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後編ですか!?

こちらも前編同様、ルビや傍点、各パートのタイトルや繋がりなどを「なろうバージョン」用に調整中のベータ版になります。一部で目の行き届かない箇所があるかもですが、ご理解いただいた上でお楽しみいただければ幸いです。

    5


「ほえーっくしゅん! ――なんちゃって?」

 夕方。買い物袋を下げた皆人は、家まであと曲がり角一つというところで、わざとらしくくしゃみなんぞしてみた。自分でやっておきながら、ちょっと恥ずかしくなる。

 鼻をこすりながら顔を上げると、色の落ち始めた空を背景にして、少し先の電柱の上に黒光りする大型の鳥が止まっているのが見えた。

「カラス? ってあんなにでかかったっけか? ……まあ、いいか」

 あれから皆人たちは、簡単な打ち合わせがてら喫茶店で遅めの昼食をとり、その後はそれぞれのやるべきことをするべく街へと散っていった。真紀織とビーナは秋葉原駅へ戻り、フィラは皆人が電車で学校まで送った。白昼堂々学校を抜け出した彼女は、逆にクラス全員から拍手で迎えられたという。頼みもしなかったのに代返までしてくれていたそうで、放課後皆人の家に電話してきたフィラは、「これで信者と友人を三四人分ゲットした。あと六六人だ!」と大いに盛り上がっていた。

 さらに電話の後、夜までの外出許可を取ったフィラは、皆人の家ではなく秋葉原駅へ行くことになった。〝彼女〟にとっては真衣子よりもそちらの方が気になるのは当然だったし、どのみち今日は〝カゼで休み〟の予定だったので、皆人にも異存はなかった。

 その皆人自身は、五時間目の途中でやっと学校に戻れたが、こちらでは途中退場などめずらしくもないので、教師を含む全員から無視された。ただしタクシー代はきっちり取られ、生徒会長兼番長(この学校にはまだ存在している)からは、来月の文化祭には「真紀織サン」を必ずご招待せよ! との至上命令まで下されてしまった。

「――っても、〝ラディカカ〟ってのが本当に襲ってくるなら、もうすぐ文化祭どころじゃなくなっちゃうんだろうなあ」

 ビーナによれば、海洋調査船〈アリアス〉号を沈めたのはやはり「海魔ラディカカ」で、あと五日前後で東京付近に上陸するだろうとのことだった。日本政府に対しても意図的に情報をリークしているというが、少なくとも各種メディアの報道状況を見る限り、海上自衛隊の一部が災害訓練目的で移動を開始しているくらいで、国内的にはまだまだ平和だった。

「それより、問題は今日の夜、なんだよな……」

 皆人は、手にしたビニール袋をがさっと揺らしながら、さてどうやって真紀織を――フィラの姿をした彼女を、こっそり家の中に入れようかと考える。

 当初は駅舎内での野宿まで覚悟していたらしいが、皆人が仲間に加わったことで、なんとか夜は皆人の家に行けないかと泣きつかれてしまったのだった。

『特にお風呂! お風呂にさえ入れたら、寝るのは皆人くんの部屋の押入れの中でもいいから!』

 別に自分の部屋で寝ればいいじゃん――と皆人は思ったが、そんなことよりも、母にバレないよう「見知らぬ女の子」に風呂を使わせることの方が大問題だった。

「――ううむ、怪しい!」

「まきが来るまであと三時間くらいか……さてどーっすかな。あのイレズミみたいのがなきゃ、銭湯って手もあるんだけど――あれ?」

「怪しい! 怪しい! 怪しすぎ! もうなんなのよ、このとんでもなく頑丈な結界は!?」

 皆人の家の前で、ひとりの女の子が怒りまくっていた。

「ええい今度こそ! おりゃ!――ぎゃん! がー!」

 玄関に向かってダッシュした女の子が、皆人の目には見えない何かに大きく弾き返される。肩先までの白黒髪が乱れ、黒を基調としたゴスロリ風ドレスがふわりと舞う。

「あーもうあのメス猫! たかが精霊のくせになんでこんな天使級の封魔防壁結界を展開できんのよ! 怪しい怪しい! ますます怪しい! こんちくしょーっ!!」

 どこか見覚えのある女の子だったが、どこで会ったのか皆人には思い出せなかった。

「ええと、あの……?」

「せっかくあいつらの根城らしいところを見つけたと思ったのに!――いや、これだけ厳重に守っているってことは、きっとこのとんでもなくみすぼらしい小屋の中に重大な秘密が隠されてるに違いないわ!」

「おーい……」

「――そうか! ここにはきっと、あいつを異教神に復活させるための祭場なんだわ! そう考えれば、この信じられないくらいみすぼらしい外観に強力な結界っていうミスマッチにも大納得だわ! 〝あいつ〟も最初に降臨したのは大工んちの馬小屋の中だったっていうし」

「あのさ、きみ、ウチに何か用?」

「だからもうさっきからうっさいっての! 今取り込み中──って、ああ! おまえはっ!?」

「あ、やっぱりどこかで会ってた?」

 しかし女の子は、皆人の言葉を無視して、

「がー! ゴルディアス黒! バルディアス白! コラどこにいる! どうしてこいつがここにいるの! 報告はどうしたのよ!」

「ぎゃぎゃぎゃ、ぎゃぎゃ、ぎゃー!」

 いつの間にやら皆人の家の前の電柱に移動していたあの大ガラスが、羽をばたつかせながら答える。

「あのメス猫の結界に入られて見失っていて、ちょうど今知らせるところだった、だとお!? ええい! ――おい!」

「おれのこと?」

「他に誰がいるっての! ちょっと手をお見せってば! ――ほへ? ない、ないない!〈指輪〉がないいーーっ!! こらおまえ! あの〈指輪〉をどこへやった!?」

「ええと――捨てちゃった?」

「ぬわんだってえ!? いつ! どこに!?」

「午前中に、通ってる学校の裏門横にあった、排水口の中へ――」

 自分の意志とは関係なく、勝手に口が開いて言葉が出てくる。だが皆人は、それを別に不思議とは思わなかった。

「――今頃は、どっかの下水管の中を転がってると思う」

「がー! すぐ探しに行かなくちゃだわ! 先にお行き、ゴルディアス黒! でもってバルディアス白はどこ行ったのよ!?」

 怒鳴りつつ皆人の横を走り抜けようとした白黒髪の女の子は、しかしふと立ち止まって、

「ひょっとしておまえ、この家の関係者?」

「関係者、です」

 ほとんど感情のない声で皆人が答える。女の子はにやりと笑って、

「よし! も一回、手を出して!」

「はい」

「そのまま気を楽にして。いい、あんたにはあたしの――このルシル・リリスペインの言葉以外には何も聞こえない。わかった?」

「あなたの言葉以外は聞こえない」

「ようし……心を開いて。あたしに見せるの。いいわ、見えてきた……」

 皆人の心に、家の中の様子が浮かび上がってくる。それは想像というよりも、実際の映像を見ているかのように鮮明だった。

「ふん、中もやっぱりみすぼらしいのね!――祭場らしいものは? どこにもなさそうだけど……うん? ねえ、こいつは誰?」

 女の子――リリスペインが聞いた。

「真衣子」

「マイコ? 人間なの、こいつ?」

 その問いかけに、皆人は一瞬とまどうように頭をひねったが、

「人間、大切な女の子」

「うそよ」

 リリスペインが言い返す。

「だってこいつ、死んでるじゃない」

「――え?」

 皆人の声に感情が戻る。

「死んでるっての! 〝ここ〟から見ても確実よ。こいつには〝魂〟がないもの」

「……!?」

 皆人の心が真っ黒になる。

「あっと、しまった! 刺激が強すぎたか――でもこれってどういうこと? なんで魂のない人間が実体を保ってるの? メス猫の仕業?」

 棒立ちの皆人の前で、リリスペインがその白黒髪の頭に手をやって考える。

「フィラの再異教神化とは関係なさそうだけど……いや待って! 〝これ〟をあのメス猫封じに使えれば、結果としてフィラのそれも阻止できるかも! あのメス猫にもいっぱい食わせられるし、もうざまあみろって感じ!?」

 リリスペインは、その銀灰色の瞳で皆人の家を見つめながら、

「でもこの結界を突破できなきゃ、手は出せないぞっと……そうだ!」

 彼女の目が、皆人へと戻る。その透き通るような赤い唇に、ふふっと笑みが浮かぶ。

「おいおまえ! 名前は?」

「皆人」

「ミナト。じゃあいい? あの人間、マイコを救いたかったら、あたしの言う通りにするのよ? わかった? よし、じゃあまた手を出して――」

 しかしその途中で、彼女の足下に全長二メートルほどの白ヘビがするするっと絡みついてきた。

「うひょっ!? ば、バルディアス白!? きさま、今までどこほっつきうねってやがって――えっ? あの銀髪リムジンが!?」

 リリスペインが顔を向けると、数軒先にある住宅脇の私道から、銀髪の女性型精霊であるミスリナの変身した真っ白なリムジンが、その長大な鼻面を突き出してゴリゴリと曲がってくるところだった。

「がー! マジしつこいっての! やっぱ滅殺決定!?」

 しかし今の人間界で使える魔法――魔力には限度がある。こんなところで余計な魔力を消費したくはなかった。「ラディカカ」が来れば多少はましになるが、所詮は異教の力なので、彼女にどこまで使えるかは未知数だった。

 そうしている間にも、リムジンは細かい切り返しを繰り返しつつ、着実にこちらへ車体を向けつつあった。

「ええいしゃーない! ミナト! 他のことは忘れてもこれだけは忘れないように――マイコを救えるのはあたしだけ! わかった!?」

「真衣子を救えるのはあなただけ……わかった」

 皆人がそう答えるのと同時に、真っ白なリムジンが私道から出で、一気に速度を上げて突っ込んで来た。リリスペインは隣の家の屋根の上にジャンプ、そのまま屋根伝いにジャンプを繰り返しながら逃げてゆく。

 皆人のすぐ前にやって来た長大なリムジンが、しかしあっとい間に通り過ぎてゆく。

「わ、あぶね!――え?」

 我に返った皆人が声を上げたときには、リムジンはもうずっと先まで行ってしまっていた。

「どうしこんなところにあんな車が?――うん?」

 思わず振り上げていた掌に、一連の数字が書いてあった。

「六六六‐六六六‐六六六?――電話番号か? にしちゃ変だよな。だいたいこんなの、いつの間に書いたんだろ……あっ」

 直後その数字は、まるで皆人が見たことでその役目を終えたとでもいうように、すうっと消えてしまった。それと同時に、そこに数字が書いてあったことさえも皆人の記憶から消えてしまう。

「あれ――? おれ、今まで何やってたんだっけ?」

 自分の掌をじっと見つめていた皆人は、首をひねりながらも、その手で下に落ちていた買い物袋を拾い上げながら、

「ここで、誰かと何か話をしてたような気がするんだけど――っと、そうだ! とにかく風呂の用意だけでもやっとかなくちゃな!」

 だがその夜、事態は急変した。

「ラディカカ」の侵攻速度が早まり、真紀織が来れなくなったのだ。

 だが結果として皆人は、とりあえず風呂の心配はしなくてもよくなったのだった。



第三章 晴海迎撃!



1


 目を開けると青い空が見えた。それで朝になったのだとわかった。

「……長い夜だったなあ」

 JR秋葉原駅・総武線ホームの屋根の上に敷かれたマットの上で、日に灼けたような褐色の肌に真っ赤な髪を持つ少女が体を起こす。寝ている間中下敷きになっていた黒い翼にはまるで寝ぐせのように妙な折り目がついていたが、彼女――真紀織は気にしない。

 昨日の夕方遅く、やっと情報解禁された〝ラディカカ〟関連の動向がネットを含む各種報道機関によって一斉に伝えられた。

 調査船〈アリアス〉号並びにアメリカ海軍駆逐艦〈ジョン・ルース〉号、同〈アーネスト・パーカー〉号、さらに攻撃型原潜〈スプリガン〉号の沈没および行方不明の原因が、その未知の巨大海洋生物の仕業であること、当該生物は続く米海軍の攻撃にもまったくひるむことなく、一路この日本を目指していること──等々がリアルタイムの画像付きで時々刻々と報じられ、午後八時には三陸から伊豆半島にかけての沿岸地域の住民に対し、即時に内陸部へ避難すべしとの緊急避難命令が発令された。特にここ数年、何度となく大きな災害に直面してきた人々は、その大半が比較的冷静に避難を開始したものの、東京都区部を始めとする都市部においては、やはり少なからず混乱が発生、渋滞した主要道や一部で運転の止まったターミナル駅周辺では危険なパニック状態にまでエスカレートしてしまった。

 この秋葉原駅でも、千葉房総方面から新宿経由で信州長野地方へ繋がる臨時避難列車が一時不通となり、列車内に足止めされた乗客たちが勝手に線路に降りたりしてさらなる混乱を呼び、結局それは列車の運行が再開された明け方近くまで続いた。

「……ええ、もう大丈夫です。ここのパニックは一応おさまりましたわ」

 あくびをかみ殺しつつ声のする方へ顔を向けると、背中に四枚の羽の生えた白猫が年代物の黒電話の前に座っていた。

「はい。千葉方面行からの避難列車が通過する以外はもう人の動きはありません。このあたりは商業区域ですから、もともと定住者は少ないですし。警察の方にも情報を流して当駅周辺を全て立ち入り禁止にいたしましたので」

 真紀織の耳に、外した受話器から普通の人間には聞こえないはずの電話相手の声が聞こえてくる。

『情報って、どんな?』

 それは皆人の声だった。

「〝東京(ここ)が現在日本に向かって北上中の怪物の目的地ですわよ〟」

『それだけでよく警察が動いたもんだ』

「警察だけではありません。自衛隊の方々もとっくに行動を開始してますわ」

『だったな』

「以前から同じルートで、ラディカカに対する正確な情報を送り続けておりましたから。バチカンの秘蹟情報局経由でイタリア政府に働きかけて、イタリア海軍情報部とイギリスMI5の合同調査情報として各国政府の情報機関へ。おかげでこれでも信頼度は抜群ですのよ?」

『バチカンって、あのバチカン市国か? キリスト教総本山の』

「ですわ」

『あそこって、本当に本物の神さまと繋がってたんだな』

「本物、と言えるかどうかは微妙なところですけれどね。そもそも〝わたしたち〟は、正確にはあの教団が信奉している対象とは異なる存在ですし。まあそのあたりの事情を知っているのは、もちろん教団内のほんのごく一部の人々だけですけれど」

 真紀織は、そんな皆人と白猫――ビーナの話を聞き流しつつ、ダイヤル式黒電話の横にある古ぼけた一四インチテレビに向かって、心の中で〝つけ〟と命じる。直後、誰も触れていないのにテレビの電源が入り、あぶり出しのようにゆっくりと画面が浮かび上がってきた。

『――の怪物は現在、小笠原諸島の東側に沿って毎時二〇〇キロ前後という信じられない速度で北上を続けており、三浦~館山間に敷かれた自衛隊と在日米軍による封鎖線に到達するのは、およそ三時間から五時間後と推定されております……』

 ビーナもテレビをちらりと見て、真紀織に軽くうなずいてからまた受話器へ向かって、

「とにかく人間側の攻撃が予想以上に激しくて、それがかえってラディカカを刺激してしまったようですわ」

『あいつ、アメリカの軍艦を何隻も沈めたろ? それで米軍がマジになっちゃったんだ』

 実際、ビーナたちがいくら情報を送っても静観を決め込んでいた日米両政府が、そのアメリカ海軍ミサイル駆逐艦〈ジョン・ルース〉撃沈後は、逆に向こうからどん欲に情報を求めてくるようになっていた。

『ニュースでもやってたけど、横須賀の空母出航だの三沢のライトニング出撃だのは予想通りとして、沖縄からすっ飛んできた海兵隊の輸送機は羽田に強行着陸するわ、アクアラインには自衛隊の戦車がずらりだわ――たった一晩でよくやるよって感じだな』

「ラディカカに関しましては、その封印が解かれてしまった直後から関係各国には警告を出し続けていたのです。表向きは無反応でしたけれど、それなりに準備はしていたようですわね」

『ふうん――で、まきの方は?』

 その声に、真紀織の体と背中の翼がびくっと震える。

「……厳しいですわ」

 ビーナの声から余裕がなくなる。

「〝神帯槍〟の霊力は、まだラディカカを封じるために必要な量の一割にも達していません」

 その言葉に、真紀織は自分の傍らに置いてある長い槍を見た。

ラディカカの侵攻が爆発的に早まったのを受けて、昨晩は徹夜でその槍に霊力をこめ続けた。おかげでその踊りは、今やフィラが見とれるほど上手くなったが、やはり人間の魂に操られた体では、思うように霊力を補充することができなかった。

〝ラディカカ〟を封じるには、まず〝やつ〟の霊体と実体とを分離させる必要がある。

 霊体――要するに魂――の抜けた実体は、それだけで勝手に自己崩壊する。真空中で缶ジュースの中身を抜き取るようなものだ。空になった缶=ラディカカの実体は、なまじ巨大なだけに、そのぶんあっという間に潰れてしまうだろう。

 いっぽうで外に出た霊体の方は、この「秋葉原十字結界」内に閉じこめたまま、フィセラセラ島の「フィラ遺跡」へ転送させてしまえばいい。遺跡の方は、すでに政府経由でカルネアグループに話が行っており、現在急ピッチでその再建が進められていた。遺跡の封印結界が完全に機能するまでにはまだかなりの時間が必要だが、そのくらいの間なら、ビーナたち〝異教の力〟でもなんとか抑えておける。

「――ですが、そのラディカカの霊体を実体から押し出せるだけの霊力が、まだ〝槍〟にはたまっていないのです」

 真紀織はその〝槍〟──〝神帯槍〟を手に取ってみた。

軽い。たとえ全長三〇〇メートルを超える怪物に宿る霊体を一気に吸い出せるだけの霊力がたまったところで、実体としてのこの〝槍〟の重さはほどんど変わらないはずだった。

 でもやっぱり真紀織には、その〝槍〟の軽さは、空っぽのペットボトルよりもさらに手応えがなかった。

「――きお、マキオ?」

 ビーナが呼んでいた。

「あ、ビーナ、何?」

 ビーナは尻尾で黒電話を指しながら、

「ミナトさんがあなたとお話したいって」

 真紀織は手にしていた〝槍〟を自分の横に置きながら、

「……今、ちょっと話したくない」

 ビーナの尻尾が力無く駅舎の屋根に落ちる。

「ごめんなさいね。マキオ、まだ疲れているみたい。昨日はほとんど徹夜だったので――はい、予定通りエルドラさんは日の出桟橋で対ラディカカ用の誘導結界を構築中ですわ……わかりました。そちらに行っているフィラさんとミスリナさんにもよろしくとお伝えください。では」


    2


「もぐもぐ――で、なんだって?」

 やっと耳から携帯端末を離した皆人に、さっさと食卓についてベーコンエッグをぱくついているフィラが聞いた。

「まき、どうもすっげー落ち込んでるっぽい」

「ビーナがそう言ったのか?」

 皆人は聖エレナスの制服に身を包んでいるフィラに向かって軽く首を振った。

「いや。でもバレバレだって」

「そうか」

 そしてまた、フィラがベーコンエッグを食べる音だけが坂井家の食卓を支配する。

「フィラ」

「もぐもぐ……うん?」

「なんで制服を着てるんだ? 学校は休校になったんだろ?」

 都内にある全ての教育機関は、今朝から一斉に無期限の休学となっていた。

 ちなみに皆人が、悪魔に堕ちたとはいえ元は一柱の神さまだったフィラに対してタメ口なのは、その見た目のせいでつい真紀織に対するように話しかけてしまったのを、フィラ自身が面白がって許しているからで、別段皆人の本心というわけでもない。

「他にどんな格好したらいいのかわからなくてな。似合わないか?」

「いいや。元々まきの体だし。リボンがひん曲がってるけど」

「それは個性だ」

「あっそ」

 それから皆人は、ほとんど空になったフィラの皿を見て、

「おれのも食っていいぞ、ベーコンエッグ」

「そうか、すまんな。では遠慮なく」

 かちゃかちゃ、もぐもぐ、ごっくん。

「……フィラ?」

「もぐ?」

「おまって、ほんとに悪――いや、元神さまなのか?」

「もぐもぐ――ぷは。そんなわかりきったことを、なぜ今さら聞く?」

「だってそのカッコ見てると、全然実感ないんだけど」

 今たって、真紀織の姿でひたすらベーコンエッグをぱくついているのだ。そんなこともあって皆人は、つい普段の真紀織に対するように彼女に接してしまう。言葉遣い同様、別にフィラの方から文句もないのでそれで通しているが、そのこともまた、皆人がフィラを神さま扱いできない理由だった。

「まあ確かに、この身は紛れもなく平凡な一少女のものだし、霊力のないおまえなどに、このわたしの真の姿が――魂の姿が見えるわけもないからな。無理もない」

「そんなもんかな」

「そんなもんだ――と、そうだ、ミナト」

「なに?」

「マイコの方はどうなのだ?」

「今までと変わりない。おまえが来る前に、うちのあれと着替えもさせたし」

 皆人が言うところの〝うちのあれ〟――つまり彼の母は、一昨日から勤め先の病院へ泊まり込んでいる。昨日一瞬だけ戻ってきたが、真衣子の様子見を兼ねた着替えが終わるやいなや、玄関に待たせていたタクシーに飛び乗って病院へとんぼ返りしていた。今も入院患者の移送作業ですったもんだしているはずだ。

「でもフィラ、なんでおまえがまいのことを聞くんだ?」

「わたしではなく、この体が聞きたがっているのだ」

「そうなのか」

「そうなのだ、もぐもぐ」

「……まあいいか」

 しばし沈黙。

遠くかすかに、真衣子の部屋から流しっぱなしのアニメ音楽が聞こえてきた――ええと、これなんの歌だっけ?

「ミナト」

「――あ、なに?」

「すまんが、テレビを頼む」

「どうせニュースばっかだぞ」

「かまわん。ついていると安心する」

 皆人は手元にあったリモコンを操作して、テレビの電源を入れた。

「ぽちっとな――おっと、さすがの東京ローカルも、今回ばかりは臨時ニュースか」

 そこで皆人は、全てのチャンネルがまったく同じニュース画面なのに気がついた。

 地味なスーツのアナウンサーの斜め上には、〝政府公報〟のテロップがあった。

『――繰り返しお伝えしております。こちらは政府広報です。都民のみなさんは、こちらからお伝えする情報のみに従い、行動してください。流言やデマ、危機管理庁のホームページ以外のインターネット情報には充分ご注意を。現在は中央、港、太田、千代田、並びに江東の各区に強制退去命令が、その他の区部にも緊急避難命令が発令されております。なお二三区全域の公共交通機関は全て無料で利用できますので、避難の際は原則として車の使用は避け、こちらを利用されるよう強く要請……』

「食事どきに面白いものではないな」

「消す?」

「うん」

 皆人がテレビを消す。ベーコンエッグの音が、さっきよりも大きくなったような気がする。

「――ああ、ミナト?」

「なに?」

「食べづらいぞ」

「生焼けだったか?」

「違う。そう見つめられていたら、せっかくのベーコンエッグものどを通らん」

 黄身だらけの口元をとがらせてフィラが言った。

「え?」

 言われて皆人は、初めて自分が彼女をじっと見つめていたことに気がついた。

「あ、ああ、ごめん……」

 顔がほてる。額から汗が吹き出てくる。

 それはフィラの方も同じだった。

「い、いや気がつけばいいのだ! 別に見るなとは言ってないのだし、見られても別段減るもんじゃないのだか……ああ、そのなんだ、わたしはいったい何が言いたいのだ?」

「おれに聞くなよ」

 そっぽを向いたまま、皆人が答える。

「茶番よの。見ておれん」

 食堂の入り口に立っていた長身の銀髪美女が、どこか古風な言い回しでそう言った。

「なら見るな、下級精霊」

「この身が下級精霊ならば、さて、きさまは何様だと言うつもりか?」

 その長身を紺色のシンプルなワンピースに包んだ女性型精霊、通称〝クレイジーリムジン(前日に皆人が勝手に命名)〟――ミスリナの銀色の瞳に剣呑な輝きが宿る。

「決まっている。アクアマリンの聖乙女、南海の少女神さまだ!」

「言っておれ。どうせラディカカがこのまま暴れ続ければ、異教の神などというふざけた立場に戻れるどころか、最下級悪魔の身分すら危ういのだぞ」

「そんなことにはならん」

 きっぱりとフィラは言った。

「ほう? なぜ?」

「マキオは必ず勝つ!」

「ふん、言うに事欠いて適当な戯れ言を――」

「違う。わたしにはわかるんだ――あの娘は、こんなことくらいでは決してくじけたりしない。必ずまた立ち上がる」

「どうしてそう言い切れる?」

 フィラはその茶色い髪の頭をちょんちょんとつついて、

「わたしには、あいつの生きてきたこと、感じてきたこと、思ってきたことが全てわかっている。正直、かなりひねくれた部分も見受けられるが――だが、その記憶の全てがわたしに告げているのだ。この娘は、マキオは強い!」

 そう言うとフィラは、くるりと皆人へ体を戻して、

「だろう? ミナト」

「ど、どうしておれに聞く?」

「どうなんだ?」

 重ねてフィラが聞く。真剣な声だった。

「――フィラの言う通りだ」

 きっぱりと皆人は言った。

「あいつは絶対にあきらめない。たとえほんのわずかでも可能性があるなら、あいつはやる!――ま、結果までは保証しないけど」

「主の洗礼を受けぬ人間の言うことなど聞く耳もたんな――ビーナさまの張った結界の様子を見てくる。異端は異端同士、勝手にじゃれ合っておるがいいわ!」

 銀髪の精霊はそう言い捨てると、ぷいっと食堂から出て行ってしまった。

「勝ったぞ、ミナト!」

「味方を負かしてどうすんだよ」

 しかし、そういう皆人の顔も笑っていた。

「敵を倒すにはまず味方からってな――もちろん冗談だ。ごちそうさま」

 先に言われた皆人は、ちょっと口をぱくぱくさせてから、

「あ、ああ、おそまつさま」

「ふむ――ところでミナト、おまえは逃げなくていいのか?」

「まいを置いてったらまきに殺される」

 皆人はうっ! と心臓のあたりに銃弾を受けたようにのけぞってから、

「どっちみち、もし電気が止まったらまいのために自家発電機を動かさなくちゃなんないし、それにここだってビーナの結界で守られてる──んだろ? なまじ逃げ回るより、ここにいた方がずっと安全だよ」

 その点は皆人の母も了解していた。正直フィラやビーナの存在をどこまで信じているのかはわからないが、どのみち今の真衣子を守れる場所はここ以外にはない。避難先となった病院はどこもていっぱいで、とても彼女のような手のかかる子供を入院させる余裕などないことは、自身某大学病院の看護師たる彼女が一番よくわかっていた。

「それはそうだが、ラディカカが上陸すれば、その魔力を浴びて実体化した低級霊ども襲ってくるぞ。一匹いっぴきは薄氷なみにもろい存在だが、それらが無数にたかってくるとなれば、あまりいい気分はしないだろう?」

 皆人は昨日のトイレから始まった一件を思い出してちょっと「うっ」となったが、

「なあに、今度は〝あれ〟があるんだ。トイレブラシなんかの比じゃないぞ。全部まとめて蹴散らしてやる!」

 皆人があごで示した先には、掃除機の横に並んで立てかけてあるギター用のソフトケースがあった。

 もちろんその中にギターなど入っていない。代わりにフィラがビーナから預かってきた〝護身用〟の自動小銃とその弾薬が入っていた。M16ガーランドとかいう、アメリカ陸軍や海兵隊の正式軍用銃で、映画や雑誌で皆人にもおなじみの銃だった。その撃ち方についても、大方の見当はついているつもりだった。ただし暴発が怖いので、まだ手は触れていない。

「なんだ、結局あれを撃ちたいだけなんじゃないか」

「そこまで断言されると返す言葉もないが」

 皆人は思い出したようにベーコンエッグの皿を手に立ち上がると、それを流し台に入れて洗い始めた。急がないと、都内では水もガスもあと一時間ほどで止められてしまう。ただし電気だけは例外で、テレビなどでの情報収集や電車の運行、携帯機器への充電などのため、状況の許す限り給電されることになっていた。

「もちろんあれが本物の銃で、人殺しのために作られた武器だってのはわかってる。でもやっぱりさ……なんていうかさ、男のロマンっていうか――」

「オトコの、か……ミナトはそれで人殺しをしたいのか?」

「んなわけないだろ! 自分の身や、まいを守りたいだけだ」

「ならば、そんなに卑屈になるな。自分と自分の大切な者のために戦おうというのなら、それは誇り高い勇気ある行為だ。言い訳無用。もっと胸を張れ。おまえは立派な戦士だ!」

「あ、ああ、そりゃどーも……」

 泡のついた手で鼻の頭をかきながら、皆人。

「うむうむ、頼もしいぞ! よし、おまえをわがフィセラセラ教の栄えある信者第三五号に認定する! 喜ぶがいい!」

「ちょっと待った! この国には信教の自由というありがたい法律があってだな――」

「ふっふっふ、案ずるな! わが教団は、そこらの怪しげな新興宗教などとは違い、遙か古の時代よりフィセラセラ島に伝わる由緒正しき存在なのだ! おまけに神さまはとびきりの美少女神ときた! 文句あるか!」

「いやどっちかとういうと、文句とか以前の問題なんだけど――」

「問題など問題ではない! さあ歌え! やれ踊れ! そうれ、どどんが、どどんが、どんぱっぱ!」

「……あのフィラさんフィラさん、ちょっとおうかがいますけど」

「どどんぱ、どどんぱ――ふむ、なんだ!?」

 食卓の上に飛び上がるや、調味料やら箸立てやらを蹴散らして踊り始めたフィラへ、皆人は、

「あんたひょっとして、まきのクラスでも〝これ〟をやったんかい?」

「もちろんだ! みなも最初は驚いたが、すぐに一緒になって踊り出しだぞ!」

 それだけ言うとフィラは、もはや皆人のことなど眼中になく、ひたすら陽気に踊り続ける。

 皆人は、目の前でヒラヒラと舞う制服のスカートをぼーっと見つめながら、

「……まき、おまえの平穏な学園生活、終わったな」


3


 同日。時間は少し戻って午前六時〇〇分ちょうど。

総理大臣の緊急事態宣言を受け、練馬の東部方面隊総監部に置かれた臨時総司令部に詰めていた防衛大臣から、各所より集結中の陸海空自衛隊各部隊に対して正式な警備出動命令が発令された。

 すでに三浦半島と野島崎の両先端部を結んだ阻止線上には、横須賀の第一、第一五、第四五の各護衛隊群所属の全護衛艦がおよび潜水艦が配置につき、これに呉警備区から急派された第三、第二四護衛隊群が合流を果たそうとしていた。相模湾上に浮かぶアメリカ第七艦隊所属の空母からは、こちらもすでに全戦闘航空部隊が発艦を終了、父島列島付近を北上する敵性巨大生物――日米軍共通極秘コードネーム「ラディカカ」を捕捉、これと交戦状態に入っていた。

さらに首都防衛の要である陸上自衛隊の第一師団および第一二旅団が大井、お台場、東京ビッグサイトおよび東京湾アクアライン上に展開、さらに一部の機甲部隊は「全力をもってJR秋葉原駅を死守せよ!」との特別命令を受け、最新鋭の改10式戦車(フルアーマー仕様)を始めとする戦闘車両群が中央通りと昭和通りを中心に部隊の配置を進めていた。


「あら、やっぱり来ちゃいましたか」

 その秋葉原駅・総武線ホームの屋根の端ぎりぎりに座っていたビーナが、髪の三つ編みを解き、胸元を隠していたシャツも脱ぎ捨てて元の戦闘装束姿へと戻った真紀織の方を振り返ると申し訳なさそうに言った。

「フィラさん、ですか?」

 むしろ苦笑混じりの声で真紀織が聞く。

「はい。こちらにやってくる戦車の上で仁王立ちしてますわ」

「どうやって乗せてもらったんだか」

「あなたや彼女のことは、お知らせできる範囲で関係各機関へ通達ずみです。その際に、可能な限りあなたたちに協力するよう、お願いもしておきましたので」

「気が利くことで」

「ほっほっほ。気配り上手ののビーナちゃん、とでもお呼びになります?」

「絶対呼ばないです――で、当の本人は? また〝どどんが音頭〟とか踊ってません?」

 本当は〝フィセラセラ祭歌〟とかなんとかいうらしいが、真紀織の知ったことではない。

「大丈夫です。おとなしくしてますわ」

 フィラが出発前に皆人の前で〝ひと踊り〟してきたことは、もちろんビーナも真紀織も知るところではない。

 当初フィラは、そのまま皆人の家にいるはずだった。真紀織の体を持つフィラが来てもほどんど戦力にはならないし、逆に真紀織の目前でケガでもされたら、彼女に悪影響が出るのは必至だったからだ。それにもし「ラディカカ」についてのアドバイスが必要なら、特別に確保された軍用無線で話ができるようにもなっていた。

「今からでも遅くありません、あのままUターンして送り返してもらいましょうか?」

「素直に帰るくらいなら、戦車の上に乗ってまで来やしないでしょ――」

 真紀織はつい、と顔を上げて、

「――それにもう、〝手遅れ〟みたいだし」

「はい? ――あらあら」

 ビーナが空を見上げたのと同時、秋葉原の上空を不自然なくらいに細身のヘリコプターが三機、爆音を轟かせながら通り過ぎて行った。

「陸上自衛隊の戦闘ヘリですわね」

 真紀織は、ヘリコプター編隊の向かった先で徐々に広がりつつあるどす黒い雲のような塊を見つめたまま、

「あのまま行かせていいの?」

「はい。〝あれ〟は見た目ほど危険なものじゃありませんから」

 ビーナが答えるうちにも、その〝暗雲〟の中がぴかぴかっと二回ほど光るのが見え、遅れてどどーん! とくぐもった花火のような爆発音が聞こえてきた。

 戦闘ヘリたちも、その両翼に抱えていたロケット弾を放つや、急旋回して〝暗雲〟から離脱してゆく。

 だが〝暗雲〟の拡大は止まらない。その下に立ち並ぶ大小のビルに影を落としつつ、ざーっと音のしそうな勢いで真紀織たちの方へ迫ってくる。

 秋葉原駅周辺に建つビルの屋上に配置された自衛官たちの動きが忙しくなる。

近づく〝暗雲〟の正体は、接近中の「ラディカカ」の放つ魔力によって実体を得た、低級霊や下級妖魔たちだった。

「その数自体が多いのと、それらのまとう妖気のせいで、あのような〝雲〟に見えるのです」

 尻尾を振りふり、ビーナが説明する。

「ただし、その実体は所詮仮初めのものに過ぎません。昨日のミナトさんではないですが、相手によってはそれこそトイレブラシでひっぱたく程度でもやっつけることはできます。あの数の多さに惑わされなければ、自衛隊の皆さんだけで充分に対処できるでしょう」

「でも〝あれ〟が来たってことは、本体が──ラディカカが、もうすぐそこまで来てるってことでしょ?」

 気がつくと、真紀織の――フィラの体が小刻みに震えていた。焼けた石でも飲み込んだかのように体の奥底が熱い。額から汗がしたたり落ち、その目が、あの〝槍〟を求めて半ば無意識に屋根の上をさまよう。

「その通りだ――ついにラディカカが来たのだ!」

 駅の屋根に開けた穴からひょっこり顔を出したフィラが、言いつつぺこりと頭を下げた。

「――すまん、マキオ! やはり血が騒いでしまって、いてもたってもいられなかったのだ!」

 真紀織は、ぎりぎりと噛み締めていた歯からやっと力を抜いて、

「わかりますよ」

 とだけ言った。それからまた、迫り来る〝暗雲〟へと目を戻す。

「いやもちろん、この身のことは充分に気をつけるつもりだ。なんたっておまえひとりの体ではないのだからな!」

 穴に立てかけてあるハシゴをえっちらおっちらと登りながら、フィラ。

「ちょ、ちょっと待って! まさかフィラさん、あなた皆人くんと――!?」

 元の体だったら首の骨が折れそうな勢いで振り返った真紀織が、ぐっとフィラをにらみつける。可能性はある――だって二人は、一晩一緒にいたのだから。

「ミナト? ああ、おいしかったぞ」

 フィラが、思わせぶりにぺろりと舌なめずりをした。

「おお、おいしいって、ななな何が!?」

「ベーコンエッグが」

「べべべ、べべ、べべべべ――!」

「だから、ベーコンエッグだ」

「――っっっ!!」

 何か言いたげにわたわたと手を振る真紀織へ、フィラはふっと笑って、

「どうだ、少しは力が抜けたか?」

「ふぃ、フィラさん!」

 しかしその声からは、確かにさっきまでの重々しさは消えていた。

「まあいずれせよ、何を想像していたのかはわかりきっているのであえて口には出さないが、心配するな。わたしは決してそのようなことはしない」

 フィラは聖エレナスの制服に包まれたその身を指しながら、

「この身には将来、わがフィセラセラ教の巫女として、わたしとともに他の信者たちを導いてもらわねばならんのだ。となれば、やはり純潔であることは絶対条件だからな」

 フィラは、真紀織の背中でその赤い髪が怒りにゆらめいているのを知ってか知らずか、

「だからマキオ、おまえもこの体に戻ったら、ミナトには充分注意するように。なに、あいつにそんな度胸があるとは思えんが、あの年頃の男はいつオオカミに変身するとも――こら、何をする?」

 真紀織は、フィラののど元に手にした槍──神帯槍の刃先を突きつけながら、

「その口を黙らせるには、これが一番手っ取り早いと思って」

「たぎる気持ちはわかるが、〝それ〟を向ける相手が違うぞ」

「……」

 真紀織の顔からまた余裕が消え、神帯槍を持った手が力無くだらりと下がる。

「――フィラさん、わたし、どうしたらいいの?」

 駅舎の周囲では、すでに無数の〝化け物〟どもが奇声を上げて飛び交っていた。負けじと連続した銃声があちこちで鳴り続いている。さらに秋葉原駅の周囲では、触れたものを一瞬にして消滅させてしまうビーナの結界も健在だったが、それを見ても真紀織の心は重かった。

 フィラも、ふっと息をつくと真剣な顔になって、

「ビーナ、あやつはどこまで来ているのだ?」

「待ってください、今見てみますから」

 そう言うとビーナは、古ぼけた一四インチテレビの電源を入れた。

 一〇秒ほどしてようやく安定した画面に、〝それ〟の姿が映し出された。

「ラディカカ……とうとうここまで来た」

 つぶやくように言う真紀織へ、フィラも、

「こんな画面越しではやはり迫力不足だがな。実際のあやつはこんなものではないぞ?」

 とはいえ、揺れるヘリから中継されているらしいその映像だけでも、真紀織は思わず身を引くほどの圧迫感を感じていた。

バリケードのように艦体を横にした灰色の軍艦に体当たりを食らわす〝巨大怪物〟――真紀織はその軍艦の大きさを知らなかったが、とにかく〝そいつ〟は、真っ二つになって沈んでゆく軍艦よりもずっと大きかった。

〝そいつ〟――ラディカカは、一見して手足のないワニのようだった。ただしその緑がかった体は異様に長く、そしてその頭には、ずらりと牙の並ぶ口以外には、目も、耳も、鼻の穴すらも見あたらなかった。

 真紀織は何よりも、その「目」がないことに恐怖をおぼえた。

 のっぺらなその顔は、戦う相手を見る(知る)必要がない――つまり、自分以外の全てのものが〝敵〟なのだと宣言しているように真紀織には思えた。そしてその考えが間違いではないことは、真紀織を見つめるフィラの──やや茶色が買った自身の〝目〟が証明していた。

「で、ビーナ。これはどこからの映像なのだ?」

 画面にはニュース映像にありがちなテロップの類はなく、現在時刻と百分の一秒まで表示されたタイマー、それに緯度や経度と思われる数字などがあるだけだった。

「これは一般に流れているものではなく、海上保安庁のヘリコプターからの中継映像ですので、見ただけではちょっとわかりませんわね……」

 ちょっと待ってくださいね、とビーナ。次いでテレビに向かって前足を伸ばし、白い毛に包まれたピンクの肉球でちょんちょんと画面をつつき始める。そのたびに画像が入れ替わり、何度か繰り返すうちにようやく東京湾一帯が視認できる画像が映し出された。

「トーキョースカイツリーのライブ映像ですわ……近いですわね。すでにアクアラインの内側まで入り込まれているようですわ」

「じゃあもうすぐここまで来ちゃうの!?」

「待て、そうあせるな」

 画面に映るラディカカをにらみつけるようにじっと見つめていたフィラは、

「……こいつ、迷ってやがるぞ」

「なんですって?」

 はっとしたように振り返るビーナに対して、だがフィラはテレビから真紀織へと目を移すと、

「どうやら、〝おまえ〟の正体をつかみかねているようだ」

「わたしの?」

「うむ。〝わたし〟の気配につられて来てみれば、その身は異質な力と魂とに支配されていたのだからな──要するにあやつは、おまえの実力を測りかねているのだ」

 さらにフィラは大きくうなずくと、

「だがあやつの――ラディカカの動きが止まったとなれば、これはチャンスかもしれんな」

「何か策でも?」

「おまえの持つその槍で、直接あやつの弱点を突くのだ」

「じゃく、てん?」

「そうだ、マキオ。弱点さえつければ、全力の一割にも満たない今のおまえの霊力でも、あやつの霊体を吹っ飛ばせるだろう」

 槍の柄を握る真紀織の手に思わず力がこもる。

 そのままじっと黙り込む真紀織に代わるようにして、ビーナが、

「それでフィラさん、その弱点とはどこなのです?」

「ここだ、あ~ん」

 フィラは大きく口を開けると、そののどの奥を指さした。

「ほほあ、ほほ、ほほはひゃふへんは!」

「……」

「……」

 フィラは、ビーナと真紀織の殺気を敏感に感じ取るとこほん、と咳払いをして、

「ビーナ、おまえが口を開けてくれ」

「……わかりましたわ。あ~ん」

「さあ見ろ、マキオ。ここだ、ここ、ここがその弱点だ!」

 真紀織は、ビーナののどの奥にぶら下がっているその小さな器官を見て、

「これって、え? のどチン……むにゃむにゃ?」

「なんだって? まあいい。とにかくあやつののどにもこれと同じもの──〝霊力溜まり〟が突き出ているのだが、こいつは言ってみれば安全弁だ。あやつの本体、つまり霊体の持つ霊力が、そのまとっている実体を破壊してしまわないよう、ここでその力を調節しているのだ」

「つまりそこを、この槍で突っつけば……」

「うむ!」

 真紀織の手にした槍──〝神帯槍〟を頼もしげに見つめながら、フィラがうなずく。

「調節がきかなくなって暴走した自身の霊力で実体部分を吹き飛ばし、中の霊体をむき出しにしてしまおうというわけだ。実体の内にある霊体を強引に押し出すのとは違い、これなら大した霊力も必要ないしな。というか、そもそもこれが本来の〝わたし〟のやり方なのだ」

 フィラは、「ラディカカ」に比べればザコもいいところの下級妖魔たちが、こりもせず体当たりをするたびに淡く光るビーナの結界を見上げながら、

「それにこのやり方なら、こんな異教の仕掛けなどに頼る必要もない」

 最初の計画は、たとえるなら強力な真空ポンプで缶ジュースの周りを真空にして、その中身(=霊体)を吸い出させるようなものだ。これには周囲を真空にするだけの力(=霊力)と、その真空状態を維持するための容器(=結界)が必要になる。

「まあ、トーキョー中に拡散したあやつの霊体をかき集めて島へ封じるのは一仕事だがな」

「でもそれなら、なぜ最初からその方法にしなかったんです?」

 当然のように聞いてくる真紀織へ、フィラは花火のように光る結界から顔を戻して、

「こちらのやり方にも問題があるからだ。それも二つ――ひとつはどうやってその弱点に槍を食らわせるかだ。今は動いていないとはいえ、おまえのためにのんびりと口を開けて待っていてはくれんだろう。わたしの場合は、あやつが疲れ果てるまで突き回してからとどめをさすのだが、これだと最低一ヶ月は戦い続けねばならん」

「一ヶ月もぶっ続けで!? そんな無茶な!」

 思わず声を上げた真紀織に、フィラはさらっと、

「だから問題だと言っている」

「ですわね――もうひとつは?」

 またもや黙ってしまった真紀織に代わって、ビーナが聞く。

「最初の計画とは違って、この方法は、いわばあやつの懐に飛び込んでいってその〝霊力袋〟に穴を開けてやるようなものだ。だがそうすると、吹き出したあやつの強力な霊力をモロに、しかも大量に浴びることになる。おまえの体が――魂が、それに耐えられるどうか」

 要するにフィラの方法は、炭酸入りの缶飲料を思いっきり振って、その圧力で缶自体を破裂させてしまうか、それが無理なら缶のプルトップを開けて中の液体を噴き出させるようなものか──と真紀織は思う。いずれにせよ、それ自身の持つ炭酸の力(=霊力)で、中身の液体(=霊体)を吐き出させようというわけだ。

「こちらの霊力が尽きるまで戦い続けた末にほとんど無防備で浴びるあやつの霊力、その衝撃は、正直言ってわたしでもつらい。槍と共にこの身をを失いかけたのも一度や二度ではない」

 真紀織の姿を映したフィラが、どこか愛おし気な目で自身の姿を得た真紀織を見つめる。

「下手をしたら、あやつの霊体と一緒に、その体からおまえ自身の霊体――つまり魂まで弾き出されてしまうかもしれん。言っている意味はわかるな?」

「死ぬ……ってことですね」

 小さな、でもはっきりした声で真紀織が言った。

「そうだ。おまえも、そしてこのわたしも、な」

 いかに神さまの体とはいえ、内からそれを支える霊体がなければその実体は維持できない。

 戻る場所を失ったフィラの霊体はそのまま真紀織の内に封じられ、遠からずその霊力に耐えきれなくなった真紀織の実体と共に崩壊してしまうだろう。

 真紀織はしばらくじっと黙っていたが、

「でも、そうならずに上手く行く可能性もあるんでしょ?」

「限りなくゼロに近いと言ってもウソにならないくらいにはな」

 だがそのフィラの口調は、むしろ彼女を誘っているようにも聞こえた。

「だったら……だったらわたし、やってみます」

 真紀織は手にしていた槍を──神帯槍を、じっと見つめながら、

「ほんのわずかでも可能性があるのなら、望みがあるうちは、決してあきらめたくはないですから」

 それは原因不明のまま眠り続ける妹の目覚めを、それでもなお信じて待ち続けている真紀織には決して譲れない一線でもあった。

 フィラは満足そうにうなずくと、ふっと笑って、

「マキオ――その言葉を待っていた!」

「ですがお二人とも、水を差すようですが、最初の問題はどうするおつもりですか?」

 こちらはなおも不安そうな声でビーナが聞く。

「とにかく動きそのものは止まっているのだから、後はなんとか、マキオが槍を突き刺すまであやつの口を開けさせておくだけでいいんだが」

「何かつっかい棒のようなものがあれば、と?」

「そんなに長くて頑丈な棒がどこにある?」

「――別に棒とかじゃなくても、いいんですよね?」

 それまで黙っていた真紀織が、ぽつりと言った。

「そりゃ、あのでっかい口を開けさせておけるものならなんだってかまわんが……」

 真紀織は、つけっ放しになっていたテレビ画面を指さして、

「〈あれ〉なら、どうですか?」

 スカイツリーのライブ画像から、晴海埠頭上空へと移動した海上保安庁のヘリコプターからの中継映像に戻った画面には、ガラス細工のピラミッドのような客船専用ターミナルに係留されている大型豪華客船〈カルネアクイーンⅡ世〉号の姿があった。

 フィラの目が、ラディカカに匹敵するその巨体を吟味するかのように鋭くなる。

「――うむ! よし、これで行こう!」


3


 ぱっちん、と主電源を入れる。

待機状態だった各種の医療機器が再び活動を開始し、ベッドサイドに置いてあるスピーカーから、いつものアニメ音楽が流れ始める。

「自家発電への移行、完了っと」

 バイタルモニターの画面がそれまでと同じ数値であることを確認した皆人は、続いて床に置いておいた米軍御用達の軍用ライフル、M16ガーランドに目をやった。その周りには、自分の部屋から持ち込んだ銃砲関係の雑誌が散らばっている。

「けどM16なんて当たり前すぎて、最近はレポートとかないんだよな」

 最低限の安全を確保するためにその弾倉は抜いたまま、銃口も開け放したドアの方に向けてある。

皆人はその状態のまま銃を持ち上げると、銃床の上にあるコッキングレバーを引いてチェンバー内にも弾が入っていないことを確認する。

「ああ、なんか緊張するわ~……」

 一緒に運んできたソフトギターケースの中には、二〇発入りの弾倉が八本、計一六〇発の実弾が入っていた。

「ううむ、いよいよ〝らしく〟なってきましたなあ……お、けっこう重い」

 全ての弾倉を肩から吊り下げたカーキ色のポーチ四つに突っ込んで立ち上がると、そのまま体をちょっと動かして具合を確かめる。

自分の人差し指よりもひと回り細いライフル弾一発あたりの重量などたかが知れているが、一六〇発分まとめて担ぐとなると、それなりの重さになる。

「おぬし――さっきから何をやっておるのじゃ?」

 いつからそこにいたのか、開け放ったドアに寄りかかるようにして、長身の銀髪女性がじっと皆人の方を見ていた。

「あ、ミスリナさん、そこ立ってると危ないですよ」

 一応注意の言葉をかけつつ、腰の周りにぶら下がっているポーチから弾倉を一本出して銃に差し込み、再びコッキングレバーを引いて初弾を装填する。

「異教徒の放つ弾が怖くて精霊が務まると思うておるのか?」

「この銃はアメリカ製だし、弾を作ったのもクリスチャンかもしれませんよ」

「ならば弾の方でわらわを避けよう」

「じゃあそういうことで――ええと、あれ、三点バーストってないのか、これ?」

「おぬし――ミナト、おぬしこそ怖くないのか?」

 ミスリナは天井を仰ぎ見るように上を見て、

「すでにもうこの家の周りは、無数の妖魔どもが十重二十重なのだぞ? いかにビーナさまの結界があろうとて、その気配までは消すことはかなわぬというに」

「もちろん怖いですよ」

 銃弾込みで3キロ近くある銃を手に、広げたまま床に置いた雑誌から目を離さずに皆人が答える。

「そうは見えぬがな」

「やせがまんです」

 常にすぐそばに〝何か〟がいる気配がする。もちろん人のそれではない。振り向けばそれが牙をむいて襲ってきそうで、文字通り一瞬たりとも気が抜けない。

「まったく、がまんなどするくらいなら聖書を読めというに。聖句を唱えよ。わらわ的には、特に詩篇がお勧めである。しかるのち、この教区の教会にて洗礼の儀を……」

「フィラじゃあるまいし、どさくさにまぎれて勧誘活動なんかしないでください。だいたいうちには聖書なんてありません――それに、どんな理由があっても、おれはここを動くつもりはありませんから」

 皆人はちらりとベッドの方へ目を向けると、

「だってこいつが、まいがここにいますから。だからおれは、ここにいるんです」

 どんなに怖くても。それこそ吐きそうなくらい気分が悪くても。

そしてたとえ人を殺すために作られた道具を手にしようとも。

「だがミナトよ、その娘はすでに――いや、なんでもない」

「やっぱりミスリナさんも、まいについて何か知ってるんですね?」

 皆人は、銃の安全装置をかちゃかちゃと入れ替えながら、

「この件にけりがついたらビーナが全部話してくれるって、まきは言ってたけど……」

「ならば、ビーナさまのお言葉を待つがいい」

「でも、おれ……」

 皆人の心に、周囲の気配からもたらされるものとは別の不安感が広がる。

「おれ、自分でもよく憶えてないんですけど、ちょっと前に誰かから、まいについて何かとても怖いことを言われたような気がしてて……」

 おかげで、昨日から真衣子の顔がまともに見られなかった。

「くどい。ビーナさまが自らお話してくださるというのなら、わらわから伝えることは何もない――おや?」

 精霊の顔が玄関の方を向く。

「今、妙な声が聞こえなんだか?」

「いえ、おれには――いや」

 かすかに、動物か何かの雄叫びのようなものが聞こえたような気がした。

「おぬしにまで聞こえるか――ここにおれ!」

 銀髪の輝きを残してミスリナの姿が玄関へ消える。直後、今度ははっきりと、人でも動物でもないものの雄叫びが聞こえてきた。

「ぎゃっぎゃあああーーーーっっ!」

「きっしゃああああーーーーっっ!」

 皆人の全身がが総毛立つ。

「――おのれ妖魔ども! 〝声〟だけとは申せ、なぜビーナさまの結界を越えられるのか!? さては異教の物の怪か!」

 ミスリナの声。続いて玄関のドアが開け放たれる音。

「きさま――きさまらは!?」

 その声に、どんどん、どーん! と空気のはぜる音が重なる。

「ぎゃっぎゃあーーーっ!」

「しゃしゃしゃーーーっ!」

「ええい、この異形ども! おぬしらの主人は――リリスペインは、どこにおるっ!!」

「~~~~~~!」

 まるでミスリナに答えるかのように、誰が女の子の声が聞こえたような気がした。

 皆人はごくり、と唾を飲み込むと、グリップ横のセレクターを慎重に操作して安全装置を外し、半開きのドアへ向けて見よう見まねで銃を構える。

「あの、ミスリナさん?」

 しかし返事はなく、代わりに重い爆発音が廊下に響く。続いてミスリナの声。

「おのれリリスペイン! おぬし許さん――うぐっ!? ふ、不覚……!」

「――ミスリナ、さん?」

 やはり返事はない。さらに今回は誰かと話す声も消え、完全な沈黙が訪れる。

 開けっ放しらしい玄関から容赦なく流れ込んでくる、禍々しい気配――得体の知れない何かが、勝手に廊下をずるずる這い回っているような、とてもいやな感覚。

「ち、ちっくしょう……!」

 銃身が情けないくらいがくがくと揺れる。

 その嫌らしくも禍々しい気配がじわじわと迫ってくる。

「だ、大丈夫だって!」

 自分と真衣子に言い聞かせるように、わざと声に出して言う。 

この家には、原理的には秋葉原駅に展開されているのと同等の強度を持つ結界が張ってある。だから気配だけならともかく、〝やつら〟の本体は入っちゃこれない──はず。

 単発の位置にあった銃のセレクターをさらに回してフルオートにする。引き金にはまだ触れない。震えの止まらない指先では暴発させる危険がある。真衣子の部屋で、それだけは絶対にさせられない。

「はあ、はあ、はあ……」

 廊下の気配は消えない。逆にどんどん濃くなってゆく。着ているシャツが背中にべったりと張りつく。がちがちと歯がなる。腕や足に、けいれんのような鋭い震えが走る。

 だめだ、これ以上じっとしてたら、完全に動けなくなる――

「う、うわああああーーーーっ」

 叫ぶ。怒鳴る。その勢いにまかせて転がるように廊下へ出る。

「っのやろおおおおーーーーーーっっ」

 絶叫する。ろくに前方の確認もしないまま震え続ける指で強引に引き金を引く。

 現実の銃声が、廊下の気配を引き裂いて皆人の耳に届く。手の中で暴れる銃を全身で抑え込む。がしゃん、と音がして弾が出なくなる。

「なんだよ、どうした、どうした! くっそ!」

結局弾切れだと気づくまでかなりかかった。これも見よう見まねで弾倉を交換、また撃ちまくる。二本目の弾倉が瞬く間に空となる。三本目、そして四本目――

 気がつくと、半開きのドアばかりに集中して撃ちまくっていた。他に適当な目標物がなかった。廊下の端、ほんの数メートル先にあるその大きな目標に、しかし皆人が撃ち放った弾はその半分も当たらない。玄関横の靴箱が弾け、皆人と母の靴が舞う。その上の花瓶も粉々になる。ドアもいつの間にか穴だらけになり、とうとう蝶番がはずれ、ばあん、と外へ倒れる。

「こんのやろ! こんのやろ! こんのやろ――!!」

 また弾が切れる。ポーチを探る。腰の周りに四つあるそれは全て空だった。

「た、弾が!?」

 ふと見ると、周りは散らばった空の薬莢と弾倉だらけだった。硝煙に混ざって、焼けた薬莢が廊下のフローリングを焦がす匂いが鼻をつく。銃から飛び出した薬莢のいくつかが、壁で跳ね返って皆人の腕に当たり赤く火傷の痕を作っていたが、痛みなどまるで感じなかった。

 一方ドアの外れた玄関は、うっすらともやがかかったようになっていた。

「……やった、のか?」

 しかし――!

「ぐぎゃぎゃぎゃぎゃーーーーーっっ!」

「きしゃしゃしゃしゃーーーーーっっ!」

「――!!」

 皆人は反射的に銃を放り出して真衣子の部屋に飛び込むと、そのドアを閉めた。

「はあ! はあ! はあ――っくう!」

 閉じたドアに体を押しつけつつ、強引に息を押し殺して廊下の気配を探る。

 今度こそ、何者かが這い回る気配がはっきりと〝実感〟できた。

「ぷはっ! はあ、はあ、はあ……!」

 部屋の中を見回す。そこだけ時が止まってるかのように、何も変わっていない。薬品くさい空気。ぶーんという機械の音。しゃかしゃかと流れるアニメ音楽。そしてその部屋の真ん中で眠り続ける、皆人たちにとって大切な大切な、家族同然の女の子――

「まい……! くそ!」

 だめだ、おれだけじゃ守りきれない!

 でも情けないとは思わなかった。やれるだけのことはしたつもりだった。でもだからといって、結果がついてくるとは限らない。それだけのことだ。それだけの……ちくしょう!

「助けを……呼ばなきゃ。けどまきたちには――あいつらには、やることがある。警察か、いや自衛隊か……でも自衛隊なんて、どこに電話すんだ。電話番号案内って、まだやってるのか――え? 電話番号?」

 ふと何かを思い出したような気がして、小刻みに震えているその手を開く。

 その掌には、さっきまではなかったはずの一連の数字が浮かび上がっていた。

 六六六‐六六六‐六六六――

〝真衣子を救えるのはわたしだけ――〟

 番号が、そう言ったような気がした。

「まいを、助けなきゃ……」

 皆人はポケットに入れ放しにしていた携帯端末を引っ張り出して、その番号を入力した。

悪い冗談のような電話番号が、けれどどこかの誰かを呼び出していた。

 ――かちゃん。

『はあい、こちら地獄の三丁目――あ、だめだめ、切らないでそのままよ、そのまま!んじゃ、今そっち行くから!』

「え?――う、うわあっ!!」

 突然がくん、と携帯端末が重くなる。皆人は思わずそれを床に放り出した。

『ぎゃん! ――がー! 痛いっての! いきなり放り出すな!』

 端末が怒る。さらにその画面から、白と黒のストライプがにゅるにゅるっと押し出されてくる。そのにゅるにゅるはさらにぐにゃぐにゃとうごめいて、やがて人の――真衣子と同い年くらいの女の子の姿となる。

 白と黒とが入り交じった肩先までの髪。黒を基調としたゴスロリ風のドレス――

「お、おまえは……」

 しかし女の子は、その場から動けない皆人にささっと手を振って、

「はいはい、ごくろーさん! いやいや人間にしてはよく粘ったわよ」

 皆人はその女の子に確かに見覚えがあった。だがどこで会ったのかどうしても思い出せない。

「あのメス猫の結界のせいで、こうでもしないと入って来れなかったの。というわけであんたはもういいわ。あたしの気が変わらないうちにさっさと帰った帰った! ――って、ここがあんたの家だったんだっけ」

 女の子は、ちょっとのびをするようにしてベッド上の真衣子を見た。近寄って、すんすんと顔の匂いをかぐ。

「やっぱり死んでる」

 ちらっと皆人を見て、女の子が言った。

「けど、かなりいい体よね、これ――まるで、天使の使う実体みたい」

「天使……だって? まいが?」

「バーカ! 違うっての――いや、でもないか? うーんわっかんない。どーなってんの、こいつってば」

 しかし女の子は、すぐにふふんと笑って、

「まあ、でもそれは〝こいつ〟の中に入ってみればわかること――ゴルディアス黒! バルディアス白!」

「ぎゃぎゃぎゃ、ぎゃーっ!」

「しゃしゃしゃ、しゃーっ!」

 その雄叫びとともに、内側には開かないはずのドアを強引に押し破って、黒いカラスもどきと白い大ヘビが部屋の中に飛び込んできた。

 それを見た女の子は、弾切れの銃に代わって、お守り代わりに持ってきていたピンク色のトイレブラシを手に部屋の壁に張りついている皆人へ、

「気をつけなさいよ? こいつら、おまえが捨てたあの〈指輪〉を探して下水管の中を這いずり回されて相当頭にきてるから。下手に動いたら食われちゃうかも!」

 そう言うと女の子は、ドレスのポケットをぽんぽんと叩いてみせた。

 皆人はトイレブラシを構えたまま、

「み、見つけたのか!? あの指輪を――え? 指輪!?」

 自分で言ったその言葉で、皆人はやっと女の子の正体を思い出した。

「あー! お、おまえは、り、リリス――」

「がー! だからあたしは――!」

 女の子がそう怒鳴るのと、皆人が「――ペイン!」と続けるのは同時だった。

「が……? そ、そうよ、その通り!」

 ちょっと拍子抜けの声で、女の子――リリスペインが答える。

「この悪魔め! まいに何の用だ!?」

「聞くだけヤボってもんじゃない? こういう状況で悪魔のすることって言ったら、ひとつしかないでしょ?」

「まいの体に取り憑くつもりか──くそ! んなことさせるか!!」

「ゴルディアス黒! バルディアス白!」

 余裕の笑みを浮かべる女の子の左右から飛び出した魔獣たちは、しかし皆人がめちゃくちゃに振り回すトイレブラシに当たってばしん! と弾き返されてしまった。

「――へ?」

 皆人はしげしげとそのピンクのブラシを見た。どこをどう見てもただのトイレブラシだった。さらによく見ると、その表面には細かいヒビがびっしりと走っていた。

「防御結界だと!? メス猫め、余計な小細工を!」

 リリスペインはしかし、すぐ笑顔に戻って、

「けど、それもおまえ自身も、もう限界みたいね?」

 確かにヒビだらけのブラシはもちろん、皆人自身も、全力で何百メートルも走ったかのように疲れ切っていた。

「たかが人間が、神具並みの結界をまとった代物なんかを振り回すからよ――もういいからおとなしく見てなさい!」

 リリスペインは改めて真衣子へ向き直ると、かかっていた毛布をばっとはぎ取った。

「ゴルディアス黒! バルディアス白! 後はまかせたからね!」

 カラスもどきと白ヘビもどきが雄叫びで答える。

「よし。じゃあマイコ、カミザキマイコ――その名はこれよりわが名となれり……」

 小声で何やらつぶやき始めたリリスペインの顔が、そのままゆっくりと真衣子の顔へと近づいてゆく。

 見た目にはまだあどけない少女同士の唇が重なり――さらに半透明になったリリスペインの体が、徐々に真衣子の体へとのめり込んでゆく。

「え、え、え!?」

 二体の魔獣にトイレブラシをつきつけたまま、その様子を茫然と見つめる皆人。

 真衣子に覆い被さるように重なっていたリリスペインの体は、けれど真衣子の中に留まることなく、寝ているベッドすら通り抜けて、ずるずるとその下へずり落ちてゆく。

「ど、どうなってんだ――え?」

 抜け殻のように力なくベッドの下に横たわるリリスペインに皆人が気を取られている間に、ベッド上ではさらに信じられない光景が展開されていた。

「うそ、うそだろ……」

 フリルやリボンがいっぱいのパジャマ姿でベッドに横たわっている少女の手足が、ぴくり、ぴくりと動いていた。

「やめろ……やめろ、やめてくれ――!」

 しかし皆人のその声は、〝彼女〟には届かなかった。

 ピンクの袖に包まれた細い腕が上がり、体に繋がっているコード類を次々にむしり取ってゆく。コードを通じて真衣子に接続されていた医療機器たちが、皆人に代わって悲鳴を上げるかのように次々とアラームを鳴らし始める。

「くそ……な、なんてことを――!?」

 ゆっくりと、ゆっくりと、自身の体を確かめるかのように、その身が起き上がる。

 それは皆人が物心ついたころから願い続けてきた光景だった。

 真紀織と一緒に、ずっとずっと待ち続けてきた姿だった。

「だけど、だけどこんな、こんなのってありかよ――!」

 皆人の両目がだらだらと涙が流れ落ちる。それは頬が灼けるかと思うほどに熱い涙たっだ。

 その涙の向こう側で。

 パジャマ姿の女の子が――真衣子が、生まれて初めて、自らその半身を起こしていた。


4


 巨大豪華客船〈カルネアクイーンⅡ世〉号は、古き良き時代の大西洋航路でその栄華と速度を競っていた豪華客船たち――通称「ブルーリボンライナー」の復活を謳い文句に、カルネアグループの一つであるカルネード・オーシャンラインが建造した最新鋭船だった。

「うーん、やっぱり船はいいなあ!」

 真っ白に塗装された同号の船橋から張り出している見張り台上で、茶色の髪と制服のスカートを潮風になびかせつつ、フィラが大きくのびをした。その頭で、猫耳風の小さな突起がついた銀色のティアラがきらりと光る。

「ちょっとフィラさん、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」

 背中の赤い髪と黒い翼をはためかせつつ、そんなフィラの横に立っていた真紀織は、その一筆書きのような紋様の描かれた褐色の腕をびしっ! とのばして、

「〝あれ〟が見えないんですか、〝あれ〟が!?」

真紀織が示す先には、この巨船にまさるとも劣らない巨大怪物――海魔ラディカカの姿があった。

沈没を免れた自衛隊の護衛艦群はすでに後方に下がり、上空で待機している戦闘ヘリ編隊を除けば、〈カルネアクイーンⅡ世〉号とラディカカとの間には、もう一隻の船も残っていなかった。邪霊や妖魔の姿もない。ラディカカのまとう霊気が強すぎて、この海域では逆に存在できないのだ。

「ううむ、どこだ? よく見えんな。真紀織、おまえ目が悪くないか? 眼鏡をかけた方がいいかもしれん――悪かった。冗談だ」

 真紀織は手にした神帯槍をフィラののど元に突きつけたまま、

「よくこんなときに冗談が言えますね」

「こんなときだから、そのくらいの余裕を持て、というのだ」

 フィラは槍の刃先をちょいとつまんで脇へのけながら、

「今からそれでは、戦う前に気力も霊力も尽きてしまうぞ」

「……フィラさん、嬉しそうですね」

「決まってるだろう。フィセラセラ島の守護神である前に、このわたし――〝テレス・ファムエル・フィセラ・フィラ・ラディカーム〟は、その名の通り、〝西海の邪神ラディカカと戦い、勝利する南海の聖乙女フィセラ〟なのだから」

「フィセラ……それが、あなたの本名なんですか?」

「――の、一つだな。けど、一番気に入ってる名前でもある」

「じゃあ、そう呼びましょうか?」

「いや。フィラの方もけっこう長いつき合いだからな。今はそのままでいい」

「――フィラさん、マキオ、エルドラさんが船を完全に掌握しました。これから全速で突っ込みます。用意をお願いしますわ」

 ブリッジへ続く防水扉から、背中に二対四枚の羽を広げた白猫――ビーナが言った。

「わかった」

 フィラが答える。続いて真紀織もうなずきながら、

「わかりました――でも、エルドラさんってすごいですね。ヘリコプターに変身するだけじゃなくて、こんな大きな船まで動かせるなんて」

「ふん、要はあれだ、幽霊船と一緒で、この船に取り憑いているだけだ」

 フィラがそう言ったとたん、いきなり船底のフィンスタビライザーが作動して、巨大な船体が左右にぐらぐらと揺れた。

「おお、本当のことをずばり指摘されて怒ってるぞ」

「だから味方を怒らせてどーするんです!」

「ちょっとくらい怒らせた方が力が出るってもんだろ――わったった!」

 見張り台にある双眼鏡の支持架にしがみつきながら、フィラ。

「も、いいです――で、わたしはどうしたらいいんです?」

「船首に立て」

 支持架にしがみついたまま、フィラが言った。

「船首に?」

「そうだ。なるたけ偉そうな態度でな」

「またそういう余計なことを……」

「違う。〝やつ〟を挑発して正面から襲わせるんだ。ラディカカは船の側面を襲う習性があるが、それでは弱点には届かないからな。船首から突っ込んで、できる限り奥まで押し込む――そうすれば、おまえでも楽に弱点をつけるだろう。なんて言ったっけ、ええと、のどチン――」

「わーわー! あーはいはい、わかりましたって!」

 神帯槍を握り直した真紀織が、背中の翼をばたつかせつつ逃げるように船首に向かって飛んでゆく。

 役に立ってるのか立ってないのかわからないボロボロの黒翼をさらに二、三度はばたかせて、指定された船首の最先端――いわゆる「タイタニック・ポイント」へと降り立つ。

 実際には航行中は立ち入り禁止の場所だったが、もちろん今の真紀織には関係ない。

 ちらりと左右を見る。右手には羽田空港がはっきりと、そして左手には世界一有名な黒ネズミさん印のテーマパークが、こちらはかなりかすんで見えていた。

「――ふう!」

 手にした神帯槍で足下のデッキをかつん! と叩いて気合いを入れると、真紀織はぐっと正面を見据える。

「海魔ラディカカ……」

 正面にある〝それ〟は、大きく盛り上がったまま固まった海のようだった。

 船が一段と加速する。この〈カルネアクイーンⅡ世〉号の最高速度は公称三八ノット(時速約七〇キロ)。スケールが大きいので実感できないが、普通に公道を走っている車よりもずっと速い。両者の間がみるみる縮まってゆく。

 だがそれでも「ラディカカ」に動きはなかった。口を開くどころが、身じろぎひとつしない。

「――わたしなんかじゃ、相手にならないってこと?」

 真紀織はだんだん腹が立ってきた。自分がこんな格好でこんなとこに立たされているのは、全て目の前の〝こいつ〟のせいなのだ。なのに〝そいつ〟の方は、こちらがいくら近づいても、我関せずとばかりにだんまりを決め込んでいる。

 真紀織は、両足にぐっと力を込めて、声の限りに叫んだ。

「てっめえーーーーーっっ!! ラディカカああああーーーーーっっ!!」

 直後、海の山――ラディカカが、動いた。

「ぎゃおおおおおーーーーーーーーーんんん!!」

 その声だけで周囲の海水が吹き飛ばされ、嵐のように真紀織へと叩きつけられる。

 真紀織はしかし、微動だにしない。神帯槍を振り上げ、吹き払われた海水の雨の向こうで大きく開いたラディカカの口をその刃先でまっすぐ指し示す。

「突っ込めええーーーっ!!」

 こちらの意図に気がついたのか、ラディカカの口が閉じ始める。

「遅いっ!」

 真紀織の言葉と同時、彼女を乗せた〈カルネアクイーンⅡ世〉号の船首が「ラディカカ」の口腔内へ突入する。だがいくらも進まないうちに後方でがきっと大きな音がして、船が急停止した。振り返ると、閉じかけた牙が、横倒しになった高級マンションのようなハウス(船室)に引っかかっていた。

 真紀織の背中に寒気が走る。だがすぐに、船外スピーカーがエルドラの声で、

『大丈夫、ビーナさま以下一名、全員無事だ! それとそいつから伝言! 〝行け! やれ! ぶっとばせ!〟――以上!!』

 真紀織はこくんとうなずいて顔を戻す。

ラディカカの口の中は、生ぐさく湿った空気がごおごおと渦巻いていた。明かりはない。だが今の真紀織の目にそんなものは必要ない。ちょうど体育館の天井から吊り下がっているバスケットゴールのように、どす黒い天井からぶら下がっている〝それ〟がはっきりと見えた。

足を踏ん張り、両手に持った神帯槍を頭の上で掲げるように構える。

 普段の真紀織なら、絶対に届かない場所――しかし!

 槍を構えた全身に思いきり力を込める。体中に描かれている紋様が淡く輝き始め、薄暗い口腔内で真紀織の体を赤熱した鉄塊のごとく浮かび上がらせる。

「うわああああーーーーーっっ!!」

 気合い一閃、船首デッキから飛び上がろうとしたその瞬間――

〝やめて!〟

「――え!?」

 初めて聞く少女の声だった。でも一方で、なぜかずっと前から知っていたような気もする。

「だ、誰かいるの!?」

 そんなわけはないと思いつつ、声を上げる。

〝お願い、やめて――〟

 また声がした。さらにラディカカの弱点である突起状器官──霊気溜まりの前に、ぼうっと光がともり、それが徐々に人の形を取り始める。

「そ、そんな……そんなことって……」

 光の中に浮かんでいたのは、つい先日真紀織が買ってやったピンクのパジャマに身を包んだ小柄な少女だった。

〝お姉ちゃん……〟

「――ま、まい? 本当にまいなの!?」

〝お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん……〟

 パジャマ姿の少女が泣き出す。

「どうした、マキオ! 何をしている!?」

 いきなり背後からフィラの声がした。顔を向けると、ビーナに背中をつかまれて飛んでくるフィラの姿が見えた。

「でも、でも――まいが、まいがいるの!」

「落ち着けマキオ! こんなところにマイコがいるものか!」

「だって、だって! あのパジャマだって、わたしがまいに買ってあげた――!」

〝――お姉ちゃん、あいつよ〟

 すっと手を上げて少女が言った。泣き声ではなく、ぞっとするくらい冷たい声だった。

〝あいつが――あの白猫が、わたしを殺したのよ!〟

「――!?」

 ピンクの袖に包まれた少女の手は、まっすくビーナを指していた。

「マキオ、マキオ聞け! マイコの体は乗っ取られているのだ! 正体はわかっている! リリス! やいリリス卑怯だぞ!」

 だがパジャマの少女が答えるより先に、真紀織の声が仇敵の口腔内に響き渡る。

「ビーナ! 本当なの!? ――あなたがまいを殺したの!?」

「マイコ……」

 フィラをぶら下げたまま、ビーナが口を開く。

「マイコ、わたしは――!」

 だがそのとき、ぎしぎしっと鋼鉄の歪む音が足元の船体から聞こえてきて、真紀織の立っているデッキが前のめりに傾き始めた。

「う……うそ!?」

 船をくわえたままのラディカカの口が上を向くにつれて、船体のあちこちから発せられる悲鳴のようなきしみ音や破壊音を引きずるようにして全長三五〇メートル、総排水量一六万トンの〈カルネアクイーンⅡ世〉号が持ち上がってゆく。

「マキオ! 槍を、神帯槍を! 今しかない! ラディカカを貫け!!」

 フィラが絶叫する。

〝やめて、お姉ちゃん。殺すのは「この子」じゃない、あのメス猫よ!〟

 パジャマ姿の少女が叫ぶ。

「フィラさん――! まい――!」

切り札の槍を構えたまま、しかし真紀織の体は金縛りにあったように動かない。

「マキオ! マキオ! わたしの声を聞け! マキオ、〝あれ〟を見るんだ!」

 ビーナにつり下げられている制服姿のフィラが、徐々に光を帯び始めたラディカカの突起を指さして叫ぶ。

「霊力の一部を自ら解放して、持ち上げた船ごとわれらを吹っ飛ばすつもりだぞ!!」

「やめて、まい、まい──!」

 急な滑り台のようになった船首デッキで、真紀織が反射的に神帯槍を構え直す。

「だめだマキオ! もう遅い! 手遅れだ!」

 今やその突起状器官は、真紀織の――フィラの目をもってしても正視できないほどに光輝き、さらに無数の光の粒がその周囲で渦巻いていた。

「残念だが、今の槍の霊力程度ではあの霊力の流れには対抗できない!」

「フィラさん――! でも……!」

「話は後だ! マキオ! ビーナ! 早くここから出るんだ!!」

 逆立ち状態のまま、ほとんど垂直にまで立ち上がった〈カルネアクイーンⅡ世〉号の船体を、神帯槍片手に真紀織は登り始めた。体が重い。飛び上がれない。まるであの突起に引っ張られているようだった。

 船首デッキの半分まで昇ったとき、はっとして真紀織は〝下〟を振り返った。

 パジャマ姿の少女が、突起状器官の光の中に捕らわれようとしていた。

「くっ、体が、体が吸い込まれる――! ちっくしょーっ!!」

 声の質こそ前と同じだったが、その叫び声はまったくの別人のものに変わっていた。

「マキオ! マキオ急げ! 巻き込まれたらおまえも助からんぞ!!」

 真紀織はデッキにしがみついたまま、いやいやをするようにフィラと少女へ交互に顔を向けた。ラディカカののど元で渦を巻く光はすでに口腔内の幅いっぱいにまで達しようとしており、その吸引力も極限まで高まっていた。あと数瞬後には、真紀織自身もそのデッキから引きはがされてしまうだろう。

 少女から目を離せない真紀織と同様、パジャマ姿の少女も真紀織の方を見ていた。

その小さな口が大きく開いて、声にならない声を上げる――〝行け! 行っちまえ!〟

 直後、誰よりも少女自身がびっくりしたような顔をする。けれどその顔は、口は、やはり真紀織に〝行っちまえ!〟と怒鳴り続けていた。

 真紀織は迷わずにデッキを蹴った。一瞬だけ浮いた体が、しかしすぐに落下を始める。目の前を猛烈な勢いで船首デッキが通り過ぎてゆく。

 少女の黒い瞳が、信じられない光景を目の当たりにしたかのように大きく見開かれる。それでも彼女自身の手は、真紀織を求めてせいいっぱいのばされていた。

 その手を真紀織がつかむ。少女が力の限りに握り返してくる。

「どうして!?」

 少女の声が直接真紀織の耳に届く。真紀織は眼下の光にかざすようにして神帯槍を手放すと、その上に足を乗せて立ち上がりながら、

「〝あなた〟を見捨てたら、皆人くんに怒られちゃうもの!」

「そいつはどうかしら――むぎゅ!」

 真紀織は少女をぎゅっと抱きしめた。足下の神帯槍が、真紀織たちを乗せたまま渦巻く光に押し出されるように上昇を始める。

 白い船体にがっちりと食い込んだラディカカの牙が迫る。その間を抜けて外へ出た瞬間、真紀織は神帯槍を横滑りさせた。

 直後、ラディカカの口から光の奔流が吹き上がり、〈カルネアクイーンⅡ世〉号を数百メートルの上空へ吹き飛ばした。

 背中の黒翼を広げていったん槍から離れた真紀織は、左手に少女を抱えつつ、右手に持ち直した神帯槍をラディカカの口から立ち上る光の柱へと向けた。ほぼ同時に巨大な船体を放り上げた霊力の余波が真紀織たちに襲いかかり、楯のように構えた槍ごと彼女たちを数キロ先の海上にまで弾き飛ばす。

 さらに数キロ滑空して徐々に減速し、ようやく真紀織の体が止まる。

 特徴的な逆三角錐型の建物を中心に広がる建物群――東京ビッグサイトを見下ろしながら、真紀織はほっと息をつく。

片手一本で抱き寄せたままの少女と目が合った。

どちらからともなく笑みが浮かぶ──だがその直後、真紀織の右手にあった神帯槍は音もなく崩れ去ってしまった。

第四章  最終決戦、秋葉原!



1


「このぶわっかもんがーーーーっ!!」

 JR秋葉原駅、総武線ホームを覆う屋根の上でフィラの怒声が爆発する。

「〝神帯槍〟はもうあの一本きりだと、きっぱりはっきり言っておいただろうが!!」

 フィラは、その〝槍〟の残骸が入っているコンビニ袋をがさっと揺らしながら、

「これがなければラディカカを封じることはできないのだぞ!」

「そうだそうだ! なんでこんなやつを助けたんだ!」

 声を合わせて皆人も怒鳴る。

 晴海での迎撃失敗の報を家で受けた皆人は、やっと復活した銀髪精霊ミスリナの変身したリムジンにリリスペインの体を乗せて、この秋葉原駅まで来ていた。二体の魔獣、黒のゴルディアスと白のバルディアスも、電話越しにリリスペインの命令を受けていたので、おとなしくしていた。ただしミスリナが同乗を拒否したため、二体は自力でここまでついて来ていた。

 皆人は、真紀織の背後からちょこっと顔を出している〝真衣子〟の顔に指を突きつけるようにしながら、

「そりゃ、まいの体は大切だけど、でもこいつは悪魔なんだぞ!」

「――それを言うならフィラだって悪魔でしょが。それも最下級の!」

 真紀織の背中にある黒翼に隠れるようにしながら、黒髪黒目の少女――真衣子の体を乗っ取ったリリスペインが、ぶちぶちと言い返す。

「わたしは神さまだ!」

 身につけた制服のひん曲がったリボンのあたりを指さしながら、フィラが言い返す。

「がー! まだ悪魔でしょが! それにこのままラディカカが暴れまくって、人間界が黙示録級の大騒ぎになったら、すぐにまた魔界へ逆戻りよ! そしたらあたしは、異教神の再臨を阻止した上に人間界を混乱させた功績で万魔殿に返り咲き! あんたとの魔界都市ドサ周りツアーもこれでおしまい! ざまあきろっての!」

「やっと本音が出たな!」

「ふん! 自分だけ元の居場所に戻ろうなんて、そっちこそムシが良すぎるっての!」

「異教の力に取り憑かれて万魔殿を追放されたのは、全ておまえ自身が招いたことだろうが! わたしに八つ当たりをするな! 迷惑だ!」

「がー! じゃあ誰に当たれってのよ!」

「ぬー!」

「がー!」

 真紀織と体を交換した元神さまのフィラと、真衣子の体に憑依した悪魔っ子リリスペインが、お互いの額をごりごりと擦りつけながらにらみ合う。

「……見た目だけならまるっきりただの姉妹ゲンカなんだけどな。ケンカの内容はほとんど理解不能だけど」

「わたし、まさか自分とまいの姉妹ゲンカをこの目で見るとは思わなかったわ」

 むしろ苦笑いを浮かべている皆人の横で、真紀織もその褐色の手をそっと皆人の肩に乗せて、

「でもあれ、〝まい〟なんだよね……まいが、あのまいが、自分で立って、動いて、しゃべって、その上〝わたし〟とケンカまで、しちゃってるんだよね……?」

「だまされるな、まき。あいつは〝まい〟なんかじゃ――」

 皆人はしかし、真紀織の目にうっすらと浮かんだ涙を見て、それ以上言うのをやめる。

 真紀織は、長くのびた赤い爪のはえた指先でその涙をぬぐうと、もう一方の手は皆人の肩に乗せたまま、

「ねえ、ビーナ……あの子の言ったこと、本当なの? あなたが、まいを――」

「マキオ――それは……」

「決まってるでしょ!」

 言いよどむビーナに、フィラと額を突き合わせていたリリスペインが、ぐりっと顔を横にして割り込む。

「〝この体〟が教えてくれたの! ここに入るはずだった魂を、こいつが滅殺しちゃったのよ!」

 滅殺とは、基本的に〝死ぬ〟ことのない魂や霊体を完全に消滅させてしまうことだ。

 魂は、その実体の有無にかかわらず、天界や魔界を支える重要な存在である。そしてそれは、この人間界において主の現身である人の子としてのみ現出し、決して魔界で生まれることはない。ゆえに悪魔たちは、自らの世界を維持するべく人の世で魂集めに精を出すのである。

 そんなわけで、基本的にご意見無用であるはずの魔界地獄ではもちろん、この人間界で魂を滅殺してしまうということは、墜天と並んで主に対する最大級の背信行為なのだった。

「いいえ、違いますわ」

 きっぱりとビーナが言った。

「マイコの魂は、まだちゃんと存在しています――おそらく、ソドムの街に」

「ソドムだと!?」

 そのビーナの言葉に、フィラもぱっと体を起こして、

「あの〝煉獄都市〟ソドムか!?」

「がー! それなら滅殺したも同然じゃない!」

 聖書の時代、あのゴゴモラとともに街ごと魔界へと堕とされた異教の都市ソドム。

 だがほとんどスラム街と化したゴゴモラとは違い、地獄魔界の中枢たる万魔殿を望み、悪魔王ルーシファ直属の不死軍団に守られたソドムは、今や魔界に君臨する一大魔都となっていた。

 上級悪魔や堕天使のみで構成された魔王軍は、ハルマゲドン覚悟で挑まぬ限り撃破は不可能とも言われ、天界においてもその街の実情はあまりよくわかっていなかった。

「主の命を受けたわたしがとある魂の探索役として訪れた当時、ソドムを含む一帯では、万魔殿を支える無数の魂を交換する儀式が行われていました――」

 ビーナは真紀織たちの方へ歩み寄りながら、ちらりとフィラたちの方を見て、

「リリスペインさんはよくご存じと思いますが、万魔殿は、それ自体が悪魔王ルーシファの実体の一部でもあるのです。そしてこの巨城の各部には、その存在を支えるべく、無数の魂を憑依させているのです」

「――その中に、まいの魂が?」

 真紀織の手が自分の肩に食い込むのをじっと我慢して、皆人が聞く。

「城に憑依させられているかどうかは不明ですが、その可能性は高いと思います」

 ビーナは弱々しく首を振りながら、

「マイコとなるべき魂を探索し天界へと導いていたわたしたち――わたしとエルドラさん、ミスリナさんは、その魔王軍の一団に狙い討ちされたのですから」

「大ウソだわ!」

 真衣子姿のリリスペインが声を上げる。

「天使の魂とかならともかく、人間の魂ひとつくらいで魔王軍が動くもんかっての!」

 だがリリスペインは、ビーナが静かにこくんとうなずくのを見て、

「――え? ま、まさか、そーだったの!?」

「人として生を受ける魂の中には、一定の割合で天使となる資質をもったものが存在します。マイコの魂は、まさにそれだったのです」

「でもでも、だったら、城に憑依させるどころか、今頃はもう――!」

「魔王軍にマイコの魂を奪われかけとき、わたしはとっさに、彼女にかりそめの実体を――このわたしの実体を、与えたのです」

 そこでビーナはさっと二対四枚の羽を広げて、

「申し遅れました。わたしの真の名はレニーエルゥ。実体の方はマイコに託してありますのでこのような姿をしておりますが、実際には天の位階第二位に座を持つ天使――智天使の一柱ですわ」

「なんだか、やたらめったら偉そうな身分に聞こえるんだけど、気のせいかな……?」

 その手のことにはまるっきり門外漢らしい皆人が首を傾げるのへ、ビーナの脇に控えていた金髪の精霊エルドラが我慢の限界とでもいうように一歩踏み出し、

「だから本当に偉いってんだよ! なのにてめえらときたら――!」

「がー! そっちこそうっさいっての! ――けどねビーナ、天使の実体をまとってるっても、それだけで十数年も逃げ回れるほどソドムも魔王軍も甘くはないわよ?」

「それは……もちろんわかっています」

「――でも、可能性はあるんでしょ?」

 皆人の肩に手を置いたまま、さらに身を寄せるようにして真紀織が聞く。

「限りなくゼロに近いが、な」

 真紀織はそんなフィラに軽くうなずいてから、

「つまりまだ望みはあるってことでしょ? だからこそビーナ、あなただって猫の姿になっても真衣子のところに来て、あの子の体を守ってくれているんでしょ?」

「はい、マキオ……ですがこれは本当に、本当にかすかな可能性なのですよ?」

「でも、ゼロじゃないのならわたしは信じる――ビーナを、そして真衣子を!」

 ビーナは長く深く息をつくと、

「さすがですね、マキオ……さすがは天使の魂を持つだけのことはありますわ」 

「レレ、レニーエルゥさま! 悪魔どもの前ですよ!」

 あわてたエルドラは、思わずビーナの天使名を呼んでしまう。

「元神さまと呼べ!」

「あたしにだってリリスペインって名前があるんですけど!」

 見た目は人間の少女姉妹が、同時に文句を言った。

「エルドラさん、ご心配なく。わたしはこれでも悪魔(ヒト)を見る目はあるつもりですわ」

 それからビーナは、真紀織たちの方へ向き直って、

「うふふ、マキオ……実はあなたの魂を人間界へ導いたのも、このわたしなのです」

「じゃあ本当に、わたしは天使の魂を? ……まいと同じ、魂を?」

 ビーナは満足そうに目を細めると、

「常にわたしの姿が見えているのがその証拠です――普段は結界を張って姿を隠している天使を見ることができるのは、同じ〝天使〟だけですから。ただし、寿命を全うして天に召されるまでは普通の人間とまったく同じです。特別な力は何もありませんわ」

「ちょっと待った! 昔はおれにもビーナの姿が見えてたんだろ? だったらひょっとして、おれも――」

「子供の純真な目には、もともとそれだけの力があるのですよ」

 ビーナがさらりと答える。

「それだけ?」

「ですわ。ちなみに今わたしの姿が見えているのは、わたしがそうしているからです」

「あっそ。ふん、どーせおれはふつーの人間――っつつ!」

 皆人が小さく悲鳴を上げる。それで真紀織は、やっと自分の爪が――いかにも悪魔然としたそれが――皆人の肩に強く食い込んでいることに気がついた。

「あ、皆人くん! ごめんなさい――!」

 あわてて離そうとしたその手に、皆人の手がそっと重なる。

「いいって」

「でも皆人くん、血が……!」

「いいんだって。今のおれがおまえにしてやれることって、これくらいしかないから――って、ちょっとカッコ良すぎか、おれ?」

「うん、蹴っ飛ばしてやりたいくらい……でも、許す。ありがと。すっごく嬉しい」

「――どういたしまして」

「あー、盛り上がってるところ悪いんだかな――!」

 そんな皆人と真紀織の前に立ったフィラが、腕を組みつつローファーの靴先で屋根の上をこつこつと叩きながら、

「そろそろラディカカが息を吹き返す頃合いなので、ここらで作戦会議などしたいのですがねえ、お二人さん?」

「ふぃ、フィラさん? なんだかとっても怒ってませんか?」

「怒っているのはわたしではない! この体だ!」

 フィラは、本来真紀織のものであるその体にぐいっと親指を突きつけて、

「とにかくそんなわけだから、この体の半径一〇〇キロ以内ではいちゃつかんように! いいな、わかったか!」

「その一〇〇キロってのはどこから出てきたんだよ?」

「知るか! この体に聞くんだな!」

「フィラ、その言い方って、とらえ方によっちゃすごくヤバく聞こえるぞ?」

「ほら聞いたかマキオ! これがミナトの正体だ! やっぱり男はみんなオオカミ――!」

「フィラさんフィラさん、作戦会議はよろしいんですの?」

 ビーナがその尻尾でつんつん、とフィラのふくらはぎをつついた。

「う? ――わ、わかっている! ちょっと場を和ませてやっただけだ、そうだな!?」

 ガンを飛ばされた皆人と真紀織がそろってこくこくとうなずく。

「よし! ではこれよりプランB、第二次作戦会議を始める――だがな!」

 フィラはそこでじろりと一同を見回して、

「だが! もはや神帯槍はなく、真紀織の霊力もほどんど尽きて、もひとつおまけに時間もないときた──これでいったいどうしろっていうのだ!」

「だから、それをこれから考えるんだろ? ――わっと!?」

 余計なことを口にした皆人に、フィラから一四インチテレビのリモコンが飛んでくる。

「神帯槍? だったらここにあるじゃない」

 パジャマの上から真紀織が置きっぱなしにしていたワイシャツを羽織ったリリスペインが、がざがざとコンビニ袋を振ってみせる。

 フィラはそのつややかな黒髪の頭にグーで一発くれてやると、わざとらしくすました声で、

「怒るぞ?」

「がー! 〝妹〟のかわいい冗談だっての!」

「ならばその拳は姉妹の〝すきんしっぷ〟というやつだ。ありがたく受け取れ」

「のしつけて返しちゃる! おりゃ!」

「ぐお! なればこちらは三倍返し! うらっ!」

「がー!」

「ぬう!」

 どたばたじたばた。

「つまりですわね、今のラディカカは、たとえるなら炭酸の抜けたコーラのようなものなのですわ」

 どったんばったん。

「となると、炭酸という霊力を使って、コーラという霊体を容器という実体から追い出すのはもう不可能ってわけか」

 がらがらどっしゃん。

「ねえビーナ、最初の作戦は? この〝秋葉原十字結界〟を真空容器に見立てて、その中にラディカカっていう缶ジュースを入れて中身を吸い出しちゃう――ってやつ」

 げしげしめそめそ。

「その容器内を真空にする力――つまりあなたの霊力がほとんど残っていない以上、残念ですがもはや実行は不可能です」

「――はあはあ、どうだ! 〝姉〟の強さ、身にしみてわかったか!」

「ぐしぐし、バーカ! バーカ! バカフィラ~!」

「そういうことを言うのはこの口か!」

「んがー! ががー! もがー!」

「……止めなくもてよろしいのですか?」

 さすがに不安そうな声で、ビーナが聞いた。

「人間同士だもの。死にはしないでしょ――それより皆人くん、大丈夫?」

 シャツをはだけた皆人の肩を絆創膏まみれにしながら、真紀織。

「その真っ赤な爪に変な呪いがかかってなきゃね」

 真紀織にそう笑いかけてから、皆人はそのままミーナの方へ顔を向けて、

「これは一三年目にして初めての〝姉妹ゲンカ〟なんだ、好きにさせとけよ、ビーナ……じゃない、ビーナさん」

「ビーナ、でよろしいですわ」

 ビーナは器用に肩をすくめて見せながら、

「本来天界では、新しい魂を作り出せる人間は〝主〟の次に在るべき存在で、天使であるわたしたちの方が、実際にはずっと下位なのですから」

「へえ、そうなんだ」

「ただし人間のもつ真の力は〝主〟によって封じられていますので、今のところはわたしたちの方が優れているように見えるだけですわ」

「人の力を封印? どうしてそんなことを?」

 皆人がシャツを着るのを手伝いつつ、真紀織が聞く。

「〝主〟の御心は、わたしごときの考えのおよぶところではありませんわ――あら、静かになりましたわね?」

 ビーナの言う通り、二人の少女は、秋葉原駅の屋根の上に敷かれたレジャーシートの上でそろって大の字になっていた。

「これで後は、夕日に向かって肩とか組んで、どちらからともなくはっはっは! とか笑えば一件落着ってか――おや?」

「いつの時代の青春ドラマよ。ああでもちょっと憧れるかも――なに?」

 皆人は南の空へ向けて手をかざしながら、

「いや、あの辺だけなんか都合よく夕日になってるなあって」

「んなバカな……って、あれ? ほんとに赤い。なんで?」

「──あれはラディカカの放出した霊力だな」

 背後からの声に真紀織は振り返ると、

「あ、フィラさん、復活したんですのね? リリスペインさんは?」

「神罰をくだしてやった。しばらくおとなしくしているだろう。それより――」

 フィラは皆人の示した空へ目を戻して、

「〝あれ〟の霊力をどうにかしてここまで引っ張ってこれれば、最初の作戦を実行できるかもしれんぞ」

「なるほど慧眼ですわ! それで、具体的にはどうするんです?」

「それが問題だ。神帯槍が健在ならそれに吸収させればいいのだが、他の手段となると……」

「――なくはないわよ」

 その声に全員が一斉に振り返ると、ようやく起きあがったリリスペインが、元の自分の体とは違い黒一色のその髪をさっと払いながら、

「教えてほしい? だったらフィラ、まずはあんたがそこに土下座してあたしの靴をおなめ!」

「靴って、おまえ最初から裸足じゃないか」

「がー! しまった!」

「まい……じゃなかった、リリスちゃん、だっけ? お願い、何か方法があるなら教えてほしい」

 静かな、でもはっきりとした真紀織の言葉に、リリスペインがうっと声を詰まらせる。

「お願いだから。ね?」

「お姉――マキオ、わかった」

「な、なにいー!? なんでそーなる!?」

 愕然とした表情を浮かべて、フィラ。さらに皆人も、

「まき、いつの間にその悪魔の弱みを握ったんだ? ぜひおれにも教えてくれ!」

「がー! うっさい! うっさい! この人間には命を助けてもらった恩があるからよ! それだけよ! 人間に借りのある悪魔なんて、異教神くずれの奴隷魔獣より情けないわ!」

「おいそれはこのわたしへの宣戦布告か?」

「今度は負けないっての!」

「上等だ! カモーン!」

「がー!」

「ふー! やめなさーいー!」

 ついにビーナがキレた。両耳が反り返り、全身の白毛が逆立つ。

「あなた方のその体は、人間の女の子の――マキオとマイコの大切な体なのですよ! それ以上傷をつけたら、後でどうお詫びをすつもりですか!?」

「ぐ、ぐう……後で覚えてやがれ」

「が、がう……魔界で泣かーす!」

「ふー! さあ! 握手、握手!」

 というわけで。

「――要するにね、〈それ〉を使うのよ」

 いやいや握手した右手を払うようにぱっぱっと振ったあと、リリスペインはその手で真紀織の――つまり本来はフィラのものである体の首に巻かれている、幅広のその〈首輪〉を示した。

「〈敗者の首輪〉? ――そうか!」

 やはり制服のスカートに右手をこすりつけていたフィラが、その指をぱちん! と鳴らして、

「マキオのその〈首輪〉と〈支配者の指輪〉をつけ替えて、ラディカカの放出した霊力塊に突っ込ませれば、マキオの浴びた霊力を〈指輪〉経由で〈首輪〉の持ち主へと送り出すことができる――」

 フィラは、それがさも自分の思いつきであるかのようにうんうんと何度もうなずくと、

「つまり〈首輪〉の持ち主をこちらに置いておけば、あとは勝手に霊力の方が流れ込んでくるってわけだ! ラディカカの霊力と一神教の魔力は少々質が異なるが、それでも充分な量は確保できるだろう! よし、それでゆくぞ! いいなみんな!?」

「がー! だからそれあたしのアイディアだっての!」

「――でも、その〈敗者の首輪〉は、誰につけさせますの?」

 ビーナは、その場にいる全員を見回しながら、

「悪魔のアイテムですので、わたしやエルドラさん、ミスリナさんでは効果がありませんし、人間のミナトさんはもちろん、フィラさんたちだって、今は人の身なのですよ?」

 リリスペインは前に立つフィラを押しのけるようにして、

「それくらい考えてあるっての! ――ゴルディアス黒! バルディアス白!」

 と、これまで下のホームのベンチに放り出してあったリリスペインの本体が、左右にきっちり割れた白黒の長髪を妖しくうごめかせつつ、ぎっちょんぎっちょんと、へたくそな操り人形さながらの動きで屋根の上に昇ってきた。彼女の体に取り憑いている二体の魔獣がてんでに動かしているらしく、体の方はこちらへ向かって歩いてくるのに、白目をむいた顔はあさっての方向にかしいでゆらゆらしたりしている。

「うわ、なんか気持ちわる……」

 皆人が見たままを正直に口にする。

「あんた、地獄に堕ちたら憶えてなさいよ?」

 リリスペインは、皆人の足に軽くキックをかましてから、元の長さに戻った白黒髪とゴスロリ風の黒ドレスに包まれたその体の横に立つと、

「――その〈首輪〉、この〝わたし〟がするわ」

「おまえ、本気か?」

 さすがにフィラも驚いたのか、それだけ聞くのがやっとという感じだった。

「他に誰がいるっての?」

 考えるまでもなく、他にこの役目の務まる者はいなかった。

「まったく人間なんかに借りを作るもんじゃないわね――とにかく、お姉ちゃ、じゃないマキオのその〈首輪〉と、この〈支配者の指輪〉があれば、あれば……あり?」

 ドレスのポケットを探っていたリリスペインの手が、瞬間、ぴたりと止まる。

「がー! な、な、ないないないないないーーーーーーーーーーーーっっ!!」

「……一瞬でもおまえを見直しかけたがそうしなくて良かったと心から思う」

 長い長いため息をつきながらフィラが言った。

「おかしいおかしい! そんなはずは――ポケットの穴はふさいだし、あのみすぼらしい小屋に行くまではちゃーんとここに入ってたのに!」

 そこでリリスペインはきっと皆人の方を見て、

「あんたよ! あたしが現出する媒介に使った電話機を、その途中であんたが放り出したから、そのはずみで落っことしちゃったんだわ! それに決定!」

「ま、待てよ! おれか、おれのせいなのか!? けど普通の人間なら、あの状況なら誰だって放り出すって!」

「弁明なら閻魔大王の前でするのね! ――ああやっぱり! あの部屋にある!」

〈指輪〉探索の呪文を唱えながら、リリスペイン。

「あ――ちょっとみなさん! これを見てください!」

 一四インチテレビの上から、突然ビーナが声を上げた。

彼女の尻尾が、晴海沖を映し出しているテレビ画面をちょんちょんとつついている。

「ラディカカが……ラディカカが動き出しましたわ!」


2


 上空に待機していた陸上自衛隊の攻撃ヘリコプターがぐん、と高度を下げた。目前にそびえる建物群を避けるように機位を調節しつつ射界を確保。直後細身の機体の左右に張り出したウエポン・ベイに残っていたTOW改・対戦車ミサイルの全弾を射出、さらに機首にある二〇ミリバルカン機銃を撃ちまくる。

 盛り上がった海のようになめらかな緑色の巨体の側面に、次々と爆発が起こる。

 その後方には数隻の護衛艦も追走していたが、その位置からでは前方の湾岸区域まで攻撃に巻き込んでしまう可能性があり、現状での攻撃は許可されていなかった。

 一方で、大井埠頭にずらりと並んだ改一〇式戦車群の一二〇ミリ戦車砲が一斉に砲撃を開始。ミサイルより威力は落ちるものの、数の力で圧倒すべくひたすら撃ちまくる。だが残念ながら〝それ〟の──ラディカカの侵攻を止めるには至らず、さらにはラディカカのまとう霊力によって勢いを増した妖魔だの邪霊だのの類が、車外にいる自衛隊員たちを襲い始める。そちらは隊員装備の携帯火器でも対処可能だが、とにかく数が多い。むしろこちら側がその数の力に圧倒され、その場にくぎ付けとなってしまう。

 その間もラディカカの進撃は続き、埠頭に居並ぶ戦車群も蹴散らされて、とうとう東京の地に上陸を許してしまったのだった。


「ではフィラさん! ビーナ! 行ってきます!」

 純白の機体に銀色のラインの入った垂直離着陸戦闘機ハリアーⅡの後部座席から、赤い髪をなびかせつつ真紀織が手を振る。その彼女の膝に抱かれるようにしている黒目黒髪のパジャマ少女――真衣子の姿をしたリリスペインが、こちらはべーっと舌を出す。

 一方前席には皆人と、そして白黒二体の魔獣に操られたリリスペインの本来の体ががおさまっていた。魔獣たちは初めて乗る戦闘機に興奮しているのか、連中の操り人形と化したリリスペインは、白目をむいて口を半開きにしたまま、ごきごきと首の骨を鳴らしながらぐるぐる頭を回していた。皆人はそれを押さえるのにせいいっぱいで、とても挨拶などしている余裕はなさそうだった。

「それではビーナさま、また後ほど――いざ、出陣!」

 どこからともなくミスリナの声がして、機体がふわりと浮き上がる。

この白と銀のハリアーは、ネットが使えない中で皆人が急きょ近くの模型売り場をあさって調達してきた資料を元に、ミスリナが変身したものだった。大きさには限度があるものの、一定の情報があれば、彼女たちはたいていの乗り物に変身することができた。皆人は旧式のハリアーよりもF‐35Bを推したいところだったようだが、そこはミスリナの個人的嗜好(?)が優先したらしい。

 形だけの排気ジェットを噴き出しながら、猫の足跡マークつきの翼を振りふり秋葉原駅の屋根から離昇したハリアーは、上空にいた妖魔や邪霊たちを蹴散らしつつ西の空へ――皆人の家のある方向へと飛んで行った。

「ではこちらも始めるか――ほれ!」

 くせのない茶色の髪を排気ジェットになびかせつつ、フィラが手にしていたムック本をエルドラへと放り投げる。

「おいこら本を投げるな! ――なんだこれば?」

 手を上げて飛んできた本をキャッチしながら、金髪長身の精霊が聞く。その派手な容貌には不釣り合いな紺色のワンピースも、裾のあたりがまだ大きくはためいていた。

「『完全解説シリーズ・これが世界の戦闘機だ! F‐15編』――?」

「それに変身して、わたしをラディカカのところまで乗せてゆくのだ」

 真紀織姿のフィラがあごで示したテレビ画面の中では、自衛隊の猛攻にもかかわらず、ついに日の出桟橋のあたりへ上陸を始めた巨大怪物――ラディカカの姿が映し出されていた。

 エルドラは、ラディカカそっちのけで興味深げにぱらぱらとページをめくりながら、

「悪くねーけど、いつものヘリでもいいんじゃねーか?」

「ダメだ! ヘリではマキオたちの戦闘機には勝てないぞ!」

「だから何と戦ってんだよおまえは――ま、いいか。確かにこいつはハリアーより強いしな」

 むしろ自分の方からにやりと笑ってせる金髪精霊。

「あの銀髪女、前に国産FR限定で公道バトルしたときは苦渋をなめたが、今度は負けねえぞ!」

「おまえたちこそ、普段はそんなことをやってるのか?」

「これも修練だよ、修練!」

「――エルドラさん?」

 やんわりしたそのビーナの声に、しかしエルドラの金髪がぞわっと波打つ。

「ああっと……よしわかった! しゃーねえダチの頼みだ! 引き受けた! こいつは飛び上がるのにちょっと距離がいるから、下の道路で待ってるぜ! じゃな!――おらおら戦車ども道を開けろい! 今から中央通りは臨時滑走路だ!」

 ビーナはテレビの上で、はふう、大きくとため息をつくと、

「フィラさん、あたなたち、いつからお友だちになりましたの?」

「さあな。だが、ミナトの選んだ本がよほど気に入ったらしい」

 フィラはエルドラの消えた屋根の穴から目を離すと、頭に載せた銀のティアラに手をかけた。

「――わかってますね?」

 ビーナのその声に、フィラの手が宙で止まる。

「もちろんだ。しかし他に方法はない」

 フィラは一気にティアラをはずした。

 栗色の髪が、一瞬、驚いたようにさわりと揺れる。

「わたしの体を持つマキオがいなければ、ラディカカはここにはやって来ない。だからその代わりに、このマキオの体に宿るわたし自身の霊体――魂を使って、あやつをここへ、〝秋葉原十字結界〟へとおびき寄せるしかない」

 そのためには、フィラの魂の力を封じているそのティアラを外す必要があった。

 しかしそれは、人間の真紀織の体が、直接フィラの――元神さまで今は悪魔の――魂にさらされるということだった。

「もしマキオの体があなたの魂の持つ〝魔気〟に完全に冒されてしまったら、マキオの魂はその還るべき場所を永遠に失ってしまうのですよ?」

「そのときは、わたしのあの体をくれてやるさ! ――これにケリがつけば小なりとはいえ伝統ある宗教の守護神となる身だ。文句はなかろう?」

「――フィラさん!」

「ビーナ――大丈夫だ」

 フィラはふっと笑うと、胸元のひん曲がった赤いリボンを指さして、

「〝こいつ〟はな、見た目よりもずっと強い」

 さらに彼女たちの向かった空を見上げながら、

「なんたってこいつには、守るべき者と、そして守ってくれる者がいるのだからな!」


「――っくっしょん!」

 真衣子の部屋で、皆人が盛大にくしゃみをした。

「がー! ばっちい! ちゃんと口に手を当てろっての! マナーでしょ、マナー!」

 すでに元の姿に戻っているリリスペインが、その白黒髪の頭を振って怒鳴る。

「悪い。でも今のはマジだから」

 皆人はそれから、ベッドに横たえたパジャマ姿の妹――真衣子にそっと布団をかけている赤髪黒翼の少女、真紀織の隣に並ぶと、

「まいの方はどう?」

「うん、いいみたい。汗もかいてないし――モニター用のライン、どうしようか?」

「もういらないだろ、そんなもん。ネットは全滅だし、病院との回線も切れてるしさ」

「だね。別に病気とかでもなかったんだし……ね、皆人くん?」

「うん?」

 真紀織は、その褐色の手で真衣子の頬をさすりながら、

「まい、起きたんだよね。自分で歩いてたんだよね……あれ、夢とかじゃないよね?」

 皆人は、「がー! ないない、ないー!」とか叫びながら床の上を這い回っている白黒髪のゴスロリドレス少女にちらりと目をやって、

「ああ――もっとも中身は〝あれ〟だったけどな」

「でも、案外ほんとのまいもあんな性格だったりして? ――もしお母さんやお父さんが、さっきのまいを見たら、どう思ったかな?」

「そうだな。いっそのことあのまま送りつけてやりゃ良かったかも」

 真紀織の両親は、赤道直下にあるフィラの島で、自分たちの会社が破壊してしまった「フィラ遺跡」の復旧作業の陣頭指揮をしているはずだった。

 皆人は、またじっと真衣子の寝顔を見つめている真紀織へ、

「……どうした? 魂交換の儀式、そんなにショックだったか?」

「え? うん、まあね」

 真紀織は小さく笑って、

「だって、いきなりまいとリリスちゃんがキス――とかしちゃうんだもん」

「けどおまえもやったんだろ、あれ? フィラとさ」

「ば、ばか! わたしのときは眠らされてるうちに終わっちゃったから、こんなことになってたなんて全然知らなかったの!」

 あせるように手を振る真紀織の額に、ぽつぽつと汗が浮く。

「わっと、やは!」

 皆人のその声に真紀織が自分の体を探る。だがまとっているのは水着っぽいボディースーツ一枚だけで、いくら探してもハンカチの類などは出てこない。

 皆人がベッドサイドに積んであった真衣子用のタオルを取ってその額に押し当てる。

「ふう……」

 フィラの体から出る汗は、人間の男にとっては強力な媚薬と同じ効果がある。

ただし中身が真紀織であるせいか、それは今のところ皆人に対して決定的な効果をおよぼしてはいない。だがそれでも、用心するに越したことはなかった。

「でもそうなった場合、おれが好きになるのはフィラ? まき? どっちなんだろ?」

「知らない!」

 真紀織がぷんとそっぽを向く。とその瞬間、

「――あった!」

「うわ!?」

「えっ!?」

 皆人と真紀織の間で突然立ち上がったリリスペインが、そのまま細い腕を振り上げる。

「まったく、おまえたちの足下にあったんじゃ見つかるわけないっての!」

三つ編みを解いたままの白黒髪を揺らしつつ二人へ向き直ったリリスペインは、

「さあとっととやっちゃいましょ! あたしの気が変わらないうちにね!」

 皆人たちに向かって突き出された彼女の手には、赤黒い宝石をくわえたドラゴンを象ったあの〈指輪〉――〈支配者の指輪〉があった。

「それじゃお姉、じゃないマキオ、ティアラを取って。儀式の邪魔になるから」

「――うん、わかった」

 真紀織は、自分の魂をフィラの体に取り憑いている〝魔気〟から守っているその銀色のティアラを外すと、それを皆人に手渡した。

「皆人くん、お願い」

「ああ……けど大丈夫か?」

「わかんない。でもどうせ、後でまた外さなくちゃならないし」

文字通り神帯槍の身代わりとして、その身でラディカカの吐き出した霊力を集めるときも、フィラの体にとっては〝異物〟であるそのティアラを外す必要がある。神帯槍がない以上、ほかに選択肢はない。危険な賭けだが、この期に及んで降りるわけにはいかなかった。

「さあさあ、準備と覚悟はいい? よし、始めるわよ!」

 リリスペインは、彼女の指には一見大きすぎる〈指輪〉をはめると、真紀織の首に巻かれてある〈首輪〉――リリスペインの〈指輪〉と同じ形をしている〈敗者の首輪〉にかちりと合わせた。

 そのままでリリスペインは、もう一方の手をさっと振った。その手の中に投げナイフのような細身の小剣が出現する。

「我が〈支配者の指輪〉より〈敗者の首輪〉へ命ずる――!」

 リリスペインは、〈指輪〉をはめた指の根元に躊躇なくその刃先を突き立てた。赤黒い血が筋となって流れ、彼女の〈指輪〉と真紀織の〈首輪〉を同時に濡らしてゆく。

「わ、わ……!?」

 自分の胸元にまで流れ落ちてきたその血に、真紀織が思わず身を引こうとする。

「動くな! すぐ終わるっての! ――ミナト! こいつの頭を押さえてろ!」

 リリスペインが怒鳴る。

 皆人は銀色に輝く猫耳風ティアラをベッドに置いて真紀織の頭を支えると、ついでにまだ持っていたタオルをその胸元に当ててやった。

「――我ルシル・リリスペインの血をその証としてこの者デレス・マノレス・フィラ・ラディカカッサの戒めを……」

「あれ、まきの名前じゃなくていいのか?」

 じわじわとどす黒く染まってゆくタオルを横目に、皆人が聞く。

「がー! 儀式の途中だっての! ――いいのよ! この呪いはフィラの名前でかけたんだから、解くときもフィラの名前じゃなきゃいけないの!」

「おお、なるほど――そういや、悪魔の血っても、人間とたいして変わらないのな?」

「当然でしょ! 実体としてのこの身は、人間のそれと基本的に同じなんだから!」

 怒鳴りつつもリリスペインは、皆人の質問に律儀に答える。

「あのメス猫も言ってたでしょ? 本当は人間が一番エライって。実体としての完成度も、だから人間のそれが一番高いのよ。それで悪魔も天使も、その姿をまねて実体を造るの。でもたいていは失敗して、あんな化け物じみた姿になっちゃうけどね」

 とにかく! とリリスペインは自らの腕を伝い落ちる赤黒い血をにらみつけるようにして、

「だから噴き出る血は赤いし汗も出るし、お腹もすいてご飯がうまいのよ! わかった!?」

「わかった――たぶん」

「よし! じゃあ続けるわよ! ええと――」

 だが彼女は、しばし口をぱくぱくさせてから、

「がー! どこまでやったか忘れちゃったじゃないの! あとちょっとだったのに!」

「ええと、フィラの戒めをどうとか言ってたぞ?」

「戒め? ああ思い出したわ! ――えー、その戒めを解き放ちたるの許さんことを!」

 そうしてリリスペインがどうにか唱え終えた直後、真紀織の首元でかちゃん、と小さな音がした。

「どう? 取れてる……?」

 真紀織がおそるおそる、その首元を覆う赤い髪をかき上げる。

 皆人が見ると、〈敗者の首輪〉の後ろ半分が左右に開いていた。

「ああ。取れてる……これ、おれが持っても大丈夫か?」

「持つだけならね。でもこの〈指輪〉を拾ったときみたいなことをしたら、速攻でその首ごとはね飛ばしてやるから!」

「しないって! 人間さまの学習能力を甘く見るな――まき、気分はどうだ?」

「少し頭痛がするけど、なんとか……うん、大丈夫だよ!」

「そっか」

 皆人が真紀織の首からその〈首輪〉をはずしてやっていると、リリスペインが自分の〈指輪〉に向かって、「外れよ、我が〈指輪〉!」と叫ぶのが聞こえた。

「あ、やっぱりそれでよかったんだ」

「え? なんか言った?」

 その白くて細い指先から〈指輪〉を抜き取りつつ、リリスペインが聞く。

「別に――でも、けっこう時間食ったよな」

「がー! あんたが余計なことあれこれ聞くからだっての!」

「わかったわかった。じゃあおれは外にいるから、後は手早くすませてくれ」

 あの〈指輪〉と〝血の契約〟をする真紀織の姿を見たくなかった皆人は、そう言うと、ドアの横に立てかけてあった新しい銃――型は前の物と同じだが、こちらには三〇連弾倉にグレネードランチャー(手榴弾発射器)が装備されていた――を手にさっさと部屋の外へ出た。

 廊下にはまだ無数の空薬莢が散らばっていた。二〇〇発近い銃弾を浴びた玄関もひどいありさまで、気休めに立てかけてあるドアにも無数の弾痕があった。

 この付近の避難は終わっているし、ビーナの結界もあるので、防犯面その他は問題なかったが、母にどう言い訳しようかと考えると頭が痛い。

 廊下にいても気が滅入るばかりなので、フィラにならってテレビでも見ようと食堂にゆく。

 そこにはミスリナがいた。開け放った冷蔵庫の前に正座して、食パンやら数日前から入れっ放しだった煮物やらをあさっていた。

 そのミスリナの体がびくっと震える。皆人と目が合う。彼女の端正な口元からはみ出ていたパンの耳がぽろん、と落ちる。

「ああその、変身するのはあれでけっこう霊力を消費してな、食べ物にはほれ、わずかではあるが霊力が宿っておるじゃろ? よってそれなりの量を食らえばそれなりに腹の足しに……ではなく、霊力の補充になっての――」

 皆人はうつむいて必死に笑いをこらえながら、

「……お茶でも、入れましょうか? 安物ですけど」

「あ、う、うむ――うんと熱いやつがよいな。実はお茶にも、そこそこの霊力が……」

「はいはい、わかりましたって」

 そうこうするうちに、真紀織とリリスペインも食堂へやって来た。フリルまみれの大きな衿からのぞくリリスペインの首には、あの〈敗者の首輪〉が光っていた。

「その方が似合うぞ」

 テレビから目を離して、皆人。

「がー! 言うと思ったわ!」

「それで、フィラさんたちの方はどう?」

 真紀織が、つけている〈支配者の指輪〉を隠すように手を合わせながら聞いた。

 皆人は、リリスペインよりもずっと悪魔少女的な外観をしている彼女の、そのすっきりした首元が少し物足りなく思えたが、それは口には出さず、

「ここのテレビじゃ一般の放送しか見れないからよくわかんないけど、ラディカカは今、有楽町駅と東京駅の間くらいにいるらしいな」

 自衛隊や海上保安庁の撮影した映像がリアルタイムで届くビーナのテレビとは違い、一般向けの放送には、まだラディカカの姿すら登場していなかった。

「よし、では皆の者、最終決戦じゃ! 気合いを入れてゆくぞ!」

 ミスリナが、勢いよくばん! と冷蔵庫を閉じて立ち上がる。

「がー! この下級精霊ったら自分だけ何か食ってた!」

「黙らぬか悪魔め! これは必要な霊力補給じゃ!」

「だったらあたしも食う!」

「まあまあ、これが終わったら、おれがとっておきのもん食わせてやるから」

「――が? 何を?」

「ごくごく一部で大好評! 油ぎっとりのベーコンエッグが食べ放題!」

「がー!」


3


 猫足印のハリアーが秋葉原駅の上空に戻ると、ラディカカはもうその直前にまで迫っていた。

フィラの乗る金ラインの入ったF‐15の誘導により、山手線/京浜東北線の高架上を渡って来たために、鉄道関係は浜松町~秋葉原間の全域が壊滅状態となっていたが、それ以外の沿線地域はほとんど無傷のままだった。

 銀ラインのハリアーは、そのフィラの指示に従ってリリスペインを秋葉原駅近くのビルの屋上へ降ろすと、翼をひるがえして東京湾岸を南下してゆく。

「――ここでいいわ」

 首都高湾岸線、大井ジャンクションを越えたあたりで、真紀織が言った。

 ミスリナの変身したハリアーの左右にある四つの噴射ノズルが下側を向き、ヘリコプターのように機体を空中静止させる。

 操縦席を覆っていたキャノピーが開く。前席の皆人が、その座席に正座するようにして後ろを向く。後席で赤髪黒翼の悪魔少女の姿をした真紀織が立ち上がる。その手には、ビニールテープでぐるぐる巻きにしたあのトイレブラシが握られていた。

「じゃ、皆人くん、これ借りてくね」

「いいけどそんなもん、本当に何かの役に立つのか?」

「二回も皆人くんを救った最強のトイレブラシだもん。きっとわたしのことも救ってくれるよ」

 皆人は手をのばして真紀織が頭からはずしたティアラを受け取りながら、

「確かに、トイレブラシ界最強なのは保証するけどな――おっと」

 受け取ったティアラをつい自分の頭に載せようとした皆人は、すんでのところで思いとどまると、

「教訓、教訓――じゃ、行ってこい!」

「うん! ベーコンエッグ、楽しみにしてるから!」

 見た目はボロボロの黒い翼を広げ、手にはこれまたゴミ箱行き寸前のピンクのトイレブラシを持った真紀織が、ハリアーの座席を蹴って飛び立つ。

「おう! ――よしミスリナさん! 秋葉原チームへ連絡! 〝秋葉原十字結界〟作戦、スタート!」


「――来た!」

 奇しくも最初に秋葉原駅を見下ろした際に訪れたビルの、その同じ場所に立ったリリスペインは、首に巻いた〈敗者の首輪〉からその体内へと強引に流し込まれてくる異質な霊力に、一瞬気を失いそうになる。とことんまずい泥水のようなスープを直接胃に流し込まれてゆく気分。背中で白黒に分かれた髪がのたうち回る。だがそのせいで逆に彼女自身の意識がはっきりする。

「が、がー……うっぷ」

 こみ上げる吐き気をどうにかこらえ、両足をふんばる。手にした神帯槍の一部、辛うじて原形を留めている槍先の部分を、眼下に横たわる巨大な十字架――秋葉原駅の駅舎へと向ける。

神田駅を圧し潰してやって来たラディカカの巨体は、すでに総武線側のホームにまで押し寄せており、今や駅舎全体を覆い尽くそうとしていた。屋根にあったビーナのテレビも、数多くの銃器類もみんな吹っ飛ばされてしまった。駅舎そのものは、ビーナの張った結界と神鉄化された骨格のおかげで崩壊するまでには至っていないが、それも時間の問題と思われた。

「――わたしの〝槍〟になった気分はどうだ?」

 リリスペインが横を向くと、そこには聖エレナスの制服を着た茶髪の小柄な少女が立っていた。周囲にエルドラの姿はない。エレベーターはとっくに止まっているはずだ。肩で息をしているところを見ると、ここまで自力で駆け上がってきたらしい。

「……とっても最悪」

「それは体内にたまった霊力のせいだ。さっさと〝外〟に出してしまえ」

 制服姿の少女――フィラが、ビルの端まで行って秋葉原駅を見下ろす。

「いいか、その槍先の欠片から霊力を放出させるときの勢いを利用して、ビーナの結界の周りで渦を巻かせるようにしろ。回転を与えれば、そのぶん結界側からの吸引力が高まってだいぶ楽になるはずだ」

「が! だから、そうしてるって、の!――きゃん!」

「おい、大丈夫か!?」

「がー! あたしにさわるな!」

 リリスペインは、小さな牙をむき出しにして歯をくいしばり、放出される霊力にもって行かれそうになった槍先をやっとのことで押さえ込む。

「その体に何かあったらどうすんのよ!」

 言われてフィラは、やっと自分が人間の少女――真紀織の体をまとっていることを思い出した。

「すまん。ティアラをはずしているせいで、人間としての自覚が薄れてきてるらしい」

「あたしに謝ってもしょーがないっての!」

「……しかし、悪魔王ルーシファに連なる海賊魔王の娘ともあろう者が人の身の心配、か」

「聞こえたわよ! 黙れっての! これ以上人間なんかに借りを作りたくないだけ! わかった!?」

「うむ。マキオはがんばり屋さんのいいお姉さんだな」

「うん――じゃない、がー!」

 リリスペインは、珍しくその顔を真っ赤にしながら、

「やることないなら安全なところで隠れてろっての!」

 フィラは、ラディカカの周囲で徐々にその赤みを増してゆく、異教の天使が造り出した巨大な十字型状結界――〝秋葉原十字結界〟を見て、

「だな。ではそうさせてもらおう。わたしの役目はもう終わったしな――そっちもあと少しだ。頑張れ」

「わかってるからさっさと行けっての! ――神罰級悪魔っ娘の意地、見せてやる!」


 東京湾上を漂っている赤い雲――ラディカカの吐き出した霊力塊が、渦を巻きながらその中心にいる真紀織へと流れ込んでゆく。

 やはり異教の魔法アイテムでは、その霊力を完全に受け流すことはできないらしい。

 真紀織は、破れ傘のような黒い翼をめいっぱい広げ、手に巻き付けたトイレブラシを突き出して、そのすさまじい力に必死に耐えていた。

「辛そうだな……」

 霊力塊の影響圏ぎりぎりを旋回する〝大食らいハリアー〟――例によって皆人自身がこっそり勝手に命名――の操縦席からは、もちろん真紀織の表情までは見ることはできない。それでも皆人には、真紀織の歯の食いしばる音までが聞こえてきそうな気がしていた。

「ラディカカ」の出現にあおられて実体化した邪霊だの悪霊だのといった連中が、その周囲にいなのがせめてもの救いだった。しかし逆にいえば、そんなやつらが存在できないほどに、真紀織へと流れ込んでいる霊力の密度が濃いということでもある。

「辛そうだと? わらわには楽しんでいるように見えるが?」

 コクピット内のどこからか、そんなミスリナの声が聞こえてきた。

「ミスリナさん! こんなときに変な冗談はやめてくださ――うわ!」

 皆人の目の前の操縦桿が勝手に動いて、機体がぐんと真紀織へと近づく。

「濃密な霊気ゆえ、接近は一瞬じゃ。あやつの顔、とくと見よ!」

「――!」

 一瞬で充分だった。

 その顔は、確かに苦痛を感じている顔だった。

だが決して悲壮な顔ではなかった。

 強敵と戦い、打ちのめされ、それでも立ち上がろうとする戦士の顔だった。

 いやそれだけなら、ミスリナはあのような言い方はしない。

 皆人ははっきりと見た。

 真紀織は――あの赤髪黒翼の少女は、笑っていた。目を見開き、口元をつり上げ、牙のような歯をその端からむき出して、心から嬉しそうに笑っていた。

 それはもう、真紀織の顔ではなかった。皆人の知っているフィラの顔でもなかった。

 その顔は、皆人の全く知らない人外の存在――悪魔のそれだった。

「いかに天使の素養を持つ魂とはいえ、この試練はやはり荷が勝ちすぎたようじゃの」

「そんな……くそ、まき、まき!」

 しかしミスリナが再び距離をとったため、皆人からはもう彼女の表情は見えなかった。

 皆人は手にしていた真紀織のティアラをじっと見つめながら、

「そうだ、今のうちにこいつをつければ、また正気に戻るかもしれない――」

「その髪飾りには多少の浄化能力もある。だがそうあっさりとつけてくれるかの?」

 ミスリナは、皆人が真紀織の様子を見やすいように機体の位置を調整しながら、

「それに霊力の回収作業もまだ終わっておらぬ。何をするにせよ、今は待つしかない」

「その間にまきの〝悪魔化〟が進んだらどうするんです!?」

「もしあやつが真の魔性に目覚めたのなら、容赦はせぬ。わらわの全力をもってあやつを地獄へと叩き堕とすのみ!」

 皆人の目の前で、火器管制装置のモニターがぱっと明るくなる。

「ミスリナさん!」

 しかしもうミスリナは答えなかった。

 皆人は操縦桿を握り、計器板のスイッチを手当たり次第いじってみた。しかしどれもまったく反応がなかった。

「こらやめぬか。ほとんどの機器は飾り物じゃが、中には機能するものもあるのだぞ。余計な問題を引き起こして、この場より離脱せなばならなくなったらどうするのだ?」

「くっ……!」

 皆人は最後まで握っていた操縦桿から手を離した。

「今のわしらにできるのは待つこと、そして主に祈ることだけじゃ」

「おれはフィセラ教徒第三五号です!」

 真紀織から目を離さず、皆人が怒鳴る。

「ならば己の信ずる神に祈るがいい」

 そう言い残して再びミスリナが沈黙する。

 皆人は待つしかなかった。黙って見ているしかなかった。

 黙って、祈り続けるしかなかった。

 ミスリナの〝大食いハリアー〟が彼女の周りをぐるぐる回り続けるのを。

 赤い雲が徐々に晴れてゆくのを。

 そして、目の前で大切な女の子が〝奪われて〟ゆくのを――その彼女が、この試練を勝ち抜いて再び自分の前へと帰ってきてくれることを。


「かなり霊力が集まってきたな。もうすぐケリがつくぞ」

「フィラ……! あんた、まだそこにいたの!?」

 ビーナの結界に包まれ、伝説の怪物がのたうっているJR秋葉原駅。

 その光景を見下ろすビルの屋上。

 リリスペインは、依然として東京湾上の真紀織から〈敗者の首輪〉を通して流れ込み続ける霊力を、手にした神帯槍の欠片から放出し続けていた。

「ああ、まだいたともさ」

 茶色の頭に封魔用のティアラを戻したフィラは、それでもリリスからは一定の距離を置いたまま、胸元のひん曲がった赤いリボンを指さして、

「確かにラディカカをおびきよせるという役目は終わったが、もしこの身にマキオ自身の魂が宿っていたら……あやつならきっと〝ここ〟を離れんだろうと思ってな」

「ふんだ! 勝手にすれば? 困るのはあんたとマキオなんだから!」

「だから好きにしている――魔獣どもはどうした?」

 フィラがいないすきに、リリスペインの髪は白側も黒側も肩先まで短くなっていた。

「とっくに逃げたわよ!!」

「まあ無理もない。だが、これぞまさに不幸中の幸いというやつじゃないか? どうした、あまり嬉しそうじゃないな?」

「がー! う、うっさい! ちょっと疲れてるだけよ!」

 実際には、リリスペインの状態は〝ちょっと疲れた〟などというレベルではなかった。

 ゴスロリ風の黒ドレスはあちこち裂け、露出している肌には、顔から手足まで細かいヒビのようなものが無数に走り、短くなって白黒混じりとなった髪も、長髪姿を見慣れたフィラの目には痛々しいだけだった。

「なあ、おまえ」

「……なによ!?」

「――おまえ、このまま人間界で、フィセラセラ教の神さまをやってみる気ないか?」

「が、がー!?」

 リリスペインはもう少しで、手に持つ槍先の欠片を落っことすところだった。

「異教とはいえ悪魔を神さまをヘッドハントする宗教がどこにあるっての!!」

「異教のかわいい少女神を悪魔扱いするどこぞの傲慢な一神教よりはずっとマシだと思うが? ちなみに応募の秘密は厳守するぞ?」

「〝傲慢な一神教〟ってとこは大賛成だけど、んなことできわけないっての!」

「ここ数百年ずっとおまえを見てきたが、どうも悪魔には向いていない気がするのはわたしの気のせいか?」

「気のせいに決まってんでしょ! あたしは大海賊魔王ザーダの娘だぞコラ!!」

「だろうな。ふっ、まあいい。ちょっと言ってみただけだ。忘れてくれていい」

「がー! だったら最初から言うなっての――!!」


 ほとんど青に戻った空の下を、〝大食らいハリアー〟が急降下してゆく。その直後にぴたりとついた赤髪黒翼姿の悪魔少女――真紀織が、満面の笑みを浮かべながらビニールテープぐるぐる巻きにしたトイレブラシをぶん! と振った。その先から光の玉が放たれ、ハリアーのまとっている防御結界を直撃する。

「ぐあっ!」

 シートベルトで座席に固定されているはずの皆人の体が、それにもかかわらず大きくバウンドする。

「ミナトよ、このままではそなたの身が危ない! 防御結界も限界じゃ! 反撃するぞ、よいな!」

「よくない! ごほ、ごほっ!」

 ミスリナの声が響くコクピット内で、皆人がその声に負けじと怒鳴り返す。

「もうあやつは悪魔じゃ! しかもラディカカの霊力を取り込んでおるから、霊力を使った攻撃もやりたい放題なのじゃぞ! エルドラもビーナさまも動けんし、わらわたちだけではもうどうしようもない!」

「そんなことあるもんか!」

 皆人は手の中で銀色の輝くティアラを見た。

「今のあいつはラディカカの霊力にあてられてるだけだ! まだ望みはある! きっとある!」

 手にしたティアラをぐっとベルトに差し込み、キャノピーの両サイドにあるミラーで後方を確認した皆人は、次の瞬間、

「ミスリナさん、上へ!」

「上じゃと!?」

「上昇! 太陽に向かってまっすぐ!!」

 皆人は両手を上げてバックレストにある緊急脱出用ハンドルを握った。

「これ、何をする! そいつを引いたらおぬしは――!」

「わずかでも可能性があるなら、おれだってあきらめない!」

「ええい、しかたない! ゆくぞミナト! そなたに主のご加護のあらんことを!!」

 ハリアーが、その回転式ノズルまで総動員して急降下から急上昇へと転じる。

 頭ごなしに押しつぶされそうなG(重力加速度)に耐えながら顔を上げ続け、正面に太陽がきたことを確認した皆人は、力一杯頭上のハンドルを引いて、

「神さまなら間に合ってます!!」

 その宣言の直後キャノピーが吹き飛び、皆人の体が座席ごと空中へ射出される。

 反動でハリアーが太陽からそれ、機体に遮られていた真昼の陽光がハリアーを追ってきた真紀織の目を直撃する。

突然の目くらましを食らった真紀織の攻撃が大きくそれる。

 対する皆人には、もう風の音と自分の心臓の音しか聞こえない。横向きに飛んでいた体が降下を始める。そのせいで視界から消えた真紀織を捜す。彼女は皆人の真下にいて、怒りの形相で再びピンクのトイレブラシを振った。だがブラシから光の玉は出ず、逆にブラシの方がバラバラになる。

「まきおおーーーーーっっ!!」

「――!! ……!?」

 真紀織の顔が怒りから驚き、そして困惑へとめまぐるしく変化してゆく。その赤色の瞳が、頭上から降ってくる皆人の姿に初めて気づいたかのように大きく見開かれる。

「まき、まきーーーーっ!!」

 皆人の声に、真紀織の両手が開く。直後皆人の体がその中へ飛び込み、真紀織がその体をがっちりと受け止める。皆人は真紀織にティアラを渡そうとしたが、真紀織は皆人に抱きついたまま顔を上げようとしない。だから皆人がその赤い髪に銀色のティアラをつけてやる。

 ふと、海の匂いがした――皆人がまだ一度もかいだことのない、それは南の海の匂いだった。

 皆人の意識が薄れてゆく。風の音が緩やかとなり、心に優しい少女の声となる。

 少女の声は何度も皆人の名を呼び、何度も謝って、そして最後に、もう一度皆人の名を呼んだ。

「皆人くん、皆人くん――お願いだから、もう少しだけ、気絶しててね……」

 その直後、皆人は自分の唇に何かとても柔らかいものが当たったような気がした。が、お願い通り気絶していたので、それがなんだったのか確かめることはできなかった。


    4


 秋葉原駅を見下ろすビルの屋上で、リリスペインの体が前のめりにどさりと倒れる。

 その下では、充血したように真っ赤になった〝秋葉原十字結界〟の中で、ラディカカが断末魔の雄叫びを上げていた。開け放たれた口から、その度に光る液体のようなものが吐き出されたが、それにはもうあの豪華客船〈カルネアクイーンⅡ世〉号を吹き飛ばしたときのような勢いはなかった。それらはビーナの張った巨大な十字架状結界の内側にべしゃりと張りつくや、次々と蒸発するように消えてゆく。

 そしてついに「そのとき」が来た――

ラディカカの、その手足のないワニのような緑色の巨体が、何かに抵抗するかのように硬直したかと思うと、その直後、一瞬して大量の液体――海水となって崩れるように流れ落ちていった。推定重量四〇万トン強。そのほとんどはビーナの結界によって蒸発させられていったが、さすがに全てを消し去ることはできず、かなりの量が結界を抜けて秋葉原駅から市街へと流れ落ちてゆく。特に中央通り一帯は一時完全な川となり、事態を見守っていた自衛隊の「秋葉原駅死守部隊」の戦車やら装甲車やらがあちこちの店先に突き刺さり、さらにその海水の流れ込んだ神田川があふれて下流域は大洪水、あらかじめ出入り口を封鎖してあった地下鉄はどうにか最悪の事態は回避できたものの、深い場所を通る大江戸線などは完全に水没、さらに道路下に埋設されていた雨水管が一緒に埋まっていた上下水道管を巻き込んで各所で断裂し、直上の道路を破壊してしまった。おかげで千代田、港、江東の各区においては、その主要道の実に六割が使用不能となってしまった。

 ただし、その被災規模に対して人的な損失は驚くほど少なかった。民間人に限れば、その避難がほとんど完了していたことや、加えてラディカカの進路がかなり限定されていたこともあって、報道関係に若干の負傷者が出た以外は、ほとんとゼロといっても過言ではなかった。

さらにラディカカ襲来と前後して出現した邪霊や怨霊の類も、一部の例外を除けば、その出現箇所は避難の徹底された晴海、有明を含む湾岸一帯と秋葉原地区に限定されており、心配された一般市民のパニックも起こらなかった。


 皆人が目を開けると、そこは何の変哲も飾り気もない、どこか小さな会社の応接室のソファの上だった。

「……やっと、目が覚めたの?」

 向かいのソファで、ちょっと生意気そうな女の子の声が言った。

「リリス――ペイン? うわ、なんだよその体!?」

 安っぽいソファに寝かされている彼女の体は、まるで破裂寸前のガラスびんだった。

 ボロ布のようになったドレスからのぞく部分は全て細かいヒビに覆われていて、それこそくしゃみひとつで粉々になってしまいそうだった。

「――したら殺すわよ」

「しないって……けど、そんなにやばいのか?」

 皆人の声が、ささやくほどに小さくなる。一方のリリスペインは、かすれがちながらもほとんど普通の声で、

「あの〝でかぶつ〟みたいな出来損ないじゃあるまいし、それくらいで砕け散ったりなんかしないっての……近いことはあるかもしれないけど」

 とはいえ、その透き通るような赤い小さな唇が動くだけで、皆人の体は勝手にびくびくっと震えてしまう。

「何びくついてんの? まさか本気であたしを心配してるんじゃないでしょね? わあうざい……ほんとに殺すわよ?」

「そのざまでどうやって殺すって?」

「人間なんて、言葉だけでも殺せるっての」

「へへん、耳をふさいでやる」

 皆人は手を上げて本当に耳をふさいでみせた。

「バ~ッカ……そんなことより、あんた、一番いいとこを見逃しちゃったわよ?」

「へ? 一番いいとこ?」

「神さまの心を持った悪魔少女と、天使の魂を持った少女とのキスシーン」

「ってあの、魂交換の儀式のことか?」

 皆人は前に、真衣子とこのリリスペインがそれをやっていたのを思い出した。

「少し先の教会でね。こんな街にも教会があったなんて驚きだけど」

「ああ、そういや裏通りの方にあったっけ――でもおれ、別に女の子同士のキスシーンなんて見たかないって」

「ふふ~ん、ほんとに?」

「おれを邪悪の道に引きずり込むな」

「それこそ悪魔本来のお仕事だっての」

「やな仕事だな。いっそ転職したらどうだ?」

「異教の神さまにでもなれっての?」

 どこかからかうような声で、リリスペイン。だが皆人もにやっと笑うと、

「いいかもな。世界は広い。この地球のどこかには、白黒頭のゴスロリちびっこ神さま大好き信者だってきっと生息しているはずだ。おれにも三人ほど心当たりがある。みんな学校のクラスメートで、とってもイヤなやつらだけど、良かったら紹介しようか?」

「がー! いらないっての!」

「あんまり怒るとシワが増えるぞ」

「がー! これはシワじゃないっての!」

 声は怒っているが、その表情はほとんど変わらない。それどころか彼女は、さっきからその顔の表情以外は指一本動かしていなかった。

 なんかベッドの上のまいみたいだな――ふと皆人はそう思った。

「あ、それはそうと、ラディカカの方のケリはついたのか?」

「とっくの昔にね。海水に戻った実体がきれいに流れ出たところで、ビーナが結界ごとフィラの島へすっ飛ばしたわ」

「じゃあフィラも晴れて神さまに戻れるってわけか。うん、これにて一件落着!」

「がー! 勝手に終わりにすな! 何が一件落着だっての! あんたには、実体を失いかけてる悪魔王ザーダの愛娘たる永遠の美少女悪魔さまの御姿が見えないの!?」

「おっと、忘れるとこだった」

 皆人はぽん、と手を叩くと、

「しゃーないな――じゃあもう一度だけ、貸してやるよ」

「何を?」

「――まいの体」

 リリスペインの、もう動かないはずのその指がぴくっと震える。

「おまえ……ミナト、自分で何言ってるかわかってんの?」

「おれ的にはこのまま見捨てていきたいところだけどな。でも、そんなことしたらきっとまきのやつ――あいつ、泣くに決まってるからさ」

 リリスペインの口から、小さく息が漏れる。

「あいつ泣かすと、後がめんどいんだよな。最低一週間はそのことでねちねちねちねち――なんだよ、笑ってんのか?」

「笑わずにいられるかっての! まったくもう、どいつもこいつも!」

「ほかにもおせっかい焼きがいたのか?」

 リリスペインは、最後の力を振り絞ってちろっと舌を出すと、

「知ーらない。マキオに聞くのね!」



終章  そして神は舞い降りた?



 壁にかけてある夜光時計を見た。

これで四回め――皆人はついに寝るのを諦めた。

 ちなみに午前一時ちょい。服は着替えていなかった。

 明かりをつける。結局この町では、最後まで電気は止まらなかった。

 家の二階にある自分の部屋をぐるりと見回してみる。

 昨日までと何も変わらない風景。

 ただ、勉強机の脇にアメリカ製の軍用ライフルが立てかけてあって、それがこの部屋の中で唯一、これまでの出来事が夢ではなかったことを示していた。

 なんとなく心がさわいで、部屋を出る。

 隣は真紀織の部屋だったが素通りする。深夜だし、彼女が今晩、〝ここ〟にいないことはわかっていた。

 一階へ降りようとして、一瞬立ち止まる。

「あ、そっか……」

 夜中にふと目が覚めたとき、真衣子の部屋に行くのが皆人の習慣だった。

 ひょっとしたらまいが〝呼んだ〟のかもしれない――そう思えたからだ。

 本気で信じたことは一度もなかったが、だからといって途中で引き返したこともまた、一度もなかった。

 だから皆人は階段を降りた。

 食堂に人の気配があった。テレビの音も聞こえてくる。

 皆人の家で、こんな時間に台所のテレビを見るのは母だけだった。だが、看護師であるその母からは、あと数日は仕事がらみで帰れないとの留守電が入っていた。

 聞くとはなしにテレビの声を聞く。

『……以上、現在も陸上自衛隊の戦車部隊が残るJR秋葉原駅周辺からお伝え致しました――では次のニュース。ミクロネシアのキリバス諸島で、日本のJAXA・日本宇宙航空研究開発機構も協力して進められていた、人類史上初の宇宙観光事業が無期延期となることが先ほど発表されました。現地にてカルネア航宙観光のCOO、神崎勝弘氏が直接発表したもので、延期の理由など詳しいことは不明ですが、関係筋によれば、今回日本を襲った謎の巨大海棲生物となんらかの関わりがあるものと……』

 声の調子からして政府広報でばなく、民間のニュース番組らしかった。どうやら民間放送も

復活したらしい。とはいえこの時間までニュース報道が続いてることが、今回の一件がどれだけ大事だったかを如実に示していた。

「にしても、おじさんも大変だな」

 神崎勝弘氏は皆人の母の兄であり、そして真紀織と真衣子の父だった。

 その真衣子の部屋の前に立つ。廊下に落ちていた空薬莢はさすがに片づけたが、壊れたドアはそのままだった。

 中に入って明かりをつける――ちょっとした違和感を感じてその場で立ち止まる。

 染みついた消毒液の匂いこそ変わらないものの、ぶーんという機械音も、八年前から流しっ放しだったアニメ音楽も聞こえなかった。

 さらにわかっていたつもりだったが、部屋の真ん中にあるベッドか空っぽだったことにも、やはり少しあせった。

 明かりを消して部屋を出ると、半壊した玄関は見ないようにしながら、向かいの客間のドアを開けた。

〝真衣子〟は、そこにいた。

 六畳の和室いっぱいに敷かれたふとんの中で、お揃いのパジャマを着た姉の真紀織にぎゅっと抱きつかれて、ちょっと眉をしかめるようにしながら、大の字に手足をのばして眠っていた。

 その隣では、長い金髪と短い銀髪の女性ふたりが、一枚のかけぶとんを奪い合うようにして寝ていた。てんでにはみ出た手足が、ふとんの中の惨状を雄弁に物語っている。

 皆人は、ふとんをはだけて眠っている姉妹へ――その妹へと目を戻した。

 いつもぱりっとしたシーツの上で、直立不動で眠っていたのとは、まるっきり正反対の寝姿だった。

〝案外、ほんとのまいもあんな性格だったりして?〟

 昨日真紀織が言った言葉を思い出す。

 今でもそれには素直に賛成できなかったが、でもどっちの寝姿の方がいいかと聞かれれば、そんなことは決まっていた。

 そっと部屋に入ってふとんをかけ直してやっていると、暗さに慣れた目に、真紀織の唇が飛び込んできた。心臓がどくんと高鳴る。何かを思い出しかけたが、でも結局思い出せなかった。起きる寸前まで鮮明に覚えていた夢を、目を開けた直後に忘れてしまったような気分。

 とにもかくにもふとんをかけ終え、ふうっと大きく息をつく――と、金銀美女ふたりのふとんの上で丸くなっている白猫と目があった。

 さっきまではいなかったような気もするが、いつものことなので気にしない。

 特に〝話す〟こともなかったので、そのまま部屋を出る。

 二階へ戻ろうとして、階段に足をかけたとき、とうとう食堂からお声がかかった。

「――おいコラ、そこまで来て、なぜここを無視する?」

「テレビ鑑賞の邪魔をしちゃ悪いと思って」

「テレビとはみんなで見るものだ。どうせ起きてるならつき合え」

「ふぁああ、あーなんだか急に眠くなってきたなあ……」

「おまえのベッドの中で一緒に携帯テレビを見てやってもいいんだぞ?」

「降参です」

 観念して皆人は、食堂の入り口にかかっているのれんをくぐった。

 そこでは、赤髪黒翼の少女が、食卓のテーブルに肘をついてじっとテレビに見入っていた。

「ニュースって、そんなに面白いか?」

「面白くない。だから呼んだんだ」

 そこで皆人は、〝この姿〟の彼女――フィラと二人きりで話すのは、これが初めてであることに気がついた。真紀織と体を交換した後、彼女はさらに夜までかけて、その体と魂にこびりついた〝魔気〟を浄化し続けていたのだ。

「どうした?」

「あ、いや……」

 皆人は、その褐色の肌によく似合う赤い瞳を避けるように彼女の背後へ目を泳がせながら、

「神さまに戻ったにしては、見た目が全然変わらないなあ、って」

 見事〝海魔ラディカカ〟の再封印に成功した彼女は、約束通り晴れて南国の小さな島の守護神へと返り咲きを果たしたはずだった。

 ところが彼女は、体のあちこちに南国風の飾りこそ下げているものの、背中の黒い翼も、まるで水着のようにきわどい服装も、まったく以前のままだった。

「うむ。この身はなるほど悪魔時代のものだが、われらにとっても、この〝実体〟というやつはそう簡単にほいほいと造れるものではないのだ。それができるならリリスだってとっくにそうしている」

 リリス――リリスペインに真衣子の体を貸してやった当人である皆人が、確かに、とうなずく。

「魂が実体間を比較的容易に移動できるのもそのためだ。こちらにも相応の制約や条件はあるが、それでも新しい実体を造るより、あるものを奪った方が手っ取り早いからな」

「わ、もろ悪魔的発想」

「実力主義と言え。だいたいわたしだけじゃないぞ。おまえの言葉遣いだってまったく変わってないじゃないか。会員ナンバー二桁台の信徒にしては、神さまに対する敬意というものがまったく感じられない」

「そりゃそーか。でもなんか今さらって感じでさ。あと会員ナンバーとか言うな。ファンクラブか」

「ふん。こっちも今さら敬語など使われたら気分が悪いわ。まあ良かろう。だが他の信者へのしめしもあるからな。儀式の際はちゃんと敬語を使用するように。わかったな!」

「儀式? ってなんの?」

「おまえはわがフィセラセラ教第三五番目の信徒なのだぞ。まさか三日後に執り行われる儀式のことを忘れちゃいまいな?」

「ああ、そんなこともあったっけ」

「あったのだ──というか、そもそもの言い出しっぺはきさまではないか」

「おれが提案したのは南国の名もなき小島へと帰る誰かさんの送別会で、決して怪しげな宗教儀式なんかじゃなかったはずだが」

 皆人はそこでやっと自分の椅子に座って、

「それで、島へ帰る準備は進んでるのか?」

「帰るだと? なんのことだ? どこへ?」

 本気口調で聞くフィラに、皆人はなんだかとってもイヤな予感がした。

「いやだから、きちんとラディカカを封じるためにさ、遺跡のあるあの無人島へ帰るんだろ、三日後に!」

「やめた」

「なんで!?」

 あっさりと前言撤回するフィラに、速攻で皆人が突っ込む。

「考えてみたが、今島へ帰ったところで意味がないからだ」

「どうして!?」

「ラディカカはビーナたちの封印で縛ってある。異教の術であるし、石像だの封印石だのを使ったものよりはだいぶお手軽だが、あれでもかなりの間は保つだろう。それに、わたしの住まいである神殿の再建も始まったばかりで、完成はまだまだずっと先の話であるし――」

「だから何!?」

「うむ。どうせ今のあの島には〝カイシャ〟教の信者とブルどもしかおらん。それならこの島国に留まっていた方がましだ。新たな信者の獲得にも有利だしな。実際、すでに三五名の信者もできたし。まずは当面の目標である一〇〇人をめざし、お互いがんばろうではないか!」

 フィラの手がのびて、皆人の肩をぽん、と叩く。

「ちょ、ちょっと待て! この肩叩きはどういう意味!?」

「またまた、わかっておるくせに。神さまと信者の間柄ではないか?」

「わかんない! いやわかるけどわかりたくない!」

 だがフィラはすくっと立ち上がると、

「ではただ今より、この家をわがフィセラセラ教団の日本支部兼仮神殿とする! いやめでたい! となればさっそく朝の儀式だ! ほれミナト、さっさと準備せんか!」

「勝手に決めるな! それに朝の儀式ってなんだ! まだ真夜中じゃないか!!」

「わが島ではとっくに朝だ! おまえには三日後の儀式までにちゃんと踊れるようになってもらわんといけんしな! そらゆくぞ! どどんが、どどんが、どんぱっぱ!」

「島へ帰らないなら送別会だっていらないだろ! ってだから踊るな! 歌うな! わあ外に

出るんじゃない! ご近所の迷惑も考えろ! ビーナ! まき! まい! 助けてくれえ! エルドラさん! ミスリナさーん!」

「はっはっは! 恥ずかしいのは最初だけだ! すぐに慣れる! ほーれ、どどんぱ、どどんぱ、どんたった――!」

「ああもうやめやめ! 家の中に戻れってんだこら!」

「ええい邪魔をするな! 神罰が下るぞよ!」

「下せるものならやってみろ!」

「上等だコラ!」

 どったんばったん、ごき! ずるずるずる……


「――行ったようですわね?」

 明かりを消した室内で、ドアに張りついてじっと聞き耳を立てていたビーナが、ほっとしたように言った。

「なんか〝ごき〟っとか、すっごく痛そうな音がしてたけど?」

自分と同じパジャマを着た〝妹〟を背中から抱きかかえつつ、真紀織が聞く。

「ふん、自業自得だっての! おとなしく寝てればいいいものを、あたしたちをのぞき見になんか来るからよ!」

 真紀織の回した腕の中で、〝真衣子〟が――その体に再び憑依したリリスペインが、そう言った後でさらに「バーカ!」とつけ加えて舌を出す。

「のぞき見とはちと違うと思うがな?」

 シンプルなブラとショーツだけという格好でふとんの上に正座しているミスリナが、ちょっと首をひねりながらつぶやく。

「どっちでもいいって。どうせ異教の儀式だし、好きにさせときゃいいんだ」

 同じくブラとショーツだけの――ただしこちらは、天使に仕える精霊としてはかなり勝負に出た感じのエルドラが、敷布団の上に寝転がったまま、どどんが、どどんがと口ずさむ。

「ではみなさん、フィラさんのことはミナトさんにおまかせして、わたしたちは改めてお休みさせていただくということで――それではみなさんおやすみなさい。良い夢を、アーメン」

 最後にビーナがそう宣言して、天使と人間と悪魔と精霊が人間界で一堂に会するという奇跡的な状況の中、仲良く(?)一緒に眠りについたのだった。


 その頃皆人は、自分がローマ法王もびっくりのそんな会合のネタになっているなどとはつゆ知らず、なぜか我が家に降臨してしまった世にも美しい南国美少女神さまと一緒に、この地での朝を迎えるまで楽しく踊り続けたのであった──

「ちゃんちゃん!」

「何がちゃんちゃん、だ! 美少女だ! 神さまの分際でうそつくな!」

「ならばうそにしなければいいのだ! さあ共に踊りあかすぞ朝まで! 覚悟せいミナト! そうれ! どどんか、どどんか、どんたった!」

「だから踊るな! 歌うな! おれを巻き込むな! もう頼むから!」

そう言う皆人の顔は、しかしどこか嬉しそうに笑っているようにも見えたのだった。


──ほんとだぞ?

 


                                     おわり   





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