえもが消失しかけていた。


「アステリア、配管を……開けろ。……電気バイナリの時代は、……ここで、終わりだ」


 エリックは止まらない全身の震えを奥歯で噛み締め、黒い手垢にまみれた右手に、ひしゃげたスパナを握り直した。彼はアステリア号の生命維持系から伸びるチタンの配管を、自身の義手を万力代わりにして、力任せに引き千切った。精密な電子制御弁を物理的に破壊し、燃焼室へと直結させる「最後の手術」。配管の鋭利な断面がエリックの手を幾度も切り裂き、掌から溢れる鮮血が潤滑油代わりとなって、ひしゃげたダクトを強引に接続部へと押し広げていく。


 彼は泥だらけの指で、地底から持ち帰った黒い鉱石を、かつての高精度なエネルギー炉へと放り込んだ。そして、船の回路に残された最後の残留電荷を、剥き出しの配線を叩きつけることで火花へと変える。バヂィ、という鋭い閃光がエリックの指先を焼き、泥と煤にまみれた炉の奥底で、最初の一火が産声を上げた。


 直後、暗黒の拠点に、猛烈な勢いで立ち昇る黒煙と共に、暴力的なまでの赤い「火」が燃え上がった。チリチリと金属が焼ける嫌な音が響き、配管の中を沸騰した蒸気が、悲鳴のような唸りを上げて駆け巡り始める。数分後、ポッドの表面を覆っていた死の象徴である氷が、熱によって涙のように溶け落ち、その下からミラの、火の色を写した微かな朱を帯びた頬が現れた。


『……エリック。……循環、……開始。……煤に、……塗れ、……喉を焼くような……温かい……夜です……。……私たちは、……ついに、……この星の臓物エネルギーを……自力で、……手に入れました……』


 義手から漏れるアステリアの声は、煤煙に混じって不気味に歪んでいたが、そこには確かに、同じ地獄を生き延びた者同士の安堵が混じっていた。エリックは泥と煤で真っ黒になった顔を火に翳し、焦げた匂いと熱気の渦の中で、自身の左胸の火傷が喜ぶように疼くのを聴いた。かつての白銀の船も、全知全能の計算機も、もうここにはない。だが、自分たちの手で岩を砕き、火を熾し、蒸気を巡らせて組み上げたこの歪な「鉄の心臓」だけは、何よりも生々しく、力強く拍動していた。エリックは、熱を帯び始めたポッドの傍らで、泥だらけのスパナを胸元に抱いたまま、深く、深く、肺の奥底まで惑星の煤けた空気を吸い込んだ。


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