11 変調
リベルは瞬間、凝然と立ち竦み――
「――嫌だよ」
覚えず、心の底からの本音を口走った。
「それは嫌だ。そういうことなら最初に言えよ」
岩魚の少女に目を向ける。
脱いだ鰭のみを風変わりなスカートのように纏い、それ以外には一糸纏わぬ人間の少女にそっくりな彼女は、心外なことを告げられたかのようにぽかんとしている。
リベルは一歩下がった。
――危機感は覚えれど、頭の芯が麻痺したかのようにその危機感が鈍重だった。
異形の食卓からは、甘い匂いが漂っている。
「きみ――あのさ、ごめん。何か勘違いしてるみたいだ」
岩魚の少女は首を傾げ、それからきゅっと眉を寄せた。
黒雲母の瞳を煌めかせて、彼女が強く首を振る。
「あの――分かってる? 俺、きみたちとは全く違うものなんだよ」
〔だから、均してやるって言ってるだろ?〕
先導役の岩魚が足許から言う。
リベルは更に一歩、じりりと下がった。
「要らない――そんなことはしてほしくない」
〔上に行きたいんだろ?〕
「行きたいよ。だけど、俺が俺のままで、だ」
〔変なこと言うなあ。おまえがおまえであることは変わらんよ。
――ねえ、姫さま?〕
少女がこくりと頷く。
彼女は胸の前で小さな拳をぎゅっと握って、リベルをじっと見つめている。
「違うんだって。――とにかく、そういうのは駄目だ。要らない。
俺は外に――上に行きたいけど、それは俺の知り合いが俺を見て、ちゃんと俺だって分かる格好のままで、ってことなんだよ」
〔変なこと言うなぁ〕
「変じゃない」
リベルは言葉に詰まった。
「会い――会いたい奴がいるんだよ」
岩魚の少女が顔を顰め、首を振った。
そして手を伸ばしてリベルの手を握ろうとするので、リベルは慌てて更に後退り、その手を避けた。
岩魚の少女が衝撃を受けた様子で目を瞠り、何かを囁く。
――声が小さくて、リベルには聞こえない。
ただ、先導役の岩魚が言った。
〔姫さまは、他にも会いたい魚が出来るさ、と仰ってる〕
「違う」
リベルは反射的にそう返していた。
「違う。そうじゃない。
替えが利くような――そういう気持ちじゃない」
少女が大きな丸い瞳を瞬かせ、その場であどけなく膝を抱えて座り込み、先導役の岩魚に何かを囁いた。
彼女が俯いたので、その独特な質感の髪が肩から滑り、リベルの視界から彼女の顔を隠した。
少女の言葉を聞いた岩魚が、胸鰭をひらひらと動かして、言った。
〔姫さまは、忘れるようにと仰ってるぞ。
――そんな奴はいなかったことにしてしまえって〕
「……は?」
――危機感すら鈍重になっていたリベルの頭に、煮え滾るような苛立ちと怒りが溢れた。
「――あいつが、」
あの声。
囀るように朗らかな声。
あの瞳。
表情豊かに煌めく、生命そのもののような濃緑の双眸。
「あいつがいないなら、俺の人生はない」
鈍重になっていた危機感を貫通して、「上へ向かわなければ」という強迫観念がリベルの背中を押した。
(そうしないとヴィリーに会えない。――エルカにも会えない)
頭がくらくらしていた。
それを押して、リベルは普段よりも重く感じる右手を持ち上げて、
(ここから出ないと。
――邪魔されるなら、こんなところは崩してでも)
――轟音。
岩魚の悲鳴。
岩魚の少女が耳を塞いで顔を伏せる。
亀裂が走った岩場が軋み、轟く大音響と共に砂塵をぱらぱらと落としながら傾く。
〔なんてことを!〕
〔今すぐやめろ!〕
〔姫さま! 姫さま!〕
夥しい数で積み上がり、出口を塞いでいた岩魚たちがばらけ、あるものは岩の中に潜伏し、あるものは大急ぎで引き返していく。
臆病な岩魚の性質は健在だ――どの岩魚も、リベルに向かっては来なかった。
そのことに小さな安堵は覚えつつ(岩魚であれば排除できるだろうとはいえ、余計な体力の消耗は避けるべきなのだ)、リベルは違和感を覚えて左手を持ち上げ、胸の右側――心臓の隣を押さえた。
――岩壁を砕こうとしたのは、言わずもがな、リベルの魔法だ。
岩壁を砕く工程を、神秘の臓器である心袋に詰め込み、結果だけを引き寄せる手品。
リベルの心袋は稀代の大きさを誇る。
それこそ、〈言聞き〉への誓約における違反時の禁則の発現を、無理やりに抑え込むことが出来るほどに。
――そのリベルが、今は手加減抜きで、この場を崩すつもりで魔法を使った。
だが、それにしては発現した事象が小さ過ぎる。
岩壁を崩すという事象だけを招きたいのならば、リベルならば相当な広範囲に亘ってそれをすることが可能なはずだ。
それが、結果として顕れた事象は、岩壁の罅割れ程度。
(なんでだ――? 岩魚の巣だから他の場所よりも手間が掛かるとか、そういうことか?)
そう考えたが、それは刹那の間だけだった。
岩魚が引いたのだからどうでもいい、リベルは素早く足を踏み出しつつも、
(なんか……)
心臓の隣、胸の右側。
心袋があるはずの位置。
――魔法を使ったとき、そこに鈍い痛みが走った。
これまでに経験のないことで、そのことの方が余程気に掛かる。
先導役の岩魚が悲鳴じみた声を上げている。
岩魚の少女は、今は亀裂の走った岩壁を見上げて大きく目を見開いて硬直しており、リベルとしてはそちらに構うどころではない。
走り出したとき、信じられないことにリベルはよろめいた。
想定していたより自分は疲れていたらしい、と内心で辟易しつつ、リベルは潮が引くように逃げていく岩魚を踏み荒らすかの如くにこの広間の入口に向かって走り、そしてそのまま、先程少女に案内された道を逆に辿るようにして、脱兎の如くにその場から逃げ出した。
巨大な振り子がゆっくりと振れている広間辺りまで来たときになって、リベルはようやく気づいた。
――空気が澄んで感じる。
身体が素早く動くようになってきた。
頭も幾許かはっきりとしてきており、そして振り返って考えるに、
「この馬鹿、俺の馬鹿」
思わず小声で自分を詰る。
「何をのこのこ鉱路生物が出してきたもん食おうとしてんだ、絶対有り得ないだろ!」
今になってやっとそう思えたということは、
「岩魚のくせに悪知恵働かせやがって……匂いだな」
リベルにも、思考を鈍らせる麻薬が存在するという程度の知識はある(というのも傭兵団で、その麻薬を大量に運ぶ仕事をこなしたことがあるからだ)。
ゆえに、同じ効果を持つ何某かを岩魚が自然物から生成していたとして、驚きこそするが不可能とは思わない。
更に深く考えるならば、
(悪気があったとは限らないのか……)
岩魚にとっては無害なものが、竜の眷属にとっては有害だったということすら有り得る。
振り子の広間を駆けて通過し、その先の通路へ。
岩魚がそこら中にいる気配があって、事実として、足許に突然岩魚の頭がぽこりと出てくることが多々あった。
とはいえそれで驚くのはお互い様とはいえ、怯えるのは岩魚の方で、岩魚の悲鳴をリベルは数百回程度は耳にした。
リベルが近づくや否や、悲鳴を上げて岩に潜ったり、あるいは通路からどこかの部屋へ逃げ込む岩魚も多数ある。
リベルはもはや岩魚にお構いなしに、ひたすら前へ進むことだけを考えて走っていた。
リベルは走りながらも背後を何度も振り返っていたが、というのも、怪談よろしく後ろから追い掛けられてはいまいかと確認するためだった。
だが、そうはいっても、
「岩の中に潜れるとか、マジで追跡者としては反則だろ……っ!」
魂の声を上げつつ、リベルはさすがに息を上げつつ、最初にあの岩魚の少女と遭遇した広間に駆け込んだ。
まさにそのとき、背後から声が上がった。
〔――待てってば!〕
「誰が待つか!!」
おまえを岩魚に変えてやる、という、不気味極まる申出を受けたばかりである。
先方が純粋な善意でそれを申し出ていたであろうことが、更にリベルを恐怖させた。
相互理解の不可能っぷりを頭の奥まで叩き込むような出来事だった。
螺旋状の坂道を駆け上がる。
頭の中で、往路で記憶した目印を整理。
勇者の脚力で一気に坂道を駆け上がり、更に地下通路を疾走し始める。
ちょうどそのとき、切り分けられた鉱路生物の死骸を運んでくる岩魚があったが、突進してくるリベルに気づいた運び手の岩魚は、悲鳴を上げて鉱路生物の死骸を放り出して岩の中に潜伏した。
ごろん、と転がった鉱路生物の死骸の断面が相当に醜怪ではあったが、勇者たるものこんなもので怯みはしない。
最初の目印を見つけて右折。
細い通路を疾駆する。
行く手の岩魚たちが悲鳴を上げる。
次の目印を左折。
更に次の目印を捜して目を走らせた、まさにそのとき。
「――――っ!」
がくん、と足を取られ、リベルは盛大にその場に転んだ。
膝を打ちつけ、痛みに呻き声が漏れる。
危うく顔面を強打しそうになったところを、手を突いて堪える。
その成果で鼻の骨は無事に形を保ったが、掌の傷が開いて鮮烈な痛みが走った。
だが気にしていられない。
「――――!?」
足を取られるような障害物はなかったはずである。
混乱の中、がば、と上体だけで振り返ったリベルは、
「――っ、嘘だろ……っ!」
悪態を吐いて右手を腰の片手剣に伸ばした。
――無数の岩魚が岩の中から小さな手を伸ばし、リベルの両足首を押さえている。
ぎゅうっと足首を掴む様は、まるで縋っているようでもあり、状況が違えば微笑ましかったかも知れないが、
「ほんっと迷惑……!」
片手剣を抜き、岩魚の手を払うように振る。
少なくない数の岩魚が、怯んだ様子で手を離して岩の中に逃げ込んだ。
拘束が緩んだとみるや、リベルは勢いよく足を取り返し、素早く体勢を立て直して走り始める。
しかし、眼前の岩のどこに追跡者が潜んでいるのか分からないというのは――
(――すっげぇ不利……!)
天井に当たる岩壁から、幾つもの小さな岩魚の頭が突き出し、その頭部のどこにあるのかも定かではない無数の眼がリベルを追う。
〔ここに!〕
〔ここに!!〕
〔ここにいる!!〕
心臓が嫌な鼓動を刻み始め、それと同時にまた、心臓に痛みが走った。
刺されたように鋭い痛み――
(くそっ、なんだよ!)
内心で、この状況に対する苛立ちと怒りの声をぶち上げたときだった。
「――――」
――声がした。
太い弦を爪弾くような、荘厳でよく透る――神々しさすら感じるような、低い声の叫び。
無数の岩魚の、混乱と恐怖の悲鳴が響き渡り、そして潮が引くように、全ての岩魚が岩の中に潜り込んだ。
――辺りが静まり返る。
そしてもう一度、この世ならざる弦を爪弾くかのような、凄絶なまでに深く厳かな、その声が響く。
己の激しい呼吸音と、どくどくと響く心臓の鼓動の向こう側に、リベルはその声を聞いた。
聞いて、それこそ目の前が真っ暗になるような絶望を覚えた。
――これは、この声は、真正の竜に最も近い姿を保っている竜の眷属、鉱路最強の捕食者である亜竜、――その声に、とてもよく似た、――声。
*◇*◇*
初春の月二十一日の夜、なかなかの大所帯に膨らんだ一同はヘルヴィリーの郊外、とある酒場の前にいた。
エルカに首根っこを掴まれているティムは、恨めしげな顔でゲルテートとブロムウェルを睨みながらも、従順に言う。
ちなみに彼の左目は、エルカに一発もらったために青紫色に張れ上がった瞼で圧迫されており、今は普段の優男の雰囲気は欠片も残っていなかった。
「――はい、ここです。僕の知る限り、ローリー――例のあの剣を僕に売ってくれやがった男は、ここをよく使ってます」
エルカは賑わう酒場を、開きっ放しの扉を通して覗き込んだ。
立ち位置としてはまだ酒場からは離れている影の中、酒場の喧騒は遠い。
とはいえ、大盛り上がりの騒ぎはよく聞こえてきていた。
今しも一人の酔っ払いが、這うようにして扉から外に出て来て、勢いよく嘔吐したところだった。
エルカは視線を上に向ける。
「ここ、上はなに? 宿なの?」
「あ、はい、そうです、さすがご慧眼」
「煽てても離してやらないよ。あと言っとくけど、難しい言葉は分かんねぇから」
エルカは顎を撫で、ちらりと隣のバンクレットを見上げる。
バンクレットの顎は、リベルのことを聞いてからずっと強張ったままだった。
「親父さん、取り敢えず、俺がこいつを連れて乗り込む」
「なんで僕も!?」
「あんた、そんな賢そうな顔してても、実は馬鹿だな。俺、そのローリーって奴の顔は知らねぇんだよ」
バンクレットは金褐色の瞳でエルカを見下ろした。
「全員で乗り込んで制圧した方が手早い気がするが」
「だめ。万が一、中にそのローリーって奴がいなかったらどうすんの。あの中にいるローリーって奴の顔馴染みから、『おまえを探してる奴がいたぞ』って耳に入ろうもんなら逃げられるじゃん」
「一人も逃がさなければいい。軍の施設には全員を収容できる余裕がある」
「心強いよ。けど駄目。連れてくにも手間が掛かるし、町の人に見られる」
バンクレットは少しばかりの思案のあと、きっぱりと言った。
「――分かった。ではエルカ、私が同行する」
「俺が心配?」
「いや、軍人がいる方が話が素早く纏まるはずだ」
「なるほど。ありがとう。
――じゃ、俺とこいつが先に入るから、ローリーって奴がいたら合図する。合図で親父さんが来て」
ヴィレイアが後ろからエルカの袖を引いた。
エルカが振り返ると、彼女は自分と、周囲の勇者たちを示す手振りをする。
「私たちは?」
「しばらく待ってて。さすがに、酒場のど真ん中で尋問始めるわけにいかないでしょ。どこかに連れて行って、それからになるから、そのローリーって奴を連れ出すタイミングで合流しよう。
――もしかしたら、酒場のご主人が物分かりが良かったら、上の階のどこかを使わせてくれるかも知れないけど」
「近くに衛卒の詰め所があった。そこでもいい」
バンクレットが素早く言い、「さすが軍人」とディドルが呟く一方で、ウェインが「いやだから、なんで軍人が勇者一人のためにここまですんの?」と、尤もな疑問を再度呟いた。
ブロムウェルとゲルテートに憐れな声で助けを求めるティムを連行し、エルカとバンクレットが酒場の方へ進んでいく。
ブロムウェルとゲルテートはといえば、一刻も早い解放を祈って固く目を瞑っていた。
二人をぞれぞれ挟んで立つアーヴェイとロイ、ギー・レスとベイ・レスが、「元はといえば自分が悪いんだろ」というように、その脇腹をつつく。
ややあって、酒場の中から怒鳴り声や悲鳴が響いてきた。
ヴィレイアがぎゅっと両手を握り合わせるのを見て、メメットがその頭の上にぽんと掌を置く。
「落ち着きなさい、気を揉んでも何も変わらないでしょ」
ヴィレイアが頷き、項垂れる。
右手に嵌めた二つの指輪を弄んでから、彼女は小さく呟いた。
「ぜんぶ私たちの勘違いで、リベルはどこかで楽しくしていればいいのに」
*◇*◇*
リベルは大きく息を吸い込み、岩魚が岩壁に潜って静まり返った通路を、ゆっくりと進んだ。
目印を見て然るべき経路を辿り、そもそも最初に踏み込んだ、恐らくは岩魚の餌の集積所であろう広間を目指す。
仮に亜竜が近くにいたとしても、この狭い通路にあの巨躯を捻じ込むことは不可能だ。
それでもリベルが足音を殺したのは、気配を察した亜竜がこちらに炎を吐いてくれば防ぎようがないからだ。
広間に向かう最後の曲がり角の陰で、リベルは音を殺して深呼吸。
そして、まさに一歩を踏み出そうとしたとき、再びあの、太い弦を爪弾くような荘厳な声が轟いた。
「――――」
リベルは足を止める。
――亜竜が付近にいるならば、ここからの脱出は絶望的だ。
万全ではない体調で、碌な武器もなく、仲間もいないのだ。
最も危険の少ない判断としては、この岩窟に留まるという選択肢を採ることとなるが――
(それはそれで身の危険がある……)
とはいえ、亜竜がいるとして、どの程度まで接近しているのかは知りたいところだ。
リベルは短く祈ってから、ゆっくりと足を踏み出した。
岩壁の陰から覗く――広々とした餌の集積所、岩窟の広間が、この通路への入口の大きさに切り取られて見える。
全ての岩魚が身を潜めたらしく、放置された鉱路生物の死骸が転がっている。
――が、亜竜の姿はない。
音を立てずに息を吸い込み、慎重にもう一歩を進む。
耳を澄ませるが、亜竜の呼吸音や、翼が擦れるあの独特の音は聞こえてこない。
そして――
(――……明るい?)
暗くとも周囲が見えることに慣れつつあるリベルだったが、それでも明暗は識別できる。
覗いた広間は明らかに、一方向から光が射している。
更に数歩進む。
そのとき、前方からあえかな光が一際はっきりと射してきて、ややあって、ふよふよと漂う明りクラゲが、リベルの目の前に迷い込んできた。
目を丸くして、リベルは思わず左手を持ち上げる。
明りクラゲは、リベルのその挙動には無関心だった。
海中にいるクラゲと同じく、袋状の柔らかな身体を波打たせ、軽やかに滑らかに空中を泳ぐ、指先ほどの大きさの、小さなクラゲ。
光が射す方向から遠ざかり、リベルの目の前まで達した明りクラゲが、疲れたように白い光を弱くする。
明滅して消えていく光。
懐かしさすら覚える明りクラゲの姿に、リベルは覚えず安堵の息を吐いた。
「どこから……」
思わず呟く。
通常、明りクラゲは群れで行動するはずだ。
――脳裏を過った希望的観測は、これが野生の明りクラゲではない可能性――つまり、付近にどこかの勇者隊がいて、そのランタンから逃げ出した明りクラゲである可能性だった。
だが、希望的観測は即座に否定される。
――いくら何でも光が強い。
広間の方に、明りクラゲの群れがいることに疑いはない。
とはいえ、それにしても。
(光が強すぎる気がする……)
これが明りクラゲの群れであれば、相当な規模の群れだ。
――そう思ったとき、リベルははっとした。
夥しい数の明りクラゲ――それこそ陽が射すほどの明るさを齎していた、大規模な群れ。
ベンノたちと離れ、川に転落する直前に、リベルはそれを見ている。
――〈言聞き〉の黄金竜のそばで。
(確かに、この近くには〈言聞き〉がぶっ倒れてるはずだ――今もぶっ倒れていれば)
ならば先程の声は――
(もしかして――)
慎重ながらも足早に、リベルは岩窟の広間に進み出た。
広間は光に溢れており、放置された鉱路生物の死骸がいっそう醜怪に目につくが、どうでも良かった。
光は一方向から射している――言うまでもない、明りクラゲの群れの光。
明りクラゲは広間ではなく、その手前の空間にいるらしい――だが、ふよふよとこの広間に漂い込む明りクラゲもあって、それはさながら、巨大な光球からしめやかに光の飛沫が弾けているかのよう。
そちらに向かってゆっくりと足を進め――
――リベルは凍りついた。
「――え?」
思わず声が出る。
慌てて振り返り、先程彼の目の前まで漂ってきた明りクラゲを目で捜す。
(待て。おかしい。さっき――)
リベルの眼前に辿り着いた明りクラゲは、その光を弱くした。
有り得ないはずだ、明りクラゲは竜の眷属の生命のそばにあるとき、白く淡い光を発する。
つまり、退化した竜の一員であるリベルのそばでは、常に光を放つはずなのだ。
――リベルが生きている限り。
思わず、掌をぎゅっと胸の左側に押し当てる。
――どくどくと脈打つ、常よりも速い鼓動を、確かに感じる。
欠け人であれば、全ての臓器は活動を停止するはずだ。
彼らが待っているのは、死霊から肩を叩かれる安寧のその瞬間であって、臓器の停止の瞬間ではないのだから。
(生きてる、俺は生きてる)
跳ね上がった鼓動のせいか、またも心臓に痛みが走る。
リベルは唇を噛んだ。
(なんだ――? 何かの病気とか?)
そのとき、またもあの声がした。
――無数の太い弦を爪弾くような、神々しく荘厳な声。
はっと顔を上げ、リベルは目を擦る。
――この先にいるのが亜竜である可能性は、なお高い。
油断や気の迷いの余裕はない。
息を吸い込み、リベルは広々とした岩窟の広間を、ゆっくりと慎重に歩き出し始めた。
膨大な数の明りクラゲが、広間の向こう――恐らくはリベルがやって来た、まさにその道に犇めいていた。
数万は下らないだろう夥しい数の明りクラゲの光に、リベルは目を細める。
地上に出たかと錯覚するほどの明るさだ。
足許に落ちる影はくっきりとした輪郭になっている。
白い光の海の向こうで、何かが動いた。
何か巨大なもの。
――このときにはもう、リベルはそれが亜竜である危険をかなり低く見積もっていた。
理由は単純――亜竜は人が金に目の色を変えるように、食糧の気配に目の色を変えるからだ。
リベルがこうして接近してなお、亜竜が動かずにいるというのは考え難い。
そもそも亜竜がこの先にいて、彼がリベルを捕食する気であるならば、亜竜は何某かの手段でこの明りクラゲの大群を振り払っているはずだ。
己の居場所を教える目印となる明りクラゲを従えたまま、のんびりと獲物を待つような良心的な亜竜はいない。
リベルは屈み込み、岩場に片膝を突いて、白い光の紗幕に見える明りクラゲの群れの下を透かして、その向こうを見ようとした。
――彼が半ば予期していたように、黄金の煌めきが見えた。
そして続いて、大きな頭が擡げられる微かな音と気配。
明りクラゲの眩しい光の中で、巨大な琥珀色の瞳が浮き上がるように見えた。
――リベルは深呼吸する。
間違いなく、この向こうにいるのは〈言聞き〉の黄金竜だ。
少なくともリベルは、黄金竜が何かを襲った話は聞いたことがない。
ほう、と、リベルは安堵に胸を緩める。
彼の視線の先で、明りクラゲの光に燦然と照らされる黄金竜の琥珀の明眸が瞬き、そして直後、玲瓏たる弦楽の声が響いた。
――同時に、信じ難いことに、言葉が。
岩魚たちの言葉が理解できたときとは明瞭に違う――リベルは岩魚の声を、人の声を聞くようにして、その意味を理解していた。
だが、このときは、言葉は耳に聞こえたのではなかった。
耳で聞くのではなく、頭蓋の中に叩き込まれるようにして、その意味が、聞こえたのだ。
『――これなら言葉が分かるか、二つ虫?』
と。




