09 人魚姫、ならぬ――
目を見開いて凍りついた半人半魚の奇妙な少女に、先導役の岩魚が擦り寄る。
少女の灰白色の繊手にこつこつと頭をぶつけて、声を上げた。
〔姫さま、こいつ、上にいたんですが。何か分かります? 見た目は二本足の竜に似てますが、匂いも言葉も別物で〕
姫さま、と呼ばれた少女が、ぱち、と長い睫毛を瞬かせる。
そして、警戒心を剥き出しにしてリベルを見つめたまま、両手を伸ばして先導役の岩魚を抱き上げた。
岩の中から引っ張り上げられ、「うお」と岩魚が呻くが頓着しない。
岩魚を膝の上に抱え上げ、リベルをじろじろと眺める岩魚の少女。
先導役の岩魚が、どうやら焦れた様子で姫と呼ぶ少女に頭突きした。
〔姫さま、取り敢えずこいつが喰っていいものかどうかだけでも教えてもらいたいんですがね〕
少女がゆっくりと首を傾げた。
そして、腕の中に囲った岩魚に何ごとかを囁く。
岩魚が頷き、ぴょん、と少女の膝――というべきか、鰭の屈折部というべきか――から飛び降りて、岩に着水し、すいすいと泳いでリベルの足許までやって来る。
リベルはすっかり困惑しており、思わず岩魚を相手に尋ねてしまった。
言葉が通じるらしきことに困惑はすれど、人外相手に発揮する人見知りは存在しない。
「――あれ、おまえらの同類なの?」
半人半魚の鉱路生物を、見たことがないわけではない。
特に水棲の鉱路生物には、似た姿を持つものもいる。
とはいえ岩魚の親玉が、その姿をしているとは聞いたことがなかった。
〔本当にものを知らないな〕
先導役の岩魚がばっさりと切って捨てるようにそう言って、リベルを鰭で招く身振りをする。
もはや反抗する気力もなく、リベルが足を踏み出すと、彼は得たりとばかりに頷いた。
〔近くで見たいそうだ〕
「はあ……」
リベルはどっと疲れた。
何が悲しくて、岩魚に検分されなければならないのか。
――とはいえ、頑として嫌だというほどでもなく、上手くすれば岩魚から現在地の情報を得られるのではないかという計算も僅かにあって、リベルは促されるままに半人半魚の少女のそばに立つ。
なおも警戒した様子ながら、少女が細い手を伸ばしてリベルの手首の辺りに触れてくる。
そこから確かめるように手の甲を撫で、リベルの手をひっくり返して掌を見て、指先で掌をなぞり、指の一本一本を辿る。
触れる少女の肌の温度は、人よりも随分と低いが、冷たいというほどでもない。
少女が顔をリベルの掌に近付けて、すんすんと匂いを嗅いだ。
それからやや身を乗り出して伸び上がり、リベルの胸の辺りに顔を近づけ、同じように鼻を寄せて匂いを嗅ぐ。
――川に流されて随分と薄まったが、リベルの皮膚にも衣服にも、鉱路生物の血と臓物の汚れと臭いが染み着いているはずだ。
少女は人と同じ形をした上体も、一糸も纏わぬ姿ではあったが、少女の仕草が人間というよりも小動物に似て、そもそも全体を見ればとても人とはいえない姿かたちをしていることもあり、リベルは一切の気後れも気まずさも感じなかった。
リベルがぼんやりと立っているうちに、少女がリベルから離れた。
丸い瞳を大きく見開いてリベルを見上げており、表情は――人間とその動かし方が共通しているのならば――驚きそのもの。
ぱち、と、少女のよく揃った長い睫毛が瞬いた。
睫毛も髪と同じく、岩と綾羅の間を透かした繊細な質感で、リベルは好奇心を持って触れてみたくなったが、さすがに得体の知れない鉱路生物に、自ら触れにいくことはしなかった。
少女は天然の岩の腰掛けに座ったまま、首を傾げてしばらく何かを考え込んだ。
そして、そわそわと身体を揺らすと、たおやかな繊手を伸ばす。
応えて先導役の岩魚が岩の中を泳ぎ、ぽちゃん、と音を立てそうな仕草で少女の隣に現れた。
〔はいはい、姫さま?〕
少女が再び先導役の岩魚を抱え上げる。
如何にもか弱そうな両腕で抱えられる岩魚を見て、リベルはふと、岩魚というものは見た目ほど重くないのだろうか、と考える。
少女がこそこそと岩魚に何かを囁いた。
リベルは耳を澄ませていたが、遠くで風が鳴るような微かな音を捉えられたのみで、声といえるもの、ましてや言葉は、一切聞き取ることが出来なかった。
だが、先導役の岩魚が、「は?」と訊き返している声はよく聞こえていた。
(そんなびっくりする検分結果か……?)
リベルはそう考えつつ、手持ち無沙汰で周囲を見渡す。
露出する光晶の明かりで照らされる天然の広間、夜陰でも目が利いたことを思えば、リベルには痛みを伴うほどの眩しさと感じられてもおかしくないというのに、眩しさは一切感じない。
鮮明な視界に色彩が加わった、その程度の感覚。
(マジで俺、どうしちゃったんだ……)
目許を押さえ、リベルは一人考え込む。
――そしてそのとき、唐突に、はたと気づいた。
(――待てよ?)
事態が異常な余りに聞き逃していたが、
――『おまえ、竜みたいだけど、違うな』
断言されたあの言葉。
(いや――俺は……竜だぞ?)
人間とは、退化した竜である。
竜の眷属のうちの一種属だ。
なぜそれが否定されたのか――
(いやでも、岩魚の言うことだし……いや、“岩魚が言ってる”ってのがもう変なんだけど)
額を押さえて考え込んでいると、くい、と手が引かれた。
顔を上げると、例の半人半魚の少女である。
彼女が片手を伸ばして、リベルの右手を引いている。
先導役の岩魚はといえば、少女のそばでくるくると泳ぎ回っていた。
リベルが困惑していると、少女がもう一度、くい、と彼の手を引く。
リベルは眉を寄せ、首を傾げた。
「――なに?」
少女は嬉しげににっこりと微笑んだ。
とはいえ、それが本当なのかリベルには分からない。
そもそも表情の動かし方が人間と共通しているのかすら判然としないのだ。
微笑んだ少女の唇から歯が覗いている。
真珠岩のような歯で、人のものより随分尖っていた。
リベルは思わず、噛まれたら痛そうだな、と考える。
少女が、今度はリベルの肘の辺りを両手でぎゅっと握った。
そのまま引っ張るので、リベルは促されるままに前屈みになる。
少女がリベルの肘を離して、今度はリベルの首に腕を回す。
人間どうしであれば親愛の仕草であり、リベルは大慌てで相手を遠ざけていただろうが、彼の困惑は唐突に犬にじゃれつかれたときと大差なかった。
相手に体温を感じないこともあり、全く気まずさを覚えない。
ただ、ふと、ヴィレイアに同じ仕草をされたときのことを思い出した。
エルカの〈岩王令〉――当時はまだ銘なしだったが――の試し斬りのために鉱路に入ったときの探索で、難破船が滝に向かって落ちそうになったときのことだ。
他にも、リベルがヴィレイアを抱き締めたり、彼女の方から抱き着いてきたりすることは多かった――主に鉱路の中で。
ただし、あのとき――もう既に大昔のことのように感じるが、実際にはつい先日のことである――祝宴の場においては、危急の場面でなくともリベルが抱き締めても、彼女は嫌がる様子を見せなかった。
あのときリベルは、強烈なまでに、ヴィレイアのそばにいたいと自覚して――
(――それがなんでこんなことに……)
もう少し注意深くしていて、指輪を掏られさえしなければ、と、もう何回目かも分からない後悔にきつく目を閉じる。
そのとき、リベルの首に腕を回してじっとしていた少女が動いた。
すり、と、リベルの頬に頬ずりをして、軽く彼の耳朶を噛んだのだ。
「――は?」
痛みはなく、甘噛みされた程度の感触ではあったが、リベルはぎょっとして目を見開いた。
(絶対味見だろこれ!)
散々、「喰えるかな」とは言われていたが、相手は岩魚と舐めていた。
気合を入れ直して剣を抜かねば、と身構えようとしたが、それよりも早く。
半人半魚の少女の小さな鼻先がリベルの鼻先に触れ、続いて彼女の唇が、リベルの唇に重なった。
冷たくもないが体温を感じられるわけでもない、奇妙な感覚。
岩ほど硬くはないが人の肌ほど柔らかくもない、複雑な感触。
「――――?」
味見だとしても奇妙である。
リベルが瞬きしてぽかんとすること、五、六秒。
リベルから唇を離し、ついでリベルからも離れた少女が、岩の上に腰かけたまま、はにかんだ様子で微笑んだ。
そのままじっとしていれば、文句なしに石像に見えるだろう見目。
ただしその双眸、黒雲母の如き双眸だけは、彼女が生きていることを隠しようもなくきらきらと煌めいている。
リベルは首を傾げた。
どうにも相手から敵意や害意、あるいは食欲めいたものは感じない。
「なに?」
半人半魚の少女は、はにかむばかりで応じない。
リベルは額を押さえた。
「えーっと、きみには俺の言葉は分からないのかな。他の連中はなんか、その、分かってるっぽいけど」
〔違う、違う〕
先導役の岩魚が横から言った。
〔姫さまは滅多に魚前に出ないからな。たいへん恥ずかしがり屋だ〕
「あ、そういう」
思わず親近感を覚えて頷くリベル。
そして、姫と呼ばれているからにはこの子が他の岩魚よりも地位が上なのだろう、と判断して、少女の目を見て続けた。
「あのさ、言葉が分かるなら聞いてほしいんだけど、俺――」
だが、少女にはどうやら話を聞く気はなかった。
彼女は今度は、興味津々といった様子でリベルの脚を見ていたのだ。
リベルはうんざりした。
「あのさ……」
少女が顔を上げ、リベルを見て、また恥ずかしがるように控えめに微笑んで、先導役の岩魚に何かを囁く。
岩魚がリベルに向かって言った。
〔姫さまが、おまえのその鰭が一人前になる予定はいつなのか、お尋ねだ〕
リベルはぽかんとする。
少女の視線の動きからして、「鰭」と呼ばれたのは脚だろうが、
「一人前……?」
〔くっつくのか、生え変わるのか?〕
「生え変わる?」
と、思わずリベルは声を大きくする。
「歯じゃあるまいし、生え変わらないよ。生まれてからずっとこのままだ」
〔歯!?〕
と、今度は岩魚が驚倒する。
半人半魚の少女も、目を見開いて絶句してリベルを見上げており、リベルは、どうやらこの少女の表情は人に準じた動き方をするのではないか、と推測し始めた。
〔歯が生え変わるだと? おまえ、それじゃ、おまえの歯は折れるのか?〕
「折れるというより抜けるけど……」
〔抜ける……? どこから……?〕
岩魚は茫然とした風だったが、すぐにはっとしたらしい。
咳払いじみた声を立て、岩の中からよいしょとばかりに全身を現す。
〔分かった、おまえはご同類じゃないんだな。
――喰うにももう姫さまのお許しが下りないだろうから、どうでもいいが〕
「ああ、俺は喰えたものじゃないって?」
〔いや、喰うなと仰せ〕
「そう」
そこまで返答して、リベルは我に返って呻いた。
(なんで岩魚と普通に会話しちゃってんだよ、俺……)
一方の少女は驚きを抜け出し、自分の尾鰭を両手で整えるような仕草をしていた。
〔あーあ、姫さま〕
岩魚の嘆かわしげな声がして、次の瞬間、紗が擦れるようなささやかな音がして、半人半魚の少女の尾鰭がぱっくりと割れた。
「――――!」
リベルは驚きに絶句した。
とはいえ、少女は痛がる素振りすら見せない。
更に驚くべきことに、割れた尾鰭の中から、人間のものとよく似た二本の脚が現れている。
少女が確かめるようにその膝を曲げ伸ばしする様は、まるきり石像が生きて動いている様だ。
尾鰭は腰から垂れ下がり、まるで風変わりなスカートを履いているようにも見える。
「なに……?」
リベルが慄いていると、先導役の岩魚が親切にも説明を加えた。
〔なにをびっくりしてるんだ。姫さまは生まれてからしばらく、鰭が生えてくるまでは俺たちと同じ形の鰭だろ〕
確かに岩魚には手足があるが。
〔上手いこと潜伏できるようになったら、ちゃんとした鰭をお持ちになるんだ。
それなのに、あーあ、成魚なのに二本鰭を見せるなんてみっともない〕
「え……ああ……うん……」
異種族の異文化にひたすら閉口するリベル。
そのリベルを他所に、半人半魚であった少女は、確かめるようにその場に立ち上がっている。
そして、無邪気にくるりと一回転した。
垂れ下がる鰭がゆっくりと靡くように動いて、これが例えば地上で見る魚のものであれば悍ましさも感じただろうが、一見すれば石像が石彫りのスカートを靡かせているようにしか見えないのだから、醜怪さはない。
すらりとした素足を晒して、少女はリベルに擦り寄ってきた。
ぎゅっと彼の右腕に抱き着くようにして、小振りな胸を押し付けてしなだれ掛かってくる。
リベルは気を取り直して咳払いした。
「あの、俺、上に行きたいんだけど。ずっと上の方。分かる?」
左手を使って身振り手振りを交えつつ、ひたすら上方を指差すリベル。
間近にある少女の顔を見つめて、言い聞かせるように伝えようとする。
「俺、上から来たんだよ。戻りたいんだ。分かる?
上の方に行く道、知ってる?」
少女は大きな目を見開いて、大いに感心したと言わんばかりの表情でリベルの言葉を聞いている。
リベルは勢い込んで、「上、上」と繰り返す。
ややあって、少女がこくりと頷いた。
利口そうな顔をして、真面目にこくこくと頷き、抱え込んだリベルの右腕を引っ張る。
そして、広間から別の通路に続いているのだろう、洞穴の入口を指差した。
リベルは面喰らう。
「そっち? こっちじゃないの?」
こっち、と言いながら、リベルは彼がやって来た方を示す。
少女はぶんぶんと首を振る。
唇をきゅっと引き結び、意固地になった様子で、あるいは憂慮するような表情で、何度も首を振る。
相変わらず口は開かないが、必死な様子は伝わってきた。
リベルはいっそう困惑する。
――リベルを追い払いたいのならば、ここから離れる方向を示すはずだ。
この少女は、リベルのことは喰うなと言った――らしい。ならば積極的な害意もないだろう。
もしもこの少女がリベルの頼みを聞いてくれているのならば、
「来た道を戻っても、上の方には行けないの?」
小さな子供に対するようにして尋ねる。
――思えば、リベルは川を押し流されてきたのだ。
途中で地底湖を通っていたとしても、あるいは滝を落ちていたとしても、リベルの運の悪さからすればおかしくはない。
リベルの言葉に、少女は嬉しげに顔を明るくし、こくこくと頷く。
そして、もう一度、通路の方を指差した。
「あっちからなら、上の方に行けるの?」
少女はにこにこと微笑み、頷く。
そして背伸びして手を伸ばし、リベルの頭を撫でた。
その手を掴んでどかしつつ、リベルは探るように尋ねる。
「――本当か? あっちから、上に行く道を教えてくれるの?」
少女は手をどかされたことにしゅんとした風情で俯いていたが、再度のリベルの質問にぱっと顔を上げ、満面の笑みで頷いた。
「――――」
リベルは黙り込む。
――鉱路生物と会話が成立していることも論外ならば、鉱路生物に鉱路の中を案内させようという酔狂な馬鹿など見たことも聞いたこともないが。
だが、とはいえ。
(――これしかないんだよなあ……)
完全に迷っているリベルには、なんであっても道標が必要だ。
鉱路で迷った挙句の災難で欠けなくとも、このままでは飢えて欠ける。
息を吐き、リベルはこちらを窺う少女に、なんとか微笑みらしきものを向けようとした。
彼の心情にも余裕は欠片もなく、ついで言えば相手は鉱路生物で、しかもリベルは表情を作るのに不器用だった。
が、意図は通じたらしい。
少女が嬉しげに微笑み、真珠岩のような歯を零してにっこりと笑った。
「えーっと、案内お願いできる? それともこいつがしてくれるの?」
こいつ、と示したのは先導役の岩魚だったが、その岩魚は胸鰭をひらひらと動かした。
どうやら肩を竦める仕草に準ずるものであるらしい。
〔ついて行くだけにしますよ。どうもどうも〕
「……そう?」
そこはかとない違和感を覚えつつも、それを言うならば今この状況が違和感だらけだった。
リベルは息を吸い込み、嬉しそうに微笑む少女を見つめる。
「じゃあ、上に通じる道まで案内してくれる?」
少女が頷き、楽しそうにリベルの右腕にしがみ付いて、素足で滑らかな岩場を踏んで、ゆっくりと歩き始めた。
*◇*◇*
初春の月二十一日、バーリ・ブロムウェルは上機嫌でヘルヴィリーを歩いていた。
ヘルヴィリーの、中心部からは程遠い郊外、治安も悪い街区で、どちらかといえば貧民街に近い。
狭い道は、最初から狭くあれと造られたのではなく、ここに住むことになった不幸な事情を抱えた人々が、それぞれ勝手に道沿いに家や店を建て、それゆえに圧迫されて狭くなったのだ。
ゆえに鳥瞰してみれば、ここの町並みは迷路も同然。
それなりの幅が確保されている主要道から、それぞれの家や店に至るための、蜘蛛の巣のように入り組んだ細い道――中には、身体を横にして蟹のように歩かねば通り抜けられないものもある――が伸びている。
家々は、木造のものもあれば不格好な石造りのものもあり、暖炉――あるいはそれに類する暖房器具――を備えた運のいい家からは細い煙突が伸びているが、もちろん寒い冬を身一つで戦わねばならない人々も、ここには大勢いる。
そしてそんな場所であっても、衛卒は辺りを歩いていた。
常に視界の中に五人はいると揶揄される、共和国の治安を暴力を以て守る軍人たちである。
ブロムウェルは、主要道の一つを鼻唄を歌いながら歩いていた。
彼もここの住人ではあったが、家はきちんと大工に建てさせた石造りで暖炉もあり、それなりに広く満足している。
妻子はおらず、ゆえに家は狭くとも不自由しない。
実入りは良い彼のこと、住み心地を探求するならば、ヘルヴィリーのもう少し中心地に近い場所にも引っ越せるはずだ。
しかし、なぜそうしないのかと尋ねられる度に、ブロムウェルはこう答えていた。
「慣れちまえば、別にここの暮らしも悪かないぜ。住んでる連中は、そりゃあ多少気性は荒いが、ちょこっと何かをくれてやれば懐いてくるし、可愛いもんだぜ。
それにおまえ、変な連中に俺の稼ぎがどこからくるのか、知られない方がいいだろ? まともな商人組合の人間も、検察の軍人も、こんなとこを歩いてるもんかよ。
それを思やあ、ここに住んでるってだけで俺は守られてるってわけよ」
この日の彼の上機嫌の理由は単純だった。
――大きな儲けが入ったのである。
売り捌いたのは滅多に見ない鉱路の業物、顔馴染みであるティムから仕入れ、北方で売れとの指示の通り、付き合いのあるハイリのゲルテートの店あてに陸艇で送った。
それが五日前のことであり、今日、ブロムウェルは己の銀行口座あてにゲルテートから入金があった知らせを受け取った。
実際の入金はもう数日早かったはずだが、銀行どうしのやり取りには時間が掛かるものなのである。
(しばらく遊んで暮らせるぜ! ――いや、その前に借金と呑み代の精算か)
そんなことを考えつつ、足取りも軽く道を歩く。
擦れ違う人々は、つい先日まで纏っていた重い外套を脱ぎ捨て、これもやや足取りが軽い。
顔を知っている者が数人通ったが、ブロムウェルは特段挨拶をせず、またあちらも、特にブロムウェルに気づいた様子は見せなかった。
(おー、薄い人間関係に万歳)
益体もなくそんなことを考え、そして鼻唄の曲調を変えた、そのとき。
――突然、まるで青天の霹靂の如く、ブロムウェルの肩を誰かが掴んだ。
掴むだけでは飽き足らず、――ブロムウェルがまだ、肩を掴まれたことすら認識していないうちに――軽々と彼の身体を投げ飛ばし、そばの木造の空き家に放り込む。
がんっ! と音を立ててその空き家の埃っぽい床に背中をしたたかに打ち付けて、初めてブロムウェルは目をぱちくりとさせた。
ついで強烈な痛みと衝撃に、悲鳴と悪態が半々の大声を上げる。
「うるせえな」
低い声がして、背中の痛みに顔を顰めつつ、必死に身を起こすブロムウェルは、ようやく相手の姿を見た。
――如何にも傭兵、あるいは勇者というような格好の、まだ若い――十九か二十か、その程度の青年。
刈り上げた砂色の髪、切れ長の薄青い目。怜悧な顔立ち。
身長は人並みだが、身体を鍛えていることがよく分かる。
衣服の上からでも分かる、がっしりとした体格。
そして腰から下がるのは、黄鉄鉱の色合いと真珠の色合いが芸術的な大理石模様を描く片手半剣――つい先日ブロムウェルが売り、本日その売り上げの入金を確認したあの黒い片手剣と比べても、勝り劣らぬ鉱路の業物。
一目見て荒事に慣れていることが分かる青年が、ずかずかと近付いてくるのを見て、ブロムウェルは真っ当な方向に感情の舵を切った。
――即ち、欠けるかと思うほどに竦み上がった。
後ろ暗いところもある商売をしているから、多少は荒くれ者に絡まれることにも免疫があるが――この青年は格が違った。
「なに!? なんだよ!」
悲鳴を上げる。そのとき、青年の後ろに別の人影が見えた。
こちらは明らかに軍人――しかも、衛卒ではない共和国軍の士官――だろうと分かる、無数の徽章と襟章で飾られた鳩羽色の制服を着こなした、壮年の男性。
そしてもう一人、こんな場合でなければブロムウェルが尻尾を振って口説きに掛かるだろう、可憐な風貌の若い少女。
これ幸いと、ブロムウェルは助けを求めて叫んだ。
「助けて! 助けて!」
が、軍人も少女も動かない。
それどころか、二人が二人して、八つ裂きに出来るものならば今すぐしたいというような目で自分を見ていることに気づき、ブロムウェルは蒼くなった。
「なになになに、なんだよ!」
ばたばたと尻で床を後退り、立ち上がろうとする。
必死に記憶を洗うが、目の前にいる青年の顔に覚えはない。
だが、恨まれるとすれば、
「なに!? 金か!?」
ブロムウェルは叫んだ。
叫びながら、よろめきつつも立ち上がる。
ズボンがすっかり埃まみれだが、払う余裕は一切ない。
「金借りてたか!? 返すよ! 返そうと思ってたところだよ!」
両手を相手に向かって突き出し、「待て」の意思を伝えるブロムウェル。
だが、相手には一切心を動かされた様子はなかった。
つかつかと近付いてきて、ブロムウェルの襟首を無造作に掴む。
そしてそのままブロムウェルを、軋みを上げる壁板に易々と押しつけた。
薄青い瞳に、怒気というにも違う、冷ややかに澄んだ害意だけを見て取って、ブロムウェルは危うく失禁しそうになった。
「待って! 待ってくれ、俺、踏み倒してるのか!? 早まらないでくれ、利子つけて返すからさ! いくら!? いくらだよ!」
自棄になって叫ぶブロムウェルの襟首を締め上げつつ、青年は淡々と言った。
「――そういうのいいから」
「なんで!?」
「訊きたいことがあるだけなんだよね。素直に答えてくれたら、ここでさよならするからさ」
「――――」
ブロムウェルは瞬きし、それからようやく、自分が脅迫を受けようとしているのだと察した。
「――っ、離せ!」
叫んで暴れるが、襟首を掴んだ手は微動だにしない。
軽い力で押さえているようにしか見えないが、その実は鋼鉄の拘束具のようだ。
「これが他人にものを訊く態度かよ! 離せよ!
――そこの軍人、なに見てんだ! 助けろよ!!」
が、鳩羽色の制服の軍人は、むしろ通行人がこちらを覗き込もうとするのを宥めて、お気になさらず、と言わんばかりに合図をしている。
少女の方は両手を握り合わせ、きつく唇を引き結んでブロムウェルを睨みつけていた。
その胸元で青く光る時精時計に、こんな場合ではあったがブロムウェルは目を留めてしまう。
(結構な上物だな……)
しかし、その思考も即座に途絶えた。
襟首を締め上げる青年の手に、ぐっと力が籠もったのだ。
「あの子のことは見ないでくれる?
――で、質問だけど」
「答えると思うなよ!」
「答えないでいられると思うなよ。
――あんたさ、最近、鉱路の業物をハイリに売っただろ。ゲルテートっていう奴だ。
あの剣、誰から仕入れた?」
「――――」
ブロムウェルの脳裏に、千もの思考が溢れた。
その中で最も強く感じたものを挙げれば以下の通り。
――くそっ、やっぱりか、ああいう業物は揉め事を起こしやすいんだよ。
――ゲルテートのやろう、俺のこと喋ったのか、商人の風上にも置けねぇ野郎だ。
――しかも人相まで喋りやがったのか。
――ゲルテートと同じ穴の狢に落ちぶれて堪るか。
最後の思考が齎した発作的な誇りと矜持を以て、ブロムウェルは相手を睨みつけた。
「知らん! 知ってたところで何も言わん!
ゲルテートとやらは、どうやら俺の顔まで懇切丁寧にあんたらに教えたらしいが」
「あ、それは違うよ」
青年は穏やかに言ったが、ブロムウェルの襟首を掴む手指にはいっそう力が籠もっている。
「あんたの名前を聞いたから、あそこの女の子の提案で銀行に行ったの。銀行の人、あんたの顔はよく覚えてたよ。今どき、金が入るや否や殆ど全部を現金にしていく奴は珍しいってね。
あんた、考え無しだね。銀行の若い女の子口説いただろ? その子が、あんたがどの辺に住んでるか知ってたよ」
ブロムウェルは過去の己の所業を呪ったが、青年にはその暇も与える気はないようだった。
「――で、誰からあの剣を買ったの? そいつにはどこに行けば会えるの?」
ブロムウェルは昂然と頭を上げた。
「知らん! 何も言わん!!」
その次の瞬間、凄まじい大音響が耳許で弾け、ブロムウェルは茫然とした。
青年が、欠片も表情を変えず、無造作にブロムウェルの顔面の真横の壁を殴りつけていた。
――老朽化していたとはいえ、それなりの厚さのある壁板が、一堪りもなく割れて大破している。
ばらばらと木片が落ちていく。
壁のささくれた破片がブロムウェルの頬を切ったが、その痛みよりも何よりも、青年が目の前でもう一度、無表情のままで拳を振り上げたことへの恐怖が勝った。
――ブロムウェルは遂に失禁していた。
(か……欠ける――!)
それは予感ではなく確信で、殴られればこの場で欠落することを、ブロムウェルの本能が悟っただけに過ぎない。
(欠けるのは嫌だ、あんな欠け人にはなりたくない、俺は嫌だ!)
そしてその、欠落を嫌悪する本能が促すままに、
「名前はティム! ってか、そう名乗ってる!」
彼は叫んでいた。
「商店街区の〈鳩と猪亭〉っていう酒場に大抵いる!」
青年が拳を下ろした。
ブロムウェルはほっとし、今さらながらに膝が笑うのを感じ、続いて失禁したことへの、猛烈な恥が身体を駆け上がって脳天を殴りつけ、それゆえに涙ぐんだ。
だがともかくも生き延びたのだ、という安堵が大きく、彼はその場に座り込もうとしたが、
「そう。どうも」
青年が襟首を離してくれない。
「……え……?」
強張った愛想笑いで見つめる先、青年は眉ひとつ動かさず、言った。
「あんたの言ったことが本当だって分かるまで、一緒に来てもらうに決まってんだろ」
ブロムウェルはその場に崩れ落ちた。




