07 信頼できる誰か
「遅いなぁ……」
ヴィレイアが呟くのはもうこれで百回目を数え、エルカも笑えなくなってきた。
二人は揃って、エーデルの駅が見える喫茶店の窓際に座っている。
いつぞやダイアニでリエラが同じことをしていたときには、その退屈をものともせぬ精神にエルカが恐れを成したものだが、今の彼は退屈などを感じている場合でもなかった。
――今日は初春の月の十七日。
ヘルヴィリーを出発したのが十一日であったから、実に六日が経過しようとしている。
にも関わらず。
「――リベル、何やってんだ」
エルカは思わず呟いていた。
頬杖を突いたテーブルの上で、珈琲はすっかり冷めてしまっている。
ヴィレイアはその隣で、そわそわと身体を揺らしている。
小さく鼻唄を歌っているが、これは退屈の表れではなく不安の表れらしい。
一昨日辺りから、彼女は露骨に不安そうな表情を見せるようになった。
エルカも後悔しきりである。
(いくらリベルでも、誘拐されていったりはしないだろうけど……)
ラディス傭兵団にいた頃の癖が抜けず、未だにエルカはリベルのことを、保護が必要な小さな男の子として見てしまうきらいがある。
(……けど、やっぱり俺が一緒に残ってやれば良かったかな。
でもあいつ、ヴィリーを一人で帰らせるのは承知しなかっただろうしな……)
そう思いながら、ちらりとヴィレイアを窺う。
ヴィレイアは白百合色の髪を弄び、「九五五」の数字が浮かんだ時精時計を左右の掌から掌へ転がし、明らかに落ち着きがない。
――駅に陸艇が降りた。
ややあって、その陸艇から降りてきたのだろう人々が、駅から溢れて通りを進んで来る。
それらを見送るときだけは、二人ともが窓の外を凝視し、椅子からじゃっかん腰を浮かせ、固唾を呑んで通りを見守った。
人波が目の前の通りから掃け、ヴィレイアが悄然と椅子に腰を下ろす。
エルカもどっかりと背凭れに体重を預けた。
指先でとんとんとテーブルを叩き、エルカは眉間に皺を刻んで溜息を吐いた。
「まだ帰って来ないか。ちょっと遅いな」
「何かあったのかな」
ヴィレイアが憂鬱そうに呟く。
一昨日までは、エルカはそれを笑い飛ばしていた。
首都ヘルヴィリーからエーデルまでは、陸艇で二日かかる。
よしんば、リベルが用を済ませて(その用が何であるのか、エルカは頑なに黙っていたが)、すぐに駅に向かったとして、エーデル行きの陸艇は毎日出るわけではない。
ゆえに、二、三日の乖離はあって当然――
――とはいえ。
(俺たちが戻って来て、もう四日だぜ……)
そろそろ戻って来てもいい頃合いなのだが。
実をいえば、エルカは昨日にでもリベルは戻って来るものと踏んでいた。
――だが、言い換えれば、予想と一日ずれただけに過ぎない。
ヴィレイアは不安そうに可憐な眉を寄せている。
濃緑の明眸はありありと懸念を浮かべていた。
「陸艇がないとか、そういうことかな。それならいいんだけど……」
「用事が長引いてるのかも知れないけどな……」
エルカも言葉を濁す。
(いくらあいつが優柔不断の朴念仁でも、贈り物ひとつに何日も悩むか……?)
エルカは息を吐き、すっかり冷めた珈琲を口許に運ぶ。
珈琲なるもの、エルカは自由になってから初めて口にしたが、この味は気に入っていた。
とはいえ冷めていると風味は損なわれる。
「まあ、明日くらいまで待ってみるか。それでも戻って来なかったら、なんかあったかも知れないってことで、バンクレットの親父さんに知らせよう」
「……うん……」
すっかり萎れた様子でヴィレイアが頷く。
しょげきったその様子を見て、エルカは思わず手を伸ばし、わしゃわしゃとその頭を撫でた。
「わ、わっ」
長い髪がくしゃくしゃになり、ヴィレイアが抗議の声を上げつつも緊張が緩んだ様子で笑う。
「もう、エルカ」
「リベルが心配? お兄ちゃん嬉しいよ、あいつにこんなにいい奴がついてて」
ヴィレイアの表情が、半秒ほど歪んだ。
だがすぐにいつも通りに微笑んで、ヴィレイアが指摘する。
「――私じゃなくて、お兄ちゃんがついててあげるんでしょ」
「おまえはすぐそういうこと言う」
ヴィレイアが肩を竦め、両手を使ってちょいちょいと髪を整え直す。
手櫛を滑る繻子の髪が、窓から射し込む陽光に煌めく。
そのとき、ヴィレイアの眼前で、唐突に銀色の小魚が跳ねた。
ヴィレイアがぎょっとし、その小魚にほっそりした指を差し出す。
「――透過視精か……。誰だろ」
ヴィレイアもエルカも、法気があるから透過視精の来訪を受けることは出来る。
だが、透過視精と言葉を交わすには契約が必要だ。
小さく咳払いして、ヴィレイアは小魚に向けた指を軽く振った。
「――契約、影、透過視精」
差し出された法気に、透過視精が喜びを表すように空中で跳ねた。
ヴィレイアが少し前屈みになり、「なあに?」と透過視精に首を傾げて、耳を寄せる。
透過視精が、預かった伝言を述べ始めた。
エルカは透過視精と契約を結んでいないから、その言葉を聞き取ることは出来ない。
――だから、透過視精からの伝言を受け取ったのは、ヴィレイアだけだった。
『――ヴィレイアさん? お久しぶりです、鉱路でお世話になった、ハイリのディドルです。
伝言ですが、――リベルさんは、お元気ですか?』
「――――」
『杞憂ならいいんですけど、今、――ハイリで、リベルさんの剣らしき剣が売りに出されてるんですが……』
「――……え?」
ヴィレイアは、己の思考が空っぽになるのを感じた。
意味もなくエルカを見る。
エルカには、当然ながらこの伝言は聞こえていない。
そのため彼は、「誰から?」と尋ねるように首を傾げていた。
「――――」
呼吸が切迫する。
思考が働くよりも先にパニックが押し寄せてきた。
呼吸が浅く速くなる。
目の焦点がずれていく。
その様子に、エルカがさっと表情を険しくして、ヴィレイアの腕を取った。
そうされて初めて、ヴィレイアは自分が椅子の上でバランスを崩しそうになっていたのだと気づいた。
「ヴィリー? どうした? 誰からだ?」
空中で無邪気に跳ねる小魚を一瞥して、エルカは――このときばかりは――的外れな方向に思考を走らせた。
「……こないだの、姉ちゃんからか?」
「…………」
ヴィレイアは首を振る。
本来ならば、あの人に会ったことは忘れてくれと言うべきだったが、そこまで頭が回らない。
「……ハイリの……」
呟く。
声が妙にふわふわとして耳に届く。
「ハイリ?」
エルカが声を大きくする。
そのせいで周囲の席から視線が集まったが、エルカは当然ながら頓着しない。
「ハイリって――ああ、あの二つ頭の亜竜のいたところか。そこの、なに?」
ヴィレイアは透過視精を見つめる。
銀の小魚の姿を取る透過視精の影は、無邪気に、楽しげに空中で躍っている。
「あのときの……勇者隊の人から……」
「――――?」
さすがに用件の見当もつきかねたのか、エルカが眉を寄せて首を傾げる。
元より怜悧な顔立ちの彼だから、笑みを消してそうしていると凄みがあった。
ヴィレイアは息を吸い込み、急に乾き切って口蓋に張りつこうとする舌を、無理やりに叱咤して動かした。
「……ハイリで……〈氷王牢〉らしい剣が――売りに出されてるって」
「は?」
透過視精は精霊であり、しかもここに顕現しているのは透過視精のほんの一部、影に当たる部分だけである。
ゆえに、透過視精を通せば、ほぼ時間の齟齬のない会話が可能となる。
ヴィレイアとエルカは喫茶店を出て、そこから少し離れた路地にいた。
ヴィレイアは建物の壁に寄り掛かるようにして座り込んでおり、これは、これから聞く内容によっては自分が卒倒するかも知れないということを予期したがゆえの、彼女なりの対策だった。
「――ディドル、連絡ありがとう」
ヴィレイアが震える声を銀の小魚に向かって届けると、銀の小魚がその声を預かったことを示して微かに震える。
「リベルなんだけど、今、一緒にいないの。事情があって首都で離れて、それから戻って来てないの。ええと、」
助けを求めてエルカを見上げる。
エルカはヴィレイアの前を苛立たしげに行ったり来たりしていたが、ヴィレイアの視線に気づくと、彼女のそばに膝を突いた。
「売られてるのが間違いなく〈氷王牢〉か、訊いてみてくれ」
こくり、と頷き、ヴィレイアは息を吸い込む。
「――その、売られてるっていう剣なんだけど、本当にリベルのものかな? 透過視精を通して見せてもらえる?」
そこまで言って、銀の小魚に頷き掛ける。
小魚は身を翻し、空中に飛び込むようにして姿を消した。
後に残ったのは、波紋のように拡がる銀の煌めきの残滓のみ。
――余談となるが、透過視精を通して聴覚のみならず視覚も共有できるということは、よく知られたことである。
鉱路においては、透過視精を使った偵察には視認での偵察も含まれるのだ。
とはいえ、透過視精の影が見たものをただ感じ取ることと、他人に伝達してやることには天と地の差がある。
ゆえに、視覚の共有までを可能にしている法術師は多くはない。
だが、ディドルは一等勇者である。
全く問題はないだろう。
ヴィレイアはきつく両手を握り合わせた。
エルカを見上げる濃緑の瞳が震えている。
「――どういうこと。リベル、何があっても〈氷王牢〉を手放したりはしないよね?」
「あれを売るほど金に困っちゃいないだろ」
エルカはぶっきらぼうに応じ、また立ち上がり、苛々と歩き回り始める。
「だとしたら、どっかで掏られたか――」
「〈氷王牢〉を掏られて、捜すのに手間取ってるせいで戻って来ないのかな?」
そう言ったヴィレイアの表情は、「そうであればいい」ということを如実に語る痛切なものだった。
だが、エルカは両手で顔を押さえる。
「――いや、あいつのことだから、ぼんやりしてて〈氷王牢〉を掏られたんなら、多分どうでもいいやって割り切って、帰って来るはずだ」
ヴィレイアが唇を噛んだそのとき、再び彼女の眼前に銀の小魚が戻って来た。
ヴィレイアが艶やかに長い髪を耳に掛けて、透過視精の影に頬を寄せる。
銀の小魚が空中を泳ぎ、ヴィレイアの額にぴとりと身体をつけ、すぐに離れた。
視覚的な記憶が共有され、ヴィレイアの目に、現実と二重写しになるようにして、木のカウンターの上に仰々しく置かれた樫の台座と、その上に鎮座する黒い片手剣が映った。
――見間違えるはずもない。
いつも彼が握っていた――隣を歩く彼の腰に下がっていた――
「――〈氷王牢〉だね」
ヴィレイアは抑えた声で言った。
エルカが唇を噛み、呻く。
続いて、ディドルの声が伝わる。
『取り敢えず、これが売られてた店なんですけど、僕らで制圧――あー、えっと、臨時休業のお願いをしてます。店主とも腰を落ち着けて話し合ってて、どこの誰からこいつを仕入れたのか、今、うちの筆頭が問い詰めてる最中ですが、なかなか上手くいってなくて』
ヴィレイアは息を吸い込み、立ち上がった。
銀の小魚を指先で招いて、端的に伝える。
「――間違いなくリベルの剣よ。絶対に誰にも渡さないで」
ヴィレイアはそばの壁に手を突き、もう片方の手で額を押さえた。
それからエルカを見る。
繊細可憐なその頬が、今は血の気を失って真っ白になっていた。
「――エルカ、これからハイリに行って――」
「待って」
エルカは立ち止まり、視線を落として、片掌で口許を覆っている。
「違う。駄目だ。リベルがいなくなったのは、間違いなくヘルヴィリーでのことなんだ」
「だけど――」
「ヴィリー、ちょっと聞いて。俺の方がこういうことには詳しいと思う。ラディスにいたときには誘拐も強奪もよくやってた。
――いいか、まず、間違いなく、リベルには何かあった。リベルが最後にいたのはヘルヴィリーだ。
ヘルヴィリーにいる誰かが、あいつから〈氷王牢〉を分捕ったわけだ」
「でもハイリに――」
「だから、聞いて。初手を間違えるとリベルを見失う。そんなの二度とごめんだ。
――俺が想像してる最悪の事態は、リベルが――」
エルカが言葉に詰まり、咳払いして無理やりに言葉を継ぐ。
「リベルが、くそったれ商会に捕まったっていう事態だ」
「――――」
ヴィレイアは声に出さなかったが、その瞬間に唇が動いていた――「ヴァフェルム議員」。
エルカは顔を擦る。
「たとえば、そうだな、こないだの――なんだっけ、あの祝宴。あそこでリベルを見かけた誰かが、『おお、リベルじゃないか、ショーズ商会の持ち物じゃないか』って閃いて、あのクソ商会に連絡したっていう事態だな」
ただ、と言葉を継いで、エルカは拳を握り締めた。
「――多分、それは、ない」
「――――」
「俺たちは消耗品扱いだったから、顔を見られたところで気づかれない。消耗品の顔をいちいち覚えてる人間なんていない。気づいたところで手間暇かけて取り戻そうとしたりはしない。
――まあ、もしかしたら、リベルが〈言聞き〉に誓約を立ててたことを知ってた奴が、なんでそれを掻い潜れたんだろうって疑問に思って、その情報を狙ってリベルを誘拐することはあるかも知れんが、――多分違う」
ヴィレイアも徐々に落ち着いてきた。
エルカが激しく動揺していることは分かったが、彼が冷静に考えようとしていることに影響を受けたのだ。
「――そっか。リベルをリベルだと見分けてどこかに連れて行ったのなら、絶対に足がつく危険は冒せないんだ。それだけ手間暇かけて動いたっていうことだから。
――だから〈氷王牢〉を、どこかで売りに出すはずがないのね」
エルカは勢い込んで頷く。
「そういうこと。まあ、そうすると、なんでリベルがそんなドジ踏んだんだって話になるけど、あいつも一応人間だし、ぼんやりするときくらいあるだろ。
だとすると、だ。――相手の立場になってみろよ。通りすがりの勇者から分捕った、曰くありげな武器だぜ? 分捕ったその場で売ろうと思うか? まず間違いなく、適当な売人に流して売らせたんだ。ラディスにいた頃の俺だってそうしてた。
――だから、売人を特定して締め上げるべきなんだけど、」
エルカが砂色の髪をがしがしと掻く。
「――ハイリまでが遠すぎる。ハイリの、その――武器屋の店主か何かか? そいつを締め上げて、卸した奴を特定して、下手すりゃそこから売人に繋がるまで、あと何人か問い詰めなきゃならん。で、そいつらの元締めはヘルヴィリーにいるはずだ――リベルに何かがあったのはヘルヴィリーなんだから。
ハイリまで行って、ヘルヴィリーに取って返してちゃ、時間が掛かり過ぎる。
それに、バンクレットの親父さん――あと、ヴァフェルムのおっさんだ。あの議員さまにリベルのことを知らせなきゃ。これも、他人に伝言させるわけにはいかねぇし――」
早口に捲し立てるエルカを、しかしそのとき、今度はヴィレイアが遮った。
「――信頼できる誰かに、ハイリまで行ってもらって、誰から〈氷王牢〉を買ったのか、問い詰めてもらえればいいんだよね?」
エルカは苛立たしげに息を吐いた。
常にはヴィレイアには優しい――甘くさえある彼だが、今ばかりは気が立っている。
「そうだよ。なに聞いてたの?
ハイリのあいつらもいい奴らそうではあるけど、さすがに付き合いの短い――ってか殆どないリベルのためにどこまでやってくれるか。
町で悪評が立っちまえば、あいつらもやりにくくなるだろうし、ある程度の手心が入っちまうはずだ」
「それならなんとかなるかも知れない」
ヴィレイアが呟いた。
彼女が左の人差し指を上げる。
訝しげにするエルカを視界に入れつつ、ヴィレイアは。
「フロレアからなら、ハイリも近いわ」
ヴィレイアが指を振る。
空中に漣が立ち、コマドリのような輪郭の、銀色の小鳥が現れる。
小鳥がくるりと空中で羽を広げて宙返りし、ヴィレイアの指に止まって、ちょこり、と首を傾げて言葉を待つ。
息を吸い込み、ヴィレイアは囁いた。
――とうとう堪え損ねて、彼女の声が涙を含んで揺れて震えた。
「ケルク? ――ケルク、私よ。お願い、聞いて。
メメットはそこにいる?」
一拍の間。
「お願い――助けてほしいの」
*◇*◇*
リベルが駆け込んだ、隧道の形の坑道は凹凸の激しい岩場ながら、概ね緩やかな下り坂を描いて続いており、リベルは早くも後悔し始めていた。
(下ってるってことは、これ、奥に向かって進んでる公算の方がでかいな……)
正確には、鉱路において下り坂が奥に通じ、上り坂が出口に通じているかといえば、そこは地形の問題もあり必ずしもそうではない。
しかしながらリベルは、ここで自分が強運を発揮できるとは思っていなかった。
だが、引き返してもあの狼の姿の鉱路生物に遭遇するだけである。
更に言えば、リベルはとっくのとうに迷っている。
これ以上、多少奥に踏み込もうが事態は悪化しない。
自棄ぎみにそう考えつつも、リベルは胃がしくしくと痛むほどに仲間が恋しかった。
(エルカ――いてくれ。ここにいてくれ。何とかしてくれ……)
そして、
(ヴィリー――)
自分でも意外に思うほどに強く、リベルは隣にヴィレイアを求めていた。
――いつも彼の左側を、鼻唄を歌いながら歩いていた彼女。
白百合色の髪を靡かせて、表情豊かに、たまに突拍子もないことを口走りながら。
ヴィレイアの明るい笑顔が見たかった。
彼女がいれば鉱路において大きな戦力になることは分かっていたが、それを別としても、彼女が何もしてくれないとしても、そばにいてほしかった。
(建国祭――建国祭まであと何日だ? 一緒に回ろうって言ってるのに……)
建国祭は、春の月五日に催される。
(今はいつだ……)
何度目かにそう考えたとき、リベルは異音を聞きつけた。
――ごとん、ごとん、と、重いものが運ばれているような音がする。
「――――?」
足を速める。
相変わらず光源はないが、地形の把握は出来る。
どうなってるんだ、と己の目許に指を当てつつも、リベルは把握できる隧道の出口に向かって、安定した身ごなしで進んでいった。
間もなく到達した隧道の出口で立ち止まったリベルは、心持ち岩壁に身を隠すようにしながらも、思わず目を見開いてそこを見つめてしまった。
(なんだ、ここ……)
茫然と周囲を見渡す。
そこは巨大なドーム状の岩窟だった。
見上げてみても天井に当たる岩壁が霞んで見える、それほど高い吹き抜けになっている。
左右を見渡す――ここはただただ広い。
そこを、ドーム状の天井を持つ広間と喩えるならば、その広間の向こう側の壁までの距離が、直感では分かりかねるほどだ。
そして、四方八方へ通じる、小さな洞穴が見えていた。
まさにリベルが顔を出しているような広間への出入口が、幾つも口を開けている。
それらの入口はもちろん、通常の通路があるべき――リベルがいるような――地面と接する位置にも多く開いている。
だがそれ以上の数の通路の口が、空中を踏まねば到達できない高さに、てんでばらばらに幾つも開いていた。
そして――ここは、無人ではなかった。
いや、無人だった。
つまるところ、生き物は大量にいたものの、人はいなかった。
そこにいたのは大量の岩魚だった。
滅多に姿を現さない、臆病な鉱路生物――それらが、岩の中ではなく上を、忙しなく行ったり来たりしている。
そこここに、大型の鉱路生物の死骸や残骸が積み上げられており、それらを牽くもの、岩の中から押し上げるようにして動かすもの、様々だ。
そして――リベルは目を擦った――他より図体の大きな岩魚があちこちに立って、指示を飛ばしている。
〔――そこ! そこのは姫さまの厨房に〕
〔そこのはモームのところに。急げ!〕
〔リャンレが振り子の借りを返せとうるさい。――の肉はリャンレのところに持って行ってくれ!〕
リベルは思わずその場に座り込んだ。
――岩魚が明らかに知能がある素振りで振る舞っていることに驚けばいいのか、岩魚の声らしき声が聞こえ、意味を汲めることに驚けばいいのか、もう分からない。
――そのとき、上方から鉱路生物の死骸が降ってきた。
ひゅん、と空気を切る落下音、続いて、どしゃ、と鈍い音と共に、鉱路生物の死骸が岩場に叩きつけられて潰れ、血と臓物が飛び散る。
リベルが見上げると、どうやら死骸は、岩壁の高処に開いた通路の出入口の一つから降ってきたようだった。
岩魚が歓声めいた声を上げ、わらわらと新たな死骸に集まっていく。
リベルは顔を押さえて呻いた。
いよいよ夢らしくなってきたので、そろそろ目が覚めるかと期待したが、生憎と目の前の光景は消えていかない。
――リベルの知識においては、知能と呼べるものがあるのは竜の眷属のみのはずだった。
他の、例えば知能が高いと言われる獅鷲であっても、存在しているのは獣の本能、獣の規律のみのはずで、いわんや岩魚が竜の眷属の如き規律だった動きをしている驚きをや。
(いや、竜の眷属だけが知能を持ってるってのが思い込みで、蟻とか蜂だって、言葉を聞き取れれば社会性があるのかも知れないけど……)
そこまで考え、「違う!」と自分の頭を叩くリベル。
(そもそもなんで言葉が分かるんだ――それっぽい声が聞こえるんだ。まず問題はそこだ)
呻くような声を漏らしたリベルは、全くらしくもなく、接近してくる気配に気づかなかった。
はっ、と顔を上げたときには、目の前に岩魚がいた。
身の丈は二フィート少々。
一目見た印象は扁平な魚類――エイに似ており、水平に広がる胸鰭の下から、さながら外套を纏った人の輪郭にも似て、腕が二本生えている。腕の先端の手指は三本。
尻鰭の下からひょろりとした二本の脚が生えており、足の先端は山羊の蹄に似ている。
全身くまなく、滑らかな灰色を呈している。
――これぞ岩魚という見た目だが、リベルがこれまで目にしたことのある岩魚は、大抵が体長三インチから五インチほどの小ささだった。
それを思えば、
(岩魚の化け物だ……)
思わずそう考えてしまった。
一方、リベルの目の前にいるその岩魚も、その眼がどこにあるのか、リベルにはすぐには分からないものの、じろじろとリベルを眺めているようだった。
岩魚は臆病な性質であるはずだが、驚くほどふてぶてしい態度だ。
リベルがぼんやりと、「ここで俺が『わっ!』とか言ったら、こいつ、逃げていくのかな」と考えていると、岩魚が唐突に、片手でリベルを指差した。
そして、言った。
〔――おまえ、竜みたいだけど、違うな。
おまえ、なに?〕




