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断罪されるはずの悪役令嬢ですが、騎士団長が離してくれません  作者: 秋月 もみじ


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第10話 丘の上


ヴァイルハルトの空は、王都より広い。


それを教えてくれたのは、隣に立つこの人だ。


帰ってきた。


馬車が領地の入り口に差し掛かった時、門の向こうに人が見えた。ハンスが腕を組んで立っている。マルタが手を振っている。鉱夫のおじさんたちが帽子を脱いで待っている。


そして——銀色の影が、猛烈な速度で走ってきた。


ルークだ。


馬車から降りた瞬間、銀狼が全身で突っ込んできた。腰の高さの体が、私の腹に頭をぶつけてくる。尻尾が千切れるかと思うほど振っている。鼻を鳴らし、私の手を舐め、靴を舐め、膝に前足を乗せ、とにかく全身で「帰ってきた」と訴えている。


「ルーク、ルーク、わかったから、重い、重いって——」


腰が砕ける。座り込んだ拍子に、ルークが膝の上に乗ってきた。もう子犬の体重ではない。息が詰まる。でも笑った。銀色の毛に顔を埋めて、笑った。


「おかえり、お嬢様」


マルタの声。


「おう、帰ったか」


ハンスの声。


顔を上げると、領民たちが笑っていた。


ただいま、と言おうとしたけれど、ルークが顔を舐めてきて声にならなかった。


屋敷に戻ると、台所の壁にルークの飯のメモがまだ貼ってあった。私の字。右に傾いた字。


留守の間、ハンスがルークの世話をしてくれていたらしい。「飯の量がわからんからメモの通りにやった」と言っていた。


数日後、王都から正式な通知が届いた。鉱山権利書がローズマリー・カーティスの名義で登記されたこと。義母の爵位剥奪が正式に決定したこと。リリアンの後見人について、後日協議の場が設けられること。


リリアンへの手紙を書いた。


『リリアン。後見人の件、私から申し出るつもりです。よければ、ヴァイルハルトに来ませんか。畑の手伝いがほしいのです。——嘘です。あなたに会いたいだけです。お姉さまより』


右に傾いた字で封をして、使者に託した。


夕方。


クロヴィスが「少し来い」と言った。


ルークを連れて屋敷を出た。クロヴィスの後を歩く。いつもは前を歩く人が、今日は少し先を行くだけで、時々振り返る。


畑を過ぎ、薬草園を過ぎ、森の手前の坂を登った。


坂の途中で、ふと聞いた。


「あの廊下、巡回ルートじゃないですよね」


クロヴィスの足が止まった。


「書斎と私の寝室しかない行き止まりです。最初から知ってました」


「……なぜ言わなかった」


「言ったら、来なくなるかと思って」


クロヴィスが前を向いたまま、息を吐いた。短く。


「来なくなるわけがないだろう」


それだけ言って、また歩き出した。耳が赤い。夕日のせいだけではない。今度は、わかる。


何も言わずに、後を追った。


丘の上に出た。


ヴァイルハルト領が一望できた。


屋敷の煙突から煙が上がっている。マルタが夕食の支度をしているのだろう。畑には秋の作物が並んでいる。鉱山の方角に、鉱夫たちの小屋の灯りが見える。遠くに、隣国との街道が夕日に光っている。


風が強い。髪が乱れる。でも、気持ちのいい風だった。


「クロヴィスさん、何を——」


「クロヴィス、でいい」


え。


「さん、はいらない」


あ。


「……クロヴィス」


呼んでみた。さん、なし。名前だけ。


舌の上で転がす感じが、少し違った。距離が一つ縮まったような。


クロヴィスが私の方を向いた。


夕日を背負っている。顔が少し影になっていて、表情が読みにくい。でも、目だけは見えた。灰色がかった青。あの日、ルークを受け取った時に初めてちゃんと見た色。


「俺はもう騎士団長じゃない」


知っています。


「お嬢の護衛でもない」


それも知っています。


「だからこれは——命令でも、職務でもなく」


風が吹いた。クロヴィスの毛皮の外套の端がはためいた。


「俺個人の、願いだ」


願い。


この人の口から、その言葉が出るのを聞いたのは初めてだった。


「傍にいさせてくれ」


低い声。いつもよりさらに低い。喉の奥から絞り出すような。


「……いや、違う」


言い直した。クロヴィスは、大事なことほど一度で言えない。


「ローズマリーの隣に、ずっといたい」


風の音が、遠くなった。


ルークが私たちの足元に座っている。尻尾を地面に当てて、ぱたぱたと鳴らしている。


ずっと、いたい。


騎士団長でもなく。護衛でもなく。命令でもなく。


この人として。


三度目だ。鼻の奥がつんとする。ヴァイルハルトに来てから、本当に涙もろくなった。


「ずっと、いてくれたじゃないですか」


声が震えた。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからない。


「馬車の中で外套をかけてくれた時から。帳簿を計算してくれた時から。ルークを拾ってきてくれた時から。ずっと——」


言葉が詰まった。


鼻の奥がつんとする。目の前が滲む。


「あの辞職届の理由欄、いつか教えてくださいね」


クロヴィスが少し目を見開いた。知っていたのか、という顔。


「副団長さんが『馬鹿野郎』って言ったそうですよ。ハンスから聞きました」


嘘だ。ハンスから聞いたのではなくて、辞職届の存在は知っていた。理由欄の中身は知らない。でも、知りたかった。


クロヴィスが口の端を——今度こそ、はっきりと——上げた。


「『護るべき主を、間違えていた』」


ああ。


「お嬢が——ローズマリーが、俺の護るべき人だった。最初から、ずっと」


「……最初って」


「雨の日。傘を差し出した。使用人に。お嬢は笑って言った。風邪を引いたら困りますもの、と。あの日から——」


星空の下で途切れた言葉の、続き。


「あの日から、俺は」


三年前の記憶。霞がかかっていた輪郭が、クロヴィスの声で少しだけはっきりした。雨。傘。義母に叱られた。品位がないと。


あの時、後ろにこの人がいたのか。


クロヴィスが一歩近づいた。


大きな手が、私の頬に触れた。手袋はしていない。ごつごつした指。硬い掌。断罪の夜、馬車に乗る時に差し出された手と同じ手。


でもあの時とは、意味が違う。


唇が触れた。


短いキスだった。不器用な。角度が少しずれている。でも温かい。


ルークが足元で鼻を鳴らした。尻尾をぶんぶん振って、二人の間に割り込もうとしている。


「……お前は本当に空気が読めないな」


クロヴィスがルークの頭を押さえた。ルークは気にせず尻尾を振り続けている。


笑った。声を上げて笑った。丘の上に笑い声が響いた。


夕日がヴァイルハルトの畑を照らしている。煙突の煙が空に溶けていく。遠くで鳥が鳴いている。


ここが、私の場所だ。


泥だらけの畑と、油を差した門と、台所のメモと、天井の薬草と、帳簿と、ルークと。


そして、この人。


ゲームのどのルートにもいなかった人。

攻略対象でもなく、敵でもなく、味方でもなかった人。

イベントCGは一枚もなかった人。


でも、この人だけが——最初から、ずっと、ここにいた。


丘を降りる途中で、クロヴィスが言った。


「ルークの飯のメモ、もう一枚書いてくれ」


「なぜです?」


「量が増える。もう一匹、森で見つけた」


もう一匹。


「……また拾ってきたんですか」


「お嬢の護衛が足りない」


護衛。銀狼の子供が護衛。


「もう護衛じゃないって、さっき自分で言いましたよね?」


クロヴィスが黙った。耳が赤い。


ルークが丘を駆け降りていく。銀色の毛が夕日に燃えるように光っている。


その後を追って、二人で丘を降りた。


門が見えた。錆びていた門。蝶番が悲鳴を上げていた門。


今は、静かに開く。


数年後のことを、少しだけ。


僕の執務室の窓から、王都の街並みが見える。


書類の山は相変わらずだ。社交の調整。各領地との交渉。慈善事業の監督。有能な臣下は何人もいる。でも、全部を滑らかに回してくれる人は——結局、見つからなかった。


辺境ヴァイルハルト領からの交易報告書が、四半期ごとに届く。数字は毎回伸びている。鉱山は本格稼働し、薬草の交易は隣国だけでなく南方にまで広がった。報告書の末尾には「ヴァイルハルト領主ローズマリー・ノルデン」と署名されている。


ノルデン。


あの騎士の姓だ。


報告書を閉じるたびに、手が止まる。


僕は何を失ったのだろう。


有能な臣下か。交易の拠点か。——違う。もっと手前にある何かだ。あの日、一度だけ立ち止まっていれば。でも、何に立ち止まるべきだったのか。それすら僕にはわからない。


わからないまま、報告書を閉じるたびに、手が止まる。


彼女はもう、別の場所で笑っている。


あの笑顔をもう一度見る資格が、僕にはない。


窓の外で、鐘が鳴った。午後の執務が始まる。


報告書を引き出しにしまった。


ヴァイルハルト領では、秋の収穫祭が行われていた。


領民が広場に集まっている。ハンスが焼いた猪の肉。マルタが作った薬草酒。鉱夫たちが歌っている。音程は外れている。


ルークの横に、小さな銀狼が二匹座っている。子供だ。ルークの子供ではなく、クロヴィスが森で拾ってきた孤児たち。ルークが面倒を見ている。もふもふが増えた。


リリアンが広場の隅で薬草のお茶を配っていた。「マルタさんに教わったんです」と、少しだけ誇らしげに。あの震えていた字の手紙を書いた妹は、ヴァイルハルトの空気の中で、少しずつ声が大きくなっている。


私は広場のはずれに立って、それを見ていた。


隣に、クロヴィスがいた。


腕を組んで、広場を見ている。猪の肉を齧りながら。不器用に。肉を食べるのも下手なのだ。汁が顎を伝っている。


「ついてますよ、顎」


「……ああ」


手の甲で拭った。品位がない。義母が見たら卒倒するだろう。


でも、いいのだ。


ここでは品位より、畑の土と帳簿の数字と、ルークの飯のメモの方が大事だから。


「ローズマリー」


名前を呼ばれるのに、まだ慣れない。


「何ですか」


「……いや。呼んでみただけだ」


耳が赤い。


私は笑った。


門の蝶番は、もう鳴らない。


でも、それでいい。


代わりに、この場所にはたくさんの音がある。


ルークの遠吠え。銀狼の子供たちの鳴き声。ハンスの怒鳴り声。マルタの笑い声。鉱夫たちの歌。リリアンの「もう一杯いかがですか」。帳簿をめくる音。畑を耕す音。風の音。


そして——名前を呼ぶ、低い声。


それだけあれば、十分だった。

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