第2話:孤狼の武装、鉄の雨に誓う
静寂が、耳鳴りのように工房を支配していた。
つい数分前まで響いていた軍靴の音も、ミラの泣き声も、すべては幻だったかのように消え去っている。残されたのは、指向性爆薬によって無残にねじ曲げられた鉄扉と、焦げた電子部品の死臭だけだ。
エリックは崩れ落ちた壁に背を預け、冷たいコンクリートの床に座り込んでいた。
左腕の接続端子からは、未だにチリチリと青白い火花が散り、焼けた皮膚の匂いが鼻を突く。ハワード大佐に叩き込まれた過負荷は、エリックの神経系に深いダメージを刻みつけていた。
『……エリック。生体信号の乱れを検知。左前腕部の神経節に重度の電気火傷を確認しました。……このままでは左腕の機能が完全に停止します。即時の医療処置を推奨します』
骨伝導を通して響くアステリアの声は、主人の苦痛に配慮することなく、淡々と事実を積み上げていく。
「黙ってろ、アステリア。……動く。指先が一本でも動けば、それで十分だ」
エリックは震える右手で、左腕の端子のリセットボタンを強引に押し込んだ。視界の端で火花が弾け、脳を直接殴られたような衝撃が走る。彼は激痛に顔を歪め、呻き声を漏らしながらも、強引に意識を繋ぎ止めた。
視線を落とすと、床にはミラが握りしめていたはずの、あの壊れたトイ・ロボットが転がっていた。
ミラの「力」によって一時的に覚醒したはずの鉄屑は、今は再び物言わぬ死体に戻っている。だが、そのレンズの奥に、彼女が残した「意志」の残滓が焼き付いているように思えてならなかった。
「ハワード……。なぜ俺を殺さなかった」
問いは、虚空へと消える。
かつての師であり、上官であった男。ハワードは効率の権化だ。不要な情けをかける男ではない。生かしておけば必ず牙を剥くと分かっていながら、彼はエリックを泥の中に放置した。
それがかつての部下に対する「死より重い屈辱」という名の罰なのか、あるいは、さらに過酷な地獄への招待状なのか。
『ハワード大佐の行動ログを解析。……推定される理由は「戦術的価値の消滅」です。彼にとって、ミラを確保した後のあなたは、もはや脅威ではないと判断されました。……計算上、妥当な帰結です』
「計算か。……相変わらず冷たいな、お前は」
エリックは、血の混じった唾を床に吐き捨てた。
壁を支えにして、ふらつく足取りで立ち上がる。全身の筋肉が悲鳴を上げているが、瞳の奥に宿った火だけは、むしろ激しさを増していた。
敗北の残響を振り払うように、エリックは工房の奥、暗い影の落ちる地下への階段を見つめた。
エリックはふらつく足取りで、倒れた作業台の影にあるコンソールを叩いた。
ひび割れたモニターに、ノイズ混じりの地図が表示される。セクター9を中心とした三次元座標――それはメガロポリスの血管とも言える、網の目のように巡らされたエネルギーラインの図だった。
「アステリア。……『星の瞬き』を起動しろ」
『了解。「星の瞬き」――パッシブ型ナノビーコン、サーチモードへ移行します。……信号を走査中』
網膜上に、幾千もの無意味な電磁波の波形が流れていく。
半年前、ミラの首筋にナノマシン処置の痕跡を見つけたその夜。エリックは彼女の寝顔を見守りながら、誰にも――アステリアにさえ事後報告で――悟られぬよう、特殊なナノビーコンを彼女の衣服の繊維に刷り込んでおいた。
軍の探知機をすり抜けるため、通常時は休眠状態にあり、特定のハッシュキーを受信した時のみ微弱な熱を発する特注品だ。
『……一、二、……三。応答を確認。座標、要塞都市北東部。垂直高度四〇〇。……軍専用の空中輸送路を移動中。到着予想地点は、メガロポリス中心核――統合軍司令本部「アイアン・ゲート」です』
モニター上に、一際強く輝く紅い点が現れた。
それは、重厚な装甲に囲まれた軍用エリアの深部へと、無慈悲な速度で吸い込まれていく。
「見つけたぞ、ミラ……」
エリックが安堵の息を吐こうとした瞬間、アステリアが割り込むように警告音を鳴らした。
『待ってください。ビーコンの信号特性に異常。……振幅の周期が、設計時の理論値を逸脱しています。熱源反応が急激に上昇。これは……外部からのエネルギー供給なしに、ビーコン自体が変質している?』
「なんだと?」
『推測。ミラの生体波形がビーコンのナノマシンと同期し、その構造を書き換えている可能性があります。……エリック、彼女が発する「ノイズ」は、既に既存の物理法則の制御下にありません。彼女が目的地に到達した時、何が起きるのか……私の演算能力では予測不可能です』
紅い点は、時折激しく明滅し、まるで地図を焼き切らんばかりの輝きを見せている。
彼女はただ連れ去られたのではない。彼女の中に眠る「何か」が、目覚めつつあるのだ。
「アステリア。……生存確率の表示をオフにしろ。これからは、コンマ数秒の遅れが致命傷になる」
『……了解。生存確率の表示を無効化。代わりに、最適戦闘ルートの演算にリソースを全振りします』
エリックはコンソールを拳で叩き、画面を消した。
もはや一刻の猶予もない。彼は暗い地下階段へと足を踏み入れた。
地下室の空気は、地上よりもさらに冷たく、古い機械油と防錆剤の匂いに満ちていた。
エリックは壁にある目立たないレバーを引き、隠し棚をスライドさせた。埃を被った重厚なコンテナが、重々しい音を立ててその姿を現す。
「六年間……こいつを開ける日は来ないと思っていた」
コンテナのロックを解除すると、内部から軍規格のマットな黒光りが漏れ出した。
そこにあるのは、ジャンク屋の主人が持つにはあまりにも「凶悪」な装備群だ。最新の防弾繊維を編み込んだタクティカル・ベスト、大腿部に取り付ける磁気吸着式のホルスター、そしてエリックの体躯に合わせて特別に調整された外骨格の補助パーツ。
エリックは無言で、ボロボロになったジャンク屋のつなぎを脱ぎ捨て、黒いコンプレッション・ウェアを身に纏った。その上から、ベストのバックルを一つずつ、確実に締め上げていく。
カチ、カチ、という乾いた音が、静かな地下室に規則正しく響く。
『エリック。そのタクティカル・ベストの生命維持ユニットは、旧世代のものです。……私の制御プロトコルとの同期に、三〇ミリ秒のラグが発生します』
「構わん。ラグは俺の反射神経で埋める」
彼は棚の奥から、一見するとただの金属の塊に見える円筒形のデバイスを取り出した。
それは、エリックが軍時代に独自に試作し、その「禁忌的な性能」ゆえに封印していた――広帯域外部演算ブースター、コードネーム『プロメテウス』だ。
エリックは震える左腕を差し出し、ブースターを神経端子へ直接マウントした。
ガチリ、と硬質な音を立てて固定された瞬間、視界が白く染まるほどの情報量が脳に雪崩れ込んだ。
「ぐっ……あぁ……!」
『警告。脳波のスパイクを確認。ニューラル・リンクの負荷が危険域に達しています。エリック、このブースターはあなたの寿命を削る「劇薬」です。……稼働時間は、累積で二時間を超えてはなりません』
「二時間もあれば、要塞の一つくらいは焼き払える」
エリックは荒い呼吸を整え、網膜上に展開されたアステリアのインターフェースを見据えた。
ブースターの恩恵により、視界に入るすべての物質が「透過可能、ハック可能、破壊可能」な構造データとして解析されていく。
最後に、彼は使い古されたP-12拳銃の予備マガジンをベストのポーチへ差し込み、ナイフの刃を鞘に滑らせた。
鏡はない。だが、そこに立っているのはもはや娘を想うだけの父親ではなく、かつて戦場を蹂躙した、軍最高の「システム破壊者」だった。
「準備はいいか、アステリア」
『……全システム、稼働。地獄への最短ルート、構築完了しました。……行きましょう、エリック』
地下のドックからは、セクター9の迷路のような運河へと通じる隠し水路が伸びている。
エリックは、黒い防水カバーで覆われた小型の高速潜行艇『ケルベロス』のハッチを開け、操縦席に身を沈めた。エンジンを始動させると、低く唸るような振動が、外骨格のフレームを通じて彼の背骨に伝わってきた。
「アステリア。……工房を焼け。形跡一つ残すな」
『了解。……サーマルデトネーター、起動。カウントダウンを開始します』
潜行艇が静かに滑り出し、水路の闇へと消えていく。その背後で、かつてミラとささやかな食事を囲み、機械の油にまみれて過ごした「家」が、音もなく白い熱に包まれた。
思い出を焼き払うような熱風が、水面を揺らす。エリックは一度も振り返らなかった。
水路を抜け、荒れ狂う外海へと躍り出た瞬間、視界が開けた。
そこには、酸性雨のカーテンを突き破ってそびえ立つ、巨大な鋼鉄の島――海上要塞都市メガロポリスが君臨していた。
何百ものサーチライトが海面を冷酷に舐め、幾層にも重なった防壁の隙間からは、絶え間なく防衛ドローンの放つ青い光が漏れている。それは人類の英知の結晶であると同時に、ミラの自由を奪い、世界を閉塞させる「鉄の檻」そのものだった。
『エリック。要塞の外周警備網、以前のデータより一五パーセント強化されています。正面突破の成功率は……失礼、表示をオフにしていましたね』
「いい判断だ。……正面からは行かない。あいつらの『血管』を逆流する」
エリックはブースターの出力を上げ、要塞の下層にある、巨大な排水口とエネルギー供給路が集中する「排熱ダクト」に狙いを定めた。
そこは、要塞の最も汚れた、そして最も「ハッキングの隙」がある部位だ。
荒波が潜行艇を叩き、飛沫が視界を遮る。
だが、網膜上に映し出されるミラへの追跡信号は、激しく脈打つ鼓動のように、エリックを要塞の深部へと誘っていた。
「待ってろ、ミラ。……今、地獄をぶち壊しに行ってやる」
潜行艇は水飛沫を上げ、要塞の影へと深く、深く潜り込んでいった。
降りしきる酸性雨の中、エリックの瞳だけが、アステリアの投影する青い電子の光を反射して冷たく輝いていた。




