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THE RE-BUILDER —深宇宙の修復者—  作者: 寝不足魔王


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第33話:産声の泥、最初の日

 原生生物の影が引き、岩山に響いていた金切り声のような咆哮が途絶えると、世界は耳を劈くほどの静寂に包まれた。


 エリックは重い機械の脚部を泥から引き抜き、近くを流れる細い小川の縁に腰を下ろした。右手を水に浸すと、二百八十年の凍結された記憶を呼び覚ますような、容赦のない「熱の欠如」が指先から脊髄へと突き抜けた。泥と黒いオイルに汚れた皮膚を冷たい水が洗い流していく。右目のサイバーアイは、もはや黄金色の予測線を視覚に投じることはなく、ただ物質の表面の質感を、あまりにも冷徹な解像度で映し出すだけの、高精細なレンズへと戻っていた。


「……あ、……は……っ、……静か、だな」


 掠れた声で呟くと、自身の吐息が白く濁り、風に流されていくのが見えた。アステリアの演算補助という名の「ノイズ」が消えた耳には、風が岩の隙間を抜ける低い唸りや、遠くで未知の鳥が羽ばたく微かな音、そして自身の心臓が重力に抗って打つ、泥臭い拍動だけが響いている。情報の波に飲み込まれ、惑星そのものと同期していたあの数時間前までの全能感は、今や遠い幻影のように霧散していた。


 左胸の幾何学的な火傷跡が、外気に触れて鋭い疼きを放つ。エリックは泥に濡れた右手をその傷の上に置き、肉を抉るような「現実の痛み」を強く握りしめた。脳を焼き、記憶を削り取っていった先駆者たちの呪いの中で、唯一ナノマシンが侵食できなかったこの傷こそが、彼がまだ一人の人間であることの、最後にして絶対の証拠だった。彼は痛みに耐えることで、自分の意識を情報の断層から、今この瞬間、泥の上に座り込んでいる「自分」へと無理やり繋ぎ止めた。


 川面に映る自分の姿は、半分が銀色の鉄に侵食された、怪物そのものだった。だが、エリックはその歪な鏡像を見つめ、不屈の意志を宿した右目で微かに笑った。もはや神の奇跡も、魔法の修復もここにはない。あるのは、ただ一本の錆びたスパナと、腹の底から湧き上がる飢えと、そして守るべき一人の命だけだ。エリックは、冷たい水にさらした右手の感覚が、本物の「現実」を掴み取る準備を終えたことを確認し、ゆっくりと、泥まみれの足を震わせながら立ち上がった。


 エリックは膝を泥に沈め、岩陰に安置したミラのポッドの前で、右手に握りしめた錆びついたスパナの冷たさを改めて噛み締めていた。


 ポッドの制御パネルは、惑星エデンの崩壊に伴う電磁パルスによって焼き切れており、もはや「自動開錠」という優雅なプロセスは望むべくもなかった。琥珀色の光を放っていた強化ガラスの内側で、ミラの胸部が微かに、しかし絶望的に弱々しく上下している。エネルギー残量を示すインジケーターが、断末魔のような赤色を一度だけ灯して消えた。今この瞬間、二百八十年続いた彼女の「保存」は終わり、この冷たい鉄の箱は、放置すれば彼女の棺へと成り果てる。


「……アステリア。……こいつの……『急所』を、……見せろ」


 エリックが義手の中のチップへ呼びかけると、沈黙していた右目のサイバーアイが、熱を帯びながら強制起動した。網膜の奥で黄金色の回路図が火花を散らしながら重なり、ポッドの緊急開錠用手動ラッチの位置を、三次元の断層写真のように暴き出す。外装の隙間、厚い泥を噛み込んだヒンジの奥に、腐食し、固着したボルトが沈んでいた。


 エリックはスパナをそのボルトの頭に食いつかせた。生身の右手の掌に、金属同士が擦れ合う「嫌な感触」が伝わってくる。ネジ山が腐食し、回る前にねじ切れるか、それともスパナが舐めるか。そんな極限の抵抗が、指先の神経を通じて脳を焼く。彼は自身の左肩、ナノマシンと肉が醜く癒着した接合部をボルトの延長線上へと置き、全体重をスパナの柄へと叩きつけた。


 ギィィィィィン、という、鼓膜を物理的に削り取るような高周波の金属音が、静寂の荒野に響き渡った。

 噛み込んでいたネジ山が、摩擦熱で僅かに膨張しながらも、エリックの執念に屈して一ミリ、また一ミリと絶叫を上げながら回り始める。機械化した左腕のシリンダーからは、高圧の潤滑油が焼けた臭いと共に噴き出し、エリックの生身の肩からは、無理な負荷による関節の軋みと、熱い血の滴る感覚が伝わってきた。


 ついに、最後の一巻き。

 緊急開錠用の重厚なレバーを力任せに引き倒すと、密封されていたポッドの内部から、プシュゥゥゥ……という、耳に痛いほどの排気音が漏れ出した。二百八十年もの間、地球という名の時代の名残を閉じ込めていた不自然なほど清潔な空気が、この惑星の泥臭く、湿った大気と激しく衝突し、白い霧となって溢れ出す。エリックは、古びたパッキンが肉のように引き千切られる不快な音を聴きながら、自身の「修理」が、ついに娘を現実の世界へ引き摺り出したことを、震える右手の重みで確信した。


 完全に引き千切られたゴムパッキンの残骸を撒き散らし、重厚な強化ガラスの蓋が、惑星の重力に逆らえず地面の泥へと鈍い音を立てて転がった。


 ポッドの内部から溢れ出したのは、二百八十年前にパッキングされた、無機質で清潔な地球の残響を孕んだ白い蒸気だった。その霧の向こう側、琥珀色のジェルに浸されていた少女の肢体が、不自然な静止を解かれ、激しく震え始めた。自律神経が強制的に再起動され、眠っていた筋肉が「現実の重み」を初めて認識した瞬間の、文字通りの痙攣。エリックは、自らの血とオイルで汚れた右手を、彼女を支えようと伸ばしかけて、止めた。


「……ミラ……吸え。……本物の空気を、……吸い込め」


 その言葉に応えるように、ミラの胸部が、まるで内側から爆発するかのような激しさで大きく跳ね上がった。

 肺胞のひとつひとつが、冷たく、湿り気を帯びたこの星の酸素を無理やり流し込まれ、拒絶反応のように激しく咽せ返る生々しい音が響く。ゴホッ、という、血の通った一人の人間が上げる、あまりにも脆く、あまりにも力強い産声。彼女の喉から吐き出されたのは、保存液の残滓と、二百八十年分の沈黙だった。


 ゆっくりと、震える瞼が持ち上がる。

 情報の海に溶け出し、銀色の無機質な色彩へと書き換えられていた彼女の瞳が、いま、現実の光を反射して本来の深みを取り戻していく。焦点が合わず、泳いでいた彼女の視線が、やがて目の前に跪く、泥だらけの「異形」を捉えた。


 半分が銀色の鉄に侵食され、左胸に爛れた火傷を抱え、自身の記憶さえも削り取られた、かつての父。

 ミラは焦点の定まらない眼差しを、エリックの泥に汚れた頬へと向けた。彼女の脳内では、エデンで見せられた数億の偽りの夢と、目の前の「泥の匂いがする現実」が激しく衝突している。エリックは、自分の醜い姿に娘が怯えることを覚悟し、ただ右手の震えを押し殺して、彼女が自分を「認識」するのを待った。


 ミラの小さな唇が、大気の冷たさに震えながら、音にならない言葉を紡ごうと動く。

 彼女の肺が、この星の空気を「自分の命」として定着させ、二百八十年の時を超えて、再び父と娘という個の境界がこの泥の上で確立された。


 ポッドの縁から、ミラの細い身体が、糸の切れた人形のように泥の地面へと崩れ落ちた。


 エリックは反射的に、機械化した左腕と、泥に汚れた生身の右腕を同時に差し出した。彼女の背中と膝裏に触れた瞬間、エリックの全身を貫いたのは、二百八十年もの間、一度も感じることのなかった「生命の重み」という名の、圧倒的な現実だった。


「……あ、……は……重、いな……ミラ……」


 情報の塵でも、ホログラムの残像でもない。エリックの腕の中に横たわる彼女は、惑星の重力を一身に受け、その確かな質量をエリックの筋肉と骨格に押し付けていた。ナノマシンで強化された義手のセンサーではなく、生身の右腕の皮膚を通じて伝わる、三六度五分の、狂おしいほどに熱い体温。それはエデンという冷徹な演算回路が支配する世界では、決して再現することのできなかった「不完全な命の熱」だった。


 エリックは、自らの義手のシリンダーが重さに耐えて小さく呻き、自身の生身の肩の関節がミシリと軋む音を聴いた。その痛みすらも、今の彼には最高の報酬だった。彼はミラの身体を、泥の汚れも厭わず自身の胸へと強く抱き寄せた。かつてセクター9で彼女を抱き上げ、寝かしつけたあの夜の記憶が、腕に伝わる彼女の微かな鼓動と同期して、記憶の空白を強引に埋めていく。


 ミラは、エリックの胸に顔を埋め、彼の作業服に染み付いた油の匂いと、泥の臭いを深く吸い込んだ。彼女の細い指が、エリックの背中に回される。情報の海では決して掴めなかった、不器用で、硬く、けれど温かい父親の背中。エリックは、自らの血とオイルで汚れた頬をミラの髪に寄せ、自分が支払ってきた「代償」のすべてが、この一瞬の重みのためにあったのだと、溢れる涙と共に確信した。


 惑星の重力は、残酷なまでに二人を大地へと縫い付けていた。だが、その枷があるからこそ、二人は今、バラバラの情報に霧散することなく、確固たる一つの「親子」として、この不毛な楽園の上に実在していた。


 エリックの胸の中で、ミラは震える右手をゆっくりと持ち上げ、泥と返り血、そしてオイルの混じった父の頬に触れた。


 その指先は驚くほど冷たく、けれどエリックの左半身を支配する無機質な鋼鉄とは対極にある、瑞々しい生命の弾力に満ちていた。ミラは、焦点の定まりきらない瞳で、変わり果てた父の姿をじっと見つめている。銀色の機械に侵食された左顔面、黄金色に濁った右目、そして作業服越しにも伝わってくる左胸の火傷の熱。


「……パパ、……よごれ……すぎ……」


 彼女の喉から漏れた最初の一言は、情報の海で響いていた神聖な託宣などではなく、呆れるほどに現実的で、幼い頃と変わらない、少しだけ生意気な「娘の声」だった。その声が、静止したままだったエリックの心臓を、本物の重力の下で再び力強く打ち鳴らした。


「……ああ、……ひどい、ツラ……だろ。……直すのに、……ちょっと……無茶したんだ」


 エリックはひび割れた唇を歪め、不器用に笑った。泥だらけの指で彼女の涙を拭おうとして、自分の手が汚れすぎていることに気づき、慌てて空中で止める。その滑稽な仕草を見て、ミラの瞳に、偽りのない微かな光が宿った。二百八十年の凍結も、惑星エデンの誘惑も、この「泥のついた親子」という、世界で最も不完全で美しい関係を壊すことはできなかった。


 地平線の彼方、分厚い雲を強引に引き裂いて、真実の太陽がその眩い光を大地に投げかけた。照らし出されたのは、アステリア号の残骸が散らばる不毛の荒野と、その傍らで泥にまみれて座り込む二人、そして足元に転がる一本の錆びたスパナだった。

 

 魔法のような技術も、約束された楽園も、ここにはない。

 あるのは、呼吸をすることさえ苦しい重力と、腹を空かせたまま立ち向かわねばならない残酷な明日だけだ。

 だが、エリックはミラの肩を抱き寄せ、朝焼けに染まる見知らぬ大地を、その右目で真っ直ぐに見据えた。


「ミラ、ここが、……俺たちの、……新しい、仕事場だ」


 泥臭い産声が、惑星の静寂を塗り替えていく。

 神の設計図はゴミ捨て場に捨てられた。

 今、この瞬間から、一人のエンジニアによる、たった一人の娘のための、世界で最も困難な「再建リビルド」が、この泥の上で始まった。


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