10 ハロー、サプライズ
ブロムウェルはどう見ても、ついでに臭いからしても失禁していたが、涙ぐんで震えながらも果敢に顔を上げている彼に免じて、エルカはそれは指摘しなかった。
彼の首根っこを掴んで、半ば引き摺るようにして引っ立てつつ、エルカはヴィレイアとバンクレットを振り返る。
「〈鳩と猪亭〉だって。場所分かる? 俺、ヘルヴィリーには詳しくない」
当然だが、ヘルヴィリーの商店街区は広く、虱潰しにするには相当な時間が掛かる。
そしてブロムウェルの言うことを全て信用して道案内をさせるのも、避けたいことではあった。
ヴィレイアが黙って首を振る。
きつく唇を噛んだ彼女の目の下にはくっきりと隈が浮かび、見るからに憔悴している。
これは、二、三日でリベルの消息が判明しなければ、ヴィレイアが倒れるのではないかとエルカは危惧していた。
かく言う彼も全く眠れていないのだが、そこはヴィレイアとは地の体力が違う。
バンクレットも首を振ったが、すぐに言った。
「大丈夫だ。衛卒に訊けば分かる」
衛卒と共和国軍は指揮系統が異なるが、共和国軍の士官に面と向かってものを尋ねられてなお、「知らねぇよ、自分で調べろよ」と言い放つ衛卒はまずいない。
「良かった」
エルカは無表情のままそう言って、ブロムウェルを乱暴に引っ張った。
「ほら、行くよ」
行く道々で、ブロムウェルは憐れっぽい声で周囲に助けを求めた。
これが、彼を引っ立てているのがエルカだけ、あるいはエルカとヴィレイアだけであれば、周囲も見かねて彼を助けに入ったかも知れないが、実際にはバンクレットがいる。
軍人が引っ立てている人間がいくら周囲に助けを求めたところで、救いの手が差し伸べられるはずがなかった。
街区の外れまで進んだところで、バンクレットが衛卒に〈鳩と猪亭〉の場所を尋ね、そのままの勢いで衛卒の兵舎から馬車を出させた。
最初は陸舟を要求したものの、さすがに陸舟の使用を許可する階級の者がいなかったのだ。
バンクレットが自ら御者台に座り、隣にヴィレイアを乗せたのは、単純にヴィレイアの顔色を慮ってのことだった。
このうえ、排泄物の臭いを漂わせるブロムウェルと馬車の中に押し込めては、彼女が吐くかも知れないと思ったのだろう。
エルカが馬車に乗り込み、ブロムウェルを見張る。
さすがにブロムウェルが欠けもの狂いで暴れることもあるかも知れないが、エルカのことだから身の安全に心配は要らない。
だが一方、エルカが勢い余ってブロムウェルを欠落させることはあるかと、念のため影兵霊を一人分顕現させて馬車の中に置く。
古代の兵装の影の兵士を見て、ブロムウェルは無事に気を失い、目的地に着いてエルカに乱暴に頭を叩かれるまでそのままだった。
目的地は、〈鳩と猪亭〉ではない。
そちらに向かう前に駅に向かい、合流しなければならない人々がいるのだ。
ヘルヴィリーの駅に降り立ったフロレアの勇者組合の陸艇から、「着いた着いた」と言わんばかりの、長旅の終わりに特有の晴れ晴れとした表情で、二つの勇者隊の勇者たちが降りてきた。
ハイリのウェイン隊と、フロレアのメメット隊だ。
初対面だったはずだが、三日と少しの陸艇の旅でどうやら打ち解けたらしい。
メイとケルクが親しげに腕を組んで舷梯を降りてきた。
最後尾で船を降りたのはアーヴェイで、すっかり項垂れたゲルテートを引き摺っている。
エルカからすれば、メメット隊とは正真正銘、これが初対面だ。
気が立っていることもあり、彼らを出迎えた瞬間のエルカは、険しい無表情で眉間に微かに皺を寄せた、お世辞にも愛想がいいとはいえない顔つきをしていた。
駅舎の中ではなく、陸艇の発着場に出て彼らを待っていたヴィレイアたちに気づいて、最初にウェインが片手を挙げて、「よう、久しぶり!」と大声を上げる。
続いて、ヴィレイアとエルカのそばに軍人が立っていることを見て取って怪訝そうな顔をした。
エルカとヴィレイアが、それぞれ片手を挙げて合図を返す。
大股に歩み寄って来たウェイン隊の面々と向かい合い、エルカが頭を下げた。
「連絡を貰えて助かった。――リベルに何かあったこと、気づかないところだった」
「恩を返せたなら何よりだ」
そう言いつつ、ウェインはなおも訝しそうにバンクレットに目を向けている。
勇者と軍人というのは、取り合わせとしては奇妙極まりないものであり、困惑に無理はなかった。
その拍子に、ちりん、と揺れたウェインの耳飾りを見て、ヴィレイアが「あ」と声を上げる。
それでエルカも金色の耳飾りに気づき、初めて表情を和らげた。
「ああ――オーリンの」
ウェインが驚いた様子で自分の耳に触れ、ヴィレイアとエルカを見つめた。
「――覚えててくれたのか」
「もちろん」
ヴィレイアが呟き、鼻を啜ってから、バンクレットを示した。
「この人はジョーゼル・バンクレットさん。軍人さんなんだけど、リベルを捜してくれてるの」
「はあ……」
ウェインがバンクレットをまじまじと見つめながら、半端に会釈する。
ギー・レスとベイ・レスが、「なんで軍人が?」と異口同音に尋ねたが、バンクレットは一礼したのみで応じなかった。
ディドルが進み出て、ヴィレイアの手をぎゅっと握る。
「ヴィレイアさん、大丈夫ですか?」
透過視精でヴィレイアとやり取りしていたこともあり、彼女の動揺の具合を案じていたようだった。
ヴィレイアが辛うじて微笑み、ディドルの手の中から自分の手を抜く。
「……大丈夫よ、ありがとう」
それからくるりと向き直ったのは、ウェイン隊よりやや後方で足を止めたメメット隊に向けてだった。
メメットが片手を挙げた。
ヴィレイアがそちらに走り出し、彼女に抱き着いた。
メメットが慣れた様子で彼女の頭を撫で、その途端、とうとうヴィレイアが泣き出した。
「相変わらず泣き虫だなあ」と呟く亜麻色の髪のアーヴェイの声が、エルカにも聞こえてきた。
陸艇から降りた勇者隊と捕虜一名も含め、全員が馬車に乗り込むと、馬車が軋むほどいっぱいになった。
極めて合理的な理由から、捕虜二名――言うまでもないが、ゲルテートとブロムウェルだ――は、馬車の床に直接座るように促される。
二人は暗澹たる顔をしており、しかもお互いに口を割ってしまった後とあって、相手を責めることも出来ず、どちらかといえば傷を舐め合う雰囲気を漂わせていたが、それはそれとしてゲルテートは、明らかに不潔な臭いを漂わせているブロムウェルから距離を取ろうとはしていた。
窓際の席に陣取ったアーヴェイが眉間に皺を寄せ、「なんか、臭くない?」と言い放ち、ブロムウェルは俯いた。
御者台のバンクレットが手ずから手綱を取って、馬車ががたんと動き始める。
それを合図にしたように、「ええと、はじめまして、だね」と、メメットがエルカに向かって言った。
エルカはなんとか微笑もうとしたものの、余裕のなさが顔に出ただけに終わり、ゆっくりと息を吐くと、言った。
「――えーっと、ヴィリーが前にいた隊の人だよね。俺はエルカ。
もうちょっと気の利いたことを言いたいんだけど、悪いね、行方不明になってるリベルって奴、俺にはめちゃくちゃ大事な奴なんだ」
「それは分かるからお構いなく。あたしはメメット。で――」
「私はロイ」
「僕はケルク。法術師だから、僕からの伝言はヴィリーから聞いてましたかね」
「で、俺がアーヴェイ」
馬車に乗り込んでいるのはしめて十二人、座席の上では全員がぎゅうぎゅうと圧迫されている。
ヴィレイアはアーヴェイとメメットに挟まれて、エルカはその向かい側の座席の窓際で、隣からウェインの圧迫を受けていた。
「ヴィリー、あの軍人、なに?」
アーヴェイが言って、親指で御者台を示す仕草をした。
「おまえ、軍人って嫌いじゃなかったっけ?」
ヴィレイアは微笑もうとして失敗した。
「ジョーゼル小父さまにはお世話になってるの」
「なんでまた? おまえ、なんかやって捕まったの? 大丈夫?」
「違う。――アーヴェイ、相変わらずね。ウェインさんたちに失礼なこと言って怒られなかった?」
「俺は相手を選んで口を利いてるから大丈夫。
――良かった、めっちゃ隈できてるし、メメット母さんを見るなり泣き出すし、倒れる寸前かと思ったぜ。まだちょっとは元気だな。おまえの元気が残ってるうちに、この問題が片付くといいんだけど」
「ありがとう」
ヴィレイアは呟いて、少しのあいだ黙った。
それからアーヴェイの鼈甲色の瞳を見て、もう一度言った。
「この人を締め上げてくれて、ありがとう」
この人、と示されたのはゲルテートである。
アーヴェイは肩を竦めた。
「俺は見てただけ」
「嘘つき。どうせ率先して手を出したでしょ」
「ばれたか」
「そりゃあね」
ヴィレイアは口許だけで微笑んで、ちらりとメメットを見上げてからアーヴェイに視線を戻し、声を落として囁いた。
「――フロレアでは……大丈夫? その……」
アーヴェイが鼻で笑う。
「ははん。やっと俺らの境遇に同情する気になったわけだ。
この薄情者。この冷血元筆頭」
「こら」
ばこ、と、メメットがヴィレイア越しに手を伸ばしてアーヴェイの頭を叩いた。
「こーら、アーヴェイ」
ロイがアーヴェイを窘めて、ヴィレイアに向かって元気づけるように微笑んだ。
「大丈夫だよ。こちらではつらいことは何もない。アーヴェイは、きみから連絡がなくて寂しくて拗ねているだけ」
ヴィレイアが目を見開いて、唐突に表情を硬くした。
「寂しくねーって言ってんだろ!」
アーヴェイが声を大きくし、ケルクが柔和に微笑んで、「ご迷惑をおかけしております」と他の面々に頭を下げる。
それからヴィレイアに目を遣って、首を傾げた。
「――それはそうと、ヴィリー。ちょっと前の治癒精の騒動のときは大丈夫だった?」
エルカが馬車の天井を見上げる一方、ヴィレイアはゆっくりと息を吸い込み、平生どおりの顔で頷く。
「もちろん」
「まあ、そうか。――その後の陽精のときも、まあ、きみのことだし大丈夫だっただろうね」
「――――」
ヴィレイアは軽く目を閉じた。
「……ええ、大丈夫だったわ」
「なあ、旧交を温めてる最中に申し訳ないんだが」
と、ウェインが口を挟んだ。
陽精の話題が出て慌てたとみえる。
「今、どこに向かってんの? 取り敢えず、リベルが見つかるまではこっちも気になるし、付き合う気でいるけどさ」
「〈鳩と猪亭〉」
エルカが答え、「は?」と言わんばかりの怪訝の目が彼に集中するのを感じ取って、ヴィレイアが言葉を足した。
「つまり、この人が、」
と、指差されたのはブロムウェル。
「〈氷王牢〉を買った人。その人が頻繁にいる場所」
「なーるほど」
アーヴェイが目をきらんっとさせて、こき、と手指の骨を鳴らした。
「また締め上げればいいわけね?」
「今度は違う」
ヴィレイアがきっぱりと答えた。
「今度は、相手が逃げないように見張る係をやってもらうわ。
――締め上げるのはエルカがやってくれるから」
*◇*◇*
ティムと名乗っているその男は、今日がどんな日か全く知らないままに、軽く一杯ひっかけようと考えて、いつもの如くに〈鳩と猪亭〉のドアを開けた。
そして、ちりりん、とドアベルが鳴ると同時に、彼は異変を察知した。
――一、店内に人がいない。
いつもは混み合って、濁声や笑い声、あるいは怒鳴り声が響いているはずの店内に、今は数人しか人がいない。
当たり前だがそれゆえ静まり返っていて、酒の匂いも当然しない。
――二、店主がカウンターの奥で棒立ちになっている。
消えてなくなりたいと言わんばかりの身の置き所のなさを漂わせ、むしろ申し訳なさそうにティムを見ているのはどういうことだ。
――三、テーブルに着き、項垂れている人間に見覚えがある。
バーリ・ブロムウェル、懇意にしている売人の一人だ。
ティムはひゅっと息を呑んだ。
何が起こったのかは全く分からないが、何か困った事態に陥りつつあることだけは確かだと判断して、その場で踵を返そうとする。
――が、そう上手くはいかなかった。
いつの間にか彼のそばに立っていた亜麻色の髪と鼈甲色の瞳の青年が、静かにドアを閉めて、そのままドアノブを押さえていた。
「…………」
ティムは辛うじて愛想笑いを浮かべ、ドアからよろよろと数歩離れた。
項垂れてテーブルに座っている二人――一人は馴染みのブロムウェルだ――の他の人間が、一斉に立ち上がった。
見渡すと、どうやら大多数が勇者、あるいは傭兵らしい。
軍人も一人いる。
穏やかそうな顔立ちの者もいるにはいるが、全員から荒事に慣れている気配がひしひしと伝わってきた。
「――えー」
全く意味のない声を漏らしつつ、ティムはブロムウェルをじっと見た。
ブロムウェルが惨めそうに顔を上げて、言った。
「――……すまん」
ティムはゆっくりと両手で顔を拭った。
――ブロムウェルに売り払った曰く付きのもの、そして勇者が絡むものとなれば、心当たりは一つだけだ。
「――えーっと、僕、まずいもの売っちゃった?」
冗談めかそうとした声は堪えかねて震え、ややあって進み出てきた砂色の髪の屈強な青年を前にして、ティムの虚勢は呆気なく崩れた。
*◇*◇*
時間は少しばかり遡る。
――リベルは、岩魚の少女が促すままに、例の広間から通路に入った。
空腹は痛みを感じるほどで、喉の渇きは頭痛を覚えるほど。
さすがに疲れて手足は鉛のようで、頭は平常時に比べれば、まるで回っていなかった。
通路は驚くほど人間の建造物に似て、所々に小部屋に通じる入口が開いている。
共和国の建築様式と異なるところといえば、入口の形が下端を地面に接する歪んだ円形をしていること、扉がないこと、部屋がまるきり洞穴のように、直線の見当たらない、なだらかに丸い形をしていること、部屋の中に――これは当たり前だが――調度品がないことくらいだ。
通りすがりに覗き込んでみると、岩魚が溢れんばかりにいる部屋と、がらんとしている部屋に分かれていることが判別できる。
岩魚がいる部屋といえば、まだ血の臭いも新しい鉱路生物の残骸を積み上げている部屋であったり、リベルが思わず目を逸らした、恐らくは無数の卵と思わしき醜怪な塊が幾つも積み上がっている部屋であったり、何もないが動かない岩魚が大量に寝そべっている部屋であったりと、如何にも虫の巣といった風の部屋だった。
がらんとしている部屋にも、鉱路生物の残骸が積み上げてあったり、リベルには一体それが何なのか想像も出来ない奇妙な物体が安置されていたりと、種々様々だ。
リベルが仮に岩魚の生態を研究しているのであれば垂涎ものの経験だっただろうが、生憎とリベルは岩魚に格別の興味はない。
彼が気にしたのは、「どう考えてもこれは巣の奥に進んでいるのでは?」ということ、その一点だけだった。
リベルは何度も、今も彼の右腕にしがみついている岩魚の少女を問い詰めたが、少女は真面目な表情で、加えてリベルが何かを言う度に、いたく感心したという顔をして、ひたすら奥を示すだけだった。
先導役の岩魚もだんまりを決め込んでおり、リベルとしてはこの奥に、裏口のような鉱路の上方へ繋がる通路が口を開けていることを祈るしかない。
(そうじゃなかったら暴れるぞ……)
ややあって、通路が広間に達した。
その広間は天井が高く、頭上で――どこから吊り下げられているのかも定かではない――巨大な振り子がゆっくりと振れている。
リベルが驚きを籠めて、朱色の瞳でその振り子を見上げていると、岩魚の少女はやっとリベルから離れ、嬉しそうに両手を叩いた。
先導役の岩魚が自慢げに言う。
〔驚いたか。ここの振り子は大きいからな〕
リベルは岩魚に目を落としつつ。
「いや、あの振り子、何のためにあんの? 時計?」
〔――――〕
岩魚は今度こそ言葉を失った。
岩魚の少女も、咄嗟には意味が分かりかねた様子でリベルを見つめている。
今度ばかりは感心したような表情はしていなかった。
数分してようやく、先導役の岩魚が言った。
〔振り子がなくて、どうしてやるべきことが分かる〕
リベルは顔を覆った。
「なるほど、あんたたちの文化ってことね」
〔この振り子はやっと安定期に入ったところなんだ。黎明期と終焉期はあれこれと大変だからね。姫さまがおまえと会ったのが今で良かったよ〕
「――――?」
リベルは困惑して足許の岩魚を見つめた。
「は? 俺? 俺が何の関係がある?」
先導役の岩魚は肩を竦めるような仕草をして、答えなかった。
少女が、リベルの――どうやら岩魚たちからすれば――衝撃の発言から立ち直り、リベルの右手を握って引っ張った。
リベルは疑念を籠めて彼女を見遣る。
「あのさ、俺を、外――というか、上の方に連れて行ってくれるんだよね?」
少女は心外そうに目を瞠り、何度も頷く。
リベルが仕方なく足を進めると、嬉しそうにいそいそと彼を誘って広間を突っ切り、更に奥へと向かった。
広間に隣接するその部屋には、リベルからは度外れて大きな卵を象る石像にしか見えない、六つばかりの石の塊が整然と並べられている。
少女が何度もその卵型の岩(あるいは、本物の卵)の方を指差すので、リベルは頭痛を堪えつつも、呟くように。
「えっと……これは何だろうね……?」
〔見るのは初めてか。姫さまの蛹だよ〕
足許から先導役の岩魚の応えがあって、リベルは戸惑う。
「えっと、この子の次の――お姫さまの、ってこと?」
本気で呆れたような声音が返ってきた。
〔なに言ってるんだ。姫さまは姫さまだ。いつでも、どこでも〕
「はあ……」
納得は出来ないながらも、とにかくここから出たい一心で、リベルは頷いた。
「そっか、で、上には――」
少女がまたリベルの手を引いて、奥へと進み始める。
リベルはそろそろ本気で怒気を覚え始めた。
奥は、最初に先導役の岩魚に連れられた、岩魚の少女がいた広間に似た空間になっていた。
ただしあそこと異なり、段差が広間の片寄せされた位置にではなく、広間の中央にある。
広間の中央が角ばった形で盛り上がっているのだ。
さながらテーブルのように。
そしてそこに、山ほどの鉱路生物の死骸――ただし、リベルが驚いたほど綺麗にぶつ切りにされており、ぱっと見には牛や豚の丸焼きを切り分けたものとの違いは分からない(ただし、色にさえ目を瞑れば)――や、リベルが見たことのない木の実と思しき大小の果物が載せられていた。
骨が剥き出しになった巨大な肉塊たちと、所狭しと盛りつけられた艶めく果実たち。
もちろん皿はなく、リベルの目から見て、その岩場が盛り上がったテーブルそのものが奇妙な樹木であって、そこに肉や果実が生っているかのような、奇妙な印象すら受けた。
――これが人間の食卓であれば、リベルの腹は空腹に耐えかねて鳴っていただろうが、この異形の食卓では、食欲が刺激されようもなかった。
少女がリベルに向かって、満面の笑みでテーブルを示す。
ちょうどそのとき、テーブルの端から木の実が一つ転がり落ちて、岩場の上でべちゃりと潰れた。
糖蜜のような甘い匂いがした。
脳髄まで刺し貫くような強烈な匂いで、リベルは頭がくらくらした。
リベルは瞬きする。
困惑してばかりで、いよいよ眩暈がするほど疲れていた。
「――ここは……何かな、きみたちの食堂かな?」
窺うも、少女は嬉しそうにテーブルを指差すのみ。
リベルは赤錆色の髪に指を差し込んでがしがしと頭を掻いた。
「俺が――腹が減ってると思ってくれたの?」
少女はリベルの手を引いて、テーブルに歩み寄らせようとする。
リベルは初めて少女を押し留め、彼女をそっと振り解いた。
そうして一歩下がる。
「あのさ――ごめん、親切心から言ってくれてるなら申し訳ないんだけど、俺、ここから出たいんだよ」
少女はショックを受けた様子で、振り払われた自分の手と、リベルを見比べている。
その顔が余りにも人間そっくりで、リベルは覚える必要のない罪悪感を覚えた。
「ごめん……」
少女はしゅんと俯いてから顔を上げ、哀願するようにリベルを見つめた。
リベルが離れた一歩を詰め、更に半歩進んで、もはや彼の胸に縋らんばかりの位置に立つ。
リベルはたじたじと下がったが、下がった分だけ少女が進み出て来ることに気づいた。
「待って、待って」
そう言って、慌てて少女の肩に両手を置く。
それでようやく岩魚の少女は立ち止まり、肩に置かれたリベルの手をぎゅっと握った。
彼女がリベルを見上げたまま口を開き、何かを言おうとして、しかし恥じらうように口を閉じて、視線を下に落とす。
少女の頬が、灰白色からやや色の濃い灰色に染まった。
リベルはぐるりと周囲を見渡す。
――リベルが視線で探した限りでは、ここが行き止まりの部屋のようだった。
当てが外れた失望が、速やかに苛立ちと怒りに取って代わった。
「ここ、どこだよ。――ねえ、外に出たいんだって。言ってるだろ?」
ここで話しているよりも、引き返して元いた所に戻らなければ――と、漠然とした考えが過ったものの、その考えがそれ以上進まない。
――潰れた果実から、強烈な甘い匂いが立ち昇っている。
それよりも薄いが、纏いつくように甘い匂いが、食卓全体から。
頭の中に靄が掛かったように感じて、リベルは額を押さえ、うわ言のように繰り返した。
「上の方。上の方に行きたいんだ」
少女が顔を上げる。
決然とした表情になっていた。
彼女がリベルの手を握る指に更に力を籠め、そうしてからもう一度、風変わりなテーブルの方を示した。
強く。焦れた様子で。
リベルの理解の遅さを詰るように。
リベルはテーブルを一瞥する。
「腹は減ってないよ。ありがとう」
実をいえば痛みを感じる程に空腹だったが、リベルは力なくそう言った。
少女がふるふると首を振って、リベルの手を握り、その手をテーブルの方に動かす。
また何かを言おうとしたが、含羞がそれを邪魔したらしい。
少女は長い睫毛を伏せて小さく震えた。
リベルは眉を寄せる。
「なに――? 食えばいいの?」
少女がぱっと顔を上げ、何度も何度も頷いた。
リベルは混乱して蟀谷を掻く。
――異種族はもてなさなければならないと、岩魚にそのような本能があるものだろうか。
通常時ならば、リベルは鉱路の中で採れたものなどは絶対に口にしない。
唯一の例外が不溶石だが、これはそもそもが鉱路の産物なのだから仕方がない。
仕留めた鉱路生物の肉を喰う勇者など聞いたこともない――言われるまでもなく、それは行動の候補にも挙がらないことなのだ。
だが、何を罷り間違ったか、今のリベルの心理に抵抗感は殆どなかった。
(まあ、食えば外まで案内してくれるって言うなら……)
そう思って、テーブルの方へ一歩進む。
果実はどうだか分からないが、鉱路生物の肉であれば、熱さえ加えれば毒になるということはない気がした。
リベルの動きを見て、少女が嬉しげに両掌を合わせ、感極まったように睫毛を震わせた。
「…………?」
大仰といえば大仰な反応に、リベルは眉を寄せる。
――もう何度目か分からないが、エルカとヴィレイアにそばにいてほしいと思った。
エルカならば、こういうときも知恵が回るだろう。
同じような育ちにも関わらず、エルカとリベルには他者と関わり合いになることにおいて、天地ほどの才能の隔たりがある。
エルカがリベルの立場であれば、さっさと岩魚と打ち解けて、彼らに地上まで案内させていることすら想像できた。
そしてヴィレイアであれば、訳の分からないこの状況であっても、透過視精や影兵霊を駆使して切り抜けることに疑いはない。
足を止めたリベルに、岩魚の少女が驚いたように目を丸くし、早く早く、と急かすような手振りをした。
――その仕草を見て、ますますリベルは前に進めなくなった。
岩魚が人間の少女に似通った見目をしていることもあって、またありありとヴィレイアを思い出したのだ。
――あの、鈴を鳴らすように可憐な、それでいて芯の通った声。
表情豊かな濃緑の瞳。
泊まるならば高級なホテルがいいと駄々をこねるヴィレイア。
ホテルに向かうときや食事に向かうときにリベルを引っ張る彼女の、靡く白百合色の髪。
リベルを促すとき、彼女はリベルの肘の辺りをやんわりと掴むことも多い。
人混みの中で逸れてはなるまじと握るときの、彼女の右手の感触。
いつも無邪気で天真爛漫でいるようでいて、――そのくせ時たま、不意に今にも目の前から消えてしまいそうなことを口走るヴィレイア。
リベルを救ってくれたときの、あの、誇らしげに煌めいていた彼女の双眸。
(会いたい――)
その感情はもはや熱を持って喉を灼くかのように切実だったが、同時に、たとえば無事にヴィレイアと再会できたとして、「岩魚が出してきたものを食べちゃって」と告げたとしたら、ヴィレイアが割と真剣に「え? 岩魚が出したものを?」と絶句するだろう――という、なんとも胸の底がくすぐられるような、確信じみた想像も連れてきた。
普段は飄々とした振る舞いが多いくせに、ヴィレイアはリベルに何かあれば、天地がひっくり返るかと思うほどに動転する。
記憶に新しいのが、あのとき――ハイリの付近の鉱路において、リベルが地底湖に落下したアガサを追って飛び込んだときだ。
あのときも、ヴィレイアはリベルをひたすらに案じていた。
(だから、俺がヘルヴィリーからひょっこり消えたなんてことがあいつに知られたら、めちゃくちゃ心配するはずなんだよな……。最良は、あいつが何にも勘付かないうちにエーデルに戻ることなんだけど。
そりゃ、まあ、捜してくれれば助かるし嬉しいけどさ)
そんなことも考えつつ、リベルは。
(――で、俺が岩魚が出してきたもん食ったって言ったら、あいつ、めちゃくちゃ心配するだろうなあ……)
顎を撫でる。
ヴィレイアが慌てて治癒精と契約して、「リベル、どこかおかしいところないっ!?」と尋ねてくるところまで目に浮かぶようだ。
唐突に思案し始めたリベルに、岩魚の少女はおろおろしている。
彼女がまた、テーブルの異形の晩餐を頻りに指差し始めた。
そのとき、リベルの足許から先導役の岩魚が言った。
〔姫さまはな、それを喰えば上に行けるようになる、と仰ってる〕
「え?」
リベルは瞬きして訊き返した。
「どういう――どういう理屈で?」
〔だから、〕
先導役の岩魚は岩場からちゃぽんと這い出してきて、胸鰭をひらひらと動かして、足踏みした。
そのときささやかな気配を背後に感じて、リベルは何気なく振り返った――そして絶句した。
正直に言ってしまえば、じゃっかん竦んだ。
いつの間にか、この広間の入口――先程は「姫さまの蛹」だと紹介された、あの岩の卵がある部屋からこの広間の入口に至るまでを、夥しい数の岩魚が埋め尽くしていた。
個体で見れば、リベルもこれまでの探索でよく見ていた、二インチ程度の体長のものが多い――だが、それが数百、あるいはことによっては数千、積み重なって入口を埋めつつあるのだ。
中には体長が一フィート以上に達しているものもいて、その全ての個体の――どこにあるのかも分からぬ眼であっても――視線が、間違いなく己に注がれていることを、リベルは感じ取っていた。
そして岩魚の数は今も増えている。
次々に新手の岩魚が押し寄せて、広間の入口に積み重なっていく。
リベルは慌てて視線を巡らせ、この広間からの脱出口が他にないかを探したが、最前に見たときと同様、ここはどうやら行き止まりの一室だった。
静かに焦り始めたリベルとは対照的に、先導役の岩魚は落ち着き払っている。
彼は言葉を継いだ。
〔だから、おまえ、俺たちとはずいぶん違うからな――均さないと〕
リベルは息を吸い込んだ。
心臓が跳ねるように激しく鼓動を始め、痛みを覚える。
「は……? どういう意味?」
〔本当に理解が遅いな〕
先導役の岩魚は呆れた風情でそう言った。
〔別に俺たちからすりゃ、おまえの全部は要らないんだけどな。
でも、姫さまはどうにも、おまえの頼みを聞いてやりたくなったらしいな。お優しいだろ?〕
リベルは跳ね上がった鼓動を落ち着かせるために、ゆっくりと呼吸をする。
心臓の辺りが、刺されたように鮮烈に痛み始めており、それもあって嫌な汗が滲んだ。
「どう――どういうことだ? 俺が、なに?」
だから、と、焦れたように岩魚は言葉を続ける。
〔姫さまがおまえをお望みだ。
上に行きたいんだろ? 俺たちと同じになれば、岩を潜って上にも行けるさ〕
「――……は?」
リベルは愕然として先導役の岩魚を見下ろす。
「え? ――なんて?」
岩魚の少女は嬉しそうに微笑んでいる。
広間の入口は岩魚で塞がれていく。
〔ま、おまえは俺たちとしてはちょっとばかり大きいが、大丈夫、心配することはないさ。
こういうことをするのは珍しいが、初めてってわけでもない。
適宜齧って小さくしてやるからな〕




