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前編だ!

こちらは現状、ルビや傍点、各パートのタイトルや繋がりなどを「なろうバージョン」用に調整中のベータ版になります。一部で目の行き届かない箇所があるかもですが、ご理解いただいた上でお楽しみいただければ幸いです。

   序章  いきなり絶体絶命?



 どよめきが起こった。

 その声に押されるようにして、ねじくれた角と鋭い牙を持つ、漆黒の禍々しい怪物がゆっくりと横倒しになる。

 ずずん、という重々しい音とともに巻き上がった生温い風が、その直前に立つ、褐色の肌をした少女の赤い髪と、そしてその背中にある漆黒の翼を揺らめかせる。

「ふん……」

 むき出しになっている肩を大きく上下させながら、それでも少女は、伏してなお見上げるばかりに巨大な異形の怪物に向かって小さく鼻を鳴らした。手にした武器――一見何の変哲もない、手作り風の長槍――をさっと払い、こびりついた赤黒い液体を振り払う。だが直後、力を使い果たした槍は少女の手の中でバラバラに砕け散ってしまった。

 瞬間、周囲のどよめきが歓喜のそれに変わる。

 赤い髪に漆黒の翼を持つ少女が、ぱんぱん、と軽く手を叩きながら顔を上げる。

 永久に晴れることのない暗雲を背景に、巨大な壁が彼女をぐるりと囲んでいた。

 そこは闘技場だった。

 しかし、万を超す観衆の中に「人」の姿はない。目を凝らして見るまでもなく、そのほとんどが、先に倒れた怪物に劣らぬ顔つきの魔物たち――ある種の人間たちが「地獄」と呼ぶこの世界の住人、すなわち「悪魔」たちだった。

 少女が顔を戻すと、目の前に倒れている怪物に輪をかけて醜悪な姿をした地獄の巨獣どもが、じわりじわりと彼女を取り巻きつつあった。

 自分たちが「本当に見たかったもの」への期待に、観衆の声が一挙に高まる。

 だが赤髪黒翼の少女は、闘技場を埋め尽くした悪魔たちのそんな雄叫びにもまったくひるむことなく、逆に女性型悪魔特有の、妖艶ともいえる笑みを浮かべると、

「食うか、食われるか……か? ふふん、まあ確かに、掛け値なしでこの中で一番美味しいのは、このわたしだろうが」

 人語を解さない巨獣どもが、それでも一斉に首をかしげる。

 一方少女は何かに集中するかのように瞳を閉じ、握った拳を開いた方の掌に叩きつける。

 耳元で匂う悪臭のような罵倒混じりの騒めきの中、パシッと小気味よい音が鳴る。

「なんたって、痩せても枯れても腐っても、おまけにこんな〝異教の世界〟で悪魔扱いされようとも、このデレス・マノレス・フィラ・ラディカカッサさまは、おまえたちなんかと違って、れっきとした〝神さま〟なんだからな――!」

 突き合わせた拳に力を籠める。赤い髪の少女――フィラの、そのむき出しになっている体の部分に描かれている紋様が、淡く輝き始める。

「だが気をつけろよ。人間たちも言ってるじゃないか、〝美味しいものには毒がある〟って」

 フィラがゆっくりと目を開ける。深紅の瞳がきらりと光る。

「言っとくが、わたしは〝猛毒〟だぞ!」 


「――ったくもう、なあにが〝猛毒〟よ、ぶあ~か! それこそ連中の大好物じゃないの!」

 その一つ一つに、封魔用の結界呪文が刻印されているゴルゴン石製のレンガ壁に囲まれた、奴隷魔獣専用の控え室――早い話が最下級悪魔専用の牢獄に繋がれているフィラは、その声にようやく顔を上げた。

 地獄を含む魔界では貴重な神鉄製の格子の向こう側で、フィラよりも一回り幼い印象の女の子が、こちらをにらみつけながら行ったり来たりしていた。歩くのに合わせて、左右で色の違う長い白黒の三つ編みが、その小さな背中で左右に揺れる。

「こらフィラ! ちょっとあんた、ちゃんと聞いてるの!?」

 先の戦いで、あの槍――神樹セラセラの老木よりフィラ自身が削り出した〝神帯槍〟のないままに強力な〝神術〟を発動させたせいで、彼女の霊力は底をつきかけていた。

 だがフィラは、そんな素振りなどいっさい見せず、むしろ口元をくいっと上げて挑発的な笑みを浮かべる。

「……なんだ、リリス? 何か言ったか?」

 さらに壁にもたれかかりつつ、ゆったりとした仕草で足を組み替える。傷だらけの両足を繋いでいる、やはり神鉄製の鎖がじゃらん、と音を立てる。

 フィラのその声に、行きつ戻りつしていた女の子の足がぴたりと止まる。反動で、黒を基調としながらもフリルやレースやリボンやらで幾重にも飾り立てられた、いわゆるゴシックロリータ調のスカートがふわりと舞う。

「いったい何百年言えばわかるのよ! あたしは〝リリスペイン〟だってば!」

 スカートの端からのぞくペチコートに劣らず真っ白な顔をした女の子の頬が、ぷくんとふくれる。

「リリスペインよ、リリスペイン! 悪名高き海賊悪魔王ザーダが娘――のひとり、ルシル・リリスペイン! リリスペインをどうかよろしく!」

「選挙にでも出るのか?」

「出るわけないでしょ! っていうか魔界に選挙なんかないっての! リリスだけじゃ、どのリリスかわかんないでしょって言ってるの!」

〝リリス〟というのは、女性型悪魔の中では一番多い名前だった。

「おお、なるほど、なるほど」

 両手を繋ぐ鎖をじゃらじゃらさせながら、フィラがぽんと手を叩く。

「……あんた、わざとやってるでしょ」

「他に楽しみがないからな」

 さらについでとばかりにふふん、と鼻で笑い。

「そもそもおまえたち一族のネーミングセンスが問題だ。まともな海もない地獄の底で〝海賊悪魔王〟とか──」

「言うな!」

 リリスペインは膨らませた頬をまるで人のように真っ赤にしながら、

「フィラ、あんたはね、ご主人さまたるあたしの下で永久に戦い続ける奴隷魔獣(デスゴーレム)なのよ! 元が異教の神さまだろうが何だろうが関係なし! 地獄魔界(ヘルズアビス)で戦う奴隷魔獣に楽しみなんて必要ないの! ただひたすら戦いの日々あるのみ!」

 純白の花びらのようなフリルがあふれ出ている袖口を上げて天井の一点を指さしながら、リリスペインがきっぱりと言い放つ。

「だから戦って、おまけに勝ったじゃないか、えーと我が主リリス。何が不満だ?」

「リリスペイン!――いくら大ピンチだったからって、よりによって魔界のど真ん中で最大級の神性魔法を発動させるなんて、あんたいったい何考えてるの!」

「我が主に勝利を」

「……うそつき」

「ふ、いかに悪魔に身をやつそうと、やはりわたしにはうそはつけないか――性だな」

「がー!」

 リリスペインが〝牙〟――といっても吸血鬼程度のささやかなものだが――をむいて怒鳴る。

「おかげで父さまが支配する我が真血魔界都市ゴゴモラ最大の呼び物だったこの闘技場が半壊しちゃったのよ!? あんたが撒き散らした神気に巻き込まれて滅殺された悪魔は推定二万! その上連中が取り込んでいた魂の取り合いで今この周辺は大混乱! ゴゴモラ始まって以来の大さわぎ!」

「にぎやかでいいじゃないか」

「いくない!」

 世界の創造主たる根源神――『主』によって、街ごと地獄へ堕とされた伝説の背徳都市、ゴモラ。

 リリスペインの父でもある大海賊悪魔王ザーダの手によって、魔界でも屈指の魔都へと変貌を遂げたものの、聖書の時代も遠く過ぎ去り、今では奴隷魔獣同士による賭け試合しか売りのない、しょぼくれた辺境都市へと落ちぶれてしまっていた。

「そんな街の収入源をぶち壊しちゃったんだから、ぼやぼやしてたら街中の悪魔たちの袋だたきにあって、こっちまで滅殺されちゃうっての!」

「そりゃ大変」

 興味なさそうに胸元のあたりをかきながら、フィラ。

「がー! 誰のせいだーっ! ――って、んなことやってる場合じゃない! 早いとこ荷物まとめて逃げ出さなきゃ!」

「相変わらず逃げ足だけは第一級の狂戦士なみだな」

 その声に、一度はフィラに背を向けたリリスペインが、しかしまたくるりと振り返って、

「……フィラ」

「なんだ?」

 ぐっと顔を寄せて真紅の双眸を正面からにらむようにしていたリリスペインは、最後にその瞳を避けるように首を傾げてフィラの頬に軽く口づけした。

「フィラ……あんたとはけっこう長いつき合いだったけど、今度こそ、今度こそほんっとーに愛想がつきたわ。だからここでお別れよ」

 うってかわって静かな声でそう言うと、リリスペインは、左手の中指にはめていた大振りの指輪をはずし始めた。

 フィラは、リリスペインのそれと同じ形をしている自分の首輪に手を触れながら、

「それを……どうするつもりだ?」

「どうにも。ただここに置いてゆくだけよ――こうしてね!」

 はずしたリングをぽーんと放り投げながら、リリスペイン。

「もうすぐここも殺気立った悪魔どもでいっぱいになる。悪運が強ければ、その中の誰かがあんたの新しい主人になってくれるでしょ……もっとも」

 リリスペインは、ちりんちりんと音を立てて転がってゆくリングを目で追いながら、

「もっともその前に、あんたが元は異教の神さまだったってのがバレなければ、の話だけどね?」

 人間界における宗教闘争のとばっちりで、それまで神さまだった存在が悪魔とされて地獄魔界へ叩き堕とされるのはめずらしいことではない。特に一神教においては、異教の神さまなど邪魔者以外の何者でもなく、悪魔として地獄へ堕とされれば、よっぽどの大宗教の神さまでもない限り、最後は「刑務所に入れられた元警察官のごとく(リリスペイン談)」袋だたきにあって滅殺されてしまうのがオチだった。

「ふん、それを言うならおまえにだって、とある異教の――」

「――黙れ!」

 振り向きざま、リリスペインが声を上げる。

「黙れだまれだまれ! あたしはれっきとしたこの世界の悪魔よ! 大海賊悪魔王ザーダの娘よ! どこぞの小島で歌って踊るしか能のなかったあんたなんかとは違うのよ!」

 白黒髪の頭に手をやりながら激しく顔を振っていたリリスペインは、最後に「バカーっ!」と言い捨てると、牢獄の向かいにある主人用の控え室へ駆け去って行った。

「……」

「――行ったみたいですね?」

「え?」

 突然聞こえてきたその声に、フィラは思わず左右に頭を巡らせた。

 いつの間にか、闇が凝り溜まったような牢獄の片隅に、首輪の放つ黄金色の光に包まれた一匹の白猫がじっと座っていた。

「だめじゃないですか。異教の身とはいえ神さまたったあなたが、悪魔とはいえ女の子を泣かせたりしては」

「誰が女の子だ? 見た目はともかく、あいつは確か今年で四一三歳のはずだぞ?」

「年齢なんか関係ありません。女の子は永遠に女の子なんです!」

「最悪の妄想だな――いやそれより、おまえは何者だ? どこから入ってきた?」

 フィラの問いに答えるかのように、白猫がすっと身を起こした。と同時に、その背中で二対四枚の小さな羽が立ち上がる。

「まさかきさま、天使か――?」

 純白に輝く四枚の羽がぴくん、と揺れる。しかし白猫は、それを無視するかのようにしれっとした声で、

「いいえ違います。ご覧の通りただの精霊ですわ――もっとも、〝天界からの使者〟という意味では、天使と呼べなくもないですけど」

 自称白猫型精霊は、それからゆっくりとフィラの方へ歩み寄りながら、

「わたしは……そう、とりあえず〝ビーナ〟とでもお呼びください」

「簡単には本名を明かさないってわけか?」

「ここは魔界ですよ、当然の用心ですわ――そんなことより、あまり時間がありません、とにかくまずは〝これ〟を見てください」

「見ろって、何を……うわっ!?」

 フィラが言い終わるより先、ビーナの口が異様にふくらんだかと思うと、げろっと四角い箱のようなものを吐き出した。

「いきなり何吐いてんだおまえは! 精霊がたまに〝実体化〟したからって、食い意地張って変なもん食ってんじゃないぞ!」

 安全な天界とは違い、魔界において霊体のままでいることは、己の魂を無防備にさらしていることに等しい。ゆえに悪魔であれ天使であれそして精霊であれ、魔界では自身の魂を守るための〝実体(肉の身)〟が必要となる。

「誤解しないでください。食べたのではなく、体の中にしまっておいただけです」

「同じことだろが!」

「実体化したときは、こうして体の中に取り込んでおく方が何かと便利なんです」

「だからっていきなり吐くんじゃない!――で、なんなんだこれは?」

 白猫の体の何倍もありそうなその箱は、フィラへ向いた面だけが大きく歪曲した厚手のガラス窓のようになっていた。

「見てわかりませんか? テレビですわ」

「テレビ? これが?」

「旧型のブラウン管式テレビです。拾い物ですが、地デジ対策済なのでご安心を」

 実体での生活が基本の魔界には、実世界――つまり人間界の道具がけっこう普及している。服や食べ物を始め、車やゲーム、武器の類までさまざまなものがあり、テレビもちゃんと映る。もちろん受信料その他は、地上波からネット衛星有線まで全て踏み倒しである。

「どうせなら8K対応の有機ELくらい欲しいところですが、かつては魔界屈指の一大魔都とも称されたゴゴモラも落ちぶれたものですわ──ええっと、あ、このチャンネルです。さあよく見てください」

 フィラはうさんくさそうに鼻にシワを寄せつつ、それでもじわじわと映像が浮き上がってくる14インチ画面に目を向けた。

「うん?――あ、ああ! これはっ!?」

 強い太陽の光にきらめくコバルトブルーの海。そこに浮かぶ、沈下した火山の海岸線に沿うように発達したバリアリーフ(珊瑚環)に囲まれた小さな島――

 色褪せたテレビ画面に映し出されたその光景を食い入るように見つめているフィラへ、ビーナが満足そうにのどをゴロゴロさせながら、

「〝世界で一番早く新世紀を迎える場所〟として当時の人間界で一瞬だけ有名になった、ミクロネシアはキリバス諸島内にある無人島ですわ――憶えてまして?」

「当然だろが!」

 画面を見つめたまま、反射的にフィラが答える。

「フィセラセラ島――これはわたしの島だ!」

 かつてフィラは、この島の守護神だった。しかしかの大航海時代、フィラの神殿を守っていた島民たち――彼女の〝神術〟の代行者たる祭礼師一族を中心とした者たち――は、その「特異な力」を目の当たりにした一神教のヨーロッパ人たちによって全員が連れ去れてしまい、フィラ自身もまた、悪魔とされて地獄へと堕とされたのだった。

 以来ずっと無人島だったが、ビーナによれば人間界が次の一千年紀を迎えるにあたって一時的に脚光を浴び、その後もある程度は人が残っているという。

「……で? 今さらわたしにこんなものを見せるとは、なんのつもりだ、精霊?」

 ビーナの羽に火がつかんばかりに力のこもった声で、フィラが聞く。

「落ち着いてくださいな。まだ先がありますのよ」

 そのビーナの言葉通り、島を空撮していた画面が切り替わり、一転して島内を動き回る黄色い巨獣たちの姿を映し出した。

「あれは人間たちが地面を掘り返すために使う道具で、ブルドーザーと呼ばれています」

 フィラが聞くよりも早く、先回りしてビーナが説明する。

「そのブルどもが、わたしの島で何をやっているんだ」

「宇宙基地を作っているんだそうですわ」

「うちゅう……? なんだそりゃ」

「平たく言えば、宇宙へ出るための船を送り出す港ですわ。なんでも宇宙船というのは、赤道近くに港を作るのが一番都合がよいのだとか」

「何を言っているのかさっぱりわからん」

 その間もブルドーザーたちは、真っ青な空に向かって黒煙を吐き散らしながら、その巨大なショベルで大地をはぎ取り、そこに埋まっていた明らかに人工物と思われる石造りの建物をほじくり返していた。

「――! バカどもが! やつらあれが何かわかっているのか!」

 両手両足を繋ぐ鎖を打ち鳴らしながらフィラが怒鳴る。

 ブルドーザーたちが破壊しているのは、間違いなく埋もれていた「フィラ神殿」の最奥部だった。そこには今もなお、かつて一つの大陸だったミクロネシアを無数の島々に砕いてしまったという伝説の魔獣、「海魔ラディカカ」が封印されている。

「早くあのバカどもを止めろ! 〝ラディカカ〟が目覚めてしまうぞ!」

「できません」

「なぜだ!?」

「これは二週間前の映像ですから。あの遺跡はもう完全に破壊されてしまいました」

「ラディカカは、ラディカカはどうなった! 復活したのか!?」

 思わず身を乗り出したフィラへ、ビーナがこくりとうなずき返す。

「ですからわたしがここに来たのです――リヴァイアサン、いえ〝海魔ラディカカ〟の天敵たるフィラ、あなたの助けを得るために」

「わたしに、もう一度〝あれ〟を封印せよというのか?」

「はい」

 フィラは全身から力を抜くと、牢獄の壁にどさりと体をあずけて、

「――断る」

「なぜです?」

「そうしたくとも、今のわたしにはもう武器がない。最後の〝神帯槍〟は今日壊れてしまった。一足遅かったな、精霊」

 さらにフィラはふん、と鼻を鳴らして年代物のテレビから顔をそらすと、

「だいたいわたしが苦労してやっと封じたものを勝手に暴いておいて何を今さら!」

「そこをなんとか。御身もまた神の名に連なるひと柱なれは」

「その身をを悪魔扱いして地獄へ落したのはどこの神さまだ。頼むならそいつにしてくれ」

「残念ながら我が主は、この手の細かい案件には関りを持たない主義なので」

「人が人なら神も神、さすがあの人間どもの創造主だけのことはあるな──なに、あそこに封じてあるのは〝やつ〟の一部でしかない。一〇〇年ちょっとも暴れれば力を使い果たすだろう。それくらいでは今の人間世界は滅びん。かまわん、放っとけほっとけ!」

「それは、あなたの本心ですか?」

 あくまでも優しい声でそう聞くビーナへ、フィラは横目にテレビ画面を見やりつつ、

「ふん! あのざまを見ろ、もはやわたしが守るべき民も島もない――他の人間のことなんて知ったことか。おまえたちで守ればいい」

「そもそもラディカカは、〝わたしたち〟にとっては異教の怪物です。たとえ我が主がその気になったとしても、かの力では完全に封じることはできないのです」

「それを言うなら、わたしだって今では立派な異教の悪魔だ。つまり条件はおまえたちと同じってことだ。ましてや悪魔なのだから、天界の使いであるおまえの手助けなどしてやる義理も理由もないってわけだ。ふふふん、ざまあみろ! 文句あるか!」

「あらそうですか。この決着がつけば、あなたを島の守護神として再臨させてもいいという許可をもらってるですけど、残念ですわ――仕方ありません、お言葉どおりわたしたちだけでなんとかします。あなたはこれからもそうやって鎖に繋がれておいでませね。それでは~」

「え? あ、ああ待てまて、ちょっと待てってばコラ!」

 神鉄製の格子の間からすたすたと出て行こうとするビーナの尻尾をすんでのところでつかまえたフィラは、はあはあと息を荒げながら、

「だが、武器やこの身のことはどうするんだ?」

「ご心配にはおよびません」

 ビーナは、何食わぬ顔でフィラの手からするりと尻尾を引き抜きながら、、

「まず、あなたの武器ですが……」

 言うなりビーナののど元がぶわっとふくれ上がり、再びげろろ~んと古びた槍を吐き出し始めた。神殿でラディカカの封印を守りつつご神体として安置されていた、正真正銘最後の一本。

「げ、またそれかい!――って、その体のどこに入れてたんだ、おまえは!」

 ようやく身長に数倍する槍を吐き出し終えたビーナは、口元をぺろりとなめてから、

「企業秘密ですわ――さて続いて、あなたの属性変換についてですが……」

「また何か吐くのか?」

「むしろ逆に何か期待されてる気がしますが――違います」

 ビーナによれば、フィラを島の守護神へと戻すには人間たちの強い信心と長い祈りが必要であり、それでは時間がかかりすぎて間に合わない。なので手っ取り早い方法として、フィラの実体としての体を人間へと託し、その人間の「道具」として使われることで、もしかしたら彼女の属性を一時的にキャンセルすることができるかもしれない──とのことだった。

「人の使う道具に属性は存在しません。使い方によって善にも悪にも、唯一神の神具にも邪教の刃ともなり得るのです」

「誰が邪教だって!?」

「ただのたとえです。悪意はありません。さらっと聞き流しちゃってくださいな」

 フィラはじゃらんと鎖を鳴らしつつ腕組みをしながら、

「ふん!――要するにこの身を人間と交換し、そやつの好きにさせろと言うのか?」

「巫女に憑依……もとい降臨するようなものです。難しくはないと思いますが」

「やること自体は簡単だが、ラディカカ退治は単に神術を代行させるのとはわけが違うんだぞ。それに、この身はすでに魔気に冒されている。人間の魂がそれに耐えられると思うか?」

「耐えてもらうしかありませんわ――それで、どうされます?」

 う~んと考え込むフィラの耳に、どこか近くで爆裂系の魔法が轟くのが聞こえてきた。

「……体をあずける人間の目星はついてるのか?」

「え、ええ」

 ビーナはわずかに言いよどんでから、

「その辺は抜かりありませんわ……おまかせください」

「ならば選択の余地はないな――よしわかった! 覚悟を決めたぞ! さあ来い!」

「はい?」

「だから、さっさとその人間を吐き出せと言っている!」

「無茶言わないでください。これから一緒に人間界へ行って、そこでお引き合わせしますから」

「一緒にって、おまえに食われてか?」

「お望みでしたら?」

「やっぱり食えるんじゃないか!」

「冗談です。生ものは〝中〟で暴れられると困るので、基本的にお断りしています」

 フィラは、だんだんと近づいてくる悪魔たちの雄叫びに耳を傾けながら、

「もういい! とにかくここから脱出するぞ! 細かい話はそれからだ!」

 フィラの手が、ビーナの出した〝神帯槍〟をひっつかむ。槍から注ぎ込まれる霊気に思わず身震いが走る。そのまま槍をくるりと一回りさせて手足の鎖を断ち切ったフィラは、その勢いをかって神鉄製の格子をも一気に切り開くと牢獄から飛び出した。

「――と、そうだ!」

「何をしてるんです? 急いでくださいな!」

 四つん這いになって床の上をはいずり始めたフィラへ、ビーナの急かす声が飛ぶ。

「ちょっと捜し物だ!……くそ、ないか!」

 しかたなくフィラは、さっと立ち上がると先を行くビーナを追って走り出した。


 そんな一体と一匹の姿が消えた直後――牢獄の向かい側にある部屋のドアがわずかに開き、中から白黒三つ編み頭の悪魔少女、リリスペインが顔を出した。

「人間界へ降りて島の神さまに戻る――だって?」

 リリスペインの背中で、彼女の怒りにあおられた三つ編みがゆらゆらと舞い踊る。

「そんなこと、絶対にさせるもんか!」

 ぎゅっと握っていた手をゆっくりと広げる。その中には、さっき彼女が捨てたはずの指輪があった。

「フィラ、あんたは永遠にあたしのもの――地獄の奴隷魔獣なんだからね!」



第一章  誕生! 正義の悪魔!?


1


 始発電車は不思議な電車だと、真紀織(まきお)は思う。

 改札の関係でいつも先頭車両に乗る真紀織は、始発電車に乗る度に、ひょっとしたら電車の最後尾はまだ「昨日」にかかっているのかも知れない――とか思ってしまう。

 だからといって、後ろの車両へ乗ってみたことは一度もない。もちろん、そんなことは絶対にないとわかっている。でもそれをはっきり確かめてしまうのは、なぜだかすごくもったいないような気がして、とても乗る気にはなれなかった。

「……ふわぁ」

 反対側の車窓にかすかに映る私服姿の自分から目をそらすように下を向いて、小さくあくびをする。下を向いたせいで、明るい栗色の髪がさらりと視界に入ってくる。

 別に染めているわけではない。ただ母親がドイツ系アメリカ人というだけのことだ。くっきりした黒髪に憧れる気持ちもなくはないが、これはこれで不満はない。

「それよりわたしは背が欲しい~……なんちゃって」

 かろうじて今のクラスでは前から三番目を維持しているが、しかし真紀織の母の身長は一七八センチもあった。ちなみに真紀織は現状一五三・五センチ。

「人生なんて、こんなもんだよね~……はわわわあ~っと」

 またあくびが出る。学校の寮を抜け出して、幼なじみとはいえ男の子の家に向かっているというのに、ずいぶん慣れてきたものだと思う。最初の頃は不安だらけで、とても眠気など感じている余裕なんてなかったのに。

 真紀織の通う『聖エレナス学院女子高等部』は、まったくもって、その校名から想像される通りのお堅い全寮制お嬢様学校だった。同じ敷地内に男子部が併設されていたが、もちろんその間は難攻不落の壁――通称「嘆きの壁」によってしっかりと仕切られている。当然、学校側の警戒はその壁の周辺に集中しており、夜明けとともに寮を抜け出すような生徒に対しては、逆に拍子抜けなくらいノーマークだった。

 もっとも、仮に見つかったところで真紀織の両親はそろって南国の空の下だ。そして二人とも、他のお嬢さまたちの親と同様、学校から呼び出しを食らったくらいでほいほいと帰国できるような立場ではない。

「帰ってこれるもんなら、帰ってみろっての、べーだ……はあふ。ねむぅ」

 一度電車を乗り換えてさらに数駅をやり過ごす。目的の駅で電車を降り、足早に灰色のシャッターの並ぶ商店街を抜け、信号を渡って住宅街へと入る。そこでやっと歩調をゆるめ、腕時計で時間を確認。帰りの電車まであと四五分――よし、いつも通り。

 左右の家と大差ない作りの、ちょっと古い建て売り住宅の前で止まる。『坂井(さかい)』と書かれた手作りの表札を横目に、呼び鈴もノックも省略して鍵のかかっていない玄関ドアを開け、中へ入る。

 かぎ慣れた家の匂いに混ざって、油の焼ける香ばしい匂いの漂う廊下をすたすた進み、その先にある台所へ「来たよー」と声をかけてから、ビスケット風の文字ブロックで『真衣子(まいこ)』と綴られたネームプレートの下がっているドアの前に立つ。

 そこで遅ればせながら、台所から「来たのかー?」という聞き慣れた声――幼なじみの少年、皆人(みなと)の声が返ってくる。

 真紀織は、ここではちゃんとノックをしてから、そのドアを開けた。

 廊下とは一変して、塩素系のつんとする消毒液の匂いが真紀織の鼻をつく。

 音量を抑えたアニメ音楽が、ぶーんという低いノイズの間から聞こえてくる。

 八畳ほどのその部屋の中には、バイタル(心拍/体温)モニターを始めとして、酸素飽和度モニター、空気清浄器、自動点滴/投薬装置――等々が整然と置かれてあった。

 壁紙や家具類こそ、むしろやりすぎなくらい十代の少女っぽい可愛らしいものでまとめてあるものの、そこはやはり、どう見ても病院の一室だった。

「やっほー、まいちゃーん、起きてる? なんちゃって……あら?」

 部屋の中心にある一見普通のベッドの上では、「機械のこびとたちに囲まれたシンデレラ姫」こと神崎(かみさき)真衣子――真紀織の妹が、静かに眠り続けていた。その彼女の呼吸に合わせて、ふとんの上で丸くなっている白猫が気持ちよさそうに上下している。

「……ビーナじゃない、ひさしぶりだね?」

 白猫が、前足にのせていた頭をふわりと上げて真紀織を見た。朝一番の光を集めて作ったような黄金色の首輪がきらりと光る。それと同時に、背中に隠れていた四枚の白い羽がゆっくりと立ち上がる。

 この小さな羽を持つ白猫――ビーナは、真紀織が初めて真衣子の存在を知ったときから、そうして真衣子の傍らで丸くなっていた。

「ええっと、二週間ぶりくらいかな? それでどう、まいの具合は?」

 真紀織の声に、ビーナが満足げに目を細める。

「問題なし? よしよし!」

 幼い頃は、ビーナと直接話をすることもできたような気がするが、今の真紀織にその頃の記憶はない。「ビーナ」という名前は当時の彼女がつけたものだが、なのでどうしてそう名付けたのかは、もう真紀織自身にもわからなかった。

 真紀織は一応、自分の目でも各種装置の表示を確認する。体温、脈拍、呼吸数、血圧――確かに全て許容範囲内、要するに正常値だった。

 そう、彼女――真衣子は〝正常〟なのだ。体格こそ同年代の――一三歳の少女の平均をかなり下回っているが、逆にいえばそれ以外の〝異常〟はまったくない。

 なのに彼女は眠り続けている。それも生まれたときから。

 さらにずっと寝たきりだというのに、真衣子の体は今なお順調に成長を続けている。

 もし今彼女がいきなり目を覚ましたとしても、身体的には普通に生活できるだろう。

 言葉や知識の問題は別論、とにかくその目で見、その足で歩くことができるのだ。最近行った定期診断でも、それは明らかだった。彼女にとってみればいいことではあるが、しかし医学的に見れば、これはまったく異常なことだった。

 病院時代の真衣子は、そのため、毎日のようにいろいろな検査をされ、毎週のように担当の医師が入れ替わり、そしてその数だけ医学論文が発表された。そんな理不尽な扱いに腹を立てた真紀織の叔母でもある皆人の母が、半ば強引にこの家に連れてくるまで、それは続いた。

 社会的な名誉も地位もある真紀織たちの両親は、当時も今も、そんな娘などいないかのように世界中を飛び回っている。

 結局、この家にきて真衣子はやっと検査漬けの毎日から解放され、真紀織は自分に妹がいることを知り、皆人と出会い、そして白猫にビーナと名前をつけた。

 それから十年近くが過ぎ――真衣子は未だに眠り続け、そしてその原因も未だに不明のままだった。

 真衣子の輝くような黒髪を優しく払うと、真紀織はその額にそっと手を置いた。

 じっとり浮かんだ細かい汗で、掌が肌に吸いつくようだった。

 ビーナが来ると、真衣子は必ずこうして汗をかく。まるで何かスポーツでもしたかのように。

 いや、そうに違いない――と真紀織は確信していた。

 どうやってか、ビーナは真衣子に〝運動〟をさせているのだ。だから体は衰えることなく、ちゃんと成長を続けている――

「……ねえ、ビーナ?」

 真紀織は白猫へそっと手をのばしながら、

「あなたは、いったい何者なの? どこから来たの? どうして真衣子のことを――」

 とそのとき、サイドテーブルにある室内ホンがピンポーンと鳴った。

『まき、汗の方はどうだ? アラームは上がってないから、大丈夫だとは思うけど』

 じゅうじゅうという音の向こうから、皆人の声がそう聞いてきた。

「ああ、えっと、うん。数値には異常なし。でもすぐに着替えさせなきゃカゼひいちゃうわ。皆人くんも、だから早くこっち来て――あ」

 真衣子に目を戻すと、もうビーナの姿は消えていた。

『どうした? 何かあったか?』

「ビーナよ。来てたんだけど、もう帰っちゃった」

『またそれかよ――まあいいや、すぐそっち行くから、着替えの準備よろしく』

「あーい……」

 だらしなく返事をして、室内ホンを切る。

 ビーナの姿は、真紀織にしか見えない。

 彼女の記憶でば、もっと幼い頃は彼――皆人にもちゃんと見えていたはずなのだが、当人にはまったく記憶にないという。

 わたしもそのうち、見えなくなっちゃうのかな――ふと真紀織は思う。

 ビーナは、それでもちゃんと真衣子のところに来てくれるだろうか? 真衣子を支え続けてくれるだろうか?

 もしも来てくれなくなったら? そうしたら真衣子はどうなってしまうのだろう――

「――どした?」

「ぎゃっ!」

 本気でびっくりして振り返ると、そこにはエプロン姿の皆人が立っていた。

「うーん、今のリアクション、バイタルに繋いどいたら面白いデータ取れてたかも」

「はあはあ……今の機械でそんなことしたら、即アラームが鳴って、救急車がぴぽーって飛んで来ちゃうでしょ!」

 昔の機械は少しくらいいたずらをしてもどうということはなかったが、今時のそれは、少しでも異常な反応が出れば、専用の回線を通して真衣子が生まれたときから入院させられていた大学病院へ即座に連絡が行くようになっていた。

「おまえな、〝ぴぽーっ〟はないだろ。ぴぽーは」

「急いでる音なの! それより早くまいを着替えさせなきゃ。さっさと準備して!」

「それはさっきおれが言っといたことじゃ――はいはいっと!」

 真紀織のやや茶色がかった大きな瞳ににらまれて、ベーコンエッグの匂いのするエプロンをはずしつつ皆人がうなずく。

 真紀織の方も、バイタルモニターを「着替えモード」にして、真衣子の体からモニター用のコードをはずしながら、

「じゃあ次、点滴抜くよ、チェック」

「チェック――五時四〇分、よし」

 皆人が復唱して、記録用紙を挟んだボードに時間を書き込む。

「なかなか手際いいよね、わたしたち。このまま看護師さんになれるかも」

「やなこった!」

 ボードを置き、真衣子の新しいパジャマと下着をタンスから出しながら、皆人。

「あれ、ベッド起こすリモコンどこやっちゃったっけ――いいやん、看護師」

「こっちにある。ぽちっとな――おまえ、ウチの親(あれ)のどこを見てるんだ?」

 皆人の母は現役の看護師だった。

「看護師なんて、漫画家と並んで激務の代名詞だぜ? そのくせ給料は安いわ、やっとのことで捕まえた男には子供を残して逃げられるわ――そりゃまあ、それは男の方が悪いけど。でも今日だって昼夜勤明けだから、間違いなくボロボロになって帰ってくるぞ」

 さっき皆人が作っていた朝ご飯も、半分はその母のためだった。

 皆人の母が勤めている病院に限らないが、通常業務に加えて数か月前から突然広まり始めた原因不明の流行り病のせいで、看護師たちの負担は増す一方だった。特にこの二週間は目に見えて患者数が増加し、皆人の母もシフトぶっちぎりで働きづめの日々が続いていた。

「わかってるって。だからこうして、寮を抜け出してまでお手伝いに来てるんでしょ?」

「いやホント、ご苦労さまです!」

「……大切な妹のことだもん、別に苦労だなんて思ってないよ」

 真紀織は、皆人と協力して真衣子のパジャマを脱がせながら、

「それに、どんなに立派できれいな仕事だって、子供を病院だとか寮だとかに押し込んで放ったらかしにすることの方が、ずっと最低だよ!」

 真紀織たちの両親は、世界的に有名な国際的複合企業『カルネアグループ』の一つ、『カルネア航宙観光』のCEO(最高経営責任者)とCTO(技術部門責任者)だった。

 ちなみにグループの創業者一族でもある母が前者で、元JAXA(日本宇宙航空研究開発機構)技術者の父が後者である。

 つまり真紀織は、世間的に見れば立派な〝お嬢さま〟なのだった。

 一方、真紀織の父の妹を母に持つ皆人は、当然ながら根っからの庶民だった。

「おれはやっぱり、宇宙観光会社の方がいいと思うけどなあ……夢があるし、社員として宇宙へ行けるかも知れないし」

「地球の上だって宇宙の一部でしょ! それより手がお留守になってない?」

 そうでなくても、最近になってはっきりとそのふくらみが増してきた真衣子の胸の前では、皆人の動きはどうしても鈍りがちに見えた。

「どしたの? 今さらながらにまいの魅力にノックアウト?」

 わざといたずらっぽい声で聞く。

「うっせい!」

 はっきりと顔を赤らめた皆人の顔が真紀織をにらむ。

 真紀織は、今度は少しまじめな口調で、

「ねえ、しっかりしてよ。そんなんで〝下〟の方、ちゃんとできるの?」

「き、決まってるだろ! もう何年やってると思ってんだ? こいつはもう、おれの体の一部みたいなもんだ!」

「わ、それもいやかも」

「……心配すな」

 ふと、真顔に戻って皆人が言った。

「え?」

「そりゃ、変な気持ちにならないって言ったらもう絶対ウソになる。けど、おれは信じてるから……」

「信じて、る?」

「――いつか必ず、まいは起きるって」

 真紀織ははっと息を飲む。

 皆人は、真衣子がいつ目を覚ましてもさみしくないようにと、定額利用(サブスク)のアニメ音楽を二四時間流し続けているスマートスピーカを見つめながら、

「だから、神に誓ってバカなことはしてないし、するつもりもない――まいが起きたとき、堂々と胸を張って迎えてやりたいからな。それに……」

「――それに?」

 目をうるうるさせながら真紀織が聞く。だが皆人はへらっと笑って、

「んなことしたのがバレたら、〝皆人お兄ちゃん〟って呼んでもらえなくなるだろ?」

「本音はそこかーい!」


『……では、次のニュースです。南太平洋のキリバス共和国内にあるクリスマス島沖で消息を絶った海洋調査船〈アリアス〉号は、三日たった現在も行方不明のままで――』

「あーっ!」

 ダイニングへ戻った皆人がテレビをつけるや、真紀織がそう声を上げた。

「どうした? あの船にはおまえの両親、どっちも乗ってなかったんだろ?」

 真紀織の両親がボスを務める『カルネア航宙観光』は現在、クリスマス島のそばにある無人島に世界初の一大宇宙観光センターを建設中だった。〈アリアス〉号は、同社が新たにチャーターした最新鋭の大型調査船だった。

「違うって! 時間よ、時間! 時間見て!」

 テレビ画面の左上に表示されているそれを見て、皆人は逆にうんうんとうなずいて、

「こんなもんだろ? けっこう汗かいてたし。確かこの前だってこれくらいだったじゃないか――おお、やっぱり南の海は色が違うなあ」

「わあわあ、何のんきなこと言ってんの!」

 真紀織は自分の腕時計を皆人へ突きつけて、

「ほらほら、あともう九分しかない!」

「あ、それ一分遅れてる」

「え? わあ本当だあ! なんてことやってる間にあと八――じゃない、七分だあ!」

「前回は九分前スタートだったから、一気に二分縮める大記録に挑戦だな」

「えーん、また皆人くんのベーコンエッグ食べ損なった!」

 真紀織はよりによって油ギトギトのベーコンエッグが大好物だった。

 皆人は、にちょっとしたそれを箸先でできるだけ小さく切り分けて口に入れながら、

「んなこと言ってる間にさっさと出た方がいいとお兄さんは思うがな? もぐもぐ」

 真紀織は、卓上にあった辛油を皆人のベーコンエッグにだばだばーっと注いで、

「誰がお兄さんだって!?」

 一瞬きょとんとした皆人は、しかし次の瞬間には何事もなかったかのように真紀織用に作ったベーコンエッグに手をのばしつつ、

「――あと六分~」

「わー皆人くんの意地悪う!」

 しかしもう本当に余裕のない真紀織は、どたどたーっと玄関へ走る。

「けどもう、おまえの足じゃ絶対間に合わないぞ?」

 廊下に向かって皆人が声をかける。

「いっそタクシーでも使うか?」

「お金出してくれるの!?」

 玄関から怒鳴り声が返ってくる。

「聖エレナスのお嬢さまが何ケチくさいことを言ってる」

「特に用のない場合、おさいふの中に一〇〇〇円以上入れてたら校則違反なの!」

「変な校則――まあ、寮生活なら基本的に金は必要ないか」

「わあ! 靴ひもがからまったあ!」

「あと五分――何やってんだおまえは? この前、脱走がバレても別にかまわないもん! とか言ってなかったっけか?」

「だからって、可能性があるのにあきらめてたら人生終わりよ!」

「いきなり人生ときたか」

「まいと一緒! ほんのちょっとでも可能性があるなら、わたしは絶対あきらめたくない! ――行ってきます!!」

 直後、どたん! と玄関ドアが閉まる音がして、やっと家の中が静かになった。

 皆人は、ちょっと廊下の方を――真衣子の部屋の方を見て、

「まいと一緒、か――確かにな」

 そしてまた、真紀織の残したベーコンエッグをぱくつき始める――が。

「あれ、これって……?」

 半分ほど食べた後で、空席の椅子に真紀織の制服入りのバッグがぽつんと置かれてあるのを見つけた。

「――おいおい、マジかい」

 ため息一つ、皆人は反射的にそれをつかむと、さらに室内ホンの隣にあった真衣子の容態の急変を知らせる携帯アラームもひっつかみ、玄関へダッシュする。

「結局これかよ!」


2


 真紀織の足が止まる。息苦しいのをがまんして顔を上げる。それと同時に、目の前の高架上でオレンジ色の電車がするするっと動き始める。

「はあはあ――あ~あ、行っちゃった」

 その場でへたり込みそうになるのをかろうじてこらえ、深呼吸をする。

「ふう! わたしの人生なんて、所詮こんなもん――なのかなあ……あら?」

 汗を拭こうと額にハンカチをあてたところで、ぴんと尻尾を立てた白猫がとことこと横断歩道を渡ってゆくのが見えた。

「――ビーナ?」

 まるで呼びかけに答えるかのように、白猫が真紀織の方を向く。

「ビーナ、何? ついて来いっての?」

 前に向き直った白猫が、やや駆け足で商店街の方へ走ってゆく。

「わ、わ、ちょっと待って、ビーナ!」

 まだ息が上がっていたが、それでも真紀織は、ビーナらしい白猫を追って走り始めた。


「――あれ、まき?」

 真紀織に追いつけないまま結局駅前まで来てしまった皆人の目が、商店街の方へ走り去ってゆく見慣れた制服姿の少女の後ろ姿をとらえた。

 どうやら今回は電車には間に合わなかったらしい──とはいえ。

「何やってんだ、あいつ?」

 シンプルなデザインながらも、しっかりとブランド物のスポーツバッグを肩にかけ直して、しかたなく皆人も駆け出す。

 足を速めつつ、商店街のアーケードに入ってゆく。

「まき、まき! 待てよおい!」

 だが真紀織は走り続ける。後を追う皆人に気づいているようすはない。一心に何かを追いかけているようだった。

 その小柄な体が、肉屋と八百屋の間に入る。

「あんなとこに道なんてあったっけ?」

 皆人がそこまで行くと、やぱり道はなかった。店と店との間に、やっと人が通れるくらいのすき間があるだけだった。

「おい、まきってば!」

 しかし真紀織の小柄な体は、すでに向こう側へ抜けて左手――駅とは反対側の方へ消えてゆくところだった。

「あーもう、くっそ!」

 覚悟を決めて皆人もそのすき間に突入する。

 標準サイズの上にバッグまで持っている皆人には、やはりきつかった。どうにか向こう側へ抜けると、そこでもまた狭い裏道が左右にのびていた。

 迷っている余裕はない。とにかく左の道をゆく。

 それからも真紀織は、路地から路地へ、脇道から脇道へと、わざわざ狭い道を選ぶかのように走ってゆく。おかげでなかなか追いつけない。

 おまけに、自分の家からそう遠くない場所のはずなのに、皆人にとっては初めて走る〝道〟ばかりだった。明らかに他人の家の敷地内と思われるところもあり、もう皆人には、自分がどの辺を走っているのかさっぱりわからなくなっていた。

「はあはあ、まるで猫にでもなった気分だな!――猫?」

 皆人の頭に、唐突に白い猫の姿が浮かぶ。

「まさかあいつ、〝ビーナ〟を追ってるのか?」

背筋に一瞬、寒気が走る。

 行けども行けども果てなく続く、曲がりくねった狭い道。先をゆくのは白い猫。それを追いかける制服姿の女の子――

「朝っぱらから夢でも見てるのか、おれは……うわ!?」

 いきなり普通の道に出た。といっても、車が一台やっと通れるくらいだったが、それでも皆人はほっと胸をなで下ろす。

「――って、あれ? まきは?」

 一瞬目を離したすきに、真紀織の姿は消えていた。

 どこかでばたん、と大きな扉の閉じる音がした。

あわてて周りを見回すと、すぐ向かいに廃墟同然にさびれた教会があった。

「まき――?」

 教会の他は一般の住宅ばかりで、そこ以外彼女の立ち寄りそうな場所は見当たらない。

 皆人はひとりうなずくと、その教会に向かって歩き出した。

 

 背後で扉が閉じた瞬間、真紀織の周囲から全ての音が消えた。

 まるで一瞬にして建物ごと深い海の底に沈んでしまったかのような、そんな絶対的な静けさだった。

 ところどころ櫛の歯が抜けたように欠けているベンチの間を、ゆっくりゆっくり歩いてゆく。曇ったステンドグラスからどうにかしみ出してきたかのような朝日が、聖堂内を漂うホコリをきらきらと輝かせていた。

「……ビーナ?」

 その白猫は、教会の最奥部、くすんだ十字架の下に置かれた説教壇の上で丸くなっていた。

「ビーナ、でしょ? どうしたの……ひょっとして、真衣子がとうかしたの?」

「――違いますわ」

 優しげな、でもそれでいてどこか憂いを含んだ女性の声が、静かに言った。

「え、え?」

 そのとても懐かしい声に、思わず真紀織の足が止まる。

「今の声、ビーナ……あなたなの?」

「はい」

 答えと同時に、白猫の背中に四枚の小さな羽が立ち上がる。

「じゃあわたし、またあなたの声が聞こえるようになったのね?」

 だが白猫――ビーナは答えなかった。

「どうしたの、ねえ、ビーナ――?」

「――おっとっと、そこで止まりな、娘!」

 さらにビーナへ近づこうとした真紀織を、ビーナとは別の女性の声が制した。

「――その場にとどまり、まずは所属の教会名と洗礼名を名乗りなさい!」

 続いてもう一人の女性の声が、重ねて真紀織に命じる。

「は、はい?」

 いつの間にか、ビーナの左右に控えるようにして二人の女性が立っていた。そろって背が高く、ケープ風の大きな白い衿のついた紺色のワンピースを着ていた。

「聞こえなかったのかい?」

 向かって右の、長い金髪の女性の顔に挑戦的な笑みが浮かぶ。。

「それともそなたは異教の者か?」

 左側に立つ、こちらは銀髪を短めにカットした女性の瞳が、すうっと細くなる。

「あ、ええとその、一応はミッション系の学生ですけど……?」

「布教活動(ミッション)だ? なんだよおまえ、シスターだったのか?」

「それにしてはまた珍妙な装いだこと」

「いえその、そういう意味じゃなくて……ねえ、ビーナ、これっていったいどういうこと――」

「こら娘! この方をそんな俗名なんかで呼ぶんじゃねえ!」

 金髪が怒鳴る。

「娘、そなたはこのお方をどなたと心得ているのです?」

 銀髪の手がさっと横へのびる。

「よいか、この方は――」

「――もうよろしいですわ」

 ぺたんと力なく耳を伏せたビーナは、やれやれというように小さくため息をつくと、まず右側の金髪を見上げて、

「エルドラさん?」

 さらに左側に立つ銀髪にも顔を向けて、

「そしてミスリナさんも――わたしは〝ビーナ〟です。よろしいですわね?」

「……貴女がそうおっしゃるんなら」

「仰せのままに、レニ――いえ、ビーナさま」

 金髪のエルドラ、銀髪のミスリナがともに一歩後ろへと下がる。

 それを見た真紀織は、またそろそろと説教壇の方へ近づきながら、

「ビーナ、また話せるようになったのなら、お願い教えて――真衣子は、あの子はどうしたの? どうして眠ったままなの? いつになったら目を覚ましてくれるの――!?」

「……それは、まだお話できません」

 何かの痛みにこらえるかのような苦しげな声で、ビーナ。

「全てが終わったら、そのときは必ずお話します。約束します、マキオ……」

「ビーナ、でも――!」

「マキオ」

 ビーナは、まっすぐに真紀織の目を見て、

「一つだけ――あの子には、マイコには、希望があります」

「希望が? 本当に!?」

「はい。今はそれだけしか言えませんが、どうかわたしを信じてください」

「ビーナ……うん、わかった。信じるよ」

 じっとビーナの金色の瞳を見返していた真紀織は、そう言うとにこっと笑って、

「まいが、今もちゃんと〝生きてる〟のは、あなたのおかげだものね――でしょ?」

「……ありがとうございます、マキオ」

 答えるまでに少しの間があったものの、それでもビーナははっきりとうなずいた。

「それでビーナ、何の用なの? どうしてわたしをこんなところに誘ったの?」

「実はマキオ、あなたにお願いがあるのです」

「お願い? わたしに?」

「はい。大変心苦しいお願いなのですが――けれどあなたの魂なら、きっとやり遂げられるだろうと、わたしは信じています!」

 それまでとは一変して、ビーナの声に力が入る。

「へ? わたしの、魂?」

「はい! なんと言ってもあのマイコと同じ資質を持った魂ですし、ここはもう、ぜひともあなたにお引き受けいただきたいのです!」

「ええと、だからビーナ、わたしにいったい何をしろって――」

「――ああもう、まだるっこしい!」

不安げな真紀織の声をさえぎって、また別の、ただし今度は真紀織と同い年くらいの少女の声が聖堂内に響き渡った。

「!? いけないマキオ、伏せて! エルドラさん、ミスリナさん、結界を――!」

 ビーナが叫ぶ。だが直後ごおっ! っと風がうなり、前に出ようとした二人の女性が、そろって後ろの壁に叩きつけられた。

 さらにその風が、反射的にしゃがみ込んだ真紀織の上で激しく渦を巻き始める。

「きゃあ、きゃあ! なんなの、何がいったいどーなって!?」

 ベンチの破片や崩れた壁材などが、びゅんびゅんと音を立てて頭上をすっ飛んでゆく。

「おやめなさいフィラさん! やりすぎです、演出過剰ですわよ!」

 ベンチに爪を立ててどうにか体を支えているビーナが、〝上〟に向かって叫ぶ。

「悪いな。人間界で神術――いや〝魔法〟を使うのは初めてだから、力加減がよくわからないんだ。巻き込まれないよう、各自気をつけるように!」

 渦巻く風に乗って、少女の声が答える。

「特にそこの下級精霊ども! それ以上痛い思いをしたくなかったら、さっさと退散した方が身のためだぞ!」

「ざけんなコラ!」

「不意打ちなど卑怯千万! 恥を知りなさい!」

 体半分壁にめり込ませながら、それでも金髪と銀髪の女性たちが怒鳴り還す。

「もうフィラさん! 扱いきれないのなら、最初から使わなければいいでしょう!」

「何を言う。あっさり降臨したら威厳もへったくれもないじゃないか。第一、儀式としての盛り上りに欠ける。もしこれがフィセラセラ島の儀式だったら、とてもこんなもんじゃすまない――」

「おやめなさい、今すぐ!」

 渦巻く風を打ち払わんばかりの大声でビーナが怒鳴る。

「さもないと、もう二度と神さまには戻れなくなりますわよ!?」

 瞬間、風がぴたりとおさまった。だが真紀織がほっと息をつきかけた直後、風に乗って宙に浮いていた木片や石材の類が彼女の周りにどかどかと落ちてきた。

「きゃあきゃあ、きゃあ!」

 また頭を抱えてうずくまる。やっと最後の破片がからんと落ちて、それで再び聖堂内に静寂が戻ってきた。

 おそるおそる立ち上がった真紀織の目に、しかし、出入り口の扉近くで半ば破片に埋もれて倒れている皆人の姿が飛び込んできた。

「わ、皆人くん!?」

「こらこら! おまえ、どこを見ている。わたしはこっちだぞ?」

 真紀織の背後で、少女の声が、かなり偉そうな態度で言った。

「だって皆人くんが、皆人くんが――!」

 と、そんな皆人のそばにとことことやって来たビーナが、

「心配ありません、気を失っているだけですわ」

「さあ、もういいだろう? さっさとこっちを向かないか、マキオ!」

 強い声で名前を呼ばれた真紀織が、反射的にくるりと振り返る。

 さっきまでビーナが座っていた説教壇上に、背中を覆い尽くさんばかりに長くて赤い髪をゆらゆらと揺らめかせながら、ひとりの少女が立っていた。

 薄明かりの中でもくっきり見える鼻筋。小さいながらも色と形の良い唇。そして極めつけともいえる大きな赤い瞳――しかしその一方、褐色らしい肌は傷だらけで、さらに腕といわず足といわず一筆書きのような模様が描かれてあった。身にまとっているものも、中央部分に大きな宝石らしいものがはめ込まれた首飾りにピンヒールのブーツ、腰に下げた小さなポーチ、それと手に持った槍以外は、あちこちに破れ目のあるきわどい水着のようなものが一枚だけ。

加えてその背中からは一対の黒い翼が生えていて、これもまるで嵐の後のコウモリ傘よろしくボロボロになっていた。

「そんな……あなたはまさか、もしかして――!」

「うむ、その通り! 畏れ多くも遙か古よりこの地に喚ばれて降臨せし光輝なる者! 未熟な魂の拠たる人間たちの最後の守護者! アクアマリンの聖乙女こと南海の少女神デレス・マノレス・フィラ・ラディカカッサとは、それ、わたしのことよ!」

 手にした槍でかつーん! と説教壇を打ち鳴らし、赤髪黒翼の少女が見得を切る。

 説教壇の近くまで戻っていたビーナが、その口上にすてん、とずっこけた。

「あれ? え? か、神さま……なんですか?」

 やはりずっこけそうになった真紀織が、壊れかけのベンチで体を支えながら聞く。

「ふっ。愚問よな」

 壇上の少女が鼻で笑う。

「で、でも、その割にはまた、ずいぶんとワイルドなお姿ですけど……?」

「こらこら、見た目で神さまを判断してはいけない。それを言うならどこぞの一神教なんて、ひげもじゃ顔に腰巻き一枚だけじゃないか」

「ちょ、ちょっとフィラさん!?」

 ようやく起き上がったビーナが、説教壇の下から声を上げる。

 真紀織は、そんなビーナをちらりと見てから、

「でもでも、名前だって、まるっきりその、悪魔っぽいってゆーか……」

「うん? ああ、あれはわたしの真の名前じゃないからな。地獄――魔界に堕とされたときに勝手につけられたニックネームみたいなものだ。なに、言いにくいなら単にフィラさま、と呼んでくれてかまわん――新たな再出発へ向けての記念すべき信者第一号でもあるし、特別大さーびすってやつだ!」

「は、はあ……それはどうも」

 壇上の自称神さま少女は、その真紀織の答えを現状の肯定と受け取ったらしい。さらに両手を大きく左右に大きく広げて、

「では改めて――さあマキオ、わたしに祈りの言葉と巫女の舞いを捧げるのだ! その祈りは我が魂の糧、その舞いは我が神術の源! いざ祈れ、さあ踊れ! そうれ、どどんが、どどんが、どんぱっぱ――!」

「もうフィラさんったら! ――とりゃ!」

 説教壇の上で怪しげな踊りを始めた自称神さま――フィラのわき腹に、ごげん! とビーナキックが炸裂した。

「――なんだビーナ? せっかく調子が出てきたところだったのに。邪魔すると神罰を下すぞよ?」

 両手両足を妙な形に曲げたままのフィラが、怪訝そうな顔でビーナをにらむ。

「何が神罰ですか! 誰が下すんですか! あなたはまだ悪魔でしょ、悪魔!」

「……?」

 フィラは一瞬きょとん、として、次いで体をあれこれひねって自分の姿を見回したり、背中の翼をぱたぱたさせたりしてから、

「……あれ?」

「納得していただけまして?」

「うむ――じゃなくて! やいこらビーナ! おのれ騙したな!?」

「あなたの方こそ、わたしの話をちゃんと聞いていたんですか!? 神さまに戻れるのは、見事〝ラディカカ〟を封印してからですと言ったでしょう!」

 無言のまま小首を傾げつつ、きょとんと白猫を見返すフィラ。

「あの、まさか、本気で忘れちゃったんですか?」

「いや、あのときはほとんど霊力が尽きかけていたからな……神さまに戻れる、というところは良く憶えているのだが――ああ、待てまて、うん、思い出したぞ!」

 フィラは槍でまた説教壇をかつん! と叩くと、次いでびしっと真紀織を指さして、

「というわけで、マキオよ! さっさとこの身をまとい、我が宿敵〝海魔ラディカカ〟を封じてくるがよい!」

「……はあ?」

 棒立ちのまま、真紀織が聞き返す。

「はあ? じゃないだろう。どうした、今さら臆したか? それは困るぞ、こっちにもいろいろ事情というものが――」

「待ってください。彼女はまだ何も知らないのです」

「なんだって!?」

 フィラは、槍をくるりと回してビーナに突きつけながら、

「きさま、確か準備に抜かりはないって言ってたじゃないか!」

「……自分に都合のいいところはちゃんと憶えているんですね」

 それでもビーナは、先に真紀織へこくりとうなずいてから、

「お手伝いしてくれそうな方の心当たりはあります、という意味で言ったのです。説得はこれからですわ」

「だっだら早くしてくれ。何か知らんが疲れてきた」

「人間界へ来て、いきなりあんな魔法を使うからです」

 神話や聖書の時代ならいざ知らず、現在の人間界には魔力や霊力の類はほとんど残っていない。それらの供給源でもある魔物や怪物たちが、あらかた封じられるなり、倒されるなりして姿を消してしまっているからだ。

 フィラは頭上に槍をかかげてみた。

「……なるほど、教会の中だというのにほとんど霊力を感じない」

「まあそのおかげで、たまに悪い悪魔とかが地上に顕れても、昔ほど悪さはできなくなっていますから、良し悪しといったところですわ」

「〝悪い悪魔〟ってなんだ、その矛盾めいた表現は? 良い悪魔なんているのか?」

「くすくす。いるじゃないですか、目の前に」

 それからビーナは、「はて?」と首を傾げるフィラから真紀織へ向き直ると、南の海で伝説の海魔が復活したこと、再び封じるためには、その海魔――「ラディカカ」の天敵であるフィラの力が必要であること、しかし、彼女は今は悪魔へとその属性を変えられてしまっており、そのままでは本来の力を使えないこと、よって、霊力的な属性を持たない人間――真紀織とその身の交換、すなわち魂の入れ替えを行い、フィラの実体としての体を真紀織が「道具」として使うことで、「ラディカカ」を封じてほしい……といったことを、手早く説明した。

「――とんでもないお願いだということはわかっています。けれどフィラさんが来る前にも言いましたように、わたしたちにはあなた以外にお頼みできる方がいないのです」

 話を終えたビーナが、返事をうながすように真紀織へ頭を傾げてみせた。その首に巻かれている黄金のリングが、強くなってきた陽光を反射してきらりと光る。

「あの、おわかりいただけてます?」

 黙ったままの真紀織へ、念を押すようにビーナが聞く。

しかし真紀織はぶんぶんと頭を振って、

「ええっと、全っ然わかんないんですけど?」

「ああじれったい!」

 説教壇の上でフィラが爆発した。

「のけビーナ、わたしが代わる! いいか、交渉とはこうするんだ――マキオよ!」

「は、はい?」

「聞くところによると、おまえはあのブルどもの主人の関係者だそうじゃないか」

「ブル、ども?」

「ええいこの期に及んでシラをきるか、娘! 観念しろ、ネタはあがっているんだ!」

 などと凄まれても、やはり真紀織にはなんのことやらさっぱり見当もつかない。

「フィラさん、時代劇と刑事物がごっちゃになってます。テレビの見過ぎですわよ――マキオ、彼女はあなたのご両親が『カルネア航宙観光』の責任者ではないかと聞いているんです。それから、ブルというのはブルドーザーのことですわ」

 ビーナが助け船を出す。

 それはその通りなので、真紀織は素直にうなずいた。

「よし! ――で、そのブルどもがだな、こともあろうにわたしの島を蹂躙したあげく、ラディカカを封じていた神殿までも破壊してしまったのだぞ? ブルどもの主人の関係者であるおまえには、よって、ラディカカ再封印の手伝いをする義務があるのだ!」

「そ、そんなの、ほとんどいいがかりじゃ――!」

「だが真実であることに変わりはあるまい? それにこうしている間にも、ラディカカは我々を――この島を目指して西進を続けているんだぞ?」

「この島って……日本?」

「そうだ。あと数日で太平洋側の近海域にまで到達するだろう。ここは島としては大きい方だが、しかしこのまま放っておけば、数週間で太平洋岸一帯は全滅だ!」

「そんな、まさか……うそでしょ……」

「いいや。この島だけじゃない、ラディカカが力尽きるまでおよそ一〇〇年――人間という種が滅びることはあるまいが、海沿いにある町や村はほとんど破壊されてしまうだろう」

 最初こそ半分芝居がかっていたフィラの声が、いつの間にか真剣なものへと変わっていた。

「言っておくが、人間たちの力ではラディカカは倒せないぞ――いや、我らの力を持ってしても、根本的に〝やつ〟を滅殺することはできないんだ」

「なぜ、ですか?」

「〝やつ〟が、その本体から切り離された〝一部〟でしかないからだ」

 フィラは、その赤い瞳を閉じてふう、と深く息をついてから、

「――ラディカカの本体は八つの部分に分けられ、それぞれが独立した怪物としてこの人間界のあちこちに封じられている。完全に滅殺するためには、それら全てを解き放ち、いったん元の姿に戻した上で倒さねばならない」

 その一部ですら地球規模での破壊をもたらしかねない怪物が、他にあと七体もいて、しかもそれらが合体してさらに強い魔物になる――?

 正直、真紀織にはもう何がなんだかわからなかった。

 ただ、このフィラという神さまだか悪魔だかが、決してうそを言っていないことだけは、なぜだかはっきりと確信できた。

「数多の神々が力を誇っていた遠い神話時代ならいざ知らず、今の時代にそんなことをすれば、それこそ人類などあっという間に滅びて去ってしまうだろう――」

 語り続けるフィラの態度には、もうさっきまでのふざけた雰囲気は微塵もなかった。

「だからわたしは、〝やつ〟を封じ続けねばならないんだ。残念だが、わたしの封印はブルども――人間たちには無力らしい。だがそれでも、わたしは解き放たれたラディカカと何度でも戦い、そして何度でも封印し続けてゆくしかない……」

「――永遠に?」

 ほとんどひとりごとのように、真紀織が聞いた。

 フィラは、ふっと口元をゆるめて、

「ああ、その通り……永遠に、だ」

 小さくもきっっぱりとしたその宣言に、真紀織の体がびくん、と震える。

 フィラが――説教壇に立つ赤髪黒翼の少女が、そんな真紀織をじっと見つめていた。

「マキオ」

「は、はい……」

「これは、純粋にわたしからの願いだ――」

 フィラの体がふわっと宙を舞い、そして真紀織の前に降り立つ。

 どこか甘く香ばしく匂いが、その褐色の肌から漂ってきた。

「マキオ、頼む――わたしと一緒に、ラディカカと戦ってほしい」

 真紀織は、顔半分ほど上にあるその赤い瞳をしっかりと見つめ返しながら、

「……わかりました。わたしにできることなら、喜んで協力します」

「マキオ、ありがとう……感謝する」

 赤い瞳を閉じて、フィラがその頭を下げた。

「――立派です、立派ですわフィラさん! マキオ!」

 銀髪の女性型精霊に抱かれたビーナが、そう言ってずずずっと鼻をすすった。

「は? ……ばっ、バカもん! これはわたしの交渉術だ! ああマキオ、なぜそこでおまえも泣く!? みんなやめんか! こらそこの金髪! そっちは笑うんじゃない――!」


 目を開けると、薄汚れた天井が広がっていた。

 なんとなく皆人は、子供の頃に行ったことのある銭湯の高い天井を思い出した。

「あれ? どうしておれ、こんなとこで寝てるんだっけ?」

 半身を起こすと、ぎしぎしと木のきしむ音がした。周りを見ると、地方の小さな駅にありそうな、古くさい木製のベンチがずらりと並んでいた。

「教会……?」

 寝かされていたベンチの先に、大きな十字架があった。それを見ているうちに、ようやく記憶が戻ってくる――まきを追ってこの中に入ったら、いきなりすごい風の音がして、天井からいろんなものが落ちてきて、そして……

「――うん?」

 まだホコリのついたシャツのポケットから、小さな紙切れがのぞいていた。

 手にとって開くと、何か書いてあった。

〝――真紀織です。時間がないので先に行きます、ごめんなさい。

 追伸、体の方は心配ないそうです。あと鞄ありがとう〟

「そうです……って、他に誰かいたのか?」

 いかにも真紀織らしい、でも急いだのかやや乱雑な字で書かれたそのメモを見ながら、皆人が首をひねる。

「ビーナ……か?」

 皆人の心にかすかに残る、白い記憶――しかしそれは、他の多くの〝白いもの〟たちの中に埋もれてしまっていて、もう皆人自身にも区別がつかなかった。

 だが、かすかにとにはいえその記憶があるから、皆人は〝ビーナ〟という存在を完全に無視することができなかった。

 ビーナ――生まれたときから真衣子のそばにいるという、謎の白猫。

 純真な子供時代にしか見えない天界の妖精――〝真衣子の奇跡〟を信じる真紀織の心が作り出した、〝奇跡のかたち〟……

「……」

 もう一度教会内部を見回す。

 ふと皆人は、なぜだか自分だけ仲間はずれになったような疎外感を感じた。

 手持ち無沙汰になった手がズボンのポケットを探り、傷だらけの携帯端末を引っ張り出す。

「何時だよ、今――?」

 だが電源を入れても画面は暗いまま。なんの反応もない。

 またバッテリー切れらしい。皆人は改めて、左手首に巻いていた腕時計を見る。

 時計の針は六時一三分を示していた。だがそのアナログ式の秒針は動いていない。

「ありゃ、こっちもとうとう壊れちまったか?」

 元々調子の悪かったそれは、皆人が小学生の頃から身に着けている、元父親のダイバーウォッチだった。当然ながら母はいい顔をしなかったが、皆人としては別に父がどうこうというわけではなく、小学生でこんな本格的なダイバーウォッチを持っているのが嬉しかっただけだ。

「やっぱ、もう限界か」

 皆人は二、三度手を振ってから、腕に巻いたままのそれをベンチの背もたれに軽く打ちつけてみた。

 がたーん! とすごい音がした。

「な、なんだよおい!?」

 あわてて振り向くと、十字架の下あたりで細かい砂ボコリが舞っていた。

「天井でも抜けたか?}

 ベンチを離れてゆっくりと近づいてみる。

 裁判官と傍聴席を仕切るような木製の柵の向こうに、黒ずくめのドレスを着た小さな女の子が倒れていた。

「子供? ……家出でもしたのか?」

 柵を越え、うっすらと靴底らしい跡の残る演説台のようなものの前で一度止まる。

「なんでこんなとこに足跡が? あの子がいたずらして登ったのか?」

 皆人は、台のこちら側から様子をうかがうように身を乗り出して、倒れている女の子を見た。

「ったく、妙な事件がらみじゃないだろうな――おい、おい、大丈夫か?」

 だが返事はなかった。

 さらに近づこうとした皆人は、女の子の背中を覆うように流れている髪が、左右で白と黒にくっきと分かれているのを見て、思わず立ち止まる。

 直後、その白黒の髪が別々に立ち上がり、くるくると回転しながら皆人の方へさあっとのびてくるや、それぞれの先端がぱくっと開いて、

「きしゃあああーーーっ!」

 と奇声を上げた。

「ひょえーーーーーーっ!?」

 あと一歩踏み込んでいたら、確実にかまれるか何かされていただろう。

「う、うぐぐぐ……」

 その蛇のような髪にひっぱられたせいで、女の子が気がついたらしい。

「うう……って、だから痛いっての! バルディアス白! ゴルディアス黒! 戻れ! おすわり!」

 床に突っ伏したまま女の子が怒鳴る。

「きしゅうううん……」

 何やら情けなさそうな〝声〟を出して、白と黒の髪束がゆるゆると戻ってゆく。元の長さにまで戻ったところで、女の子の背中でしゅるしゅると三つ編みになり、最後は普通の髪のようにぱたりと倒れてしまった。

「なんだ、なんなんだ――ああそうか!」

 半分パニックになりながらも、皆人はぽん! と手を打って、

「やっぱり、こいつは悪いゆ――」

「バーカ! 夢じゃないっての!」

 ずるずると体を起こしながら、女の子が言った。くりくりと大きな銀灰色の目。血の気の感じられない白い顔。さらに、透き通るような赤色をした唇の間からは、八重歯にしては大きな歯がのぞいていた。黒系でまとめられたアンティーク調のドレスも含めて、どことなく古い屋敷に置き去りにされた小さなフランス人形を連想させる女の子だった。

「にしても命拾いしたわね!――貧相な魂してるくせに、運だけは天使なみだわ!」

 女の子の言っていることはよくわからなかったが、皆人は自分がとんでもなく侮辱されているような気がした。

 さらに女の子は、足下に落ちていた銀色の鎖で三つ編みの先を縛りながら、

「〝これ〟を解いたのはおまえ? ――のわけないっか。たかが人間ごときに解けるわけないもんねーだ!」

 じゃらじゃらと鎖を結び終えた女の子が、まるで威嚇するように皆人をにらみつけた。

 瞬間、皆人は、自分の背中を氷の固まりが団体で滑り落ちてゆくような悪寒を感じた。

 白黒の髪を除けば、一見普通の小さな女の子にしか見えない。だがその大きな銀灰色の瞳だけは、まるで――こんなたとえがふさわしいとは思えなかったが――殺人もいとわない老練のテロリストのような、〝静かな狂気〟を宿しているかのようだった。

 硬直したように動けない皆人の横を、女の子がゆっくりと通り過ぎてゆく。そして聖堂の真ん中あたりで一度立ち止まると、ぐるりと周りを見回して、

「ちょっと、そこの貧相魂男」

「って、やっぱりおれのことなんだろうな」

 気を抜くとがくがく震えそうになる足にぐっと力をこめつつ、わざととぼけた調子で皆人が答える。

「他に誰がいるっての? そんな貧相劣悪な魂の分際で、このあたしの前で生きていられるだけでも感謝するのね!」

 皆人の強がりなどとっくにお見通しといった感じで、女の子がちらりと皆人の方を見た。しかしその瞳には、なぜか、もうさっきほどの迫力は感じられなかった。

 女の子は、疲れたようにふう、と大きくを息をついてから、

「で、ここはどこなの?」

「どこって、見ての通り教会だと思うけど――思いますけど」

 ぎろりっとにらまれて、皆人が語尾を修正する。

「ふーん、やっぱりそうなの? けどそれにしちゃ〝静か〟すぎよね――会派は?」

「かいは?」

「だから! パリサイ派とか、エッセネ派とか、福音教会派とか――そういうの!」

 と言われも、皆人には全て初耳だった。

「東方正教会には見えないし、聖堂の作りからいって新教系とも別物だし。普遍会派系ならそあたりなんじゃないの?」

 皆人はそこで、あっ! と声を上げた。

「思い出したの!?」

「――キリスト教!」

「ばかーーーーーーーーーっっっ!」

 声の限りの罵声が聖堂内に反響する。

「んなことは最初からわかりきってるっての! ――はあはあ」

 女の子が肩で息をする。

「も、もういい! こんなゾンビも食わない魂男と話していても疲れるだけだわ! いやほんとに疲れたかも! っていうかまるっきり時間と魔力の無駄だったわ!」

 どかとかと床を打ち鳴らし、頭から湯気の出そうな勢いで怒鳴り散らしつつ、女の子がずんずんと出入り口の扉まで歩いてゆく。だが扉を開けた瞬間、

「あ、まぶすぃ~……」

 と言い残して、またばったんと倒れてしまう。

「おーい、大丈夫か?」

「う……うっさい! 劣等絶悪魂男の情けなんか、たとえ氷結魔界(コキュートス)に堕とされたって受けてやるもんか!」

 言葉と態度だけは勇ましいが、たかが陽の光を目にしたくらいで相当なダメージを受けたらしい。どうにか一人で起き上がったものの、小さな体がゆらゆらと左右に揺れている。

「呼吸とトス? えっと、バレーボール?」

 もちろん女の子は、そんな皆人のひとり連想ゲームなど聞いちゃいない。半開きの扉につかまりながら、よろよろと歩き出すと、

「くっそう、久々の人間界だから、ちょっとばかし油断したわ……!」

 女の子は、リボンやフリルまみれのドレスのポケットから、大昔のスパイがつけていたような黒いサングラスを取り出すと、それをさっとかけて、

「くおらフィラあ! これっくらいでこのリリスペインさまがあきらめるとか思ったら大間違いだっての! 地獄の果てまで――じゃない、朝日の向こう側までだって追いかけてやるかんなーっ!」

 ひとり気勢をあげた女の子が、ふらふらしながらも、その言葉通り朝日の中に消えていった。

 一足遅れて教会を出た皆人が、道の左右にささっと目を走らせる。

 だがなんとなく予想していた通り、白黒髪の女の子の姿はもうどこにもなかった。

「なんだったんだろ? あの子――うん?」

 足下で何かがきらりと光った。

「……指輪?」

 拾い上げてみると、確かに指輪だった。ただしとんでもなくごつい作りで、正面部分にはぐわっと口を開けたドラゴンが彫ってあり、ルビーのように真っ赤な宝石をくわえていた。どこから見ても、ウエディングドレスよりどくろマークのTシャツが似合いそうな面構えだった。

「しゅ、趣味わる……あの子のかな? でもそれにしちゃでかすぎるよな」

 サイズ的には、皆人の親指でもまだ余裕がありそうだった。

「やっぱその手のあんちゃん御用達なのか? ってことは見た目ほど高くないのかも」

 好奇心に負けて、ちょっと指にはめてみる。案の定ゆるゆるだった――が。

「あれ? 今なんか指輪が縮んだような……」

 皆人はとっても嫌な予感がした。指輪を通した指の先を見ると、うっすらとだが血のあとらしい汚れがこびりついていた。教会内で気を失ったとき、どこかに怪我をしたらしい。

「……これってひょっとして、この手のアイテムにはお約束の〝血の契約〟とかいうやつだったりして? ま、まさかね――」

 そろそろっと指輪を引っ張ってみる。やっぱり、指輪はぴくりともしなかった。

「!? や、ヤバっ! こいつ絶対ヤバいって!」

 だがどんなに押しても引いても回してみても、指輪ははずれなかった。

「と、取れん! どーやっても取れん! うわどーしよ! ……ああそうだ、石けんだ、石けんつけて取ればいいんだ! 生活の知恵万歳! とにかく一度家に帰って――」

 とりあえずよれよれのハンカチで指輪ごと左手をぐるぐる巻きにしていた皆人の手が、そこでぴたりと止まる。

 見知らぬ家。馴染みのない町名。初めて見る町並み……

「――どこだよ、ここ?」


3


 聖エレナス学院女子高等部の朝は聖堂でのミサから始まる。

 すでに六時前から行われている学院シスターたちの祈りに引き続き、七時からは生徒たちも参加しての全校ミサとなる。彼女たちはクラスごとに聖堂組と講堂組とに分かれ、朝食までの三〇分を清廉な時と空間の中で過ごすのである。ちなみに聖堂組は、隣接する男子部の生徒たちとの合同ミサとなるのでちょっとだけ嬉しい。

 六時五五分の予鈴が鳴る。己の限界に挑戦するかのようにぎりぎりまで寮のベッドで粘っていた生徒たちが、ばたばたと校庭を走り抜けてゆく。まだ残暑といっていい日々が続いているが、全員第一正装である紺のブレザーを着用している。リボンも式典用の緑色。たまに寝ぼけて通常用の赤いリボンをつけて行ったりなんかすると、しっかりと生徒手帳の服装違反記録欄にチェックされてしまう。チェック欄がフルマークされれば、〝ごほうび〟として一週間の外出禁止令がもれなくプレゼントされる。

 というわけで生徒たちは走る。赤いリボンだった生徒は、服装違反かミサへの遅刻かという究極の選択に、迷える子羊のごとく行きつ戻りつを繰り返している。

 外出禁止にリーチをかけている者は、思わず天(空)を仰ぎ見て、ミサのそれよりも真剣に祈る――ああ主よ、全知にして全能なる主よ! あなたの迷えるかわいい子羊ちゃんに救いの手を。今この瞬間にミサが中止になるような事件、いえ〝奇跡〟を起こしたまえ……!

 今朝に限って、その願いは届いた。

 校庭の生徒たちが見上げる中、天より〝奇跡〟たちが舞い降りる。

 ――ヘリコプターに乗って。


 騒音に満たされたその機内からは、吹き下ろされる風にあおられて校庭を逃げまどう生徒たちの姿が見えた。

「どうやら間に合ったようですわね」

 ほっとした声でビーナが言った。それから目の前に座っている『真紀織』へ、

「朝のミサは大切な儀式です。失礼なことのないよう、よろしくお願いしますよ?」

「ふん、なんでこの『わたし』が異教の神の儀式に参列しなくてはならないんだ――そもそも、ラディカカが迫っているこの時期に神頼みをするなら、この『わたし』にするのがスジだろうに! まったく人間たちは神を見る目がない……!」

 ひん曲がった緑色のリボンの前で腕を組みつつ、『真紀織』がぶつぶつと文句を言う。その頭上では、両側に小さな猫耳のような突起のついた銀色のティアラが光っていた。

「リボン、また曲がってますよ!」

 背中の翼が邪魔なので、途中のコンビニで買った男物のワイシャツを前後逆に着ている『フィラ』が、騒音に負けない大声で注意する。『彼女』の赤い髪にも、同様のティアラがあった。

「うん? ああ、こうか? ――ありゃ?」

「逆です、逆! 余計曲がっちゃったじゃないですか!」

 たまらず『フィラ』が手をのばし、リボンをきちんとまっすぐに直す。

「わたしのことより、おまえの方こそなんとかならないか? なぜそんなへんてこな格好をしている?」

「だ、たって、恥ずかしいじゃないですか……!」

 オーバーサイズのワイシャツの裾をぐいぐい引っ張りながら『フィラ』が答える。しかしそのせいで、逆に細身の割に大きな胸がことさら強調されてしまう。

「わたしにはそっちの方がずっと恥ずかく見えるぞ」

『真紀織』がずばり指摘する。

「だいたい、その体の紋様はだてじゃないんだ。その一つ一つが独立したいわゆる呪文の役目を果たしている。下手に隠して魔法なり神術なりが不発に終わったら、困るのはおまえ自身なんだぞ?」

「そっちこそ、もっとお行儀よくできないんですか? 足は組まないでちゃんと閉じて、ごはんを食べたらすぐに歯を磨いて、トイレに入ったらちゃんと手を洗うんですよ? あと寝る前にはブラッシングを最低五〇回――」

「まったく、手間のかかる体だな」

「デリケートって言ってください!」

「まあまあ、お二人とも」

 外の様子を見ていたビーナが機内を振り返って、

「それよりどうですか? 体の方に違和感とかはありません?」

「〝これ〟がわたしの趣味じゃない以外は、別に」

 銀のティアラを指さしながら、『真紀織』が答える。

「わたしは、ちょっと熱っぽいかも……」

『フィラ』は、そう言うと自分の額に手を当てた。

「体を――魂を入れ替えた直後ですからね。慣れるまでにはもう少しかかるでしょう」

 ビーナは、のどをごろごろさせながら『フィラ』の方を見て、

「特にマキオ、あなたの方は異教とはいえ元は神さまの体なのですから、そのくらいですんでいるのは、むしろ驚きですわ。いくらあなたが――ああ、いえ、その……」

 急にビーナが口ごもる。だが『フィラ』の方は、ちょっと体を浮かせて背中の黒翼をぱたぱたさせたりしていて、ビーナの言葉を最後まで聞いていなかった。

『彼女』たち――真紀織とフィラがお互いの体を、つまり魂を〝交換〟してから、まだ三〇分とたっていない。

 儀式そのものはあっけなく終了した。特に真紀織にとっては、何かの呪文で眠らされているうちに全てが終わってしまい、気がついたときにはもうフィラの姿をしていた。時間的にもほんの数十秒といったところで、はっきり言って拍子抜けだった。

 それよりも真紀織には、ビーナの従者を名乗る二体の女性型精霊、金髪のエルドナと銀髪のミスリナの〝変身〟の方が驚きだった。

 真紀織たちが教会内で魂(体)を入れ替えた後、まずミスリナが銀色の豪華なリムジンに姿を変えた。ぐにゃぐにゃと徐々に変形していったわけではなく、感覚としては、ミスリナが消えた直後にリムジンが〝出現〟したという感じだった。

 そのリムジンで近くにあった小学校の校庭に乗りつけると、今度はエルドラが、機体に金色のラインの入った派手なヘリコプターになってしまった!

「やっと〝下〟が落ち着いた。これより着陸する!」

 操縦席からそのエルドラの声が言った。だがそこに彼女の姿はない。この機体自体がエルドラなのだ。はた目には無人で飛んでいるように見えて、ちょっとこわい。

 機体が降下を始める。フィラの姿をまとった真紀織は、思わず腰のシートベルトを握り締めた。それを見て真紀織が――彼女の姿をしたフィラが、くすりと笑う。

「さっきから落ち着かないやつだな。空を飛ぶのは初めてか?」

「へ、ヘリコプターくらい、乗ったことあります!」

 実際、真紀織の母はプライベートで自家用ヘリを持っていて、フロリダの本宅(プール付き)にはヘリポートまであった。だがどうやら一般庶民であった父の血をより多く受け継いだらしい真紀織は、ずっと皆人の家で暮らしている真衣子のこともあり、成金趣味丸出しのその家がどうしても好きになれなかった。

「そういう意味で聞いたんじゃないんだがな」

 真紀織は、意地悪い笑みを浮かべている自分の顔――〝わたし〟ってあんな顔もできるんだ――から目をそらすようにして、また無人の操縦席を見た。

 とにかく、いかに人智を超えた存在とはいえ、人の形をしたものが車やらヘリコプターやらになるなんて、真紀織にはやはり信じられなかった。だがビーナによれば、天使などよりも下位の存在である精霊たちにとっては、逆に〝人の形〟でいる方が大変なのだという。

 ビーナは、主が自らを模してお造りになった〝人〟の複雑さに比べれば、この〝飛行機械〟の方が遙かに単純なのですよ――と言った。しかし真紀織から見れば、自分なんかよりもこのヘリコプターの方がずっと複雑な存在に思えた。

 がくん、と軽いショックがきて、ヘリコプターが校庭に着陸した。

 ほとんど同時に、いかにも合成音じみた鐘の音が鳴った。

「まったく、宿命の敵がすぐそこまで迫ってきているというのに、よりによって異教の儀式にに出て、あの男なんぞに祈りを捧げにゃらんとは……」

 不満そうな顔でヘリから降りようとしているフィラへ、ビーナが、

「フィラさん、ちゃんとマキオの代わりをするって約束しましたでしょ?」

「ああ、ああ、わかってるって! ただ座って食って寝ていればいいんだろう?」

「はいはい、それでいいですよーだ」

 遠目に見守っている生徒たちから隠れるように機体の陰に身を寄せながら、真紀織。

「余計なことして問題起こされるより、ずーっとましですからね!」

 フィラはその栗色の頭をとんとんと叩きながら、

「もっとわたしを信用しろ。おまえの〝記憶〟もあるからな、万事うまくやってやる。どうやらおまえは友人が少ないようだから、フィセラセラ教の布教と信者獲得をかねて友だち一〇〇人ほど作ってやってもいいな。見事ラディカカを封じた暁には、わたしは神さま、おまえは学校の人気者だ。良かったな! ではそいういうことで――」

「わあ、だめだめ! それだけは絶っっっ対やめてください! いいですね!? ――それよりビーナ、わたしの方はフィラさんの〝記憶〟がたどれないんだけど?」

 フィラの目から見ると、まるで中等部の生徒のように小さく見える自分の姿にちょっとがっかりしながら、真紀織が聞く。

「それでいいんです。彼女と普通の人間のあなたとでは、元々その魂も体の造りも違いますから、必要でない部分はあえて抑えてあるんです」

「わたしの記憶を全て解放したところで、どうせおまえには理解できまい」

 フィラが割って入る。真紀織はちょっとむっとしながら、

「どういうことですか?」

「わたしには、常用しているものだけでも、なんだかんだで数百年分の記憶がある。普通の人間が一生かかって得る量のざっと数十倍だな。それだけの情報に一気にさらされたら、どうなると思う?」

 ヘリから降りたフィラが、チェックのスカートがあおられて舞い上がるのを無視して続ける。

「しかもそのほとんどが、魔法だの神術だのといった知識に関することなんだぞ。次々に流れ込んでくるそんな異能の記憶の奔流に、人間の魂が耐えられるものか。その片鱗すら理解できないまま自意識が崩壊して、二度と元の体には戻れなくなる」

「それって、まさか……」

 真紀織はビーナを見た。白猫が目を閉じながらうなずく。

「死ぬってことだ」

 フィラがさらりと言った。

「そうなったらわたしもその体には戻れなくなる。とても迷惑な話だ。ゆえにわたしの記憶のほとんどは封じてある。別に出し惜しみしてるわけじゃない。わかったか?」

 真紀織は黙ってうなずくしかなかった。

 それを見てフィラはヘリのドアを閉めようとしたが、

「そうだビーナ、リリスの――あの〈指輪〉の方は、本当に大丈夫なんだろうな?」

「彼女があなたを追って人間界に〝昇って〟きたのは確認しています。そちちはミスリナさんに捜索をお願いしてあります」

 ビーナは、真紀織が後ろ前に着ているシャツの襟元からのぞいている〈敗者の首輪〉――禍々しい顔のドラゴンが特大の魔法石をくわえているそれ――を見やりつつ、

「この〈首輪〉と対になる〈支配者の指輪〉の方も、やはり彼女が持っていると考えるのが妥当でしょう。でなければ追いかけてくる意味はありませんから」

〈敗者の首輪〉を巻かれている者は、基本的に〈支配者の指輪〉をはめている者には逆らえない。もし逆らえば、痛み、幻覚、一部身体機能の強制停止などなど、ありとあらゆる苦しみが待っている。無理にはずそうとすれば、魔法石に封じ込まれている強力な魔法が発動してその者を一瞬で滅殺してしまうのはお約束として、力尽くで〈指輪〉を奪おうとしても、〈首輪〉をされているものの魔法は一切通用しない仕掛けになっている。さらに他の者が浴びせた魔法も、〈指輪〉を介して〈首輪〉の方に流されてしまう。物理的な攻撃は防げないが、腕力よりも魔力の強さがものをいう魔界においては、この〈支配者の指輪〉を持つ者は、実質的に無敵の存在とさえいえた。

「まあ、現在の人間界では使える魔力にも限界がありますし、おまけに、今あなたの体を〝支配〟しているのはマキオの魂です。彼女の魂が完全に魔気に冒されないうちは、〈指輪〉の支配力も及びません」

「まき……?」

 ビーナは、真紀織の方にちょこんと首をかしげながら、

「あなたの名前でなくて、〝魔の気配〟のことですわ。けれどご心配なく。そちらの方はわたしのティアラが防ぎます。無銘の急造品ですが、一週間……いえ正確には五日間だけ保てばいいのですから、なんとかなるでしょう」

 フィラは、自分を見つめている真紀織の――自分の赤い瞳をじっと見返しながら、

「まあいい。そっちは任せたぞ。じゃあ――」

「あ――フィラさん!」

 頭上で回るローターの勢いが再び増してゆく中、真紀織がはっとした声でフィラを呼び止めた。

「なんだマキオ! もうかなり時間を食っているぞ、いいのか?」

「この際、無断外出さえバレなきゃいいです! それよりスカートにもっと気を使ってください! 風にあおられて下着が見えまくりじゃないですか!」

「気にするなって、ちょっとした〝さーびす〟だ!」

「誰にサービスしてるんですか! 誰に!」

 フィラは一瞬考えてから、ニヤッと笑って、

「決まってるじゃないか? 〝ミナトくん〟にだ!」

「――! ふぃ、フィラさん!?」

「マキオ、離陸しますわよ! ドアを締めてくださいな!」

「ではいいな! 夕方にはちゃんと見に行くから、しっかり特訓するんだぞ!」

「そっちこそ! 信者集めなんてしないでくださいよ! それから皆人くんのことは、だからそういうんじゃなくて、ええと――!」

 ヘリが上昇してゆくにつれ、しかしその声は騒音に紛れて聞こえなくなってゆく。

 フィラは小さくなってゆくヘリを見送りながら、

「もう聞こえなくなってしまったか。感覚機能は並の動物以下だな……しかしマキオのやつ、結局何が言いたかったんだ?」

 とんとん。

「くっそう、このアタマでは思考力に限界があるな。しかし変だぞ、容量的にはもっと余裕があはずなのに――うん? 脳の内部に封印が……魔法、いや神術か?」

 とんとん!

「誰かが故意に能力の一部を封印しているのか? マキオだけ……いや違うな。こいつはもっと大掛かりな神術の一部だぞ? となると、全ての人間の脳にこれと同じ封印が――?」

 とんとんとんとんとんとん――!

「ああうるさい! 誰だわたしの肩を気安く叩きまくってるのは!? 今わたしは全人類に仕掛けられたとてつもない謎の正体について重要なことを――なんだ、シスターか」

「なんだとはまたごあいさつですね」

 フィラが振り向くと、紺の修道服に白いフードをかぶった年配のシスターが、口元を引きつらせて立っていた。

 母たちの時代から学院の生徒たちに恐れ続けられている、修道規範(生徒指導)係のシスター・マルガレーテだった。

「この騒ぎは何事ですか! 学校の校庭にヘリコプターで乗りつけるなんて! おかげで朝のミサがめちゃくちゃです! どこのお嬢さまか知りませんけど、その根性、わたしが叩き直してあげましょう!」

「待てまて。そうあわてるな、シスター……ああっと、マルガリータ?」

「シスター・マルガレーテ!」

「うーん、惜しかった。マキオめ、記憶の仕方がめちゃくちゃでわかりづらいぞ!」

「あなた、自分の間違いを他人に押しつけるつもりですか!?」

「他人と言えば他人だけど、しかしもはや自分自身でもあるんだな、これが」

「何を言ってるんですかあなたは?」

 フィラはその栗色の髪をさっと払って、

「要するにだ、この通りわたしはもはや悪魔などではなく、どこからどう見ても一介の平凡な女子高生でしかない。だからそう目くじらを立てることもないってことだ」

「まだ寝ぼけているのですかあなたは? いいから生徒手帳をお見せなさい!」

「おいシスター、おまえこそもっとわたしの話を……まあよかろう。これのことか?」

 シスター・マルガレーテは、フィラの出した生徒手帳をひったくるように手にすると、

「一年百合組の神崎真紀織さん、ですね? 髪の色は承認ずみ、と」

「そこに書いてあるだろう」

「口答えしない!」

「それでどうやって答えろと?」

「き――っ!」

 そのシスター・マルガレーテの声に、フィラたちを遠巻きに見ていた生徒たちが一斉に逃げ出す。

「神崎真紀織さんっ!」

「あ、わたしのことか。なんだ?」

「ですから、あのヘリコプターです! あれはどういうことですか!?」

「別に乗りつけたわけじゃない。道に迷ったと言うから、案内をしてやっただけだ」

 うそは言っていない。半ば異界と化していたあの教会周辺から、元の世界にあるこの学校まで、脳内の記憶も併用しつつヘリを案内したのは〝真紀織〟自身なのだ。

「どこの世界にわざわざ女子高生をつかまえて道を聞くヘリコプターがありますか!」

「人間界にはなくても、天界にはあるらしいな」

「……は?」

「いや、こっちの話だ。さっさと忘れてくれていい」

 シスター・マルガレーテは、こめかみに手をやってはあっと息をつくと、

「とにかく! ヘリコプターの方は、後でしかるべき機関に確認をとってから、改めてきちんとさせますからね! わかりましたか!?」

「無駄な努力だとは思うが、それで気がすむのなら好きにすればいい。ではわたしには大切なミサがあるので、これにて失礼――」

「お待ちなさい!」

 去ろうとするフィラの肩を、シスター・マルガレーテの筋張った手ががしっ! とつかむ。

「まだ何かあるのか?」

「ありますとも! その頭の髪飾りは何ですかっ!? ヘアバンドの類は禁止でしょう !今すぐはずしなさい! 没収です!」

「――やめろ」

 老シスターの青い瞳をじっと見返しながら、フィラは〝自分の声〟で言った。

「これに触るんじゃない」

 小柄な真紀織の体を威嚇的に見下ろしていたシスター・マルガレーテの手が、ぴたりと止まる。

「な、な……体が、わたしの、体が、動かな――!」

「人の身をまとってはいても、この魂は〝わたし自身〟なんだぞ。その気になれば人間を殺すくらい、わけはない」

 必死に体を動かそうとしているシスター・マルガレーテには、しかしその言葉ば届いてはいないようだった。だがフィラはかまわず、

「わたしだって、できればこんなものはしていたくない。目の前でビーナのやつが吐き出した代物だぞ? そんなもの頭に載せたいと思うか。普通?」

「う、うぐぐ……」

「だろ? けど仕方ないんだ。これを取れば、マキオの体がわたしの魂にこびりついている魔気に冒されてしまう。そうなったら、あやつの魂はもうこの体には戻れなくなってしまうんだぞ?」

「う、うぐ、うぐ……」

「もちろん、わたしの方も自分の体には戻れなくなる。そうなるとマキオが神さまで、わたしが信者一号になってしまうじゃないか――ああいや、とにかくだ、つまりはそういうことだ。わかったか、シスター?」

 シスター・マルガレーテの額から、返事の代わりに粘っこい汗が一筋、流れ落ちる。

 フィラの顔に〝真紀織の笑み〟が戻る。

「よし。おまえの体はあと一分後に元に戻る。そのときは、これまでここで見聞きしたことは全部忘れている。ついでにわたし、神崎真紀織は時間通りにミサに出席していて、このティアラもおまえから特別に許可を得て着けているものとする――以上、よろしく! ではさらば!」

 言うが早いか、フィラはすたこらさっさとその場から走り去る。

 だが、自分の向かっている先が聖堂ではなく、隣接する男子部の学生寮であることを彼女が知るのは、もう少し先、匂いにつられて迷い込んだ食堂で、すでに用意されてあった〝好物〟のベーコンエッグにかぶりついていたところを、連絡を受けてやって来たシスター・マルガレーテに〝再逮捕〟されてからだった。



第二章  神の槍と悪魔の指輪



1


「未確認船、浮上しました! 方位二九〇(北西)、距離約二二〇〇ノーチカルマイル(四〇〇〇メートル}。速度は――約三〇ノット(五五キロ)!」

 アメリカ海軍東太平洋軍第三艦隊・空母コンステレーション戦闘群(空母打撃部隊)所属のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦〈ジョン・ルース〉の奥深く、薄暗い照明と独特の緊張感に支配された艦内CIC(集中情報処理センター)に、若いレーダー担当士官の緊張した声が流れる。

「よおし! 今度こそ逃がすな!」

 背中に蛍光テープで〝BOSS!〟と書かれた救命胴衣を着た艦長が、その太い腕でガッツポーズを作る。

「全乗組員へ! やるぞ! 砲雷撃戦用意! 両舷最大船速!」

「艦長。失礼ですが、未だ相手の勢力も意図も不明のままです。真珠湾の艦隊司令部からも、まずは状況確認を優先せよとの命令が――」

 通信士官席の後ろに立つ黒人の副長が、冷静な声で指摘する。

「〝やつ〟はアメリカ船籍の民間調査船〈アリアス〉号を沈めたんだぞ!」

 艦長の手が巨大な発光パネル上に置かれた海図をバン! と叩く。

「我がアメリカの同胞に牙をむきやがったんだ! 〝やつ〟がなんであれ、そんなマネをしたらどうなるか思い知らせてやる!」

 副長を除くその場の全員が、うおーっと声を上げる。

「多数決だ。おまえの好きな民主主義だぞ副長? だいたいここまで三日間も追っかけ回してやっと捕まえたんだ。ここで他の艦に横取りされてたまるか!」

「しかし艦長! 相手は全長約三〇〇メートル、幅約一五メートル、推定排水量四〇〇〇〇トンの化け物なんですよ? もしもどこかの国の極秘戦略ミサイル潜水艦だったりしたら、どうするんですか!」

「本気か、副長? そんなでたらめなスペックの潜水艦なぞあるもんか!」

「では〝あれ〟はなんなんですか!」

「決まってるだろう、〈アリアス〉号の仇だよ!」

「艦長――!」

 だが、そこへレーダー士官の声が割り込んできた。

「失礼します、未確認――いえ〝敵影〟が回頭! 方位二七〇!」

「ほとんど真西へ一直線か。これまで三日もハワイの下でぐるぐる回っていたくせに、何を考えてやがるんだ?」

「さらに北寄りに進路を変えれば、日本列島の太平洋側全域が到達予想範囲に入ります。この速度なら一週間とかからないでしょう。やはりここは艦隊司令部に連絡して、日本政府への通報を要請すべきでは?」

 なおも食い下がる副長へ、しかし艦長は、

「ふざけるな。日本まではまだ六〇〇〇キロ以上あるんだぞ? それよりここで沈めてやる方が、日本政府だって大助かりだろうさ!」

「ですが、軍の交戦規定によれば――!」

「おい副長! いいかげんにせんと上官侮辱罪で営倉行きだぞ! かまわん、射撃管制用レーダー始動、目標をロックオンしろ!」

「アイ・アイ・サー! ――あ、待ってください、〝敵影〟がまた消えました! 潜行した模様……いや再浮上! い、いえまた潜行して――くそ、なんだよこいつ!?」

 レーダー士官が思わず叫ぶ。

「こら! もっと正確に報告せんか!」

「い、イエッサー! 〝敵〟は潜行と浮上を繰り返しつつ、本艦へ向け回頭中! 方位一九〇、そ、速度――八〇、いや九〇ノット以上! なお増速中!」

「本艦との衝突コースです、艦長!」

 副長が怒鳴る。

「わかってる! ――ブリッジ、艦長だ! こららも急速回頭、方位二七〇! 戦闘船速!

レーダー、〝やつ〟は今どこだ!」

「ほ、本艦の真横です!  距離、速度――ともに計測不能!」

「なんだと、そんなバカな――!」

 直後、艦体が一瞬横倒しになったかと思うほどの衝撃が〈ジョン・ルース〉を襲った。

 CICに詰めていた士官たちのほとんどが床に放り出され、または計器板に叩きつけられる。耳障りなサイレンが鳴り、計器板の一角を占めるダメージコントロール画面の右半分が、一斉に赤く点滅を始める。

「くっ……! 全員、第二撃に備えろ! ブリッジ、状況報告!」

 床に手をついたまま、艦長が怒鳴る。

『こち……リッジ! バージ伍長! 海が、海が本艦に攻撃を――!』

「ブリッジ、落ち着け! 海がどうした!」

『……海が突然……牙を! ああっ! また来るぞ――! うわあああ!』

 今度の衝撃はさらにすさまじく、艦長は艦の中心を走る竜骨の折れる音をはっきりと聞いた。右側に大きく傾いた艦も、そのまま元に戻らない。

「なんだ、何が起こってるんだ!? いったい〝やつ〟は何者なんだ!?」

 うわごとのように叫ぶ艦長に代わって、頭から血を流しつつも副長が命令する。

「通信士官! 艦隊司令部へ緊急! 〝我、未確認物体と接触、これと交戦中。艦は大破、至急救援を乞う! 現在位置ハワイ島沖、約二四〇ノーチカルマイル(四五〇キロ)――!〟」

 だがその無線の途中で、ミサイル駆逐艦〈ジョン・ルース〉は、まだ夜の明けきらない東太平洋上にて爆発炎上、轟沈した。


2


 細くて長い褐色の指が、やっと見つけた緑色の公衆電話に向かってのびる。真っ赤な色の長い爪を気にしつつ、ためらいがちにゆっくりとボタンを押す。

 八桁のプッシュ音の後、ずっしり重い受話器の向こうから、籠った音の呼び出し音が続く。

 大きなバッグをむりやり背負った背中に視線を感じつつ、じりじりと待つ。

 呼び出し音が消え、相手が出る。

「もしもし? ……あ、おばさま? はい、真紀織です。もうお帰りになってたん――え、声? いえ、ちょっとカゼかなあコホコホ、なんちゃって──いえいえ大丈夫です。はい気をつけます。ところで皆人くんはもう帰ってきて……いえ皆人くんのスマホとか、繋がらなくて。あ、そうですか、じゃあこのまま待ってます」

 保留用のBGMが流れ始めた受話器を耳にあてたまま、真紀織はふうっとため息をついた。思い出したかのように、周囲の喧噪が戻ってくる。

 ざわざわと人の行き交う音。かすかに聞こえるアナウンス。たまにピンポーンと鳴る自動改札の、あの一瞬どきっとする音――

 真紀織は顔を上げて、その先にある案内板を見た。

 ――JR秋葉原駅。

 前後を上野、東京の両ターミナル駅に挾まれ、さらに背後には中央線快速経由で新宿駅とも直結している、日本最大にして世界屈指の「趣味の街」秋葉原。その玄関口。

 とはいえ小学校時代から寮生活をしている真紀織は、その記憶が確かならば、この駅で降りるのは実に六年ぶりのことだった。

 朝早いせいでまだほとんどの店が閉まっていたとはいえ、あの頃とはずいぶんと街のイメージが変わったような気がする。

『――はーはー、まきか? どうした、寮だとまだ電話できる時間じゃないだろ?』

 いきなりBGMが消えて、皆人の声になった。急いできたのか、少し息が上がっているようだった。でもそれ以外はいつもの調子の皆人の声に、真紀織はほっと息をつくと、思わず、

「ねえ、秋葉原って、こんな感じだったっけ?」

『は? 秋葉原? なんだおまえ、アキバにいるのか?』

「あ……っと、違うの! ええっと、学食にあるテレビで秋葉原が映ってて、それだけ! ほんと、それだけ!」

 真紀織は、改札前の床一面に張られた巨大なゲーム広告に目を向けながら、

「なんだか電気屋さんってイメージじゃなくなっちゃったなあとか、みんな話しててさ、ちょっと気になっただけ、はっはっはー!」

『おまえな、いつの時代の話をしてんだよ』

「えっと、小学校時代かな?」

『いやいやその頃にはもう立派なオタク御用達の――じゃなくって。それよりおまえ、どうしていきなりあんな教会になんか行ったんだ? 学校はどうしたんだよ、間に合ったのか?

んなわけないよな』

「ええっと、び、ビーナがいたのよ。でもすぐに教会の屋根とかが落ちてきて、そのどさくさで見失っちゃって……」

 電話前に考えておいた言い訳を続ける真紀織の額から、汗がだらだらと流れ落ちる。

「学校の方は、まあなんとかなったんじゃないかなあ、たぶん、はっはっは――皆人くんの方こそ、大丈夫だった? 一応ちゃんと帰ってこれたみたいだけど、連絡つかなかったし」

『ああすまんかった、いつものバッテリー切れ。あのあと知ってる道に出るまでちょっと迷ったけど、そっちの方は全然問題なし』

「そっちの方? って、じゃあ他にも何かあったの?」

『え? い、いいや何もないって!――そ、そっちこそ、体の方とか本当になんともないのか? メモは読んだけど、なんか声とか変だし。今頃声変わりか?』

「んなわけないでしょ、ちょっとカゼかなあコンコン、なんちゃって」

本来の自分よりいくらか低めの声を気につつ、真紀織。

『なら、今日はもうこっちへ来ない方がいいな。まいにカゼ伝染されちゃかなわないし』

「あ――っと、う、うん。そだね」

『どーかしたか?』

「いやその、こっちもね、今そうお願いしようって思ってたから――こほこほ」

『そか。まあ週末まで二、三日あるし、ついでだからゆっくり休めよ。うちの〝あれ〟は夜勤続きだけど、それもこっちでなんとかするから』

 真紀織は電話機の上に置いた他人(他神?)の手を見つめながら、

「ごめんね、迷惑かけちゃって……こんこん」

『別にいいって。まいだけじゃない、おまえの体だって大切なんだから――』

「けほけほ――え?」

『ああなんでもない、なんでもない! いいから休んでろ! 完全に良くなるまで顔出すんじゃないぞ! わかったな! 返事!』

「お、おー!」

『よーし!』

 真紀織は、皆人の勢いにつられて思わず振り上げてしまった腕をささっと戻すと、

「――じゃ、わたしちょっとやることあるから、これで切るね」

『あ、ああ――そんじゃまた』

「うん――それじゃまた」

 横のフックに受話器を戻した真紀織は、緑色の公衆電話にばしっ! と手を合わせると、

「皆人くん! まい! それとおばさま! みんなうそついてごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! でもでも、わたしには人には明かせないとっても重大な秘密の使命が――あ」

 周りの目線がすっごく痛い。

「……」

〝フィラの目〟で次々にガンを飛ばし、その目線どもを追い散らす。

 足早に立ち去る人々を横目に、これはこれで悪くない気分かも、とか思う。

「不良さんって、こんな感じ?」

そうして何気なく顔を向けた先、公衆電話の並びにある、証明写真撮影ブースの細長い鏡からこちらを見返している〝自分〟と目が合った。

 きらきら光る銀色の猫耳風ティアラを載せた真っ赤な髪をぎちぎちのお下げにして、目にはこれもコンビニで買った日除け&目隠し用サングラス。でも小顔なフィラにはフレームが大きすぎて、すぐ鼻先にずり落ちてくるのでほとんど役に立っていない。背中の翼は〝魔法〟でぎりぎりまで小さくした上で、シャツに入れた切れ目から出して口を開けたまま背負った通学バッグの中に突っ込んである。ちなみに体型をごまかすためにわざと選んだオーバーサイズのワイシャツは、さすがに前後を戻して着直しつつ余った裾をしばっている。

そんな姿に加えて、さらにしばった裾の下からのぞくのは、紋様を隠すために選んだ濃いめのストッキングに妖しく黒光りするピンヒールのブーツ――とくれば、これはもう、周りの人々に「こっち見るな!」という方が無茶な話ではあった。

「やっぱり、こんなカッコで皆人くんち、行けるわけないよね……」

 がっくりと肩を落とし、撮影ブースの鏡から目をそらす。

「二、三日かあ……それでケリがつけばいいけど」

 ラディなんちゃらとかいう異界の怪物がやってくるまであと五日。

 こちらから出向いていかない限り、「決戦」が週末にかかるのは間違いない。

 真紀織にとって外泊許可の出る週末は、叔母の家でもある坂井家――つまり皆人の家に泊まるのがいつもの習慣だった。家の二階には、皆人の部屋の隣にちゃんと自分の部屋もあった。

 真紀織の両親は晴海の高層マンションにセカンドハウスを持っていたが、寮に入ってからは数えるほどしか戻っていない。おかげでそこは、いつまでたっても「他人の匂い」しかしない「他人の家」だった。

そんな「第二の実家」とも呼べる場所で大切な妹と過ごす週末をどうするか。まさかフィラを一人で行かせるわけにもいかないし。だったら「真紀織の友人」ということで、自分も一緒について行ったらどうか? インドあたりからの留学生とか言って――いやだめか。リアリティがなさすぎる。

「第一、わたしにそんな友だちがいるわけないの、バレバレだしね……」

 真紀織には、親しい友人と呼べるのは皆人しかいない。空いている時間は全て真衣子のために使っていた。クラスメートから遊園地だのホームパーティーだのに誘われても全て断ってきた。だって真衣子はずっとベッドの上なのだ。なのにわたしだけ、楽しい思いなんかできるわけないじゃないか――

 ため息が出る。腕を組む――が、その腕が張り出した胸の下にすっかり隠れてしまうのがなんかくやしくて、やっぱり解く。

「いっそ皆人くんに全部話して、協力してもらえたら――だめだめ、巻き込めるわけないって! だいたいどう話したらいいのよ、こんなこと……」

 そんな真紀織の鼻先をかすめるよにして、何かが落ちてきた。

 秋葉原駅の隠れた名物、鳩のフンだった。危なかった。あと少しで直撃だった。

 出てもいない冷や汗を拭うようにしながら、真紀織は、もう一つ重大なことに気がついた。

「そうだ、お風呂とかどーなるの!? 寮には帰れないし、晴海の家は居候が居座ってるし……」

 その居候は母方の甥っ子で、カルネアグループの化粧品・日用雑貨部門ブランド『カネーダ』――日本では絶対売れそうにない名前だと真紀織は思う――の日本支社で働いているということだった。しかし実際は、ドイツ支社で問題を起こし、真紀織の母のところに転がり込んできたとんでもない大バカ野郎だった。

「だからって皆人くんとこで借りるわけにもいかないし――まさか、ラディカッカとかゆーのを退治するまで、わたしお風呂に入れないとか? うわ、そんなのやだよー!」

「――〝ラディカカ〟ですわよ、マキオ」

 その声にはっと振り返ると、公衆電話の上でちょっときゅうくつそうに座っている白猫――ビーナの姿があった。

「お待たせしました。準備が整いましたわ、さあ行きましょう」

「お風呂の!?」

「はい?」

「あう、えっと……」

「はいはい、わかってます。でも心配ありませんわ」

 ビーナは背中の四枚羽をぱっと広げて電話から飛び降りると、

「その体は人間と違って成長しませんから、老廃物の類は出ません。なので儀式として行う禊(みそぎ)は別として、体を清潔に保つための入浴は必要はありませんわ。良かったですね」

「良くない!」

 人々の間を縫うようにして駅のコンコースを歩いてゆくビーナの後を、こちらはコツコツとピンヒールを鳴らして追いかけながら、真紀織は、

「でも――ってことは何? フィラさんって、いつからお風呂に入ってないの?」

「少なくとも地獄、というか正確には煉獄魔界ですけれど――に堕とされてからは、その手の行為はしていないはずです。ざっと数百年といったところでしょうか?」

「す、す、数百年んんー!? ってことは、ええと江戸時代前から入ってないっての!?」

 徳川家康もびっくりだ。たぶん。

 真紀織は頭がくらくらしてきた。

「でも、いやな匂いとかはしていないでしょ?」

「そ、そりゃそーだけど――!」

 フィラの肌は、確かに日に焼けたココナッツオイルのような匂いしかしない。決して不快な匂いではなく、いかにも南国風で、フィラの外観にぴったりだった。

「で、でもこれ見て! 汗よ、汗! 立派な老廃物!」

 額に浮いたそれを真っ赤な爪の先で示しながら、必死に訴える。

「その汗は、人間のそれをコピーしているだけで、実体は水です。多少は魔法成分を含んでいますが、魂がむき出しの低級霊ならともかく、健康な人間に対してならほとんどなんの影響もありません。すぐに拭けば問題は……ああ、そうでしたわね」

「ほら、ほら! なんかあった!」

「確かに今のフィラさんは女性型悪魔の資質を備えているので、その汗は人間の男性には……あの、いわゆる〝媚薬〟と同じ効果があったのでしたわ」

 話を続けながらすたすたと先をゆくビーナを追って、真紀織も、久々に買った切符を自動改札に入れて駅の外へ出る。そこでやっと足を止めたビーナは、改めて真紀織を見上げるようにして、

「というわけで、そこだけはちょっと気にとめておいてくださいね。ほっほっほ」

「ほっほっほ――じゃない!」

 その声に、周りの人々――そのほとんどはスーツ姿の男性だった――が、ざさっと足を止めて彼女に目を向ける。

「見るなーーーっっ!」

 真紀織が歯――というより牙――をむいて怒鳴る。

 男どもがそろってあさっての方を向き、一斉にゴホゴホと咳払いを始める。

「はあ、はあ……!」

「マキオ、大丈夫ですか?」

「だいじょーぶくない! とにかくここから離れたい! お風呂に入りたい!」

「そうですわね。お風呂の方はまた後で考えますから、まずは〝秘密特訓会場〟の方に移りましょうか」

「また電車に乗るの?」

 先にヘリコプターだのリムジンだのに変身してみせたエルドラたちにはまた別の仕事があるとかで、真紀織たちは徒歩と電車でここまで来たのだった。その車内では当然ながら、いろいろな意味で真紀織は注目の的だった。普通の人には姿の見えないビーナは、そんな真紀織の肩の上でのんびりとあくびなんぞしていて、思わずそのヒゲを引っこ抜いちゃろかと思ったくらいだった。

 艶めく広めの額に深いしわを寄せて思いっきりにらみつけてくる真紀織に対して、逆にビーナはいかにも涼しげな声で、

「いいえ。〝ここ〟がそうですわ」

真紀織は、再開発工事中のため殺風景なフェンスの並ぶ駅前を見て、

「ひょっとして、あの中とか?」

「いいえ、〝上〟です――さあ、ついてらっしゃいな!」

 言うが早いか、ビーナの体がぽーんと宙を舞う。一度だけ駅舎の壁を蹴っただけで、その屋根の上まで飛んで行ってしまった。

「わあ、ビーナ待って!」

 考えるより先に真紀織もその場でジャンプする。

「うっひゃああーーーーーっ!?」

 ただの一蹴りで、真紀織は十数メートルの上空にいた。男たちがあんぐりと口を開けて彼女を見上げている。駅舎のクリーム色の壁が迫る。反射的に蹴り飛ばす。

「にゃー、にゃー、にゃー!――あら?」

〝下〟を見ると秋葉原駅の屋根があった。上空から見ると、山手線/京浜東北線のホームと総武線のホームが直角に重なって、見事な十字を形作っていた。

「超特大の……十字架? おっとっと!」

 総武線ホームの屋根に降りる。全体が斜めになっている上に細かい波状になっていて、ピンヒールでは歩きにくいことこの上ない。さらに――

「うわ、うわ、鳩のフンまみれ!」

 足の踏み場がないとはこのことだった。

 さらに屋根の間からは、隣のホームに入線してくる黄色い電車が見えた。

 真紀織は思わずその場にしゃがみ込んで、

「こらビーナ、これのどこが〝秘密特訓会場〟なのよ!」

 他にも、駅を囲むようにしていくつかビルも建っている。駅側にある窓のほとんどは広告などでふさがれていたが、とても安心はできない。

「ご心配なく。屋根の上にはあらかじめわたしが結界を張っておきました。ですので、人間たちにはこちらの姿は見えません」

 台座をかまして水平にした古くさい一四インチ型テレビの上から、ビーナが言った。

 真紀織はそれを聞いてやっと立ち上がったものの、しかしその場から動こうとはせず、

「声とか足音とかは?」

「そちらも万全です――あ、エルドラさん、戻って来ましたね」

 その声に真紀織は上を見たが、あの派手な外観のヘリコプターはどこにもいなかった。

「違いますわ、電車の方ですわよ」

「え?」

 ビーナに言われてそちらを見ると、さっきとば反対方向からやって来た電車の屋根に、地味な紺のワンピースに長い金髪をはためかせたエルドラが仁王立ちしていた。

 その金髪長身の女性型精霊は、「とうっ!」というかけ声とともに空中で一回転して真紀織たちのいる屋根の上へ降り立つと、さっとビーナの前にひざまずいて、

「ビーナさま、両国駅までの神鉄化コーティング、終了しました!」

「はい、ごくろうさまです。秋葉原~田町間の残りはわたしがやりますので、あなたは少し休んでいてくださいな」

 真紀織は、一礼してさっと脇に控える金髪の精霊を横目に、

「しんてつ、か?」

「神鉄は聖水で鍛えた聖なる金属です。わたしとエルドラさんで、この駅の周辺全ての線路にそれと同じ効果を付与しているのです」

 真紀織はひとまず背中のバッグを降ろしつつ、

「なんでまた、そんなことを?」

「ラディカカ対策の一環ですわ」

 ビーナは、その尻尾でちょんちょんと〝下〟を指しながら、

「あなたも上空から見たと思いまずが、この駅舎は全体で巨大な十字架を形作っています。最終的には、この場所を中心として、その前後左右の線路をそれぞれ数キロメートルにわたって神鉄化し、最大長一〇キロメートルを超える特大の十字架を出現させる予定です」

 ビーナはさりげに胸を張って、

「いかに異教の魔物とて、これだけのスケールなら、相応の効果が期待できますわよ」

「でもそれって、〝悪魔〟のわたしにはとっても体に悪そうな気がするんですけど?」

 どうりで体が重い。さっきあんなに高く跳べたのがうそのようだった。

「ご心配なく。あなたの――いえフィラさんの体は、悪魔といっても純粋なものではなく、その基本的な属性はむしろわたしたちに近いのです。この先、あなたの魂が彼女の体を使いこなせるようになれば、その違和感も消えるでしょう」

 ビーナは何もない空間を探るようにヒゲをひくつかせて、

「それにこの神鉄製の巨大な十字架は、強力な霊力収集装置でもあります。つまりここなら、霊力を多量に消費する神術系の特訓もばっちり! というわけです」

「ばっちり、ねえ……でもそれって、この街の人たちには悪影響とかないの?」

 真紀織はぐるりと周囲を見渡してみた。

 高架式の駅舎の屋根とはいっても、せいぜい普通のビルの五、六階程度の高さしかない。それでも方角によってはけっこう遠くまで見通せた。

「一時的に活気づいた低級霊たちによる心霊現象的なものはあるでしょうが――まあ、せいぜい夜中にトイレの流れる音がするとか、窓の外に見知らぬ人の顔がぶら下がっているとか、駅周りで漂っているWi‐Fiデータが文字化けするとか、そのくらいですわ」

「最後のやつが一番深刻そうな感じもするけど……あれ、ビーナ、これは?」

 ビーナの乗ったテレビの後方には、これまでの真紀織の人生にはまったく馴染みのなかった〝モノ〟たちが並んでいた。

「これってまさか、機関銃――? 本物なの?」

 傾斜のついた屋根の上に広げられたオリーブ色のグランドシートの上に、その屋根の凹凸に合わせるようにして、黒光りする軍用小銃たちが整然と並べられていた。

「もちろん本物です。ちなみに正確には自動小銃です。軍用のライフル銃ですわ」

「ふうん? で、どっから持ってきたの、こんなもの?」

「魔界からですわ」

 あっさりと、ビーナ。

「あちらには、この手の武器がけっこう出回ってますのよ?」

「それを魔界でぱっくん、人間界でげろげろ――って?」

「さすがにこれだけのものを一度に〝運ぶ〟のは、ちょっと疲れましたけど」

「わ、やっぱり吐き出したんだ……!」

 自身やフィラが身につけている封魔用のティアラを、ビーナが吐き出したときの様子を思い出して、その場に居合わせてなくて本当に良かったと真紀織は思った。

「――でも何? ラディカカって、鉄砲で戦うの?」

「いえ。これらは人の──あなたの体を使っているフィラさんのために用意したものですわ」

 ビーナは尻尾の先で人間用の銃火器を指し示しながら、

「おおまかに言えば、ラディカカも実体を伴った精霊の一種なので、人間の武器もある程度は通用します。とはいえ、ラディカカ本体には、たとえトマホークミサイルを直撃させてもかすり傷程度しか与えられないでしょう。これらの銃器はあくまで、ラディカカの放出する魔力によって実体化した低級妖魔や邪霊対策用ですわ」

「何、そのトマホークって?」

「主に自由主義圏の軍艦が使用する艦載式の巡航ミサイルです」

 そう言われても真紀織にはさっぱりだった。というわけでそれは忘れることにする。

「ねえビーナ、これって、普通の人でも撃てるの?」

 まだなんとか理解できそうな銃火器の方に目を戻して、真紀織は聞いた。

「もちろんですわ。ただし扱い方を知っていればの話ですけど」

 もしかして皆人くんなら、確か部屋にピストルのおもちゃもあったし、撃ち方くらい知ってるかも……

 しかし真紀織は、すぐに赤い髪のお下げが宙を舞うほど強く頭を振って、

「だから巻き込んじゃダメだってば!」

「はい?」

「う、ううん、なんでも!」

「そうですか?」

 ビーナの金色の瞳が意味ありげにきらりん、と光る。

「とにかく、ラディカカ本体に対しては、人間たちの武器など気休めにもなりません。最終的にはやはりあなたの――いえ、フィラさんの力が必要になります」

 そう言いつつビーナは、テレビの上ですっと姿勢を正して、

「というわけで、あなたの使う〝武器〟は――」

 直後、ビーナののどがぶわっとふくらんだかと思うと、真紀織が目をそらす間もなく、げろげろ~んと一本の槍を吐き出した。

「――〝こちら〟ですわ」

「わあ! わあ! 見ちゃった! 見ちゃった! おえ――もうビーナったら!」

 しかしビーナは、すっきりとした表情で、

「マキオ、お願いですから、わたしを人気のない夜の公園で帰宅途中の女学生を待ち伏せしている変態さんを見るような目で見ないでくださいね?」

「ビーナ!」

「冗談ですわ。それより、この〝槍〟を見てください――マキオ、ですから汚くないですって。食べ物とは入る場所が違うのですから」

「そうだ! いいかてめえ、ビーナさまの吐き出したものはな、全て清浄なる天界の息吹によって浄化されてんだ! ゲロと一緒にすな! ゲロと!」

 いつの間にかジャージの上下に着替えたエルドラが、肩に担いでいた竹刀をびしっと真紀織に突きつけながら怒鳴る。

「エルドラさん、その二文字は禁句ですわよ?」

「ですがこいつは――は、はい! 失礼いたしました! 以後気をつけますです!」

 にこやかな笑顔でビーナににらまれ、エルドラが沈黙する。

 真紀織は、ブーツの足先でその槍をつんつん、と突きながら、

「そう言われても、ねえ……」

「なんなら〝体験試飲〟されてみます? 〝中〟に入ってみれば一目瞭然ですわよ?」

 ビーナがわざとらしく、あーん、と口を開ける。

「絶対やだ!」

 それから真紀織は、観念したように足下の槍を拾い上げると、

「この槍って、あの聖堂でフィラさんが持ってたやつ?」

 長さは二メートル弱。皆人の身長よりもやや高いくらいか。真紀織にはよくわからなかったが、手に持って振り回すにはかなり長い気がした。柄の部分は、いかにも手で削り出したという感じで、かなり雑な作りだった。その先端に派手な色のひもでくくりつけられている刀身は、金属製ではなく乳白色で、何かの骨か牙らしかった。

「フィラさんお手製の〝神帯槍〟ですわ――おっとっと!」

「しんたいそー?」

 ビーナは、そんな真紀織がでたらめに振り回している槍先から逃れるようにテレビがら飛び降りつつ、

「かつてフィセラセラ島にあったと伝えられている神樹セラセラの老木より削り出し、そこに、神さま時代のフィラさんが仕留めた島の魔獣ケレナディレウスの牙を合わせて造り上げた〝神の帯びし槍〟――の最後の一本です」

「え、最後? わったった!」

 取り落としそうになったその槍をあわててつかみ直しながら、真紀織が聞き返す。

「はい。ケレナディレウスの牙の数分だけ、合わせて一二本造ったそうですが、いろいろあって現在はもうその一本しか残っていません」

「じゃあ、もしも〝これ〟が折れちゃったりとかしたら?」

「折らないようにしてください」

 ビーナは胸をそらすようにして真紀織を見上げながら、

「絶対に! ――よろしいですね?」

「は、はい……」

 ビーナはさらに、ぺっと筒状に巻いた紙を吐き出すと、

「ではさっそくですが、そこにフィラさんが〝神帯槍〟の正しい扱い方を記しておいてくれましたので――マキオ?」

「……はーい」

 真紀織はしぶしぶその巻物を拾うと、するすると開いた。

 文面は日本語ではなかったが、真紀織にはすらすらと読むことができた。

「ええ、どれどれ?……〝おはようマキオくん、さて君の使命だが〟――何、これ?」

「さあ、なんでしょう?」

 かわいく首をかしげてすっとぼけるビーナ。

 真紀織は心の奥底からじわじわとわき上がる不安を抑えつつ、とにかく先を読む。

「〝まずは槍に霊力を補充すべく、祈りの踊りを捧げるべし〟……?」

「このリズムに乗って、魂の命ずるままに体を動かせばいいそうですわ」

 ビーナが、その尻尾でテレビの隣にあったこれも古臭いラジカセのスイッチを入れる。

『そーれ! どどんが、どどんが、どんっかっか! どどんぱ、どどんぱ、どんたった――!』

 フィラの――つまり今の〝自分〟のうかれた声が、異様なハイテンションで脱力必至のリズムを唱えていた。

「うわ、なんかやだなあ……にしても、今時カセットテープ?」

「魔界では未だにこちらが主流なんです。ベータマックスだって健在ですのよ?」

 ビーナは。その尻尾で器用にラジカセのボリュームを調節しながら、

「ではマキオ、線路の神鉄化作業が残っていますので、わたしはここで失礼しますね。後はエルドラさんにおまかせしてありますので、どうか仲良くやってください」

〝仲良く〟のところを特に強調して言ったビーナは、最後に、

「そうそう、『なおこのテープは〝おおとりばあす〟で二時間分あるが、最後まで休まず続けよ』とのことですので、頑張ってくださいね。それではー」

 そしてビーナは、総武線のホームとその下を通っている山手線/京浜東北線のホームとを繋ぐ屋根の上を滑り降りてゆき、あっという間に見えなくなってしまった。

「あーあ、行っちゃった……」

 真紀織はため息をひとつつくと、エルドラの目もあるので、しかたなくその〝槍〟を振り上げ、とにかく適当に体を動かし始める。

「――あの、ほんとにこれ、誰にも見えてないんですか?」

 足下のホームでは朝の通勤通学ラッシュが続いている。

 赤毛黒翼の悪魔少女と金髪ジャージ精霊が、自分たちの頭上で怪しげな儀式をやっいてるなんてことがわかったら、大爆笑に――じゃない、大パニックになるに違いない。

「てめえも疑り深いな。相当に霊感の強い人間でも、気配すら感じらねえって!」

 まるっきり体育教師然のエルドラが、そう言って竹刀を振り回す。

「さあさあ、どどんが、どどんが、どんぱっぱ――! おお、なんだかくせになりそう」

「どどんぱ、どどんぱ、そんなのやだよー、ほいっさっさ!――えーん!」


「……自分と人間の魂を入れ替えるなんて、まだしょーもないことを!」

 巨大な広告板の立つビルの屋上。

白黒髪の三つ編みを軽やかになびかせた女の子が、安っぽいサングラスを外しながら、くやしそうに、ちっ! と舌を鳴らした。

「まったくあの女には神――いや悪魔としてのプライドってもんがないの!?」

 人外の悪魔である彼女――リリスペインの銀灰色の目には、十字型をした駅舎の屋根の上でのんきそうに踊っている〝フィラ〟たちの姿が、しっかりと見えていた。

「けど考えたわね。ただでさえ今の人間界には魔力が少ないってのに、あれじゃいくらこの〈支配者の指輪〉があっても――あっても……あれ? あれれ?」

 妙な手応えにリリスペインが下を向くと、黒を基調としたゴスロリ風ドレスのポケットにあいた穴から、かわいい白い指が突き出ていた。

「が――っ!! あっ、あっ、穴があーっ!?」

 リリスペインはすぐに〈指輪〉探索の呪文を唱えた。だが反応はない。

「まさか、もう別の誰かが新しい契約を? 落としたのはあの教会か? ――確か人間のガキがいたっけ……まさかあいつ、人間の分際で余計なことしてないでしょうね!?」

 実際に使えるかどうかは別として、人間であっても〝血の契約〟を結ぶことはできる。要は〈指輪〉に呪われればいいのだ。呪いは最低レベルの契約魔法でもある。

「ええいこうなったら! ――ゴルディアス黒! バルディアス白! 我が魂に巣喰う呪われし異教の眷属どもよ!」

叫びつつ、背中の三つ編みを縛っている神鉄製の鎖を解き放つ。

「くわわわああーーーーっっ!」

「しゃしゃしゃしゃーーっっ!」

 黒と白にはっきりと割れた髪が、それぞれ黒いカラスのような怪鳥と、白い蛇のような魔獣となって、おぞましいばかりの雄叫びを上げる。

「おまえたち、あのガキの〝匂い〟は憶えてるわね? よしお行き! ただし見つけてもすぐに食うんじゃないぞーって、あーあ、行っちゃった。聞こえたかな? ま、いいか。先に呪い殺されてるかもしれないし。業が深いもんねー、あの〈指輪〉!」

 肩先にかかるくらいまでに短くなった髪をやや強めの風にまかせつつ、リリスペインは再び眼下の秋葉原駅を見た。

「……だけどやつら、悪魔との身体交換に耐えられるような上物の魂なんて、どうやって見つけ出したんだか。そんな簡単に見つかるわけないのに――って、やばっ!」

 ビルの下で、白いリムジンが建物の角を巻くようにして曲がってくるのが見えた。

「あの下級精霊もいいかげんしつこいっての!」

 隣のビルに飛び移ろうとしたリリスペインは、最後にもう一度、その瞳に力を込めるようにして、緑色の電車の屋根にちょこんと座っている白猫型精霊を見ると、

「あいつ……ただの上位精霊じゃないな?」


3


「はあ、はあ、はあ……ふう!」

『空室あり』の看板が出ている雑居ビルの玄関脇に力なく座り込んだ皆人は、それでも手にしたトイレ用ブラシをぐっと握り直す。左の指に巻いた包帯が邪魔だったが、なんの効果もないとわかっていても、やっぱりそれは取れなかった。

 たまに前を通る通行人が変な目で見るが、皆人は真剣だった。今やこのトイレブラシだけが、皆人を守る唯一の武器なのだ。

 少し体をずらして、横目に通りを見る。

 明るい朝日に照らされた表通りを、皆人と同じ制服姿の生徒たちがぞろぞろと歩いてゆく。

そんな彼らの間を、一見すると人の形をした〝もの〟たちがふらふらと行き来していた。

「ったく、なんであいつらには〝あれ〟が見えないんだよ! ――わっ!?」

 顔を戻すと、すぐ目の前に半分崩れかけた泥人形のような顔があった。

「うわうわうわわああーーーっ!」

 皆人は目を閉じて、全長数十センチほどのピンク色のトイレブラシを、とにかくめちゃくちゃに振り回す。

「ぐげ、ぐげ、ぐげぐげーーっ!」

 腐りかけの豆腐の固まりを殴っているかのようなゆるい手応え。その一方で、叩く度に巻き起こるすさまじい悪臭と奇声が皆人の鼻と耳をマヒさせる。

「――っのやろお!」

「ぐぎゃああああああーーーーっっ!!」

 町中に響かんばかりの大絶叫。だがそれでも、通りを行く人々は振り返ることさえしない。

 肩で息をしながらゆっくりと目を開ける。一瞬前までそこにいたはずの泥人形は、文字通り影も形もなくなっていた。あのすさまじい悪臭も、うそのように消えている。

「ったく、勘弁してくれよ……」

 登校前に入った家のトイレで最初の一匹をやっつけて以来、ここまで何度も同じことを繰り返していた。そのとき手にしたピンクのトイレブラシは、今や伝説の聖剣にも匹敵する心強い相棒だった。

 やっと呼吸が整い、じりじりと立ち上がる。体が異様に重い。力が入らない。

 もちろん、こうなった原因はわかりきっている――あの〈指輪〉だ。

 あの廃屋同然の教会の中に倒れていた〝女の子〟の落とし物――だが皆人には、なぜかその〝女の子〟の顔が思い出せなかった。

 そんなに印象の薄い顔ではなかったはずだ。逆に、とんでもなく異質で強烈な雰囲気を持っていた。一目見たら忘れるはずのない顔だった――と思う。

 なのに何も憶えていない。顔も、髪も、着ていた服も――だが、幻覚ではない。

 なんたって〈指輪〉の方は、今もこうして皆人の左手にあるのだから。

 家を出る前にかかってきた真紀織からの電話。思い返せば、あの後から皆人の周囲には妙な気配が漂っていた。そして学校へ行く準備を終えてトイレに入ったら――〝やつ〟がいたのだ。

「くっそー、どうせなら出すもん出してからにしてほしかったなあ」

 そのときは悲鳴すら出なかった。無我夢中だった。でもそのおかげで、真衣子の部屋にいた母に気取られることなく、倒すことができた。

 隠れていた雑居ビルを出る。緑と白に塗り分けられたガードレールを支えにして、じりじりと先へ進む。とにかく一歩でも家から――真衣子から離れたかった。

 仮になんの危害がおよばないとしても、あんなやつらを真衣子の周りにうろつかせたくはなかった。

 皆人の通う学校は徒歩圏内にあったので、身動きの取れない電車やバスに乗らずに済んでいるのは幸いだった。もともと放課後はすぐ家に帰れるようにとその学校を選んだのだ。ごくごく平凡な私立の男子校で、クラスメートを含め、どんなことに巻き込んでもまったく心の痛まない連中が顔をそろえていた。

 表通りに出てからも、できるだけ顔を下にして歩く。

皆人にとってこの町は、今や白昼のお化け屋敷と化していた。

 顔を上げれば、ありとあらゆるところにその手の〝もの〟が見えた。襲ってくるのはその中のほんの一部だったが、他の連中にしても、その姿を見ているだけで力が抜けてゆく気がした。

 通学途中の生徒たちと合流する。だが、トイレブラシ片手にふらふらと歩く皆人に手を貸してくれそうな者など誰もいない。

 皆人の方も、体のあちこちから半透明の顔やら手やらが突き出たやつらの手なんか、頼まれても借りたくはなかった。

「だいたい、どんなやつの〝手〟だかわかったもんじゃないし」

 意地だけで軽口を叩きつつ、正門は避けて裏口へ回る。保健室はそちら側からの方が近い。とにかく横になりたかった。限界が近いのがわかる。目がかすんでくる。

 伏せた視界の端っこに、裏口の黒い門が見えてきた。よし、あと一息――そう思って顔を上げた。

「ぐぎゃぎゃぎゃーーーーーっっす!!」

 その声とその悪臭に押されて路上にへたり込んでしまう。

包帯を巻いた左の指がじんじんと熱い。もうトイレブラシを振り上げる力も残っていない。その柄を握っているだけで奇跡に近い。

 左手が熱い。すっごく熱い。見ると包帯が青っぽい炎に包まれていた。

「どうりで熱いわけだ――って! あちいいーーーっ!」

 左腕をぶんぶんと振り回す。まさに火事場の馬鹿力。炎が消え、炭化した包帯が宙を舞う。

「ぐぎゃぎゃ?」

 目の前の〝化け物〟がとまどったような声を出す。今度のやつは等身大のコウモリみたいな姿をしていた。ただし骨格は人間で、そこにむりやりコウモリの皮を被せたような感じだった。

 皆人の方は、もう本当に力を使い果たしていた。コウモリもどきが迫る。皆人は左の中指でむき出しになっている〈指輪〉を見た。

 冗談半分に思う――これ、〝外れろ〟とか言ったら、外れたりして?

 根拠などなかった。でも、その〈指輪〉もなんだか疲れているように見えた。今なら自分の〝命令〟にも従うような気がした。

 コウモリもどきが被膜のような黒い翼のついた腕を振り上げた。その先で鋭いかぎ爪が光っている。この〈指輪〉とその持ち主が憎くてしかたがない――そんな感じだった。

 その腕が振り下ろされる――瞬間、皆人は口に出して言った。

「……はず、れろ!」

 ころん、と音がした。それだけだった。

恐る恐る顔を上げる。青空が見えた。あのコウモリもどきは影も形もなかった。

 左手を見た。中指の付け根が少し赤くなっていた。そこに〈指輪〉はなかった。

〈それ〉は、側溝にある排水口の格子に、かろうじて引っかかっていた。

 皆人はかすかに動く左手で、ちょん、と〈それ〉をつついた。

〈それ〉はあっけなく格子の間から落ちて、ぽちゃんと水の音がした。

 直後、皆人は気を失った。


 ──そこはどこか真衣子の部屋と同じ匂いがした。

起きようとしたが、体が動かなかった。

 目を開けようとして、とっくに開いていることに気がついた。でも何も見えなかった。

 頭も、腕も、胴体も、足も、とにかくみんな動かなかった。

 ──おれ、真衣子になったのか? 

半ば本気でそう思い、続けて、だったら真衣子の方は〝おれ〟になったのかな、と思う。

それも悪くないかも知れない――まあ、おれの体じゃ不満いっぱいだろうけど、とりあえず五体満足なことだけは保証済みだし……

「なんだよ、こいつ笑ってんぞ?」

 突然、そんな声がした。

「たくよー、こんなかわいこちゃんとお知り合いだったとは!」

「だから、こーゆー一見優等生風のがいっちゃんあぶねーんだって!」

 無茶苦茶言われ放題だった。そういえば、前にもこんなことがあったような――皆人がそう思ったとき、

「もうよいみんな、ご苦労だった。さあ、それぞれの修行に戻るがよい」

 真紀織の声が言った――いや、ちょっと違うような気がする。

 そこで皆人は、真紀織が〝カゼ〟をひいているのを思い出した。変に聞こえるのはそのせいだろう、と思う。

 ゆっくりと目の焦点が合う。

 すぐ上に、当然のように真紀織の顔があった。皆人はまた、真衣子から見たらこんな風に見えてるのかな、と思う。

「ああっと、ミナト――くん? 大丈夫か?」

 動揺しているのか、真紀織の声はずいぶんこわばっていた。

 皆人は真紀織に心配をかけたくない一心で、からからに乾いていた舌を動かした。

「だい、じょうぶ……ちょっと、疲れてるだけ、だよ」

「それはよかった、いやよかったわね――それ、もう少し眠るがいい。もう心配はいらない。わたしがそばについていてやるから……」

 どうにも違和感ありありの口調だったが、そっと額にそえられた手の温かさに、皆人はとても安心した気持ちになれた――が。

「そんな、いいっすよ! こいつのことはクラスメートで大親友のこのおれにどーんとまかせて、真紀織サンは食堂でコーヒーでも飲んでてくださいよ――オラ舎弟一号! 二号! さっさと案内しねーか!」

「ちょっと待てコラ! てめえいつから大親友だって? マトモに学校来たこともねーくせに! ひょっとして今日が坂井クンと初対面じゃねーのか、え!?」

「んだとオラ、やるかテメエ!」

「ぎゃーぎゃーうっせえ一年ボーズ! おめえら後で体育館裏に全員集合! ばっくれたら家まで行くぞウラぁ!」

 皆人の眠気は、いきなり始まったそんな修羅場にあっさり吹っ飛んでしまった。

「いいかげんにしないかきさまら。ミナトが眠れんじゃないか」

 皆人の額に手をやったまま、真紀織が言った。

「おらみろ、てめーらのせいで真紀織サン、ご機嫌斜めだぜ!」

「おめーのせいだろが、おめーの!」

「上等だ、表に出ろい!」

「てめえだけで行け! おれっちはここで真紀織サンと楽しい語らいの日々を――」

「――全員、出て行け。今すぐ」

 真紀織の声は、まるで別人かと思うくらい低くて静かだった。だがその声で、皆人のベッドを囲んでいた〝大親友〟たちがしんと静まり返る。

「さあ、出て行け――行くんだ!」

「は、は……うわあー!」

「ひええーーーっ、お助けえ!」

 それほど広くないはずの保健室に何人入り込んでいたかは知らないが、その場にいた全員が、どたばたと先を争うようにして外へ駆け出してゆく。

「ふん、やっと静かになったか。ではミナト、思う存分、死んだように眠るがよい」

「そんな縁起でもない……もう、目が覚めたよ」

 皆人が観念したように体を起こす。真紀織が背中に手をやって支えてくれる。

「そうか? けどおまえは、かなり霊力――いや体力を消耗して倒れていたんだぞ? 何があったんだ?」

「いや最近寝不足気味で、はっはっは! それより今何時? まさかもう放課後とか?」

 本当のことは言う気になれなかったので、ものすごく強引に話をはぐらかす。

「一〇時四二分一九秒だ。それと、わたしが学校を出たときは二時間目だった」

「ふーん……って、おい! 学校抜け出してきたのか!?」

「二時間目はシスター・マルガレーテの授業だったのだが、ふっふっふ、自習になったのだ。それでちょっと聞きたいこともあったのでミナト――くんに会いに来たというわけだ」

 なぜそこで含み笑い? ――と思ったが、答えを聞くのが何かこわかったので、皆人はあえてそこは無視して、

「じゃあ自習になったのは、二時間目だけか?」

「おい、頭は大丈夫か? そう言ったはずだが」

 皆人はここでも、どっちが! と突っ込みそうになったが、真紀織の〝目〟を見たらなぜだか言えなくなってしまった。それと同じ目を――一見普通なのに、その奥にとんでもない〝何か〟を宿した目を、前にもどこかで見たような気がしたから。でもどこで見たのか、それが誰だったのかは思い出せなかった。

「そういえばおまえ、おれの学校来るの初めてじゃないか?」

さらに真紀織の学校からだと、皆人の家から歩くのに比べてけっこう遠回りになる。 

「確かに〝でんしゃ〟とかに乗るのは面倒そうだったから、〝たくしー〟とやらを使ってきた。いやあれば便利だな。手を上げて、行く先を言うだけで連れて行ってくれる。魔界と違って、妙なところに連れ込まれて魂を抜かれる心配もないしな」

 おれ、やっぱりまだ意識が混乱してるらしい――と皆人は思った。真紀織の言ってることがたまに理解不能になる。

「タクシー? でもおまえ、そんなに金は持ってなかったろ?」

「ここの男どもが、率先して払ってくれたぞ!」

 自慢気に胸を張る真紀織を横目に、その料金はきっと後で自分のところに請求が来るんだろうなあ、と皆人は思う。だが今は、それよりもあの真紀織が学校を抜け出してまで会いに来た理由の方が気になった。

「それで、おれに聞きたいことって?」

「おお、それよ!」

 真紀織はベッドに手をついて、ぐっ! と皆人に顔を寄せながら、

「あのな――」

「う、うん」

「〝男の子〟のミナトくんなら、詳しいと思ってな――ぜひ、教えてほしい!」

「ま、まき?」

「まき? ああ、わたしのことか。なんだ、ミナトくん?」

「悪い、もうちょっと、離れてくれない?」

 目の焦点が合わないほど近くに真紀織の顔があった。

「なぜだ? こうしていると〝わたし〟はとっても嬉しいのだが。ミナトくんは違うのか?」

 真紀織が目をぱちくりさせる。皆人は、本当に瞳の中に人の姿って映って見えるんだなと少し感動しつつも、

「い、いやそうじゃなくて……は、話づらいだろ? いいから離れろって!」

「う、うむ……わかった」

 しゅんとした顔で真紀織が身を引く。

「そ、それで、俺に聞きたいことって?」

「ああ、そうだった――」

 真紀織はぽん、と手を叩いて、

「この島に――ニッポンにあるもので、一番強力な武器といったら、なんだ?」

「は、はい?」

「お願いだ、教えてくれ。わたしにはどうしてもそれが必要なのだ!」

 質問は唐突だったが、真紀織の顔は真剣だった。

「人の身であっても、せめてひと太刀、〝あやつ〟に食らわせてやりたいのだ!」

 そうして真剣になればなるほど、真紀織は――〝彼女〟は、皆人の知っているはずの彼女からどんどん遠ざかってゆくように見えた。

「……一番、っていうなら、やっぱりイージス艦かな?」

 それでも平静を装って皆人が答える。

「イージス!? ここに〈イージスの楯〉があるのか!?」

「言っとくけど、その名前はあくまでもたとえだからな」

 とはいえフェイズドアレイ・レーダーだの、多目的誘導ミサイルシステムだのといったことは説明するのも面倒なので、皆人はとにかく、

「要するに、海上自衛隊の装備する護衛艦の中で一番強いフネってこと」

「うんうん、さすがは智と戦闘の守護神アテナを守る楯の名を持つだけのことはあるな! 気に入ったぞ!」

 真紀織はふん! と両の拳に力を入れながら、

「で? そいつはひとりで操れるのか?」

「無理に決まってんだろ」

 あきれたように皆人が言うと、真紀織はがっかりしたようにため息をつき、

「そうか、残念だ――では、一人で扱えるものの中で最強のものは?」

「一人で、ねえ? 銃火器類を除けは戦闘機かな、やっぱり。F‐15とか」

「どのくらい強い?」

「一応、戦闘機としては世界最強クラスかな。最近はずいぶんあやしいけど」

「それはどこにある? ここから近いのか? 〝たくしー〟でいくらかかる? おまえ今いくら持っている?」

「なあ、まき?」

「なんだ? わたしはちょっとその15とかに話があるんだ。手短に頼むぞ」

「言っとくけどその15はしゃべれないぞ――じゃあ単刀直入に」

 皆人は一度大きく息をしてから、

「――おまえ、誰?」


4


「み、み、皆人、くん――!? わあーんっ!」

 平日でも人通りの絶えない秋葉原駅電気街口。その駅前通りにある時計塔の前で立っていた皆人に、赤い髪の南国風美少女が泣きながら抱きついてきた。

「わあん、わあん! 皆人くーん!」

 せっかくの長くて豊かな赤い髪をぎちぎちのお下げにして、全然似合っていない安物のサングラスをかけ、背中に通学バッグを背負った少女が、ただひたすら皆人の胸にその頭を押しつけてくる。頭の上につけた銀色のティアラにある猫耳風の突起が意外に鋭利で、今にも胸に突き刺さりそうでかなりこわい。加えてほんのり漂う彼女の汗の甘い匂いがまた刺激的で、というか強烈で、皆人の理性はまさに〝袋だたき〟状態だった。それは快感というよりも、はっきり言って〝暴力〟そのものだった。

「ちょ、ちょっとやめ! やめろって、まき――!」

皆人の必死の叫びに、赤毛の少女は驚いたように体を離して、

「え、え、どうして? ――まだ何も話してないのに、皆人くん、なんで〝わたし〟ってわかるの!?」

「おまえ、それ本気で聞いてる? 聞いてるって顔だよな」

 ようやく一息ついた皆人は、思わずぷっと吹き出してしまう――顔にあるパーツが全て異なっていても、その表情は、まきれもなく真紀織のものだった。

「すまんな。充分に気をつけたつもりだったか、こちらもあっさりバレてしまった」

 皆人の隣で、聖エレナスの制服に身を包んだ〝真紀織〟が言った。それから彼女はおもむろに腕を組み、

「ふ――これぞ愛の力ってやつだな」

「そこそこ、ちゃんとわかって言ってんのか?」

「もちろんだとも。現代人間の恋愛事情など、このわたしには全てお見通しよ!」

いつの間に手に入れたのか、〝真紀織〟は懐に隠し持っていた携帯型のワンセグテレビを振りかざしつつ、

「だがこやつ、今はちと機嫌を損ねていてな、情報収集が思うにまかせず困っている」

「ただの電池切れじゃないのか?」

「そんなことはわかっている。冗談というやつだ。こんなものがなくとも、マキオの心の内など、のぞき放題見放題――」

「ふぃ、フィラさん!」

 赤毛少女が怒鳴る。

「それも冗談ですわよ、マキオ。安心なさい――〝心〟は魂の側にあるものです。他の誰のものでもない、あなただけのものですわ」

 その声のする方へ目をやると、皆人の足下で真っ白な猫がちんまりと座っていた。

「久しぶりですねミナト。直接お話しするのは何年ぶりかしら」

「……ビーナ? ほんとにおまえ、ビーナなのか?」

 皆人へ向けて顔を上げた白猫――ビーナが、ごろごろとのどを鳴らした。と同時に、その背中に二対四枚の羽が立ち上がる。

「でもどうして? なんで今さらおれにも見えるんだ」

 ビーナは、お昼近くになっていよいよ人の増えてきた駅前をざっと見回してから、

「ここでは人目もありますし、いちいち説明すると長くなりますので、とりあえず場所を移りましょう」


 からん、とグラスの中の氷が鳴った。

「――というわけで、この街には、現在の日本中に存在する全ての量に匹敵する霊力が集まりつつあるのです」

 ビーナの話が一通り終わり、皆人は改めて窓の外を見た。中央通りから外れたビルの中にあるその喫茶店からは、総武線の緑色の鉄橋が見えた。

「南の海から迫り来る伝説の怪獣……ね」

 薄暗い店内には、皆人たちの姿しかない。さっき注文を聞きに来た老店長も、カウンターの奥に消えていた。テーブルの上に座っているビーナによれば、この店を人払い用の〝ちょっとした結界〟で包んであるらしい。

「その怪獣を、まき、おまえが退治するって? ――その悪魔の力を使って?」

 皆人の問いに、彼の前に座っている赤毛の少女――真紀織がこくんとうなずく。

「元神さま、と呼べ」

 赤毛少女の隣から、真紀織の姿をした彼女――フィラがそうクギをさす。

 だが真紀織の顔と声でそう言われても、皆人にはちっとも実感がわかない。

「はいはい――でも、じゃあひょっとして、あの〝指輪〟もこれがらみだったのかなあ……」

「指輪、だって!?」

 真紀織の制服にソーダ水をひっかけながら、フィラが身を乗り出す。

「どんな指輪だ!? どこにあった!? 今どこにある!」

「待て待て落ち着けって。指輪の形は、ええっと……あれ? どんな形してたっけ?」

 それを聞いたフィラは、テーブル備え付けの紙ナプキンで制服の汚れを拭おうとしていた真紀織を背中から羽交い締めにするや、そのシャツの前をはだけさせて、

「こら暴れるな! ――ミナト、そいつはこんな形じゃなかったか!?」

 悪魔少女姿の真紀織の首には、特大の赤い宝石をくわえたドラゴンを象った、禍々しくも精緻を極めた首飾りが巻かれていた。

「きゃーきゃーフィラさんいきなり何すんですか! 変態! エッチ! 皆人のバカー!」

「なぜそこでおれが出る!?」

「見るなって言ってるの!」

 皆人はふうっと息をついて、真紀織の――つまりフィラの体の首元にあるその首飾りから目をそらすと、

「ごめん……やっぱ思い出せないや。なんか最近、おれ、そんなことばっかで」

「他にもあったんですの?」

 そう聞くビーナへ、皆人は、教会で出合った〝女の子〟のことを話した。

「――そいつは間違いなく、かなり上級の精霊か、悪魔だろうな」

 そのフィラの言葉に、ビーナもうなずいて、

「人間界へやって来る上位精霊や上級の悪魔たちは、たいてい人の身をまとっています。ですから普通の人でもその姿を見ることができるのです。ただし、その姿は決して記憶には残りません」

「〝われら〟は、現実には存在しないことになっているからな――」

 笑いを含んだ声でフィラが言った。

「ここにこうして、ちゃんと存在してるってのに――それよりビーナ」

「はい――間違いなくリリスペインさんでしょう」

「リリス? 聖書とかに出てくる、あのリリス?」

「違う。だが気をつけろ、やつの前でそれを言ったら呪い殺されるかもしれんぞ」

 本気とも冗談ともつかない顔でフィラが〝忠告〟する。

「――それで皆人くん、その指輪はどうしたの」

 服を直しながら真紀織が聞いてきた。先の騒動で背負っていた通学バッグが外れて丸見えになった背中の黒い翼が、その声に合わせてぱたぱたと動く。

「どうにか外した後で、排水口の中へ捨ててやったさ!」

 だが皆人は、考え込むようにじっと黙っているビーナにちょっと不安になって、

「あ、おれ、何かまずいことでもしました?」

「いえご心配なく。外れたということは、指輪の呪いなり、契約なりが解けたということですから。ただ、他の誰かが拾って新しく契約なり呪われるなりするまでは、完全にその関係が絶たれたことにはなりませんので、一応用心しておいてください」

「どんな用心を――?」

「わたしが教えてやる。月のない夜には気をつけろ、以上! ――そんなことよりビーナ、どうなんだ。ミナトが拾ったのは本物の〈支配者の指輪〉だと思うか?」

 ソーダ水片手にフィラが割って入る。

「彼の話を聞く限り、かの指輪で間違いないと思いますよ」

「あいつめ。わたしの目の前で捨てたふりをして、後でこっそり取り戻していたか」

「けれど人間界へ転移する途中で落としてしまい、それをミナトさんに拾われたと?」

「リリスのやつは、あれでも一応は悪魔王ザーダに連なる最上級悪魔の一柱だ。いくら異教の魔獣どもに取り憑かれているとはいえ、魔界でも貴重な指輪を落っことして人間に拾われるなんてバカはしないと思うが……」

 昔々、とある異教集団の守護霊たちがまとめて地獄へ堕とされたとき、最後まで抵抗を続けていた守護聖獣たちが、今リリスペインに取り憑いている魔獣たちの正体だった。

 守護聖獣たちの〝処分〟を父でもある魔王ザーダより命じられたリリスペインが、その異教の力欲しさにこっそり彼らを〈奴隷魔獣〉化しようとして、逆に呪われてしまったのだ。

 結果としてリリスペインは、彼らの力こそ得たものの、代償としてその半身を異教の魔物たちに奪われてしまっていた。

「まあ、一応ミスリナさんにはお伝えしておきますわ。わたしも、そんなことはまずないとは思いますけど」

「だな、もし本当だったらリリス一族の面汚しだ。わっはっは!」

「いやですわフィラさんたら、魔界にそんな一族はありませんわよ、おっほっほ!」

 人間の姿をまとった元神さまと、〝大食らい〟の白猫型精霊が、声をそろえて笑う。

 元人間で今は悪魔少女の真紀織は、背中の黒い翼をぱたつかせながら、

「わたしさ、なんだかそのリリスって子に同情しちゃいそう」

「おれも……確かに怖いところはあったけどな」

 昔も今もただの人間であるところの皆人は、〝彼女〟の外見の中で唯一はっきりと記憶に残っている銀灰色の瞳を思い出しながら、

「――今頃さ、どっかでくしゃみとかしてたりして?」


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