第4話 帳簿と銀貨
数字は嘘をつかない。
だから困っている。
ヴァイルハルト領の帳簿を開くと、どの頁も同じことを言っている。金がない。正確には、入ってくる金がない。
薬草の苗はまだ育ちきっていない。鉱山は権利書があるだけで、採掘するには人手と道具がいる。領民は二十世帯ほどいるけれど、ほとんどが自給自足で、税収は雀の涙だ。
前世で私は薬学部にいた。薬の知識はある。でも経営の知識はない。帳簿の見方は基本的なものしかわからない。収支を並べることはできても、どうすれば支出を減らして収入を増やせるかとなると、途端に頭が止まる。
深夜。居間の机に帳簿を広げたまま、冷めた茶を飲んだ。冷めすぎて、もう味がしない。
結局その夜は、数字を睨んだまま眠ってしまった。
目が覚めたのは、首が痛かったからだ。
机に突っ伏して寝ていた。右頬に帳簿の角の跡がついている。窓から朝日が入っていて、ルークが足元で丸くなっていた。いつの間にか膝の上に乗ろうとして失敗したらしく、私の靴の上で寝ている。
顔を上げて、帳簿を見た。
自分が書いた頁の隣に、もう一冊。
見覚えのない帳簿が置いてあった。
開くと、昨夜私が書き散らした数字が、きれいに整理されていた。収入の見込みと支出の項目が分けられ、優先順位がつけてある。薬草が出荷可能になるまでの期間、その間に必要な最低限の経費、削れるものと削れないもの。
字を見て、わかった。クロヴィスだ。
あの人は字がきれいだ。筆圧が均等で、線が真っ直ぐで——
いや、違う。
よく見ると、この帳簿の字は、私の字に似ている。右に少し傾いていて、「三」の横線が等間隔にならない癖まで再現されている。
指摘されたことはあった。「お嬢の字は右に傾く」と。
けれど、指摘するのと完璧に再現するのとは別の話だ。なぜそこまでできるのだろう。
居間を出ると、クロヴィスは裏庭で薪を割っていた。毛皮の外套を脱いで、制服の袖をまくっている。腕の筋が朝日に光っている。
「帳簿、ありがとうございます」
「ああ」
「きれいな字ですね」
クロヴィスの手が一瞬止まった。本当に一瞬。斧を振り下ろす動作の、ほんの僅かな間。
「暇だっただけだ」
嘘だと思う。あの計算は、暇つぶしでできる精度ではない。騎士団長は剣だけ振っていればいいわけではないのだ。補給計画、人員配置、予算管理。実務能力がなければ務まらない。
でも、追及しなかった。この人に理由を聞いても、まともな答えが返ってこないことは学習済みだ。
ルークが裏庭に出てきて、割られた薪の欠片を咥えて走り回っている。クロヴィスがそれを見て——また、口の端が動いた気がした。誤差かもしれない。
昼過ぎに、来客があった。
門の前に、見慣れない馬車が停まっていた。ヴァイルハルトに来る馬車は珍しい。街道から外れた辺境の領地に、わざわざ馬車で来る人間はいない。
馬車から降りてきたのは、若い男だった。
金髪を後ろで束ねていて、旅装なのに靴だけ妙に磨いてある。商人だ、と直感した。靴に金をかける人間は、見た目で信用を売る人間だ。
「初めまして。ヴェルト商会のライナス・ヴェルトです」
にこやかに名乗られた。隣国の商人。若いけれど、商会の当主らしい。
「こちらの領地で薬草を栽培されていると聞いて」
「まだ栽培を始めたばかりですが」
「ええ、存じています。ですが品種が面白い。南方系の薬草をこの気候で育てようとしている方がいると聞いて、どうしても見たくなりまして」
ライナスは笑いながら畑を見渡した。確かに、母の台帳をもとに植えた品種は、この地方では珍しいものが多い。前世の知識で気候への適応方法を工夫しているから、うまくいけば他にはない薬草が採れる。
「交易のご相談をさせていただけませんか。出荷の目処が立った時点で、我が商会が買い付けに入れるよう、仮の契約を」
悪い話ではない。いや、良い話だ。出荷先が決まっていれば、栽培計画も立てやすくなる。
「少し考えさせてください」
「もちろん。急ぎません」
ライナスは畑の端まで歩きながら、薬草の苗を一つ一つ見ていた。目利きらしく、品種を言い当てる。南方薬草にも詳しい。
「面白い令嬢だ」
ライナスがこちらを振り返って言った。
「追放された公爵令嬢が辺境で薬草を育てている、という噂は聞いていましたが、想像以上です。この品種の組み合わせは、普通の薬草知識では出てこない」
その通りです。普通じゃない知識なので。とは言えない。
「……本で読みました」
また同じ言い訳をした。そろそろ別の弁明を考えた方がいいかもしれない。
ライナスが何か言おうとした時、影が割り込んだ。
クロヴィスだ。いつの間にか、私とライナスの間に立っている。立っているだけ。腕を組んで、ライナスを見下ろして、何も言わない。
ライナスは一瞬目を瞬いて、それからすぐに商人の笑顔に戻った。
「こちらは?」
「護衛です」
「ああ、なるほど。頼もしい護衛だ」
クロヴィスは返事をしなかった。ライナスの顔を見ているのか、その向こうの森を見ているのか判然としない目つきで、ただ立っていた。
ルークがクロヴィスの足元に来て座った。銀色の毛並みが風に揺れる。ライナスを見上げて、小さく鼻を鳴らした。
嫌いなのか、興味がないのか。お前の気持ちは読めない。
ライナスが帰る前に、もう一度畑を見て「また来ます」と言った。笑顔は人好きのするものだったけれど、目は値踏みしている目だった。商人の目。この畑にどれだけの価値があるか計算している目。
悪い人ではないと思う。でも、信用するかどうかは別の話だ。
馬車が去った後、クロヴィスに聞いた。
「あの人、どう思いますか」
「商人だ」
それだけ。感想がない。いや、あるのかもしれないけれど、出さない。
夕方。
居間でクロヴィスの帳簿をもう一度見ながら、私は口を開いた。ずっと気になっていたことだ。
「クロヴィスさん」
「ああ」
「あなたの生活費も、領地の経費から出させてください」
クロヴィスの手が止まった。今度は斧ではなく、ルークの背を撫でていた手。
「騎士団を辞めたなら、給与はもう出ていないでしょう。蓄えがあるとしても、いつまでも甘えるわけには——」
「甘えてはいない」
少し硬い声。あ、怒っている? いや、怒っているのとも違う。クロヴィスの感情の起伏は本当に読みにくい。
「……すまない。そういう意味じゃない」
クロヴィスがルークの耳の後ろを掻いた。ルークが目を細める。
間があった。
「……世話になる」
短い言葉だった。でも、そこに至るまでの沈黙の長さを、私は忘れないと思う。
私は「はい」とだけ答えた。
夜。寝室で灯りを消す前に、窓の外を見た。
裏庭にクロヴィスの影が見える。薪を積み直している。この時間に。
あの人は、ゲームのどのルートにもいなかった。攻略対象の王太子には、宮廷を支配する知略がある。第二王子には、民を惹きつける魅力がある。宰相には、国を動かす頭脳がある。
クロヴィスには、何がある?
帳簿を計算する実務能力。薪を割る腕力。怪我をした銀狼を拾ってくる不器用な優しさ。私の字の癖を知っていること。理由を聞いても「暇だっただけだ」としか言わないこと。
攻略対象外のキャラクターが、ここまで出張ってくるゲームは見たことがない。
イベントCGは一枚もないはずなのに。
灯りを消した。ルークが足元で鼻を鳴らした。
明日は、ライナスの提案した交易契約の条件を考えなければ。支出を抑えながら、薬草の出荷時期を逆算して——
帳簿の字が、また頭に浮かんだ。
右に傾いた、私に似た字。
なぜ知っているんですか、とは聞けなかった。
聞いたら、何かが変わる気がした。
何が変わるのかは、わからなかったけれど。




