23 無理は禁物
〔おぉぉぉ、運がいい、運がいい、竜が六匹、一匹逃げたか、でもこれでしばらくは困らない!〕
蜘蛛に似た鉱路生物が熱狂しているのを聞いて、リベルは辟易した気分になった。
〔糸に巻いてくるんで並べれば壮観だぞぉぉぉぉ〕
〈氷王牢〉があれば、リベルは迷いなく辺りを氷漬けにしていただろうが、今はそういったことも出来ない。
とはいえ、問題はない。
リベルの目には、はっきりとこの洞穴の様子が見えている。
あちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣、そこに引っかかり、繭に包まれている幾つかの鉱路生物の死骸――あるいは、まだ辛うじて生きているもの。
そしてこの巣の主である巨大蜘蛛――身の丈の数倍の巣を築いて悠々と生きている、この蜘蛛。
(ちょっと嫌だな)
リベルがそう思ったのは、その蜘蛛の色合いがはっきりと見て取れたからだ――全体的に黒く、そしてちらりと見えた背中が危険なほど赤い。
鉱路生物の中で、派手な色合いや強い臭いを持っているものは大抵毒持ちだぞ、と、教えてくれたのは、ラディス傭兵団で一時期同じ小隊にいた、穏やかそうな男性だった。
元々は売られたのではなく誘拐されてきた身の上だったか何かで、学があり、殴り合いの喧嘩にはいつまで経っても慣れなかったようで、その心根のまま欠けた。
(ってことは、たぶん、こいつも毒があるな)
リベルが蜘蛛の巣を成す糸を掻い潜り、あるいは跳び越えて接近してくるのを、蜘蛛に似た鉱路生物は――もしも彼にそういった情動があるのなら――困惑を籠めて見つめた。
〔なんだ、おまえ? なんだ、なんだ? 二本足の竜に似てるがおまえは竜じゃない〕
リベルは唇を引き結んだ。
ここで応答しようものなら、鉱路生物相手に問答する変人とみられてしまう。
縦横に走る蜘蛛の糸を切断したい衝動もあったが、〈氷王牢〉ならばともかく、鋼の剣では容易く糸に巻き取られることは目に見えていた。
エルカならば、「面倒だな」と口走っていただろうこの局面、しかしリベルにその考えはない。
慎重に足を運んで目的を達することが出来るならばそうするまでだ。
目的までの手段の煩雑さを厭う性質は、リベルにはない。
跳んで屈んで身軽に素早く、蜘蛛に似た鉱路生物に接近する。
巨大蜘蛛からは、リベルは人間――即ち、二本足の竜には見えていない。
つまりこのとき、彼は判断をつかねたはずだ――竜の眷属とそれ以外の生物は、根本から違う。
ゆえに他の五人とリベルが目の前に現れたのが同時だったことは、偶然として無意識のうちに処理したはず。
ゆえに彼が考えるだろうことは、リベルは彼のご馳走を横取りに来た――あるいは、おこぼれに与ろうとしている――その、いずれかだと。
その困惑に付き合う義理はない。
そして巨大蜘蛛も、リベルに視線を当てたのは一、二秒程度、すぐさま四人の竜の眷属へ、その紅い複眼を向けている。
がさがさ、と多脚が動く。
繊毛の生えた巨大な脚。
その様を見てリベルは、ヘルヴィリーで誘拐されてから初めて、ヴィレイアがここにいなくて良かったと考えていた。
彼女はあからさまに虫が苦手だ――芋虫にすら悲鳴を上げるほどで、勇者組合で、ごく普通の――親指の先ほどの大きさの蜘蛛に遭遇したときも、声こそ上げなかったものの、じりじりと離れてリベルの後ろに隠れていた。
そんな彼女のことだ、この鉱路生物を目にしたら最後、潔く失神するかも知れない。
ここまでの道程で多少は耳にしたものの、それでもリベルには耳慣れない、弾けるような音が幾度も響いて、これは弩の音だ。
リベルとしては、己が誤射されないよう祈る気分である。
とはいえ、リベルはザイクの方へ向かっているのだ――リベルをというよりはザイクを無事に確保したい心理があって、こちらを向く矢はない。
蜘蛛からやや外れた方向へ飛んでいく矢――
リベルは糸でねばつく岩場を滑り込むようにして、ザイクと思しき彼のそばに膝を突いた。
聞いていたとおりの背格好、汗で湿った金色の短髪がばらりと散っている。
巨大蜘蛛との距離は僅かに三フィート。
落ち着いてザイクの首許に手を当てる――脈がある。
「…………」
思わず安堵の息を吐いた。
――生きている。
だが、生きているにせよ、彼は意識のない様子でぐったりしている。
頭を指で探った。
瘤が出来ていて、少量の出血があるが、それだけだ。
倒れ込んだときに頭を打ったのか、それとも蜘蛛の脚の一本で殴られたのかは判然としない。
見える限りで確かめたが、蜘蛛に噛まれた様子はない。
この蜘蛛が毒を持っていたとして、その毒に侵されている可能性は低い。
彼に絡みつく蜘蛛の糸を軽く引いてみる――硬い。
力づくでは時間がかかると判断して、心臓が入れ替えられ委縮した心袋に無理を強いながらも、ザイクの身体に絡む蜘蛛の糸を剥ぎ取る過程を心袋に放り込み、彼を自由にしていく。
リベルの稀代の大きさの心袋が、しかし今はそれだけで一杯になって、張り裂けんばかりに激しく痛んだ。
「げっ……」
呻く。
心袋の限界を超えることの恐ろしさを、彼はよくよく身に沁みて知っていた。
蜘蛛の糸の最後の一束は、業を煮やして手にした片手剣で乱暴に切り落とし、べっとりと糸が絡んだ片手剣を憤懣の瞳で見つつも、浅いゆっくりとした呼吸を繰り返すザイクの片腕を肩に担ぐようにして助け起こす。
「起きろよ、もう……っ!」
苛立って呟き、リベルは周囲を見渡した。
張り巡らされた蜘蛛の巣、がさがさと動くこの巣の主、飛び交う弩の矢。
とてもではないが、意識のない人間を担いで掻い潜れるものではない。
舌打ちして、可能な限り蜘蛛から離れられる位置までザイクを引き摺っていく。
張り巡らされた蜘蛛の巣の一部に彼を凭れ掛からせるような格好になってしまったが、致し方ない。
ヴィレイア程度の目方であれば軽々と持ち上げられる程度の膂力はあるが、その一・五倍程度の目方となればさすがに手に余る。
ザイクのそばに屈み込み、蜘蛛の糸に慎重に手を触れてみる。
ねばつく感覚――足許と同じように。
そしてそれとは別に、さらりとした絹糸のような手触りの糸もあって、その二種類の糸が複雑に組み合わされてこの巣が完成している。
――生物の、鉱路で生きる種族の、いっそ凛然たる進化の産物。
リベルは感嘆の念が湧き上がってくるのを感じたが、しかし今はそれに拘泥していられない。
目を凝らし、二つの糸の特徴を、今だけはこの暗がりでも存分に利く視界で把握し、――立ち上がる。
「ザイクは!?」
リリシアの悲鳴。
だがリベルは答えられない。
リベルの言葉は蜘蛛に通じる。
結果としてこちらに目を向けてしまうことになれば、ザイクが危ない。
巨大蜘蛛は、その巨体を思えば信じられないほど軽々とした動きで、縦横に巡らせた彼の巣を登ろうとしていた。
するすると糸を伝っていとも容易く、新たに現れた四匹の二本足の竜に接近していく巨大蜘蛛、そのときリベルは気づいたが、彼には脚が八本ではなく十本あった。
その尖った尻から、更に新たな糸を吐いている。
リベルは走り出した。
普段ならば心袋の大きさを活かし、躊躇いなく巣を引き裂いて、蜘蛛の落下を狙っていただろう。
だが今はそれが出来ず、だが、その代わりのように視界が利いている。
張り巡らされた巣の、その糸を見分けて滑らかな部分に足を乗せて、――駆け上る。
位置関係をいえば、今はこの洞穴の入口を背にしたバールたち、そして彼らに迫る巨大蜘蛛、そしてその二者と三角形を描く位置に横たわるザイク。
リベルは三角形の頂点から頂点へ、最短距離で駆け昇る。
足場は不安定な糸、一歩踏み外せば落下するか、あるいはねばつく糸に足を取られて動けなくなる。
リベルはもはや、落下する前に目的の場所に着けばいいと言わんばかりの、向こう見ずさすら感じさせる足運びで巨大蜘蛛に肉薄し――
ぴんと張った蜘蛛の糸の上で勢いをつけ、激しく動くその多脚を回り込んで正面に躍り出し、
〔――おまえ、〕
渾身の力で、その巨体を蹴り飛ばした。
謂わば顔面に当たる部分を容赦なく蹴り飛ばされ、巨大蜘蛛はリベルにだけわかる憤懣と憤激の声を上げた。
巨大蜘蛛が体勢を崩し、巣の上で身体が傾く。
追撃。
片手剣を、その紅く輝く複眼に、柄まで埋まるほど深く――力づくで突き刺して、
「――勝手に入ってきた分際で悪いんですけど、俺も命が懸かってるんで」
片手剣を勢いよく引き抜く。
刀身をぬらりと光らせる青い血液、間欠泉のように噴き出すその血がリベルの頭に掛かる。
――だが、驚いたことに、この鉱路生物はまだ死ななかった。
痛みに吼え、そしてその言葉を克明にリベルに伝えながら、巨大蜘蛛がのたうつ。
さしもの彼も糸の上で横転し、しかしさすがというべきか落下せず、ぐるんと巨体が回って蜘蛛の糸にぶら下がるような格好になる。
だがともかくも、これで無力な四人の方への接近は止められた。
更にリベルの耳が、離れた場所から近付こうとしている足音を聞き取っていた――坑道に反響する足音、荒い息の音、――ティドが戻ってくる。
リベルは躊躇いなく蜘蛛の糸の上から身を躍らせた。
どこかで小さく悲鳴が上がったようだが頓着しない。
糸でねばつく地面に、ぬちゃりと音を立てて着地。
すかさず走り出そうとして、――
そのとき、リベルは見た。
岩場に重なった蜘蛛の古い糸を苦心しながら――さながら(リベル自身にはこの比喩は浮かばなかったが)身分の高い誰かが珠簾を持ち上げるようにして――持ち上げて、僅か十フィートほど先で、岩魚の姫君が興味深そうにこちらを窺っている。
「――――」
リベルと目が合ったことを察して、姫君が嬉しそうに微笑んで、よいしょ、とばかりに重なった蜘蛛の糸を持ち上げ、こちら側に身を乗り出そうとしてくる。
「――――!」
血が凍るとはまさにこのことである。
冷静になって考えてみれば、岩魚の女王には複数の生命がある。
他の巣の女王が生きている限り、この巣の女王に何があろうとそれは問題にはならない。
そして、それゆえの警戒心のなさだったのだろうが、さすがにこの瞬間のリベルからは冷静さが吹き飛んでいた。
一足飛びに十フィートの距離を詰める。
きょとん、と目を見開く姫君の小さな頭の上に掌を置いて、怒鳴りつける。
「危ないから潜ってて!!」
大きな丸い双眸を、ますます丸く見開いた姫君が、それでも素直に、ちゃぷん、と、岩の中に戻っていく――それを最後まで見守ることはせず、リベルはザイクに駆け寄った。
彼を助け起こし、肩にその片腕を担ぐようにしながら、洞穴の入口を見遣る――ほぼ読み通りだった。
今まさに、ティドが戻ってきた。
彼の手許ではごうごうと火が燃えている。
松明めいた何かに見えるが、リベルの生活圏において、火を使うのは料理のときだけ――それも不傷石を使ってのことだ。
この地域における火を扱う知恵において、リベルは二歩も三歩も遅れている。
ゆえにその手段は問わない。
リベルはシャツを脱ぎ、上半身には肌着だけの姿になると、脱いだシャツをザイクの顔に被せた。
無防備な彼の顔を熱から守り、呼吸を僅かなりとも煙から守るために。
そして、叫んだ。
「火を点けろ!!」
訊き返すこともなく敢然と、ティドが火を掲げた。
狙い違わず、蜘蛛の巣が引火した。
リベルは息を吸い込む。
激しく痛む心袋に、しかしなお事象を詰め込んで、業火が燃えるに足るだけの空気を呼び込もうとする。
半ばからレイネがリベルの意図に気づいたのか、同じ魔法を使い始めた。
煙が洞穴内に充満する。
まるで人間の皮膚が焦げるときの如き臭いが立ち昇る。
息が詰まり、煙が沁みた目が凄絶に痛む――
目の前の蜘蛛の糸を、斬るというより片手剣で押し退けるようにしながら、リベルは出口に向かって、なおぐったりとしたままのザイクを担いで足を踏み出した。
あかあかと閃く炎が蜘蛛の巣を伝う。
巨大蜘蛛の、もはや言葉にならない絶叫。
一気に洞穴内の温度が上昇し、全身に汗が滲み、額を伝った汗が目に入る。
瞬きしてそれを追い出す。
全身の肌が炙られる痛み。
ザイクはしかし、皮肉にも、先程リベルがたっぷりと蜘蛛の青い血を浴びていたがために――その血が付着したシャツを被せられているがゆえに――喉が焼けるような事態にはなっていないはずだ。
悲鳴を上げる心袋に無理を強いて、リベルは進行方向のみを鎮火していく。
そうしながらも呟く。
「――お姫さま、絶対に顔を出すなよ、潜ってろよ」
疲労や心袋の痛みに加え、意識のないザイクの身体の重みもあってよろめくリベルを、バールとベリオが駆け出してきて支えた。
リベルは咳き込みながらザイクの身体を彼らに任せ、そしてその背中を押すようにして、この洞穴から脱出する。
巨大蜘蛛が蒸し焼きになるか、あるいはこの状況でもなお生き延びるかはリベルにはわからない――そして、興味を示すべきことでもない。
「綺麗な巣だったのに、ごめん」
微かにそう囁いて、リベルは冷えた空気の中に転がり出した。
*◇*◇*
「ザイク! ザイク!」
半狂乱になったリリシアの声が、坑道に反響している。
リベルはその場にぐったりと膝を突いていた。
シャツは取り戻して再び身に着けている。
肌着だけではどうしても、焼き印が透けて見えるかも知れないと思って誰にも背中を見せられなかった。
血塗れになった上に焦げたシャツでも着ていないよりは遥かにマシで、彼はほっと息を吐く。
とはいえ、炙られた蜘蛛の血液がとんでもない悪臭を発していることには閉口した。
生臭いような甘ったるいような、息が詰まるような臭いだ。
(着替えもないのに、マジか)
ベリオは弟の手を握り締め、本当に彼が生きているのか、何度も明りクラゲのランタンを近づけては確認している。
やべぇ、生きてる、と興奮状態で呟きながら、辺りをうろうろと歩き回り、時おり意味もなく両腕を突き上げているのはティド。
バールはその場に両手両膝を突いて、安堵になのか何なのか、殆ど啜り泣いている。
レイネは先ほど、ぜぇぜぇと喘いでいるリベルの背中を撫でようと近付いてきたが、警戒心満点のリベルがざっと後退ったために悲しそうな顔をして、今はリリシアの背中を擦っている。
リリシアの手許には、治癒精を示す、微かに桃色がかった白い光が灯っている。
その光がザイクに降り注いで、今、リリシアの法気を喰って叶えてやれるだけの範囲において、治癒精が彼を正常な状態に戻しているはずだった。
「――あの、」
と、リベル。
巨大蜘蛛と対峙しているときは全く感じなかった、人見知りゆえの気後れがあって、その声はやや小さい。
加えて心袋と心臓の痛みで、声を出すことすらつらかった。
「さっきの蜘蛛、たぶん、毒があったから。俺がざっと見たときには大丈夫そうだったけど、いちおう、咬まれてないか見てやって」
「――――!」
息を呑んだリリシアが、ザイクの首許、胸元、腕を検めていく。
その手つき――その眼差し、全てに圧倒的なまでの恋心が籠もっているのがわかって、リベルはそっと視線を外した。
「き――きみは咬まれてないの?」
レイネが目を見開いてリベルを見つめながら尋ねてきて、リベルはなんとか肩を竦める。
「ご覧のとおり」
バールが顔を上げて、リベルを見た。
真っ赤に充血したその目に、リベルはおたおたと視線を逸らす。
「――本当にありがとう、リベル。マジで……脅すようなこと言って連れて来て悪かった。
どう礼をすればいいのか――」
リベルはたじたじと首を振った。
「いや、あの、それは後でいいんで、取り敢えず鉱路から出ましょう。
で、〈言聞き〉のことを教えてもらって……」
「そりゃあもちろん! じいさんが黙っていようとしても、俺たちが袋叩きにしてでも聞き出してやるさ!」
リベルは懸命に息を継ぎ、唾を飲み、囁き声で続ける。
「あと、〈フィード〉に俺のことを……」
「もちろんだ。――なんで載せればいいかな? あんたの名前と――なんだ? あんたの仲間の名前か?」
「それから、欲を言えば衛卒にもあなたたちから話をしてほしくて――」
指揮系統が違うとはいえ、彼らも軍人だ。
バンクレットと連絡を取ることが出来る可能性がある。
そしてこの町の衛卒に、余所者のリベルが話しかけにいくよりは、まだしもバールたちから話してもらった方が通りは良かろう。
「衛卒? そりゃあ構わないが、衛卒か? あいつら性格悪いぞ」
「どこの町でもそうだよ」
そう呟いて、リベルは思い切って立ち上がった。
委縮した心袋に無理をさせたせいか、心袋どころか心臓までがずきずきと痛む。
それが酷くなる一方で、リベルはもう表情を繕えない。
彼はやっとの思いで言った。
「――ザイクさんが目を覚ますまで、のんびりするわけにはいかないんで。
抱えて連れて行けますか? 行きましょう。早く」
ようやっと鉱路から脱出する。
リベルも、さすがに足を引き摺っての脱出となった。
唯一の救いは岩魚が顔を出さなかったことで、彼らもどうやら、リベルがこの二本足の竜たちを、何が何でも彼らの巣の外に連れ出さないことには、彼らの姫君に構うどころではないと気づいたらしい。
そうして鉱路から脱出した後の復路において、リベルは殆どずっと、幌馬車の中で横になっていた。
時刻は既に夕方に近く、幌の隙間から射し込む光は沈む陽の蜂蜜色をしている。
そろそろ春だが、日が沈み始めるとまだ肌寒く、ささくれた馬車の荷台は冷え切っていた。
リベルは冷えた荷台でぐったりと俯せになっている。
心臓も心袋もひっきりなしに痛み、吐き気すら催していたため、鉱路から出る頃にはすっかり疲れて果てていたのだ。
とはいえ、横になっていれば具合がいいかというとそうでもなく、馬車というものは陸舟よりも更に揺れる。
地面の上を、浮かぶのではなく車輪を転がして走っているのだから当然だが。
――ゆえにリベルは、深刻な体調不良とともに、洒落にならない馬車酔いに襲われていた。
一度など、耐えかねて御者台に向かって停車を要求し、よろよろと馬車から降りて道の端の茂みで嘔吐した。
普段の鉱路探索において、陸艇に乗り込めばもう安心、と大の字になっていられたのは、あれは実は稀有なことだったのだ、と、リベルは今さらながらに気づいた。
思えば、単独で鉱路探索をしていたときは、必ず復路に体力を残すようにしていた――何があるかわからないのだ、下手を打てば、陸艇から降りると同時に法務官に出迎えられ、そこから生きるか欠けるかの大脱走が始まることすらあるかも知れないと、リベルは警戒していた。
そしてアーディスたちと組み始めると、隊には優秀な――それはもう頼りになる――リガーという腕利き法術師がいた。
彼の腕利きたる所以は、法気の規模もそうだが、法気の分配が上手かった点にある。
帰路の最後まで治癒精の恩恵を途切れさせないよう、常に気を配ってくれていたのだ。
そして今は、ヴィレイアがいる――治癒精にいくら法気を喰わせようが平気な顔をしている彼女が。
ゆえに、ここまで疲労困憊して探索を終えたことは、久しくなかった。
そもそもが、探索に出発する前から、突然の誘拐に素人を引き連れての鉱路探索、岩魚との遭遇と、既に疲れ切っていたのだ。
「行き道は大丈夫だったのに、どうしたの」
と、レイネにはおろおろと尋ねられたが、鉱路探索前と後で体調が一定だと思っているのならば、彼らは本当にまともな鉱路探索をしてこなかったということだ。
返答する気にもならず、リベルはただただ目を閉じていた。
治癒精を使ってくれと頼むことすら思いつかなかった。
リベルの頭の中では、自分に与えられる治癒精の恵みはヴィレイアと共にあった。
ザイクはまだ目を覚ましておらず、一度不明瞭な声を出しながら目を開けようとしたが、すぐにまた眠りに落ちていった。
リベルとしては、治癒精が働いている以上、何かの異常があるというよりも、緊張が切れた極度の疲労状態にあるのではないかと思う。
リリシアはザイクの頭を膝に乗せて、啜り泣きながら彼の額を撫でている。
法術師はリリシアとティドだが、その二人が二人とも、取り戻した仲間――かつ、リリシアにとっては恋人――に集中し切っており、リベルの状態には気が回らないらしかった。
治癒精を使ってくれと頼むことすらしていないリベルとしては、そのことに思うところもありはしない。
ただ、いよいよこれはまずいと明確に自覚したのは、町に戻り、種々雑多な組合の拠点として使われている例の建物の前で、馬車から降りたときだった。
馬車から降り、歩き出そうとした瞬間。
足許に絨毯が敷かれていて、それを誰かに勢いよく捲られたように、足がよろめく。
がくん、と膝を突いて、掴まろうとして伸ばした手が幌に引っかかって、一拍を置いて滑る。
(まずい、まずい、まずい)
心臓が、痛むというよりも、ぎゅっと圧迫されて消えていくような。
先んじて馬車を降りていたバールが、ぎょっとした顔でリベルを振り返った。
ベリオが飛び付くようにリベルのそばに膝を突き、彼を支えて頭を打たないようにする。
振り返りながらベリオが叫んだ。
「ティド! 治癒精!」
リベルにはそれも聞こえていなかった。
全身から血が引いていく音が耳を聾している。
血液という血液がどこかの穴に落ち込んでいって、ただ脳や目玉が浮遊しているような、そんな感覚。
手足が強張り、足許が覚束ない。
馬鹿なにやってんだどうしてこの人に治癒精を使ってないんだ、と、ベリオとバールが罵る。
リリシアは茫然とし、ティドは仲間に応答すらせず、慌ただしく治癒精の影を手許に呼び出している。
レイネだけがまだ馬車の中にいて、まさに顔を覗かせて降車しようとしたところで、その姿勢のまま、急変した事態に愕然としている。
周囲には町の人々――リリシアに支えられ、まだ意識も覚束ないながらも現れたザイクを見て、わっと喝采に湧いた人々が、間髪容れぬ切迫した雰囲気に、どことなく戸惑った様子を見せている。
リベルは周囲の何も感じ取ることが出来ず、ただひたすら、一つのことだけを考えていた。
――黄金竜にこのことを知らせなければ。
欠落がリベルの目前に迫れば、黄金竜が持つ、治癒精への生得権がリベルに働く。
強張った右手を動かして、懐を探る。
震える指先に〈陽輪〉の鱗が触れる。
それを引き出し、取り落とすと同時に、膝を突いた状態から更にリベルは倒れ込んだ。
リベルを支えていたベリオに向かって、罵詈雑言の嵐が飛ぶ。
ベリオは歯を喰いしばった無言で、彼の硬い掌とティドのまだ柔らかい掌が、リベルを仰向けにしようとしている。
リベルは浅い呼吸を継いで、もう真っ暗になりつつある視界の中で、すぐそばにあるはずの黄金の鱗に向かって声を押し出した。
「――〈陽輪〉、たすけて」




