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THE RE-BUILDER —深宇宙の修復者—  作者: 寝不足魔王


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第32話:不毛の楽園、錆びたスパナ

 未知の惑星が吐き出す重苦しい雨がようやく止み、エリックは粘りつく泥の平原を抜けて、巨大な岩が折り重なる天然の庇の下へと辿り着いた。


 そこは、二百八十年の航海を共にしたアステリア号の無惨な残骸が、点々と墓標のように散らばる不毛の荒野だった。エリックは背中に強引に溶接されていたミラのポッドを、自身の肉と化したナノマシンの触手から慎重に、肉を引き裂く痛みを堪えて切り離し、岩陰の乾いた土の上へと安置した。ポッドの生命維持インジケーターは、微かな琥珀色の光を頼りなく明滅させている。エネルギー残量は残りわずか。ここが、彼らにとっての「最初の日」の野営地となった。


「……ぁ、……は……っ、……重、い……」


 ポッドを下ろした瞬間、重力に逆らい続けていた全身の筋肉が断末魔を上げた。ナノマシンで強化されていたはずの四肢は、惑星エデンを脱出する際の過負荷で各部が焼き切れ、油圧は漏れ、人工神経は寸断されている。これまではアステリアの自動演算が歩行の一歩一歩を最適化してくれていたが、今の義手内のチップに退避した彼女には、もはやその力はない。エリックは泥に汚れ、熱で変色した自分の機械義手を、震える右手の指先でなぞった。


 彼は泥の中から、墜落の衝撃で弾け飛んだ一本のスパナを拾い上げた。

 かつてセクター9の片隅で、日々汚れながら愛用していた、何の変哲もない鉄の塊。エリックは岩の上に座り込み、そのスパナを自身の左膝の関節ボルトへと当てた。キィィ、と錆びついた音が静寂を切り裂く。ナノマシンの自動修復に頼らず、自身の右手の力だけで、歪んだボルトを締め、歪みを正していく。それは神の如き知性との戦いから解放されたエリックが、再び「ただの修理屋」に戻るための、泥臭いメンテナンスだった。


 剥き出しの右手の指先には、凍えるような大気の冷たさと、潤滑油の生々しい感触、そして自身の血の温かさが混ざり合って伝わってくる。情報の波ではない、物理的な「摩擦」と「抵抗」。エリックは、スパナを握りしめる右手の皮膚の感覚を確かめながら、自身の中に残された人間としての輪郭を、一つ一つのネジを締める作業を通じて再確認していた。遠くで、名前も知らない惑星の鳥とも獣ともつかぬ鳴き声が響く。エリックは泥を拭うこともせず、ただひたすらに、自身の身体という名の「壊れかけの機械」を、一本のスパナで繋ぎ止めていた。


 膝のボルトを締め終えたエリックの手が、ふと止まった。


 自身の荒い呼吸の合間に、大地そのものが低く唸るような、不気味な震動が混じり始めたからだ。それはアステリア号のエンジンの不調とも、惑星エデンが見せた情報の嵐とも違う、物理的な「重量」を伴う地響きだった。岩陰に置いたミラのポッドが、その微震に呼応してカタカタと硬い音を立て、地面の泥水に同心円状の波紋が広がっていく。


『……エリック、警戒を。……地殻変動ではありません。……複数の、巨大な質量の移動を感知。……この惑星の、原生生物……あるいは……』


 義手の中のチップから漏れ出すアステリアの声は、微弱な電気信号のノイズに塗れていた。かつてのように周囲数キロメートルを完璧にスキャンする全方位レーダーは、もう存在しない。エリックは右目のサイバーアイを起動しようとしたが、情報の流入を拒むように激しい火花が散り、視界は情報の砂嵐に覆われた。強制的な「孤独」が、かつてない不安となってエリックの背筋を撫でる。


 エリックは泥に濡れたスパナを腰のベルトに差し込み、背後の岩壁を支えにして立ち上がった。闇が深まりつつある地平線の向こう、岩山の影がゆっくりと「動いて」いた。それは先駆者の洗練された幾何学的造形とは対極にある、節くれ立ち、歪んだ肉の塊のような巨大なシルエットだった。捕食者の眼差しが、夜の帳を切り裂いてエリックとミラのキャンプを射抜く。


「……アステリア。……やっぱり、楽園エデンの出口は……地獄に繋がってたみたいだな」


 エリックは左腕の義手を構えた。動力源の反応は鈍く、油圧シリンダーからは不吉な異音が漏れている。だが、彼は逃げなかった。いや、ポッドの中に眠るミラを抱えて逃げることなど、この重力下では不可能だと理解していた。暗闇の中から聞こえてくるのは、多脚の生き物が岩を削る耳障りな音と、飢えた獣の湿った吐息。エリックは右手の掌に、自身の血と汗で滑るスパナの重みをしっかりと刻み込み、未知の惑星の「洗礼」を迎え撃つべく、泥だらけの足を大地に踏ん張った。


 迫りくる巨大な影の重圧に息を詰め、エリックが錆びついたスパナを構えたその時だった。


 背後のポッドから、聞き慣れた電子音とは異なる、微かな、けれど確かな「音」が響いた。物理的な隔壁の内側で、何かが柔らかい膜に触れるような、小さく不器用な摩擦音。エリックが心臓の跳ね上がりを抑えながら振り返ると、琥珀色の光に満たされたカプセルの中で、ミラの細い指先が、微かな震えと共にポッドのガラス内壁をなぞっていた。


「……ミラ……? 目覚めるのか……いま、ここで……」


 エリックは機械化した脚部の異音さえも忘れ、泥にまみれた身体をポッドの傍らへと投げ出した。二百八十年もの間、バイナリの夢とコールドスリープの冷気に閉ざされていた彼女の意識が、この惑星の不毛な重力と、父の荒い呼吸の震動に呼び起こされようとしていた。エリックは右手の泥を自身の作業服で必死に拭い、震える掌を強化ガラスに押し当てた。


 ミラの瞼が、重い幕を押し上げるようにしてゆっくりと動く。

 やがて、その瞳が僅かに開かれた。情報の濁流に染まっていたはずの銀色の瞳は、いまやかつての地球の空を思わせる、澄んだ色彩を取り戻している。彼女の視線が、ガラス越しにエリックの姿を捉えた。泥とオイルに汚れ、半分が機械の怪物と化した、変わり果てた「父親」の姿を。


 エリックの目から、熱いものが泥の汚れを割り、頬を伝って地面に落ちた。

 彼がどれほど自分を修理し、解体し、人間であることを捨ててまで求めてきたもの。それは、惑星の支配権でも、不老不死の知識でもなかった。ただ、こうして泥まみれの自分の手が、娘の存在を感じ、彼女の生存という物理的な「熱」を確認すること。それだけだったのだ。


 ミラが小さく唇を動かし、音にならない声を漏らす。

 エリックはその小さな命を守るため、背後に迫る「影」への恐怖を、純粋な決意へと作り替えた。まだポッドを開けることはできない。外気は冷たく、敵はすぐそこにいる。だが、この指先の再会が、エリックに「ただの父親」としての、限界を超えた力を再び注ぎ込んでいた。


 接近する影が岩を砕く不穏な音を背に、エリックは狂ったような速さで動かない左腕をコンソールに直結させた。


「アステリア、周囲の残骸の全構造を強制展開しろ。……魔法の修理はもう終わりだ。……力任せに、……繋ぎ合わせるぞ!」


 彼はナノマシンの繊細な自動構築を放棄し、暴走寸前の高圧エネルギーを義手の爪から放電させた。地表に散乱したアステリア号の外装板、歪んだチタンのフレーム、そして惑星エデンの防衛端末の死骸。それらを磁力の力で強引に引き寄せ、ミラのポッドを囲うようにして物理的に「溶接」していく。バヂィ、という耳を劈く放電の爆音と共に、白熱した金属が溶け合い、不格好だが強固な鋼鉄の壁が築かれていった。


 それは洗練された宇宙船の造形とは程遠い、醜く歪んだ「鉄の檻」だった。だが、エリックは止まらない。折れた支柱を楔として地面に打ち込み、生身の右手で焼けた配線を束ね、不時着した船の予備バッテリーを直結させて、高電圧の防護電網フェンスを即興で編み上げる。ナノマシンの補助なしに、重力下で数百キロの鉄塊を操る負荷は、エリックの生身の肩の骨をきしませ、肺からは血の混じった喘鳴が漏れた。


「……あ、……が、ぁぁぁ……! まだだ、……まだ足りない……!」


 右手の掌は熱せられたボルトで焼け、泥と脂が混ざり合った異臭を放っている。しかし、エリックの右目は黄金色のノイズを撒き散らしながら、急造の陣地における「応力集中点」を冷徹に特定し、そこへさらに鉄屑を積み上げて補強していく。高度な演算能力を失っても、二百八十年かけて培った「壊れゆくものを繋ぎ止める」エンジニアとしての勘は、むしろこの極限の泥臭い作業の中で、研ぎ澄まされていった。


 数分後、ミラのポッドの周囲には、アステリア号の遺志を継いだ、鋼鉄の牙を持つ即席の城塞が完成していた。

 エリックは右手に握った錆びついたスパナを、城塞の隙間に物理的な「かんぬき」として深く突き立て、固定した。彼は、自身の手で組み上げたこの歪な盾を背にし、ついに暗闇から姿を現した惑星の原生生物――多脚の影を、血走った眼で見据えた。もはやここには神の奇跡も、完璧な管理も存在しない。あるのは、一人の男が泥にまみれて築き上げた、泥臭い「拒絶」だけだった。


 暗闇の中から這い出したのは、岩塊のような甲殻を背負った、六本脚の異形なる原生生物の群れだった。


 それは惑星エデンのような計算された殺意ではなく、ただ生存のために「未知の侵入者」を排除しようとする、野生の剥き出しの圧力だった。地響きと共に突進してくる獣の群れを前に、エリックは急造の城塞の最前列に立ち、唯一の得物である錆びついたスパナを逆手に握り直した。彼の身体はもはや限界を超えていたが、右目のサイバーアイに映る黄金色の「構造線」は、暗闇の中でかつてないほどに輝き、敵の関節と骨格の急所を無慈悲に指し示していた。


「……アステリア。……演算(計算)は、もう要らない。……ただ、……俺が『人間』であることを、……最後まで見届けてろ」


『……了解。……メインフレーム、全損。……論理、崩壊。……ですが、エリック、あなたの心臓の鼓動は、……今、この星の誰よりも強く……私に響いています。……行ってください、相棒!』


 エリックは咆哮と共に、大地を力任せに蹴り上げた。

 重力に抗い、泥を跳ね飛ばし、彼は一振りの鋼鉄の塊となって、先頭の獣の喉元へと肉薄した。スパナの一撃が甲殻を砕き、飛び散る体液がエリックの顔を汚すが、彼は拭うことさえせず、次の獲物の懐へと潜り込む。魔法のようなナノマシンの再構築も、絶対的な管理AIの加護もない。あるのは、焼けるような肺の痛みと、筋肉の震え、そして掌に伝わる「物質を壊す」生々しい手応えだけだった。


 彼は笑っていた。

 二百八十年の時を超え、宇宙の果ての地獄を焼き払い、ついに手に入れたのは、泥にまみれて娘を守り、自らの腕の力だけで生き抜くという、不自由で、残酷で、けれど最高に自由な「現実」だった。エリックが放つ一打ごとに、背後の城塞で眠るミラの鼓動が、彼の神経系へと熱く流れ込んでくる。彼はもはや修理屋リビルダーなどではない。この過酷な惑星に、最初の一本の「楔」を打ち込む、開拓者へと変貌を遂げていた。


 地平線の向こう、分厚い雲を割って、真実の太陽がその力強い光を大地に投げかける。

 照らし出されたのは、返り血と泥に汚れながらも、決して膝をつかない一人の男の背中だった。

 エリックは、ひしゃげたスパナを掲げ、夜明けの空に向かって、魂を震わせる勝利の咆哮を上げた。


 バイナリの夢は終わり、鋼の物語は、この泥臭い土の上で、真実の再起動を果たす。

 

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