24 夢と報せ
意識が点いたり消えたりしている。
まるで昼夜が高速で繰り返されているかのよう。
感覚というべき感覚はなかったが、ひどい貧血のような――水に潜り過ぎたあと、呼吸を求めているときのような、肺と頭が爆発するような、そんな不快感だけを遠くに感じる。
意識が点いているとき、その意識はあちこちを浮遊して、暗転の合間を縫って夢を見ている。
夢の中でリベルは、エルカに手を引かれて鉱路を歩いている。
まだ身長も伸び切っていない、幼いエルカが担いだ小銃は不相応に大きく、背負われた小銃の銃床が歩みに合わせて揺れるのを、リベルは眺めている。
意識が暗転して、そうしてまた夢が立ち現れる。
珍しくはないいつもの夢――今でも覚えている、ラディス傭兵団に所属していたときにこなした任務の夢だ。
夢の中でリベルは横転した陸舟の入口を蹴破り、中で怯えて縮こまった人々、陸舟の横転があって怪我をしている人々に向かって、構えた小銃を乱射している。
不傷石が爆ぜる音と臭い、そして悲鳴と、悲鳴が薄らぐに従って濃く立ち昇る血の臭い。
欠け人となった彼らが、まずは自分をじっと見つめることに気づいて、リベルは心底ぞっとするが、それを見せてはならない。
全て呑み下して後続に怒号を上げる――荷はこの中だ、早くしろ!
素早くエルカがリベルの横を通り過ぎて陸舟に踏み込む。
それに続いて、部下たちが続々と。
中にはリベルに怯えた目を向ける者もいる、当然だ。〈言聞き〉への誓約があって、リベルは部下たちに離反の兆しが見えれば、過剰な暴力でそれを抑え込んでいた。
リベルは吐き気を堪えて命令している。欠け人は売れるから外には出すな。
陸舟の外では、見張りに立つ数名が、油断なく周囲を見渡しながらも声を掛け合っている――
リベル、まだ欠けないぜ。
オーゲルは二年だったな、リベルはあとちょっとで三年になる。
こないだあいつに欠けるかと思うほど殴られたぜ、エルカが来てくれなかったら欠けてたな、あいつ、早く欠ければいいのに。
やだよ、リベルが欠けたら俺たちの中の誰かが誓約させられるんだろ。
次はエルカに決まってんだろ。
確かに、リベルもエルカには頭上がんないもんな。
で、エルカが欠けるわけねぇんだから、俺たちは心配ない。
リベルは陸舟の中を振り返る。
ちょうどエルカが、陸舟の客室に積み込まれていた荷物を幾つか開けて中身を確かめたところで、立ち上がって彼を振り返っている。
目が合って、エルカが慰めるように微笑む。
そして言う――次は鉱路だといいな。
瞬きするように夢の中の視界が明滅して、リベルは鉱路を歩いている。
一人だ。
手に持っているのは〈氷王牢〉ではなく何の変哲もない小銃で、明かりもない。
歩いているうちに、足許の地面がせり上がってきて、やがてリベルは地面に呑み込まれる。
「汗がすごいんだけど、本当にこのまま欠けたりしないの?」
『もしそうなれば、私が救える』
ダイアニの勇者組合で、リベルはアーディスたちと話している。
ラティとリガーが、テーブルクロスでアガサの服を繕わなければと言っている。
アガサの衣服の当て布として使えるのはクロスだけなのだ。
リベルも深々と頷いて、そういうことならと針と糸を持とうとするが、なぜか何度試しても針の穴に糸が通らない。
アガサが悲しそうな顔をするので、リベルは慌ててしまう。
そして、どうしても針を使わないと駄目なのか、とアーディスに訊く。
それを聞いたラティが、本物の彼ならば絶対にしないだろうことに、リベルを指差して大声で笑い出す。
「着替えさせた方がいいかな――血塗れだし、汗も」
『この身体の中の心臓が如何に貴重か教えただろう。触れるな』
リベルはバンクレット邸の食堂にいる。
テーブルがあるべきところが、なぜか巨大な石板になっていて、バンクレットがリベルの隣に立って、そこに鉱路に持って行くべき砂糖菓子の名前を書いてくれ、と言っている。そうしないとエルカに会わせてあげられないよ。
リベルは困惑して、俺は字は書けないし砂糖菓子も知らない、と訴えているが、どうしてだかバンクレットには通じない。
リベルは困惑している――バンクレットさんは俺の味方でしょ、会いたいって言ったらエルカにも会わせてくれるんでしょ。
そう訴えているうちに、石板だったはずのものは塩の塊に変わっている。
リベルは寂しい思いでそれを見て、ヴィリーに頼めばいいのに、と呟く。
バンクレットが、ヴィレイアはここにはいないよと告げて、リベルは慌てて立ち上がってヴィレイアを捜しに行こうとするが、身体は蜂蜜の中に放り出されたかのように動かず、腕を振って走り出そうとするのに、遅々として前に進まない。
踏み出せども踏み出せども、足は床の同じ位置を蹴っている。
「ヴィリー?」
「――あれ? 何か言った?」
「いや、魘されてるだけ――かな」
「ベリオ、リリシアをザイクから引き剥がして来い。ティドと交代だ」
ヴィレイアがエーデルの勇者組合の食堂に座っている。
妙に明るい――どうやら勇者組合は、壁と天井を廃止することに決めたらしい。
壁は腰の高さまでで、そこから上は取り払われており、辺りには誰もいない。
組合の外は一面の原野になっていた。
リベルとヴィレイアの間には小切手が積み上げられていて、記入されている金額は悉くがゼロだ。
これでは小切手の用を成さない。
「おまえが要らないものにひょいひょい金を遣うせいで!」
リベルの叫びに、ヴィレイアが拗ねて頬を膨らませている。
「要らなくないもん。怒らないでよ。――ねえ、リベルは稼いだお金を殆ど全部貯めてるけど、何に使うの?
使いたいときに使わなきゃ、楽しまなきゃ。明日にはどうなってるか分からない人生だよ?」
リベルは不安になる。
何かとても重要なことを忘れているような気持ちになる。
「明日だって一緒にいるんだろ」
「それが楽しいと思う?」
「俺は楽しいよ」
「今なら楽しめることが、明日には楽しくなくなってるかも知れないよ」
リベルはヴィレイアを見つめようとするが、奇妙なことにヴィレイアの、その唇から上が見えない。
ヴィレイアの、もう見慣れたあの微笑み、その曲線が載る唇だけは見えているが、そこから上が見えない。
「俺はずっと――」
「けち」
ヴィレイアがそう言って、リベルは自分が言いたいことに拘泥できない。
「そんなだから貯金できない――」
「だって、欲しいものは今日あるんだもの。困るのは明日だもの」
「そうだけど……」
「今欲しいものが目の前にあるって、それはもう運命だなって」
「はいはい、わかったわかった」
あしらうリベルに、ヴィレイアの瞳が見える。
――その瞳は、夢の中であってもあの色合い。
生命そのもののような、煌めく濃緑。
彼女が言う。
「一度逃すと、もう捉まえられないのが運命なのよ」
*◇*◇*
――天井が見えた。
壁紙が捲れて、べろりと盛大に垂れ下がっている天井。
壁紙は、元々は白かったのかも知れないが、今ではすっかり黄ばんで、煙草の煙で汚れてしまっている。
隅の方に黴が生えている気がするが、定かではない。
その天井に、窓の形の日差しの形がくっきりと映えている。
そしてそれよりも手前に、こちらを覗き込む二人か三人の人影――いや、一人かも知れない、眩暈が酷く、目が霞んでいた――、そして声がする。
その声を聞いた、気がした。
「目が開いた!」
「もうめちゃくちゃ大騒ぎだよ!」
「馬鹿、うるさい。まだぼんやりしてるだろう――寝かせてやらなきゃ」
そんな時間はないんだ、と、妙に鮮明に考えたが、しかし抗えない眠気の波に浚われて、リベルはまた目を閉じた。
次に目を開けたときは夜だった。
異様なほど喉が渇いていて、リベルは身を起こそうとするが、信じられないほど身体が重い。
それでもなんとか手を伸ばそうともがいていると、誰かがリベルの手の甲に触れた。
「起きたの? 目が覚めた?」
声に聞き覚えがない。
エルカの声でもヴィレイアの声でも、バンクレットの声でもない。
そのことに激しい違和感と、突き上げるような警戒と焦燥がある。
だがそれらも、油膜を隔てているかのように遠い。
リベルが咳き込むと、そばの誰かが察したのか、口の中に半ば砕いた不溶石が押し込まれる。
噛み砕くと甘露のような水が喉に流れた。
硬く強張っていた舌が和らぎ、ひりひりと痛む喉が癒えるような。
リベルはほっと息を吐いて、尋ねる。
「ヴィリーは?」
そばにいる誰かは困惑したようだった。
え、と短い声が漏れ、リベルは返答を聞く前に、また眠りに落ちた。
伸びをして目を開けて、リベルはしばらくぼんやりする。
埃っぽい臭いが鼻につき、続いて、ぱたぱたぱた、と、雨音が響いていることに気づく。
ぱたぱたぱた――と、眠くなるほど単調な音が続いている。
時おり風が強くなって、風に飛ばされた雨粒が、ばたばたばたっ、と勢いよく窓を打つ音もする。
喉が渇いて、そのせいか頭も重く痛んだ。
空腹だったが、その空腹感は切迫していながら、妙に遠いものに感じられる。
身体が重く、力が入らない。
ぼんやりしながら、自分の呼吸を意識する。
吸って――吐いて――埃っぽいが、不自由はない。
湿気のある空気。
そして、最近こんなのばっかりだな、と考える。
気絶して、目が覚めて――その繰り返し。
(もう何回目だ?)
誘拐されたとき、その後の鉱路で、そしてその後、見ず知らずの町の組合で――
(――? ええっと、なんで……)
どうして、そもそもそんなことになったのだったか――
そう考え、数秒して、全身に衝撃と共に血が巡った。
誰かに引き金を引かれたかの如く、リベルは勢いよく飛び起きた。
それと同時に、乾いた血でぱりぱりとした感触になった衣服に気づき、ほっとする――誰かに無断で着替えさせられて、背中を見られるような目には遭っていないらしい、とわかったからだ。
リベルが跳ね起きた途端、わっ! と驚いたような声が部屋の隅で上がり、そのことにリベルも驚いて、低く声を上げてしまう。
目を見開いて見渡した先、部屋の隅で、がたついた椅子に手持ち無沙汰そうに腰掛けていたのはティド。
彼が白皙の美貌でリベルを凝視して、腰を浮かせる。
「お――起きたんだ……」
呟いて、ええっと、と声を漏らしながら、おたおたとリベルに近付いてくる。
リベルは警戒に硬直してそれを見守った。
歩み寄ってきたティドが、リベルが横になっている古びた寝台のそばの、これもまた古びてがたついたサイドテーブルの上のブリキの容器から、不溶石を一つ取り出した。
「えーっと、水。噛めそう?」
リベルは頷く。
正直にいえば顎の力が弱っているかどうかもわからなかったが、ずっしりと重く感じる腕を持ち上げ、掌で不溶石を受け取って、口に含む。
がり、と噛むと、甘い水が口の中に溢れた。
ごくり、と飲み込むと生き返る心地だ。
思わずもう一度掌を出す。
心得ていたティドが不溶石を、今度は二つ、リベルの掌に置く。
感謝におずおずと眉尻を下げて、リベルは二つの不溶石を口に含む。
ティドはそんなリベルをじっと見ていて、それから言った。
「……あの……ザイク兄ちゃんのこと、ありがとう……」
リベルは聞いていなかった。
何よりも重要なことを思い出して肝が冷えていた。
胃袋が数段落ち込んだかのようだ。
血の気が引き、指が震える。
「今、何日?」
リベルは茫然として尋ねている。
「初春の月の、何日?」
リベルの命の期限は、初春の月が終わるまで。
上掛けを跳ね除けて立ち上がろうとするリベルを、ティドが慌てて止めた。
「待って待って、落ち着いて!」
「どうでもいい、〈言聞き〉は――」
なお立ち上がろうとするリベルに、ティドは叫ばんばかりに。
「わかってる、時間がないことはわかってるから! 今、みんなを呼んでくるから、ちゃんと色々話せるよ!」
「――“わかってる”?」
リベルは茫然としてティドを見つめた。
見開かれた朱色の瞳に凝視され、居心地が悪いのかティドが目を逸らす。
「だって、ほら……あなたが呼んだからか知らないけど、あなたが倒れちゃってすぐ、黄金竜が……」
リベルは顎を落とした。
「――〈陽輪〉が、きみたちの前に出てきたの?」
とてもではないがじっとしていられず、リベルはティドについて部屋を出た。
立ち上がった直後こそ、膝が笑ってぐんにゃりとその場に座り込みそうになったが、リベルの頑健さが彼を救った。
よろめきつつも、すぐに歩けるようになったのである。
リベルが現在地がわからず混乱していると、ティドが彼に教えた――どうやらここは、種々雑多な組合が使っている例の建物の、その二階になるらしい。
部屋を出るや否や、廊下の床板に大穴が開いているところに遭遇し、あちこちを走り回るネズミが視界の端に見え、視線を上げると天井付近には幾重にもなった埃まみれの蜘蛛の巣。
どうやらここは滅多に使われないらしい。
ぎしぎしと軋む床を踏んで階段へ。
階段へ足を踏み出しながら、ティドが振り返って注意する。
「手摺、がたがたしてるから掴まないで。あと、上から数えて五段目、穴が開いてるから気をつけて」
リベルは頷いて了解を示し、ティドの後に従って、常よりも慎重な動きで一階に降りていった。
そうしてはっきりとわかったが、確かに、〈陽輪〉は人前に姿を現していた。
一階の、仕切も曖昧な食堂や談話室などの大きな広間。
そこに集まった人々は一様に、異常事態への浮かれた態度を示している。
その所以は明らかだ。
開け放たれた正面の扉――その向こうに見える、しとしとと雨の降る中に平然と横たわっている、どんな芸術品も及ぶまいと確信できる美しさの、黄金色の巨躯。
リベルは混乱の余りに立ち竦み、そんな彼に、続々と人が集まってきた。
リベルは早くも卒倒しそうになりながら一歩下がり、そんな彼を背中に庇うようにして、ティドが集まってきた人々を諫める。
「ちょっと、リベルさん、起きたところなんだよ」
「目が覚めて良かった……!」
絞り出すようにそう言ったのはレイネで、その後ろからはベリオが彼女を押し退けて姿を現して、腰が引けるリベルの手を、やや強引に握った。
それを止め損ねたティドが、じゃっかん気まずそうな顔をする。
「――弟が本当に世話になった。マジで。マジで。感謝の言葉もない……。リリシアも礼はしたいって言ってるんだが、悪い、今ちょうどザイクに付き添っててな。あいつ、目は覚めたんだが、まだちょっと本調子じゃないみたいで。ほんと、軟弱な奴で恥ずかしいよ」
恥ずかしい、と言いながらも、ベリオの焦げ茶色の瞳は弟が生きて戻ってきた喜びに光り輝いている。
リベルは息を吸い込み、ついで勇気を振り絞った。
「あの、いや、それはいいんで」
その場の、どう見ても勇者隊以外にも溢れんばかりに人がいる、その面々をざっくりと見渡す。
リベルからすれば、全員がのっぺらぼうに見えていた。
目が眩む。
「〈言聞き〉はどっちに行ったんですか。あと、今は初春の月の何日ですか!」
「二十三日」
誰かが即答し、リベルはひゅっと心臓が縮まるような心地を味わった。
「二十三日……!?」
つまり、四日と少々眠り込んでいたということだ。
時間の無駄にも程がある。
命の期限までは、
(今日を含めて、あと八日……)
目の前が真っ暗になってふらつくリベルの腕をがっしりと握って、ベリオが励ますように言った。
「あんたがマジで大変な目に遭ってることはわかった。わかったっていうか、聞いた――俺たちは。俺たち六人は。あとの連中は野次馬だ。あんた、有名人だから」
「意味が……」
呟くリベルに、これも人混みを掻き分けてバールが歩み寄ってくる。
「いや、鉱路からただもんじゃねえとは思ってたけど、あんた、マジで大した奴だったんだな。
――〈言聞き〉がどっちに行ったかは、俺たちがじいさんから聞いたし、あんたにも話してもらうよ」
リベルは混乱し、バールをじっと見つめたあとに、人混みの向こう、この建物の外の〈陽輪〉を見つめた。
一刻も早く行動しなければ、とは思うものの、現状の混乱も如何ともし難い。
両手で顔を押さえ、リベルは「ちょっとごめん……」と誰にともなく呟くと、ふらふらと広間を横断して外に向かった。
人混みは厄介だったが、皆が押し合いへし合いで道を開けてくれる。
そして、好奇心で煌めく何対もの瞳がリベルを追う。
(な――なんだ、どうなってるんだ……)
困惑を通り越してもはや怯えながら、リベルは建物の外に出た。
たつたつと雨が降っている。
激しい雨ではないが、本降りだ。
あちこちに小さな水溜まりが出来ており、雨粒が跳ねている。
左手で顔の上に手を翳しながら、リベルは悠々と通りに身体を伸ばす〈陽輪〉に駆け寄った。
その足許で、ばしゃん、と、地面の窪みに溜まった水溜まりが跳ねる。
黄金竜の鱗は雨に濡れて、つやつやとまるで木漏れ日を閉じ込めた飴のように輝いている。
「――〈陽輪〉」
ぶーん、と、〈陽輪〉の腹の奥の方で音が鳴った。
彼――あるいは彼女――の琥珀色の大きな瞳がリベルを見てゆっくりと瞬き、しかし返答はない。
「〈陽輪〉?」
黄金竜がゆっくりと身を起こし、巨躯が動いたのだから足許が揺れそうなところ、やはり綿毛のように軽い身ごなし。
そうして、猫のようにくるりと身体を丸くした〈陽輪〉が、先程とは反対側の目でリベルを見た。
『――――』
そして、彼――あるいは彼女――が、何か言った。
意味は取れなかった。
が、感情は伝わった。
――〈陽輪〉は、余すところなく激怒していた。
『――心袋は委縮していると言っただろう! この愚か者!』
「それしか言わなかったじゃん! 魔法使うなとか俺言われてないよ!」
『この愚か者! その愚かさがおまえ一人に降り掛かるならばまだしも、私の愛し子におまえの愚かしさのつけを払わせようとするとは!』
「違うって! わざとじゃないって! 痛いの我慢すればいいのかと思ってたんだって!!」
『この馬鹿者! おまえの愚かしさを表現するためだけに新しい言葉が必要になる!
痛覚が何のためにあるのか、その足りない頭ではわからないか!!』
「言葉足らずなおまえが悪いだろ、このクソ馬鹿金ぴかトカゲ!」
『おまえの頭蓋の中身が思考のために存在していると誤解していた私が悪かった。そういうことだな、よくわかった』
「欠けそうになったの俺だぞ! なんでそこまで言われなきゃなんねぇんだよ!」
怒鳴り合う二人を、組合の建物から顔を出した人々がぽかんとして眺めている。
どうやら〈陽輪〉は、言葉の意味を絞って伝える相手を、耳打ちするかの如く選ぶことが出来るようだった。
ゆえに、リベル以外の人間には、今の〈陽輪〉の言葉は伝わっていない。
彼らには、ただ黄金竜が荘厳な声を立てているようにしか聞こえていない。
そのゆえか、リベルの悪態を、信じられないというように目を見開いて聞いている人々が少なからずあった。
――とどのつまりが、リベルは魔法を使うことを控えるべきだったのである。
リベルは全く知らなかったが、そして〈陽輪〉はリベルにとって既知のことだと思い込んでいたが、心臓と心袋は相当に親密な関係にある臓器であるらしい。
委縮した心袋に無理を強いた結果、心臓の病状が悪化した、というのが、あの無茶な鉱路での人捜しの顛末だった。
だが、怪我の功名。
リベルがここでこうして元気に〈陽輪〉を罵っていることからもわかる通り、リリシアとティドの懸命の治療の甲斐あって、当初の一つめの目標であった、「心臓を癒す」ことが達成できていた。
リベルとしては――自分で自分に恩知らずなことと呆れたが――若干とはいえ二人の治癒を疑う気持ちがあった。
出来るならば今すぐにでもヴィレイアに会って再度の治療を頼みたいほどだったが、リベル以上にこの心臓にはご執心の〈陽輪〉が満足しているのだから、問題はないのだろう。
更に腹黒いことを言ってしまえば、リベル自身の心臓が彼に戻るならば、リベルは以後、この心臓がどうなろうが関知せずともよいのだ。
そして、〈陽輪〉が人前に姿を見せた理由も単純――リベルが助けを求めたからだ。
倒れたリベルのそばに〈陽輪〉が舞い降り、町は一時騒然としたらしい。
だが、その人間の都合は一切顧みず、治癒精への生得権でリベルの当座の命を繋いだ〈陽輪〉は、詳細は一切省いて、バールたちに「リベルの心臓が、今はとある〈言聞き〉のものであること」、「心臓を治療しなければ命が危ないこと」、「〈言聞き〉を一刻も早く発見しなければならないこと」、「その期限はこの月が終わるまでである」ことを説明したという。
リベルはその当時の混乱を思って頭痛すら覚えたが、バールたちは案外にも冷静だった。
曰く、
「いやあ、黄金竜と言葉って通じるんだ、とは思ったけど、通じてるもんは通じてるんだし疑ってもしゃあねぇじゃん。で、黄金竜が嘘つく理由なんてないじゃん」
とのこと。
リベルの事情を聞かされたのは、バール隊の六人――正確には、〈陽輪〉が話したのは五人に対してだ。が、バール曰く、「リリシアに話せばザイクにも筒抜けになるさ」とのこと――のみ。
「それに、あんたが血眼になって〈言聞き〉を捜してたのにも納得できるしさ」
リベルは雨に濡れた赤錆色の髪を掻き上げた。
雨の雫が睫毛に溜まったので、乱暴にそれを拭う。
「それで、〈言聞き〉はどこなんですか」
とはいえ、既に五日近く経過しているのだ。
この町で得られる手掛かりも、もう役に立たなくなっているかも知れない。
バールが建物の中を振り返り、「フリディじいさん!」と呼ばわったあと、リベルに向き直った。
「じいさんが言うには、〈言聞き〉を連れた連中、フリディじいさんを捉まえて、『〈言聞き〉に詳しいか』って訊いたらしい。他にも何人か、そう訊かれたじいさんがいて。で、フリディじいさんは気になって、『なんでそんなこと訊くのか、〈言聞き〉が怖いなら置いていけばいいじゃないか』って訊いたらしい――〈言聞き〉を担いでたわけだからな。そしたら――ああ、来た来た」
人混みを掻き分けて、「フリディじいさん」と思しき老爺が前に出てきた。
建物の入口に立って、まだ外に立って雨に打たれているリベルを、珍妙なものに向ける目で見ている。
――間違いなく、リベルが初めてここに来たときに見た、農事組合の老爺、その人だ。
(話を聞くまで長かった……)
バールに促されて、フリディ老爺がぼそぼそと話を繰り返す。
〈言聞き〉を連れている連中を見た。如何にもならず者といった風体をしていた。〈言聞き〉に詳しいかと尋ねられた。どうしてそんなことを訊くのかと尋ねると、連中は――
「仲間のために必要なんだと言っていて――」
「仲間?」
リベルは訊き返し、いい加減〈陽輪〉に付き合って雨に打たれていることもあるまいと、歩を進めて建物の軒下に入った。
バールが、奥へ入れと手招きしてくれる。
相も変わらず、群衆がリベルをじろじろと眺めている。
リベルは嫌な予感に眉を寄せた。
(〈言聞き〉――仲間――いや、まさか……)
――ラディス傭兵団。
――リベルとエルカの、忌まわしいばかりの古巣。
「そいつら、武装してました?」
「そりゃもう」
「で、どこに行くって?」
「衛卒がね、連中にどこから来たって詰問し始めてね。連中はヴォーガルから来たと言っていたね。私はどこだか知らないが」
リベルも聞き覚えのない地名だったが――いや、
(聞いたことはある)
はたと思い出した。
あの祝宴の日、ヘルヴィリーとアインヴェルの勇者組合の首長が言っていた――最近〈鉱路洪水〉が発生した町だ。
(でも、そんなところには、ラディスの拠点は――俺がいたときは――なかった)
だが、リベルがラディス傭兵団から逃げ出したのは十四歳のとき、そろそろリベルは二十歳になろうとしているのだから、もう六年近く前だ。
ゆえに、それまでの間で拠点が増えたということもあろうが――
(エルカなら知ってるかも)
リベルは一度、エルカを見捨てている。
ゆえに、エルカが自由になったのは、つい数箇月前――
「そいつら、その、ヴォーガルに戻るって言ってました?」
「いや、ケセットに向かうと言っていた。誰かを待たせているらしかったな、いやに急いでいて――自分たちから声を掛けてきたのに、後の方はもうこちらのことをうるさそうにしていたね」
「ケセット」
リベルは呟く。
呟きながら、濡れたシャツの胸元を引っ張って、肌に張りつく布と皮膚の間に空気を入れようとする。
咄嗟に魔法で乾かそうかとも思ったが、寸前で踏み留まった。
そろ、と振り返ると、リベルの一秒未満の思考を敏感に感じ取ったのか、〈陽輪〉が優美な首を覆う鱗を逆立ててリベルを睨んでいる。
黄金竜はその眼力で人の背中を刺せるかも知れない、と、リベルは真面目に考えてしまった。
(――いや、今はそれどころじゃなくて)
ケセット。
――聞き覚えのない町(あるいは村だろうか)の名前だが、この心臓を巡る騒動全てがリベルの知識の上で完結するほど甘くはないだろうことは、重々承知していた。
「地図はありますか」
リベルの呟くような問いに、「あるよ!」と声が返る。
振り返るとレイネだったが、それと同時にフリディ老爺も、「知らない町の名前だったけれど、」と言葉を継いでおり、リベルはそちらをまた振り向いた。
「連中、でっかい箱――なんていうんだったかな、あの、空を飛ぶやつ」
「陸艇?」
「そう、それ。それに乗って近くまで来ていたようでね。あのでかぶつが南に飛ぶのを私は見た」
「南……」
呟いて、リベルはごしごしと目を擦る。
眠くはなかったが、妙に目が霞んでいた。
「地図……取り敢えず地図が見たい……」
足を引き摺るようにして、広間に入ろうとする。
地図は、と周囲を見渡しつつ、リベルはそこに立錐の余地なき人の多さに閉口する。
「……黄金竜が来ただけでこの騒ぎですか」
リベルが曲げた唇で呟くと、「ああ」とバールが手を打った。
「違う違う。ごめん、早く言わなきゃとは思ってたんだが」
なに、と見遣った先で、バールは広間の片隅、書類や木箱が積み上げられた一画を指差す。
「〈フィード〉に、」
リベルは瞬きして、バールの指先を視線で追った。
「〈フィード〉に、あんたのことが載ったんだ」
「――――」
リベルは目を見開く。
心臓が喉許にせり上がって脈打っているかのよう。
指先にまで温かい血がじんじんと巡るのが感じられる。
「――え?」
「あんた、マジで大した奴だったんだな。昨夜にモア――あ、〈フィード〉を作ってくれてる人な、その人が騒ぎ始めてさ、マジでびっくりしたよ」
バールが話すのを聞きながら、リベルは殆ど夢心地に近い気持ちで広間を歩く。
人波が彼に道を開けていき、好奇心と、品定めと、野次馬根性の窺える無数の視線がリベルの姿を追う。
食堂の区画を抜け、書類や木箱が積み上げられた一画へ。
〈フィード〉といっても本当に小さい――ただの小さな掲示板だ。
これでは、ダイアニの勇者組合が保有する陸艇に設けられている〈フィード〉の方がまだ立派だ。
だが、〈フィード〉は〈フィード〉だ――ここに、法術師が透過視精でキャッチした情報が載せられることには間違いがない。
透過視精が運ぶ情報は、各地の〈フィード〉担当者から発信されたもので、有象無象のものではない。
具体的な仕組みはリベルの知るところではないが、特定の符牒を付していない情報は、〈フィード〉には載せられないのだ。
つまり。
――〈フィード〉に情報が回るということは。
――では、ヴィレイアは、エルカは、リベルに異変があったことを察してくれたのだ。
――察して、そして、リベルを守る仕掛けは働いているのだ。
鼻の奥がつんとして、目の裏側が熱くなる。
リベルは歯を食いしばって涙を堪えた。
瞬きして視界をはっきりさせ、見る。
〈フィード〉に、慌てたように乱れた字が並ぶ、小さな紙片が留められている。
『以下の人物につき、見た者は必ず保護すること。報酬――三百オレガ。
特徴――赤い髪(短髪)、朱色の目。身長は五・九フィート。やや痩身。
人工の加護持ち、エーデルの勇者。
名前――リベル。
共和国将軍の縁故。罷り間違っても粗相のないよう。
負傷があれば治療するよう』
それは、リベルが十二日ぶりに接する、彼の属する世界からの報せだった。
夢の中のヴィレイアとの会話ですが、
2章1話、3章1話でほぼ同じ会話をしています。




