百年前の聖騎士時代
「ヴァイス・フローレンス。三大神からの加護を受ける君よ……どうか! 我が神理教会が誇る筆頭聖騎士、アインハルト・ジーク・ローゼンクロイツと婚約してくれないか!」
そう言って私に頭を下げたのは、一秒前まで威厳があったヒゲの爺さんだった。
王都で大司教をやっているというこのジジイは、曰く、「神からの天啓」とやらを受けて私の地元ことこの辺境、フローレンス領までお越しなさったゴッドワーカホリックジジイだった。
二人きりとはいえ礼拝堂でこんな若輩者に頭を下げるのは止めて欲しい。確かに私には前世、現代日本で培った感性がまだ残存しているけども、流石に歳食った爺さんにヘッドバンキングされる勢いで懇願されるのは心にクる。十五歳の黒髪美少女に爺が頭下げてるとか絵面がヤバい。おい膝を屈するな。やめて。
ていうか三大神の加護って何?
あとアインハルトってラスボスの名前じゃなかったっけ?
「君の持つ加護なら、聖女の地位も夢ではない! というか妥当! むしろ当然! あのアインハルトとの婚約が成立すれば、教会の権威も揺るぎのないものとなろう!」
信仰心溢れるジジイは割と俗物的だった。いや、こうも分かりやすい方が逆に助かるまであるが。
清貧とは。
「だからお願い! 三重加護の持ち主なんて、聖典にも書かれていない前代未聞の存在なの! 君、超レアなの! ここで見逃したら即儂の首が切られるぐらいレアなの! 儂の名誉と命と信心が懸かった場面なの!! 人救けだと思ってその生涯、教会と救世のために尽くしてくれなァいッ!?」
清々しいなー、という気分になってきていた。
普通にろくでなしだなこいつ。まぁ、神の信徒なんてそんなもんか。
「うーん……」
「悩まないでぇ!? 二つ返事でオーケーしてぇ!!」
「王都って家賃どれくらいなんですかね?」
「ヤッタアアアアアアァ!! 儂の人生勝ち確だァァァ──!!」
神の像の前で拳を突き上げるろくでなしジジイ。生涯に悔いないんか?
ひゃっほー、とか言ってトリプルアクセルとか決め始めている。落ち着けジジイ。
「ところで大司教様」
「なんだね!?」
「救世にあたり、吸血鬼になりたんですけど。教会的にはその辺、大丈夫ですか?」
「……ホワ~ッツ?」
ジジイがこの世界にない言語を口走った。
もしかしたら天啓って電波なのかもしれない。
♰
『ブラッド・グレイル』。
通称ブラグレ。正確には英名スペルで、超カッケー耽美な画風のイラストパッケージが特徴的なRPGだった。
舞台は滅びに向かう現代日本っぽい世界。主人公は聖なる力を宿した唯一の希望。秘密を抱えたヒロインと共に、世界を破滅へ導く悪の組織と戦い、やがて救世を果たすという王道なストーリーライン。
そのゲームにおいて強かったのは吸血鬼だった。ていうか敵が吸血鬼だった。メインエネミーというやつである。
ゲームでは種族変更というシステムがあった。敵種族の吸血鬼以外にも、エルフや獣人や精霊やらが選べたのだ。その種族だけが使えるユニークスキルや成長値の違いで色々と楽しめたのだが、やっぱ結論を言うと二周目から選べる吸血鬼が一番強かった。
だがこの転生において二周目必須などという解禁条件はない!
よってその辺の吸血鬼を捕まえて種族転化したいと考えていたのだ!
「いいかい、ヴァイス。私たち人間は神々からの尊い恩恵あってこの世に生まれた存在だ。決して魔の道に足を踏み外してはいけないよ」
「はーい」
そんな父上の言いつけはともかく、肝心の吸血鬼は全然いなかった。
何故だ。
世界が破滅中なら吸血鬼なんぞ雑魚エネミーが如くポップしているというのに……
そう、ここで判明したのが私が転生した年代問題だ。
「……百年前じゃん」
現在、時を天穹歴四五〇年。
原作開始の五五〇年、その百年前だった。
本編舞台の現代日本風ステージなどどこにもない。私が生まれたのは中世ヨーロッパ風の長閑な田園風景が広がる辺境領地を治める、フローレンス伯爵家。
その教育課程で八柱の神々の名を聞いた時、朧げだった前世の記憶と今の状況がはっきりと繋がった。
原作開始前転生。すなわち、これから世界が滅ぶと。
「……せめて対抗できるようにレベル上げしないと……」
ゲーム知識を思い出した私がやる事は一つだった。
ゲームだった世界に転生したら何をするか? そう、周回である。
ダンジョン梯子! 素材周回! 武器厳選! スキル取得マラソン!
RPGの基本である。
故にまず取り掛かったのはレベル上げ、そしてスキル取得のための行動だった。
「姉さんってなんで毎朝、家の庭を走ってるの?」
「先制確定攻撃スキル《オーヴァードライヴ》取得条件には三つのスキル、《敏捷》《狩人》《影ノ手》が必要なの。まず《敏捷》獲得条件は『六百万キロ移動すること』だから庭を走ってこの進捗を進めるの。次に《狩人》は『B級以上の魔物を千体討伐する』だからその内ダンジョンを見つけて魔物を周回しなきゃいけないの。《影ノ手》は『黄昏時に稀に出現する魔物“黄昏蝶”を三回倒す』だから、もし橙色の羽を持つ蝶を見つけたら私に教えてね!」
「ふーん。わかったー」
物分かりの良い弟を利用しつつ、私はスキル取得とレベル上げに勤しんだ。
幸い、私が生まれ育ったフローレンス領は、魔物の縄張りと隣り合わせの危険地帯。そんな辺境の領主を務める父上の苦労を思いながら、私は一人、周回を開始した。
初めは覚えたての攻撃スキルや物理攻撃で、庭先に出てくる下級魔物をちまちまと。
レベルが上がって慣れてきたらダンジョンの場所を領主娘の地位を活かして調べ上げ、朝五時起床からのダンジョン直行、そのまま探索周回開始。
ボス部屋の手前まで行って引き返し、湧き直した魔物をひたすら狩り続ける。
必然、レベルが上がるにつれて取得経験値が少なくなってしまうので、効率が落ちたらボスを速やかに倒して次のダンジョンへゴー。
そんな繰り返しをしていたら、五年ちょっとで近場から魔物がいなくなってしまった。
「このところ、近辺の治安が良くなったから、王都から大司教様が視察しに来てくれるそうだよ」
という、やや健康的な肌ツヤを取り戻した父の言で、領主娘として、一家で挨拶することになった。
それが冒頭の権威欲にまみれたホーリージジイである。
「ホッホッホ、折角ですから儂が皆様の神威の加護を見て差し上げましょう。魔道具による計測だけではまだ不完全な部分もありますが、儂の最上位の鑑定魔導、《神聖看破》であれば本人や魔道具でも気付けない項目を確かめることができますぞ」
前世風にいうとレントゲン検査みたいな感じだった。《鑑定》スキルと一概に言っても、人によって適性があるらしく、見れる範囲が限られたり、そもそも取得すらできないレアスキルなんだそうだ。
この世界の皆は《鑑定》取得条件、『魔物の死体を三十回調べる』を知らないらしい。
意識しないとあんまりやらないのかもな。
「……エルゼン・フローレンス、レベル38。ほうほう、やはり辺境の子はレベルが高めなんだね。受けた加護は運命神と。では次は彼のお姉さん……ヴァイス・フローレンスさんのレベルは……80。ほうほう、人間のレベル限界値とは中々……うん? え? レベル80? マジで? 教会の筆頭聖騎士と同じレベルなんだけど? え? ちょっと待って何の神の加護受けてんの? ……《冥府神の加護》《転生神の加護》《世界神の加護》? 三つ? 三つ??? ちょっ……ちょっと二人でお話ししなァい?」
かくして事の発端は冒頭に至れり。
基本的に一人一柱の加護を受けるのが当然のこの世界で、三柱からの加護を受ける私は超異例な存在なんだそうだ。へぇー、転生特典ってやつですか?
まぁその辺はどうでもいい。
私の最終構築ステータスに追加される望外のおまけ程度の価値だ。
「で、将来的には吸血鬼になりたいんですけど」
「待って待って。何言ってるの君」
礼拝堂にて。
人生の絶頂期かと思われるほどのテンションにいたジジイは、寿命尽きる寸前みたいな青い顔になっていた。
「種族ステータス的に、人間より吸血鬼の方が救世効率が良いんですよ。教会としても人類としても、そちらの方がいいでしょう?」
「結果論デショ!? 救世効率って何!? 聖女が軽々に魔に転化したいとか言うんじゃありません!!」
「そうですか。では婚約の話は無かったことに」
「待とう! 一旦落ち着こう!! あの~……で、できれば、人間のまま救世してみない? どお?」
下手なセールスか?
「人間でいるメリットって、正直薄くて……」
「ご家族は!? 社会的信用は!! あの、吸血鬼になったら『全部』失うの! 分かる!?」
「それはまあ」
分かっている。
この世界……というか人間が絶滅に瀕していないこの時代、魔族への偏見は根深い。
普通に人間VS魔族な世界だ。魔族になった人間は処刑が基本。自分からなりたいと言い出す馬鹿なんて狂人以外の何者でもない。
「でも私が生きている内に救世するにはそっちの方が確実ですし……少なくとも、教会と世界と人類の未来は保証できますよ」
「ハイ! 質問です!! 仮に君が吸血鬼かつ救世主になったとしよう! その場合、教会としては折角の救世主を処刑することになってしまうんだけど!!」
「すればいいじゃないですか」
「──、──。……あの、もしかして狂信者の方でいらっしゃいます?」
「合理で言ってるんですよこっちは」
ジジイの引き留めが強い。
救世する覚悟もなしに話を持ち掛けたんだろうか? 愚かな。
「な、なんで君、そんなに覚悟キマッてるの……」
「──アインハルト・ジーク・ローゼンクロイツを始めとする第六神聖騎士団が、世界を滅ぼすことを知っているからです」
そこでようやく、大司教の顔が威厳を取り戻した。
「……詳しく聞かせてもらおうか」
翌日、ジジイは王都に帰っていった。
彼には私の知る原作知識を、「遥か未来の救世主の記憶」として共有し、私が吸血鬼化を狙う理由を理解させた。
口外したら即転化するから、とも脅しておいたけど。
「教会の筆頭聖騎士といえば、最近王都で頭角を現したっていう噂の英雄か……まさかそんな相手とヴァイスが婚約することになるとはねぇ」
無論、こうして書斎で話す父上は、婚約話のことしか知らない。
救世主の記憶。未来の知識。そういったものを知る者は、大司教のジジイと私だけに限定しようと二人で打ち合わせて決めたからだ。
「なんかあっさり受け入れるんですね父上」
「ウチは伯爵家だよ? ヴァイスが適齢期になったら、それなりの名門の男を探して嫁がせる予定は当然あったさ。ヴァイスってば年頃になってもダンジョンと魔物が恋人みたいな言動だしね。女性らしい幸せを知ってほしいと父親なりに憂いていたのだよ?」
「おお。なんか親らしいですね」
「うん、いくらデスクワークで顔を合わせる機会が少なかったとはいえ、実の娘にそう言われるのは結構クるものがあるね?」
仕事机で司令官座りしながらそんな事を言う父上。
薄幸そうなビジュの父上は、その実レベル72とかいう化物予備軍だったりする。
辺境で何十年も領主をやっていると自動的に……というか、デスクワーク漬けでイライラすると、偶に外に繰り出して吸血鬼狩りをやっていたそうだ。わぁ、バーサーカー。ちょっと親近感。
「それにこの婚約、家としては絶対断れないからね。教会の圧力があるし、必然的に王家の目にも留まる繋がりになるだろうし。というわけでヴァイス、喜んで花嫁になってほしい」
「大司教様といい父上といい、思惑を隠さず言いますよね。まぁいいですけど」
「じゃあ近く、王都に出向いて彼と顔合わせを──」
「あ、すみません父上。もう向こう一年先まで、ギルドから依頼された新規ダンジョン攻略の予定が入ってます」
「……なんでもうレベル限界なのに魔物を狩り続けるんだい、ヴァイス……?」
「経験値って累積されるんですよ。それに武器加工に必要な素材も厳選しなきゃいけないし」
「ダンジョン攻略って奥が深いなぁ……」
だけどね? と父上が困ったような微笑を浮かべる。
「大人をあまり舐めない方がいい。来週末には予定をねじ込ませてもらうよ? この地域のギルド長と父上は古い知り合いだからね。きっと分かってくれるだろう」
「なるほど。であれば王都……特にローゼンクロイツ家の権威を狙う諸侯貴族などは、どう対処します? いくら大司教様の推薦があるとはいえ、こんな田舎貴族の娘が嫁ぐとなれば、相応の反発があるでしょう」
「はは、王都からの邪魔なんて入らないさ」
「? 何故です?」
「父上はこれでも元宰相だからね!」
「大人の本気ってこわ」
そんな訳で逃げられようもなく、粛々と顔合わせの計画は立てられていった。
♰
馬車に揺られる道中は平和そのものだった。
ファンタジー世界らしく、突如として現れる山賊や悪徳貴族に雇われた賊が襲い掛かってくる展開を多少は期待したのだが。
「魔物の一匹もいませんねー……」
「ヴァイスの気配で怯えてるんだと思うよ? お前が出歩くと、その日の討伐依頼は激減するらしいからね」
「そんな……」
リアル環境での周回の弊害。
レベルを上げまくると、魔物に気配や匂いを覚えられて避けられる。
故に私はダンジョンを梯子するようになったのだ。あそこはいい。いつ行っても隠れ潜む魔物が湧いている。もはや家の匂いより魔物の血の匂いの方が馴染み深い。
「まぁまぁ、遠出する時くらい魔物のことは忘れなさい。淑女としてのマナーはしっかりね? ヴァイスはそのへん、猫被りが上手だから心配いらないと思うけど」
「はい」
「なんて良い笑顔なんだ! 長年社交界に君臨してきたような貫禄を感じるッ!」
「淑女教育を疎かにしたら外出禁止、と言い出したのは父上ではないですか」
笑顔を消すと、ガクリと父上が肩を落とした。
そう、全てはよりよい周回のために。己が力不足で、努力の極致である周回業に支障をきたすなどあってはならない。
積み重ねることに関しては、一切の手を緩めるわけにはいかない。
転生者の矜持というヤツである。
三日をかけて、王都には辿り着いた。
白亜の城門。それを抜けた先に広がる、白い街並み。
魔導王国イラストリアス。王都中央にそびえるのは、王族の住まう城。ゲームでも見たことのある風景だったが、実際に見ると、直にあるその存在感にやや気圧されてしまう。
「いいかい、ヴァイス。一応言っておくけれど……アインハルト君に勝負を仕掛けたりしては、いけないよ?」
「しませんが。人を何だと思ってるんです?」
「だってヴァイスったら、魔物を経験値と見做してるなら、人だって……」
「人を倒しても経験値なんて頂けないじゃないですか」
「……」
経験値──体験による経験、という意味ではなく、レベルに加算される経験数値の方。
この世界において、対人戦ではレベルを上げられない。「人」が「魔」を倒して初めて得られる神の恩恵……とされているのだ。
「……なら、もし人間を倒して経験値を得られるのなら──」
「愛娘を蛮族令嬢にしたいんですか父上。殺し合いなんて野蛮ですよ。戦いなんて一方的に蹂躙してこそでしょう」
「凄い。平和主義を謳っているようで何も謳っていない。どこで教育を間違えたのかなぁ……」
父上が天井を仰ぐ。そんな親子漫才をしている内に、大きな屋敷が見えてきた。
ローゼンクロイツ家だ。
♰
『ブラッド・グレイル』ゲーム本編、第八章。
その章では、玉座にて眠りにつくアインハルトによる視点の回想が描かれた。
ラスボスの掘り下げ。自らの生家、ローゼンクロイツ家についてだ。
こんな文言から始まる。
〝アインハルト・ジーク・ローゼンクロイツの人生に、欠陥はない。〟──と。
ゲームの彼曰く。
名門ローゼンクロイツ公爵家。未来の彼には病的とも称されるほどの神聖主義の家系。先祖が神格と交わったことで繁栄したという逸話を持つ、聖なる血筋だということを誇りにしている一族だという。
神聖。信仰。教養。
全てが求められる代わりに、全てを与えられて育つ。神への祈りと敬意を忘れず、神からの加護と寵愛を戴き、世のため人のために尽くして聖人として死んでいく。
それは人として到達できる至高の人生だった。ローゼンクロイツの家に生まれた以上、最高峰の教育を受け、完璧な人格と精神、何よりも強く清く正しい魂を得る。
絵空事のように思われるそれを、愚直なまでに体現したのがアインハルトだった。
五歳の頃には既に魔力を発露し、その圧倒的な剣才で指南役を打ち倒す。
学び舎へ通う頃には、王国騎士団への入隊が決まったも同然の扱いだったという。当時最優と謳われていた第一神聖騎士団の討伐遠征に研修生として同行した際には、想定外に出現したS級魔物を単独で討ち取る大功績を挙げたとか。……この話は、最近の彼が「頭角を現した」逸話の発端だろう。
常人を越える魔力と剣才を早くから認められた彼は、早々に自らの力を「人々のため」──国の民衆のために尽くすことを、誰に言われるまでもなく決めていた。
それが己の天命なのだと証明するように。
だがそれはいずれ──凋落し、零落し、堕落する。
どうしようもない悲劇に追い詰められた先に、吸血鬼の首領となって、世界を破滅へと導くのだ。
そんな未来のラスボス様と、いよいよご対面というわけだが。
(大人たちが揃ってはしゃいじゃって、まー……)
到着するなり、普通に歓迎された。
ずらっと規則正しく並ぶ迎えの使用人さんたちの礼! おほほほ待っておりましたわフローレンス伯爵様、と目を光らせながら現れたローゼンクロイツ現当主を務めるマダム的存在! それを、ふふふふ会いたかったよ薔薇婦人、などと暗躍顔で迎え撃つ我が父上!
あんたら……昔なんかあったんか?
とは思わずにはいられない、いわゆる好敵手同士の再会的なイベント後、父上は婦人との会談へ、私は屋敷の奥に案内された先、裏庭らしき場所に立っていた。
手入れの行き届いた薔薇園が広がっている。綺麗だ。
ここでお待ちください、との話だった。
庭師どころか使用人の姿もない。凄いお膳立てされているのを流石に実感する。適当に歩きがてらイベントフラグを待つか……と軽く散策すれば、東屋……ガゼボがあった。
「あ、聖典……」
備え付けられた椅子の上には、一冊の白い冊子が置かれていた。
神々の教えが書かれた書物、聖典。これを全巻読破すると良いスキルが手に入る。これは一巻のようだが、どれ読み直しでもしておくか。
聖典を手に取り、椅子に腰を降ろして読み始める。
春の冷たい風が肌を撫でつけ、庭園の木々を揺らす。
その中で、一つ。芝生を踏む、足音が聞こえて顔をあげた。
「──、」
ゲーム時代のように。
うわ出た、ようやくお出ましか、とか。
いざ対面してみればそんな感想が出るものかと思っていたが──
「……君が……、」
そこにいたのは、青の騎士団制服をまとった一人の青年だった。
陽の光にきらきらと反射する銀の髪。肩ほどまで流された長髪は風に吹かれて優雅で、剣を腰に帯びた佇まいはまさしく騎士。
身長は一七〇よりは上だろうか。制服の上からでも、騎士らしく均整のとれた、しっかりした体つきだと分かる。
涼やかな目元に、そうあれかしと天上の者らが命じて創らせたような理想の輪郭、鼻筋と口元、その整った顔立ち。
……見るだけで目が潰れそうな美貌だ。そんな造形もさることながら、相対するだけで押し潰されそうになるほどの神聖の魔力の気配を感じる。そして何より──
(……うわ、勝てない)
背に冷や汗が流れる。「決して勝てない」、という絶対的かつ絶望をも覚えるその存在感にだ。
アインハルト。
その名はいつか、世に破滅をもたらす魔王と成る者。
作中最強。理不尽の権化。天罰の化身。絶対勝てないオブザイヤー殿堂入り常連客。
でもって今はそこに、私の婚約者、も追加される。
しかし──
(思ったより幼いというか、若いというか……)
記憶──主にゲームでのことだが──にある彼の冷たく、敵意の篭った眼差しばかりだった表情とは異なり、今、目の前にいる「アインハルト」は、私より一つ年上の十六歳らしい、年相応なあどけない面持ちだった。
青い眼を丸く見開いて、じっと観察されている。
なんか……その……、普通の男子高校生、って感じがする。気が、する。うん。
「……アー」
呆けている場合ではない。
コホン、と咳払いをし、聖典を閉じて立ち上がる。
何事も初手が大事だ。麗しく、淑やかに。令嬢らしくご挨拶と、
「き……君!!」
「ぅえ!?」
突然叫ばれた拍子にビビってバランスを崩したことだけは分かった。
石の段差に足元を滑らせる。死、にはしないだろうが痛い転び方をする体勢だ。咄嗟に一瞬後の痛覚と衝撃に目を瞑り、──巌のように頼もしいものに受け止められた。
咄嗟に視線を上げる。此方を見下ろす視線と目が合った。
アインハルトだ。
抱き留められるようにして、しっかり支えられていた。
「……っ、」
至近距離が、過ぎる。
声も出ない。美しい尊顔に喉が干上がり、何を発せばいいか分からなくなる。
永劫のような静寂。時が停まったかのようなひと時は、しかし──
(死……)
──死を覚悟するには充分だった。
「す、……すまない。驚かせた。大丈夫?」
「あ……は、はい」
すっ、と何事もなかったように解放される。
あまりの紳士さに拍子抜けしてしまった。これがラスボスの余裕か……いやいや、感心している場合じゃなかった。
改めて、伯爵令嬢として挨拶する。
「名乗り遅れました──ヴァイス・フローレンスと申します」
ドレスの裾をつまんでのカーテシー。
出鼻を挫かれてなお猫被り、健在。讃えるべきは、こんな己の胆力か?
「ヴァイス……そうか、君が……お、俺の、婚約者っていう……」
……ん?
「……あっ、俺はアインハルト。アインでいい。いや、ぜひそう呼んでほしい。呼び方から親しみを込めていこう。うん。込めてほしい。ぜひ」
……んん?
「そういえば怪我はなかったか? 本当にすまない……あまりにも美しい御令嬢だったから、つい逸ってしまった。気を悪くしたなら、俺のことは忘れてもらえると……」
「そ、そんなことはありませんよ? そう思い詰めないでください、ええ」
「……ありがとう。君の女神様のような寛容さに最大の賛辞を」
と言って爽やかな笑顔を向けてくる美青年。
いえいえ。いやいやいや。
色々と言いたいことはあるが、まずは一言いいかな?
──原作と大分人格が違うぞぉ……!?
なんですかこの好青年野郎は。どこがラスボス? ホントにラスボス?
慌てていて、赤面して、熱に浮かされたような眼差しを向けてくる、絶世の美男子!?
どこの乙女ゲー出身者だね? ここは血で血を洗う救世RPGの世界だぞ!?
(いや……これが『聖騎士時代』のアインハルト……?)
私が知っている彼は、あくまでもラスボスにして吸血鬼たちの長、魔王アインハルトだ。
今の彼は、闇堕ち前の……健常にして健全な十六歳男子、聖騎士アインハルト……?
「……折角の初対面なのに、情けないところばかり見せてしまってる気がするな。いつもはこうじゃないんだけれど……」
目を伏せ、なにやらもにょもにょと弁解を詠唱し始める聖騎士様。
これがあのアインハルト……? 本当に……?
私は思わずゲーム本編の場面を思い返した。
『消え失せろ……塵虫が』
それがブラグレ本編における彼の初登場時の台詞である。抵抗する人類軍を魔力圧だけで吹き飛ばしながらの第一声は非常に印象深い。なんとしてでも倒さねばならぬ人類の敵、という認識をプレイヤーに刻み込んでくる圧倒的暴君! 支配者! なのだが!
「……君を前にすると……何をしたらいいか、分からなくなるみたいだ。あっ、別に君のせいにしたいわけじゃないよ! これは俺の問題だから……だから、あの……」
──こうして必死に、俯きがちに言葉を重ねる彼は、まるで別人だ。
闇堕ち……なんて罪深い……
「……なるほど」
どうやら、救世の方向性を大きく変える必要が出てきたようだ。
今まではラスボスの彼を倒すことを目標に邁進していたが──そもそも、ラスボスの彼なんかいなければ、そんな苦労する必要もないだろう。
故に。
「貴方の状況はよく分かりました。……アイン。だから、顔を上げてください」
今この場で決めた。
彼の闇堕ちを──しいては、世界の危機を救ってみせると。
「まずはお話しませんか? お互い……何も知りませんし。私は、そのために来たんですから」
「……! よ、喜んで!」
たとえどんな手段を使ってでも。
この第二の生を受けたからには……全霊を懸けて、果たしてみせる。




