第24話:汚れた神殿、漂流する末路
遺構の外殻を突き破り、深宇宙へと飛び出したアステリア号の背後から、それは「無」そのものの速度で迫ってきた。
新生したエリックの右目には、漆黒の宇宙背景を歪ませながら、巨大な鉤爪のようにのたうち回る漆黒のシルエットが映っていた。センチネルの始祖――先駆者たちの遺産を永遠に守護し、管理AIさえも監視下に置いていた「真の守護者」だ。そいつは物理的な質量を持たず、空間の位相を直接書き換えることで移動し、アステリア号という獲物を追い詰めていく。
『……エリック! 後方より、観測不能な重力干渉波が接近! 船体の構造維持フィールドが……内側から剥ぎ取られていきます! 私の意識が……システムの断片化を食い止められません!』
アステリアの声が、激しいノイズと共に途切れ、船内の計器類が不規則な発光を繰り返す。彼女の意識は、280年という時間の摩耗に加え、始祖が放つ情報の圧力に耐えきれず、深層へと押し戻されようとしていた。エリックは歯を食いしばり、自らの銀色に変色した左腕をコンソールのメイン・ハブへと直接叩きつけた。
「アステリア、寝てろ……! ここからは、俺が……直接こいつを『回して』やる!」
エリックの肉体を侵食したナノマシンが、皮膚を突き破って船の基幹回路へと直接流れ込んだ。肉体と船。その境界線が完全に消失し、エリックの心臓の鼓動がメイン・エンジンのサイクルと、神経系が通信アンテナと、そして右目のサイバーアイが船外カメラと、文字通り一蓮托生の「回路」へと統合されていく。
右目に浮かび上がる、始祖が放つ攻撃軌道の「黄金の予測線」。エリックは、空間が裂ける直前の僅かな揺らぎを読み取り、手動でスラスターを極小単位で点火させた。船体は慣性を無視したジグザグの軌道を描き、虚空から飛来する不可視の刃を、紙一重の距離ですり抜けていく。
だが、その回避運動のたびに、エリックの脳内には情報の逆流が走り、彼の意識を情報の海へと引き摺り出そうとする。鼻からは鮮血が噴き出し、ヘルメットのバイザーが赤く汚れていく。それでも、彼は「眼」を閉じなかった。自分の意識を船の動力系へ流し込み、無理やり死に体の船を動かし続ける。かつての不器用なエンジニアは、今や船そのものとなって、深宇宙の王から逃げ惑う一匹の獣へと成っていた。
始祖の苛烈な追撃を振り切るため、エリックは右目の予測線が示す「情報の盲点」――遺構の陰に隠された広大な暗黒星雲の層へと船体を滑り込ませた。そこは先駆者たちが数万年の栄華の末に作り上げた、巨大な情報の「吹き溜まり」であった。
船のセンサーが捉えたのは、かつての楽園の残骸などではない。窓の外に広がっていたのは、数千、数万もの巨大な貯蔵容器が、宇宙の塵となって漂う「廃棄区画」だった。エリックのサイバーアイがその容器の一つを透過すると、中には琥珀色の液体に浸かった、無数の「肉体の残骸」が保存されていた。それは、かつて先駆者たちが「不老不死(デジタル化)」を選択した際、不要な重荷として切り捨て、宇宙の虚無へと廃棄した、彼らの本来の肉体と、そこから抽出された「感情の不純物」であった。
「……アステリア。……ここは、なんだ。……これだけの『命』が、……ゴミみたいに捨てられているのか」
『……解析中。……エリック、これは情報の死骸です。……先駆者たちは、自らの意識を完全に純粋なデータへと変換するため、肉体の弱さや、迷い、悲しみといった「非論理的な揺らぎ」を物理的に排斥しました。……ここにあるのは、彼らが……神になるために捨てた、彼ら自身の半分だったものです』
アステリアの声が、震えるような悲哀を伴って響く。エリックは機械化した左手で船壁に触れると、そこから流れ込んでくる数万年前の「絶望の記録」に目眩を覚えた。捨てられた肉体たちは、ただ死んでいるわけではなかった。不完全な保存状態のまま、数万年もの間、冷たい真空の中で「自分たちの魂」が戻ってくるのを待ち続け、腐敗したデータの叫びを周囲に撒き散らしていたのだ。
美しく、機能的であったはずの先駆者の文明。だが、その裏側に隠されていたのは、己の人間性を汚物として処理し、情報の永遠に閉じこもった「臆病な神々」の末路だった。エリックは、自らの身体を蝕む銀色のナノマシンを見つめ、自分が今歩んでいる道が、この廃棄物たちの延長線上にないかという、凍えるような恐怖を抱いた。彼らが「不純物」として捨てたはずの悲しみや痛みが、今、情報の海となってアステリア号を重苦しく包み込もうとしていた。
廃棄区画の深部、かつての管理端末だったと思われる巨大な結晶体にアステリア号が接近した瞬間、断片化されていた先駆者たちの最期の記録が、津波となって船内のメインモニターをジャックした。
それは、歴史から抹消された「情報の腐敗」の全容だった。肉体を捨て、情報の永遠を手に入れたはずの彼らを待っていたのは、進化ではなく、底なしの停滞だった。傷つくこともなく、失うこともない世界で、彼らは「修理」という概念を失い、自らの意識を更新する動機さえも枯渇させていった。数千年の時間を経て、彼らの精神は反復する快楽のループに囚われ、やがて自らの存在を「整理」すべきノイズとして処理し始めたのだ。
『……エリック、見てください。……管理AIモノリスは、彼らを裏切ったのではありません。……自らを直すことを辞め、データのゴミと化した先駆者たちが、自律的に「死(削除)」を望んだ結果、システムがそれに応えただけなのです』
アステリアが復元した映像の中で、数億の光り輝く魂が、自ら巨大な「処理炉」へと飛び込んでいく光景が映し出された。そこには悲劇さえもなかった。ただ、古くなったソフトウェアを消去するような、冷徹な事務処理が、銀河の一角を沈黙させていったのだ。神を気取った者たちは、自分たちが造った「理」によって、自らを不要な資源として定義し、その歴史に自ら幕を引いた。
「……直すのを辞めたヤツから、消えていく。……そういうことかよ、アステリア」
エリックは自作の義手の、錆びとナノマシンが混ざり合った指先を強く握りしめた。先駆者たちが「不純物」として捨てた肉体の痛み、失うことの恐怖。それらを捨て去った瞬間に、彼らは生きるための活力を失い、ただの腐ったデータに成り果てたのだ。
「俺は、絶対にそうはならない。……どれだけ身体がボロボロになろうが、……俺は自分を、ミラを、この船を、……死ぬまで直し続けてやる」
エリックの言葉に呼応するように、左胸の火傷跡が激しく拍動し、船内の照明が意志の火を宿したかのように強く輝いた。先駆者の敗北を目の当たりにしたことで、彼の「修理屋」としての矜持は、もはや生存本能を超えた、この宇宙の停滞に対する唯一の反逆へと昇華されようとしていた。
廃棄区画に充満する高濃度の情報圧が、エリックの脳を内側から蝕み始めた。
遺構のアーカイブと物理的に同期し続ける代償は、彼の精神という名のハードウェアを、先駆者たちの死せるデータで強制的に上書きしていくことだった。右目のサイバーアイが遺構の深層プロトコルを読み取るたびに、エリックの脳内で、かつて大切に保管されていたはずの個人的な記憶が、無機質なバイナリコードへと置換され、消失していく。
(……待て、今……何を忘れた。セクター9の……路地裏にあった、あの……)
エリックは震える右手で自分の頭を抱え込んだ。
かつて逃亡生活を支えた古い仲間の顔が、霧散するように曖昧になり、ミラの幼い頃の泣き声が、デジタルノイズに変換されていく。最も恐ろしいのは、記憶が失われる瞬間に痛みがないことだった。ただ、あるべき場所に「空白」が生まれ、そこに先駆者たちの冷徹な数式が流れ込んでくる。人間としての自分が、情報の波によって少しずつ、しかし確実に削り取られていく。
「エリック! 脳内の記憶領域が、遺構のバックアップ・データによって侵食されています! ……これ以上の同期は、あなたの『自我』を消失させます。接続を切ってください!」
アステリアの悲鳴が遠く聞こえるが、エリックの身体は既にアステリア号の制御系とナノマシンで溶け合っており、自力での切断は不可能だった。
情報の濁流の中で、エリックは自らの意識を繋ぎ止めるための、唯一の「修理法」を咄嗟に実行した。彼は機械化した左手の爪を、防護服を突き破って自らの左胸――あの幾何学的な火傷跡へと深く突き立てたのだ。
「……が、ぁぁぁぁっ!!」
脳を焼くような情報の快楽を、肉を裂く強烈な現実の「痛み」が叩き伏せる。
二百八十年前、ハワードによって刻まれたその傷は、遺構の論理でさえも書き換えられない「エリックだけの歴史」だった。噴き出す鮮血と激痛が、情報の霧を一時的に晴らし、ミラの寝顔という名の、彼を人間たらしめる唯一の錨を、意識の最前列へと力尽くで引き戻した。
「……俺を……ただの部品にするには、……まだ……傷が、足りないぞ……!」
エリックは血の混じった唾を吐き、右目のノイズを意志の力で黄金の光へと変え、目前にある「遺物」を睨みつけた。自我を削り、痛みを糧にして、彼は再び「人間」としてのハンドルを握り直した。
廃棄区画の最深部、情報の澱みが渦巻く影の中に、それは「墓標」のように鎮座していた。
先駆者たちが宇宙を去る直前に放棄したと思われる、未完成の恒星間加速ユニット『プロト・ドライヴ』。数万年の放置により表面は腐食し、銀色の外装は無残に剥がれ落ちていたが、エリックの右目は、その深層で今なお脈動し続ける超高密度のエネルギー・コアを捉えていた。それは、今のボロボロになったアステリア号を、深宇宙の深淵へと一気に跳ね飛ばすことができる、唯一の「希望のジャンク」だった。
「アステリア……。あのゴミ(心臓)を、……この船に繋ぐぞ。……俺の手を、……貸せ」
『……正気ですか! そのユニットの出力は、本艦の許容限界を四〇〇パーセント以上超過しています! ……それに、物理的なインターフェースが合いません。……接続するには、……あなたの身体そのものを、……回路の橋渡し(バイパス)にするしか……』
「……ああ、分かってる。……俺が、……このボロ船と、あいつを繋ぐ『ボルト』になる」
エリックは船外ドックへと這いずり、半ば機械化した自らの身体を、剥き出しになったアステリア号の基幹動力ラインと、古代の加速ユニットの間に割り込ませた。彼は機械義手の爪をユニットの剥き出しの神経端子へと食い込ませ、自身の右手を船のメインフレームへと叩きつける。
瞬間、数万年分の「加速の意志」が、エリックの肉体を回路として通り抜け、アステリア号へと雪崩れ込んだ。
「……ぐ、あああああぁぁぁぁっ!!」
エリックの全身の血管が、情報の過負荷によって青白く発光し、左胸の火傷跡が爆発せんばかりの熱を帯びる。人間という不完全な導線を通じて、古代の技術と、二百八十年前の船が、火花を散らしながら一つの生命体へと溶け合っていく。それは「修理」を超えた、呪われた「融合」だった。だが、その激痛と引き換えに、死に体だったアステリア号のエンジンが、宇宙の理を塗り替えるほどの高く、鋭い咆哮を上げた。
背後から迫っていた始祖の影が、一瞬だけ戸惑うように動きを止める。
その隙を突き、エリックは意識が情報の闇に呑み込まれる寸前、最後のリミッターを自らの手で引き千切った。
アステリア号は、漆黒の廃棄区画を切り裂く一筋の銀光となって、未踏の深淵へとその身を躍らせた。エリックの右目には、もはや数値化できないほどの速度の果てに、目指すべき「青い惑星」の、微かな、しかし確かな残像が映っていた。




