1. ちいさな宇宙
ちいさな宇宙で目が覚めた。
薄暗い和室の天井には紺色の厚紙が直接貼りつけてあり、そのうえから四季の星座が描かれた透明保護フィルムが二重に貼られ、頭上におおいかぶさる天球の様子をあらわしている。フィルムには、全天八十八星座すべてが描かれており、他にも星座神話で活躍する英雄や動物たちのイラストや星の位置にいたるまで詳細に書き込まれている。
手作りにしては完成度が驚くほど高く、書籍や雑誌などに添えられた星座早見盤の類が、子どもだましに思えるほどだ。薄暗い和室の天井一面にひろがる星空の世界地図。
ぼくは、ゆっくりと上体を起こしでかかったあくびを抑えた。目の奥のほうから滲みでる眠気が、じわりじわりと背中に押し寄せ、そういえば今日は日曜日だから二度寝してもいんだっけ、とか考えながらねぼけた眼つきで正面にある本棚を見つめた。
黒みがかった濃い茶色の文庫本ラックが三つ並び、高さはぼくの身長と同じか少し高いくらいだろう。棚板は全部で十八枚あり、色あざやかな背表紙を見たかぎりでは子どもが手にとって読みたくなるような本はなく、読み終えるのに一ヵ月も二ヵ月もかかりそうな本が隙間なく並んでいる。
ぼくは、本が嫌いなわけじゃない。なかなか寝つけない夜や休日の午後、時間があるときには本棚の前をうろうろ歩きまわり、好奇心にまかせて本を引きぬいて読んだりすることはあるが、好きな作家やジャンルがあるわけではない。
窓のそば、左側のラックの上段には『宇宙論・物理学・天文学』と太字で書かれたシールが貼ってあり、下段には『空想科学小説・ファンタジー小説・その他』と書かれ、同じように白いシールで種類分けされている。ぼくが読む本といえば、SF小説かその他に含まれている星座に関する書籍や図鑑くらいだろうか。
視線をドアに近い右側のラックに移せば、同じようなシールが貼ってあり『教育・哲学・・・』と、読めば、たちまちのうちに眠ってしまいそうな本がびっしり詰めてあり、真ん中のラックも、まあ似たり寄ったりって感じだ。
スリッパに両足を滑りこませて立ちあがり、ラックの上に飾ってある地球儀を手にとった。これは、たぶん三次元球体パズル。
ほかにもこれと同じような惑星が八つ等間隔に並び、宇宙空間を連想させる黒色の厚い布が敷いてある。綿のようなほこりが一面についたクリアパネルには『太陽系』と独特の整った字形で書かれている。 ぼくは右手を伸ばし、火星儀と金星儀のあいだに、地球儀をそっともどした。
ここにいると、この部屋にいると、なんだか不思議な感じがする。いまここにいるのに、遥か遠く、ここではないどこかにいるような非日常的な感覚に支配されそうになる。
なぜ姉さんは、ちいさな宇宙をつくったのだろうか。趣味や嗜好という空虚な二文字では、到底納得できない、あるいは到達できない姉さんの世界があるように思う。
階段をおりて、ふすまを開けた。
和風家具調こたつのうえには、缶ビールが九本、散乱したチーズの包装紙、ひと切れのチョコレート、弁当の空箱が二つ、麦茶色の天板が見えないほどごっちゃ混ぜになり、ポイ捨て禁止の看板が立てかけられた草むらのような光景がひろがっていた。
ああ、誕生日か。そういえば、二十九歳になったんだっけ・・・ 完全に忘れてた。二十代後半を過ぎると、自分の誕生日の価値がずるずると下がり、海の日や勤労感謝の日と同じような雰囲気で、知らぬ間に過ぎさっていくような気がする。
実際、二十九歳になったからって、何かが変わるわけもなく、終わりのない日常が、ただただのっぺりとした道のように延々と続き、人間が便宜的に考えだした時間という概念だけが、連続する瞬間に仮初の実体をあたえている。
半透明なポリ袋に、燃えるごみと燃えないごみを分けていれる。首もとが微妙にへこんでいる缶ビールが、昨夜ぼくが飲んだぶんで、そのほかの缶ビールは、すべて野郎が飲んだらしいが、昨夜のことはあまり覚えていない。
親指と人差し指でアルミ缶の首もとをへこますのは、それが昔からのぼくの癖であり、それ以上の理由はとくにない。ただ単純に、ぼくにとってアルミ缶は持ちにくいものであり、するっと手からすべり落ちないように、ひと口飲んでから、必ず首もとをへこませるようにしている。
冷蔵庫の二段目からおでんを取りだしてフタを開けた。なると、なると、ふき、こんにゃく、こんにゃく、ちくわ、ちくわ・・・
鈍い怒りに突き動かされ、うしろを振りかえり、こたつが自分の所有物だというような顔つきでぐっすり眠っている野郎を睨んだ。ひどいことをする。悪党め・・・
昨日、たしかに買った。レシートだってある。厚揚げ、厚揚げ、牛スジ、つくね、つくね、たまご、ウィンナー、なると、なると、ふき、こんにゃく、こんにゃく、ちくわ、ちくわ、がはいっているはずだった。それが一夜あけてみると、なぜかしら、ぼくの好物だけが消えている。空き巣にはいられたあとの虚しさ。部屋を荒らされ、貴重品だけが無慈悲に奪われ、価値の低い生活用品には見向きもしない。
やれやれ、いくら付き合いが長いとはいえ、かりにも三つ上の先輩であり、ぼくの上司であることをいいかげん自覚してほしいものだ。会社から近いというそれだけの理由で、いつの間にかぼくの家を根城とし、同居ごっこをするのは構わないが、時々思いだしたように勝手気ままにふるまう野郎をみていると、仕返しのひとつやふたつ、したくなるってものだ。
電子レンジで温めたおでんを右手でもち、左手でテレビの電源をいれ、両足をこたつのなかに押しこんだ。はしでこんにゃくを口に運びながら、チャンネルを変えた。
公安調査庁は昨日、国内外の治安情勢をまとめた改正版「内外情勢の回顧と展望」を公表し、「救済くらぶ」の今年の新規信者が計4155人だったと明らかにした。
年齢別では10代から30代がもっとも多く、同法に基づく観察処分が始まったX年以降最多となった。なお、
「救済くらぶ」の修行法は、専門家からも問題が指摘され・・・
「んん・・ おはよ。 いまなんじ?」
「もう、昼すぎです。 根本さん、ぼくのおでん、勝手に食べないでくださいよ」
「おでん? ああ、おでんね。 ちゃんと成瀬のぶん、残しただろ」
「残したって・・・ いや、そういう問題じゃなくて・・・」
「わかった、わかった。 ったく朝から大きな声だすなよ。 二日酔いで頭がいてんだよ。
弁償すればいんだろ? 全額きっちり弁償しますよ。 っで、いくら?」
「とりあえず、千円ください。 夕食、ぼくが買ってくるんで」
「わるいね、じゃあ頼むわ。 財布はそこにあるから、まあ、てきとうに」
「弁当、なんにします?」
「ちょっとタンマ。 トイレいってくる」
ゆらりと立ちあがり、のそのそと両肩を揺らしながら、ふすまの奥へと消えていった。にわかに部屋がひろくなった。本人いわく遺伝らしい、その長身にくわえ、軽自動車で踏んでもビクともしないような筋肉をまとった大男が姿を消すと、この部屋は本来のひろさを取りもどす。八月の空き地に生えた雑草のように、好き放題ひげを伸ばしているせいで、年齢よりいくぶん老けてみえる。
そういえば『ウルヴァリン』に、似ていなくもない。『ウルヴァリン』とは、マーベル・コミックの架空のスーパーヒーローであり、両手の甲から生える、三本の鉤爪が印象的である。
べつに粗野で乱暴なわけでもなく『ウルヴァリン』のように背が低く、毛ガニみたいな外見も当の本人とは一致しないが、どことなく雰囲気が似ている。噂をすれば影・・・
「わりい、わりい。 っで、なんだっけ?」
「弁当ですよ、弁当。 なに弁にします?」
「んん・・・ そうだな・・・ 成瀬にまかせるよ。 成瀬いちおしの弁当」
「そんなのないですよ。 まあ、てきとうに買ってきますよ」
「酒とつまみは、俺に任せろ。 あとで買ってきてやる」
「えっ、今日も飲むんですか? 明日仕事ですよ?」
「まあまあ。 日曜なんだし、独身同士たのしくやろうぜ」
「それ・・・ 毎日言ってるじゃないですか」
冷淡と呆れを織り交ぜた視線を、ひび割れた野郎のくちびるに投げつけた。
「ったく、かわいくない後輩だなあ。 二日酔いでも、三日酔いでも、仕事できるだろ」
「はいはい。 ぼく、もういきますね。 戸締り、頼みます」
「おう、まかせろ」
銀色の掛け時計が疲れたようすで、時間を告げている。