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2. アネモネ

 眠る町。しんしんと降る、餅のような白くふわりとした雪が音を閉じこめ、自動車の音も子どもの声もみなかき消され、ただしんしんと眠りの底へとしずんでいく。

 その美しい翼ですみきった大空をとびまわり、詩のような歌声を響かせていた鳥たちも、凍てる翼を閉じ、身をこごめ、この町の冬に耐えている。

 郵便ポストのまえで足をとめ、ひろげた折りたたみ傘をばさばさ揺らし、何気なく空を仰いだ。風がやんで雲はずっしり重たげで、この町ぜんたいの空気までもが藍色に染まりだし、まだ昼すぎだというのに、夜にむかっているのか、それともこれから日が昇るのか、静寂のなかでぼくは自信をなくしてしまう。

 秋のなごりをさがそうにも、深ぶかと積もる雪が木の葉や枝に積もり、そこここに点々とならぶ家の窓もまっ白く閉ざされ、まるで白と青のモノクローム映画を見ているようなこの町の景観にもしも秋の断片がのこっているとすれば、それはぼくの足元、雪のしたに埋もれているに相違ない。冷えこみが革靴のしたから滲みとおってくるのを堪えながら、もくもくと歩みを前に進める。

 姉さんは、こんな冬が好きだった。冬は空気がすんでいて星がよくみえると言って、神奈川、栃木、群馬、長野、山梨、静岡、休日や連休を利用して頻繁に星をみにいっていた。ぼくは、姉さんが撮った神秘的な星空の写真をみるのが何より楽しみだった。冬の星座に関心があったというよりも、姉さんが目をきらきら輝かせ、まるで宝物をみつけた少年のように愛くるしい表情で夢とロマンを語る様子がいじらしくもあり、そんな姉さんと過ごす時間そのものに、ぼくは無意識のうちに愛着を感じていたのかもしれない。

 目指すべき目標や将来への展望もないまま惰性で大学に通い、平凡に無益に四年という時間と可能性を火にいれて燃やし、哲学に関する初歩的な知識と引き換えに学費をはらい、競争率のひくい建設会社に就職したぼくとはまるで対照的な姉さんである。

 都内の大学で理学部地球惑星科学科に所属し、卒業論文が当時著名な教授にみとめられてアメリカに留学することを勧められたが、姉さんはそれを丁重に断りこの町で教員になる道をえらんだ。ぼくは姉さんを誇りにおもうし、ひとりの人間として尊敬している。

 青白い雪で覆われた看板『花やしき』が視界のすみにはいる。ぼくは足をとめた。うっすらとつもった両肩の雪を力なくはらいおとし、扉をあけた。


「いらっしゃい」

「どうも、こんにちは」

「やあ、成瀬くん。 そろそろくる頃だと思ってたよ。 さあ、座って座って」

ギフト用ブーケのまえ、ちょうど薪ストーブのよこあたりの椅子に腰をおろした。

「寒かったでしょう? 今日の夜には降りやむそうだけど・・・ はい、お茶」

「っあ、すみません、いただきます。 まあ、出かける予定もないし、それに、この町の冬にも慣れましたよ。 東京じゃあこんなに積もらないんで最初は驚きましたけど」

両手で湯のみをつつみこみ、くるくる回しながら店内にある花から花へ、視線を泳がせた。湯のみの熱が死人のように凍えた手をあたため、かゆいような痛みがおそう。

「ほんと、めずらしいよ。 こんなへんぴな町に越してくるなんて」

「まあ、いろいろありまして・・・ 人口が密集した都会よりも静かに暮らせるこの

町のほうがいいって、ぼくと姉さんで話し合って決めたんです」

かずさんは腕をくみ、無言のまま首を上下にうごかし、少し間をおいて

「お姉さん・・・ 病気の具合はどう? 治りそう?」

「いや・・・ なんというか・・・ 変化はないですね」

「はなしかけても、何をしても起きない?」

「はい。 昏睡状態なんで・・・」

「そうか・・・ 成瀬くん、ぜったいに諦めちゃだめだよ。 ぜったいに」

「はい、もちろんです。 たったひとりの姉さんですから」

「なにかあったら言ってね。 こんな小さな花屋でも、なにか力になれればいいけど」

「ありがとうございます。 きっと、姉さんも喜んでいると思います」

「そうだった。 アネモネだったね。 ちょっとまってて」

そう言うとかずさんはエプロンをかけ、軍手をはめて慣れた手つきで新聞紙をテーブルのうえにひろげた。赤と白のグラデーション、オフホワイト、ブルー、スカーレット。

姉さんがすきな花、アネモネ。ぼくもきれいだと思う。

たしか、花言葉は薄れゆく・・・

「はいこれ。 おまけね。 お代は、そこにおいといて」

「っえ、いんですか?」

ぼくは、テーブルに小さくじっとかしこまって座っている、サンタクロースの置物に視線をうつした。赤いリボンのついたプレゼント箱を両手に抱え、ほっこりとした、あたたかな雰囲気をたたえている。

「いいの、いいの。 病室に飾ってあげて」

「すいません、なんかいつも・・・」

「お姉さん、きっとよくなるよ。 だから、待っててあげてね」

「はい、もちろんです。 じゃあまた、来週の日曜日に」

「いってらっしゃい。 きれいなアネモネを用意して待っています」

木製ドアをあけるといきなり氷の粉のような風が顔につきささる。ここからだと線路沿いに歩いて病院までは五分ていど。



 記帳の受付など、事務的な手続きはいっさい必要ない。せかせかした足どりで、行ったりきたりする看護婦たちを尻目に、ちいさな売店を横ぎりエレベーターの前で足をとめた。町はずれにあるこの病院に三年もかよえば、自然と暗黙の了解がうまれる。ぼくという人間がなに者であるか、病院にきた目的、おおよその滞在時間、あるていどの事柄なら病院側と共有している。

 三年か・・・ もう三年と形容するべきか、それともまだ三年と言うべきか。

今からおよそ百三十七億年前、ビッグバンの大爆発で誕生した宇宙は、ひたすら膨張を続け現在、ぼくたちが目にするような宇宙の姿になったらしい。

 宇宙という壮大な、あるいは認識を超えた時間軸のうえで考えれば、人間の一生など些末なことで夜空に光る青色の花火のように極めてみじかい時間にすぎないのかもしれない。

 しかしわれわれ人類にとっては、少なくともぼくにとっての三年という姉さんのいない空白の時間は残酷としか言いようがない。刑務所で過ごす時間、学校で過ごす時間、恋人と過ごす時間、無人島で過ごす時間、人間が便宜的に考えだした時間という概念も人によって、感じ方によってすがたかたちを変える。

 いつ目が覚めるのか? このまま永遠に眠ってしまうのか? 尊厳死? それはありえない。しかし本当にそうか? 姉さんは、ぼくになにを望んでいるのだろうか。

 メビウスの輪から抜けだせなくて連綿とおなじような思弁にふけり、何度も何度も何度も同じ結論のなかに落ちていく。それはちょうど、永遠に続く振り子運動のように希望と絶望が交互に顔をだし、限りない悠久の思考世界に閉じこめられる。

 ランプが点滅すると、エレベーターから患者と医者、その他大勢のひとが雪崩のような勢いで移動しはじめ、ぼくは思わずアネモネを守る姿勢をとった。


 三号館北棟。三〇六号室。


ああ、この感覚。都合のいい希望的観測がむねのなかでゴム風船のようにふくらんだり、しぼんだり、期待と失望がせめぎあい扉のまえで身体が自由に動かせなくなってしまう。

「姉さん、はいるよ」

アネモネの甘い香りと、薬品と思しき科学的な匂いがまざった独特の香気がただよい、吹雪のせいか部屋全体がうすぐらい。

「姉さん、さむくない? 外は大雪で、膝したまで積もってるよ」

洗面所で手をあらい、シンプルなポールハンガーに外套をひっかけた。

「見てよ、ほら、かわいいでしょ? サンタクロースの置物だよ。 花屋のがずさんがくれたんだ。 病室に飾ってくれって。 ねえ、どこに飾ろうか?」

ぼくはぐるりと室内を見まわし、横引き窓の手前、加湿器がのせてある細長い木板に置いた。白ひげのサンタクロースは、さっきと変わらない表情で空中の一点を見つめている。

「姉さん、アネモネだよ。 わかる? いい香りでしょ? あとで交換しておくね」

「そういえば、金曜日に父さんから電話があったよ」

「麻友はどうしてる? 元気かあって」

「だから、ぼくも姉さんも元気にやってるよって」

「そしたら、年末には帰れるって父さんはりきってたよ」

「いま大阪にいるらしくて、新入社員にビジネスマナーを教えてるんだって」

「そのまえは千葉で、ほんと研修講師も楽じゃないよね」

一定の間隔をあけて微弱な電子音と機械音が交互に鳴りひびき、この部屋に充満するアネモネの甘い香りと混ざりあい、ぼくの背中にずっしりとのしかかる。

 壁に立てかけてある金属フレームの折りたたみ椅子をベッドのそばにひろげ、そっと座り栗色の木製デスクをつくづくと見つめた。多彩な折り紙でつくった動物たち、姉さんの似顔絵が中央にえがかれた寄せ書き、家族の写真がはってあるコルクボード、宇宙船・スペースシャトルの模型、その他多くのものが飾ってあり、姉さんの人柄や人望を反映している。

 そのほとんどが教え子からのものであり、中学・高校時代の友人、大学の恩師、研究室メンバー、見知らぬひとも時折顔をだし、なにかしらこの栗色の木製デスクにおいていく。

 彼氏、いや、もと彼氏。姉さんが突然たおれた三年まえの冬、姉さんの彼氏は頻繁にこの病院にきていたが、二年を過ぎたころからめっきり姿をみせなくなった。この時期を境に彼氏だけではなく、ほとんどだれもこなくなった。

 友達とか恋人とかいってもしょせん上辺だけの希薄な関係だったんだ、とかそういうことじゃなくてたぶん、みんな気づいたんだと思う。この病室が、この部屋が、なにもない空っぽだってことに。

 たしかに姉さんは、いまここにいる。肉体があり、誤解をまねきやすい言い方かもしれないが、かくじつに存在している。けれども、意識がない。語りかけても、肩をゆすっても返事はなく悲愴な木霊がいたずらにこの病室をみたすだけだ。

 この病室にきたひとはたぶん、無意識に知ってしまうのだろう。昏睡という二文字の漢字、空虚な記号のうしろに横たわる冷たく薄暗いどろどろした昏睡という現実の不気味さを・・・ 

 いちばん手前にはいっていた姉さんに関する記憶がしだいしだいに脳の奥、はしごを使わないと届かない脳のいちばん奥の引きだしに移され、過去いきの方舟にのせられ少しずつ少しずつ忘れられていく。

 ぼくは、ふとんに手をいれ飴細工のような姉さんの左手をやさしくにぎった。

「姉さん、いまどこにいるの? とおいところ? ぼくの知らないところ?」

化粧をしていない姉さんは二十代前半くらいにみえ、長い黒髪はきれいに撫でつけられ、ななめに肩にたれている。雪をあざむくような白い肌には青い血管がすけて、おだやかな小川を連想させる。

「姉さん、もういくね。 遅くなると、あのひと腹が減ったってうるさいから」

「じゃあね、姉さん。 はやくもどってきてね。 まってるから」

唇の端に微笑をのこしたまま、姉さんはこんこんと眠り続ける。

なんとなくぼくにはわかる。 

姉さんはここではないどこか、悠遠の彼方にいるような気がする。


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