3話
橘が軽く会釈して、そのまま通り過ぎていく。
私は一応、前を向いたまま歩き出そうとしたのに、隣で美緒がぴたりと止まった気配がした。
嫌な予感がして振り向くと、美緒は橘の背中が角の向こうに消えるところを、まだ見ていた。
「……美緒」
「ねえ」
返事をする前に、美緒が私を見る。
「あの子が噂の橘くん?」
私は少しだけ間を置いてから、頷いた。
「そうだけど」
「ふーん」
その言い方がもう、だいぶ面白がっている。
「見すぎ。やめなよ、ほんと」
そう言うと、美緒はようやくこっちに向き直った。けど、口元は笑ってる。
「珠里のタイプって、ああいうのなんだ」
「違うし」
思ったより速く否定が出て、自分で少しむっとする。
美緒はすぐにそこを拾った。
「え、違うの? あんなに慌てて?」
「慌ててない」
「いや、慌ててたって」
そう言って、美緒が小さく笑う。
私は鞄の持ち手を持ち直した。昼休みの廊下は明るいし、人も通るし、別に変な話をしてるわけじゃないのに、こういう時だけ声が少し浮く。
「そういうんじゃないから」
「へえ。じゃあ、休日に誘っておいて?」
そこを持ち出されると、返しにくい。
私は一回、廊下の窓のほうを見る。開いた隙間から入ってくる空気が少しぬるかった。
「……別に、そこまで大げさな感じじゃないし」
「でも二人で出かけたんでしょ」
「出かけたけど」
「しかも珠里から誘った」
「それは、そうだけど」
美緒はうんうんと頷いている。納得してるというより、逃がさないための頷き方だった。
「で、噂も否定してないんだ?」
私は少しだけ眉を寄せた。
「だって、見られてたなら仕方なくない?」
「へえ」
「いや、ほら、嘘ついてまで違うって言うのも変だし」
言いながら、自分で少しだけ落ち着かなくなる。
完全に違うって切るほどでもない、みたいな言い方を、自分でしているのが分かったから。
美緒はその顔を見て、ちょっとだけ笑いを引っ込めた。
「珠里さ」
「なに」
「珠里がどうこうっていうより、橘くんのほう大丈夫なのかなって思った」
私は思わず、美緒を見た。
「どういう意味?」
「だって、ああいう子って、たぶんこういうの慣れてなさそうじゃん。噂になったり、周りに見られたりするの」
その言い方は、茶化しじゃなかった。
さっきまで笑ってたのに、そこだけ少し真面目で、私はすぐには返せなかった。
橘がさっき通り過ぎた時の、あの短い会釈を思い出す。止まらなかったことも、何も言わなかったことも、たぶんあれで正しかったんだと思う。けど、平気そうだったかって言われると、そこまでは言い切れない。
それでも、口から出たのは別の言葉だった。
「……大丈夫だと思う」
美緒が瞬きを一つした。
「へえ。流石の信頼」
「そういう言い方しないで」
「だって今の、かなり信じてる言い方だったよ?」
「違うって」
「はいはい」
美緒はまた笑った。いつもの軽い笑い方だったから、私も少しだけ息を抜く。
「ほんと茶化すのやめて」
「ごめんごめん」
全然悪いと思ってない顔で言う。
でも、そのあとで美緒は廊下の先をちらっと見てから、少しだけ声を落とした。
「まあ、まだわかんないけど」
私は黙って、その先を待った。
「いい人そうじゃん。橘くん」
その言い方は、さっきまでみたいな軽い冗談じゃなかった。
まだわかんないけど、ってちゃんと残してるのに、そのあとに続く言葉は思ったよりまっすぐで、私は一瞬だけ返事を忘れた。
それから、言葉より先に頷いていた。
自分でも分かるくらい、少しだけ嬉しかった。




