05 暗転ふたたび
坑道に轟く大音響。
身を縮める四人を後目に、リベルは仕留めたばかりの鉱路生物の死骸を蹴るようにして連戦に構える。
仕留めた鉱路生物は、もじゃもじゃと長い灰色の体毛、頭部で曲線を描く対の角と、色彩は違えど麝香牛に似た生き物だった。
水に濡れた岩場の上、角を振り立てて突進してきたところを、リベルが素手で角を捉まえ、掌を切りながらも曲芸も斯くやという身ごなしで背中に飛び乗り、暴れ狂うところを脳天を片手剣で突き刺してとどめを刺した。
今は湿った岩の上に、薄まった血の海を広げてぴくりとも動かない。
こういった見た目の生き物は群れで行動することが多く、単体で坑道を突進しているのを目の当たりにしたときは、近くに群れがいるのではないかと警戒したが。
「なるほどそういうことね」
誰にともなく呟き、リベルは素早く血糊を拭った片手剣を鞘に収める。
〈氷王牢〉であれば、血糊などは拭わずとも切れ味は鈍らない。
通常の剣の手間に思考の片隅を馳せつつ、背負った小銃を構える。
この坑道は、決して広くはないが天井が高い。
その高い上空を滑空してくるのは、一頭の獅鷲だ。
ぽつぽつと頭上には野生の明りクラゲが漂っており、その光で見て取れるところによれば、羽毛に斑模様が入っている――つまりは牝。
どうやらこの獅鷲が、麝香牛もどきを追い立てていたらしい。
麝香牛もどきは群れを逸れてしゃにむに突進しているところだった、ということか。
その獅鷲が、今しも獲物を横取りされた不快に大音声で鳴いたところだった。
獅鷲の叫びに岩壁が震える。
ベンノたちはもはや声もなく震え上がり、身を寄せ合っている。
突如として突進してきた麝香牛もどきの鉱路生物は、彼らが脅威を感じる前に屠られた。
そして視界の暗さがあって、獅鷲の声は聞こえているものの姿はまだ視認できていない。
彼らが怯えているのは、またも豹変したリベルの振る舞いにこそ。
――巨大な獣が突進してくるのを見てなお顔色ひとつ変えず、それどころか自ら進み出てその背中に飛び乗った、いっそ狂乱的な振る舞い――
血液と脳漿が飛び散る中にあって、明りクラゲの微かな光にも見えたほどの、楽しげな笑みに唇と頬を歪ませた――その狂気にこそ。
帰りたい、とベンノが呟く。
声もなく、微かに息を漏らしただけだったが、しかし同じ思いを抱える他の三人には明瞭に伝わる。
怖い、怖い、帰りたい――ここから出たい。
背後の四人のその様子には一切注意を払わず、銃床を肩に押し当て、狙いを定めるリベル。
麝香牛もどきの角で切った掌から出血があるが、まるで気にしていない。
血の臭いが立ち昇る中、溢れた血と脳漿を踏みしめて立ち、微動だにしないその姿。
――獅鷲は、亜竜には遠く及ばないながらも、十分に脅威となる鉱路生物だ。
獅鷲を単独で凌げるようになれば一等勇者相当、と言われることもあるほどに。
そして、リベルは――
(悪いな、俺は特等なんだ)
狙い定めて撃ち出された不傷石が、羽搏く獅鷲の片翼を捉えた。
獅鷲にとっては小石が当たった程度の衝撃だろうが、二発、三発と立て続けに同じ箇所に弾丸が命中し、さしもの巨体も僅かに傾く。
その瞬間に、リベルは走り出している。
やはり後ろの四人からは目にも留まらぬ早業、いつの間にか彼は小銃を背負い、片手剣を抜いている。
そして走った方向は、坑道の岩壁に向かって――
「――――!」
一瞬ではあれ、非力な四人の脳裏に疑念が過る。
リベルが自分たちを見捨てて逃走したのではないか、というそれは、リベルの狂気的な一面に覚える恐怖とは二律背反の感情のようでいて、しかしながら確かに現状ではリベルに依存せざるを得ない彼らの本音だ。
だが、違う。
リベルの動きより、明りクラゲの光に照らされて一瞬まざまざと見えた、その表情で分かる。
――彼は獲物を逃さない。
この機会、存分に暴力を揮える好機を逃すなど、そんなことはしない。
リベルが岩壁を蹴った。
その僅かな凹凸を手掛かりに、足掛かりにして、半ば以上は勢いで、切り立つ岩壁を駆け昇り――
殆ど人間離れした身ごなしで、リベルのほっそりとした体躯が宙を飛ぶ。
岩壁を蹴って宙返り、獅鷲目掛けて――非力極まりないはずの、竜の眷属中で最も脆弱な種族の身体が放物線を描く。
それを目の当たりにしながらにして、素直に蹴られるような獅鷲はいない。
獅鷲の喉の奥で、猛禽そのものの不機嫌にくぐもった鳴き声が漏れる。
獅鷲の前肢、猛禽の脚に似たその前肢が、鉤爪を剥き出しにしてリベルを襲う。
その脚が、がっきとばかりにリベルの左腕を掴んだ。
リベルが宙を飛びながらも、顔面の前に掲げたその腕を。
そして、その腕を掴ませたのは故意だ。
眉ひとつ動かさず、いや、微かにだが確かに、楽しげに目を細めて――
掴まれた左の前腕を支点として、リベルが振り子のように身体を動かす。
そうして弾みをつけ、危機を察知した獅鷲がリベルから指を離すよりも、彼を岩壁に叩きつけるよりも早く。
振り被った片手剣、その刀身が根元まで獅鷲の腹に突き刺さった。
強靭な筋肉が刃を押し返そうとするが、この作業に慣れたリベルは、力任せだけではない技巧で、筋繊維の弱い部分を抉っている。
「――――!」
獅鷲の絶叫。
衝撃と激痛に彼が体勢を崩し、落下する。
あわや六百ポンドに及ぶ巨体の下敷きになるところだったが、リベルは片手剣から手を離し、素早く転がってそれを免れている。
そして、獅鷲は身を起こそうともがいている。
さすがに、片手剣のただの一撃で仕留められるほど甘くはない。
リベルは無表情のまま、至近の距離で小銃を構えた。
――ばん。
銃声。
最初の一発が、過たず獅鷲の眉間を貫く。
頭に一撃を喰らってさえ、弱々しいながらもまだ足掻く巨大な化け物に歩み寄り、リベルはその腹から片手剣を引き抜いた。
――驟雨のように血が噴き出し、リベルの下半身を真っ赤に染める。
それで急激に力を失う獅鷲の眼球に、とどめとばかりにリベルは剣を突き刺した。
ばしゃ、と、飛んだ返り血が目許に降り掛かる。
リベルは目を閉じて、それから掌で目許を拭い、息を吐いた。
さすがに息の上がったリベルが、いっそう血塗れになって立ち上がる。
背後に庇われていた四人は覚えず足を引いたが、リベルはそれには頓着しなかった。
抜き身のままの剣をぶら下げて、倒れたままの麝香牛もどきに歩み寄り、その傍らに膝を突く。
そして、剣を握り直した。
「……な――何すんの?」
喉に絡んだ声ながらも、そう尋ねたのはベンノだった。
リベルは事も無げに応じる。
「こいつの角を貰う。まあ、頭ごとになるけどな。売れるはずだ」
「へ……?」
茫然と声を零すベンノの方は一瞥もせず、リベルは麝香牛もどきの角を握り、力を籠めて片手剣を振り下ろしていた。
上がる、悍ましい音。
坑道に反響する、鈍い音。
死体からであっても、まだなお溢れ出し、噴き出す血。
その生臭い匂いが、霧として周囲に漂っているのではないかと思えるほど、強く、濃く漂う。
後退ったのは四人全員、耐えかねてセオンが膝を突いて嘔吐する。
吐瀉物が岩壁に落ちて跳ねる湿った音も、しかし今は麝香牛もどきの血が岩壁を叩く音に呑まれる。
リベルは力を籠めて、骨の継ぎ目に刃を押し当てた。
打ち首が上手い軍人の方が、こればかりは華麗にこなすかも知れない――力任せと、魔法の介助。
それを駆使してようやく、麝香牛もどきの首が落ちた。
「――ふう」
達成感に溢れた息を漏らしたリベルからすれば、鉱路生物の死体を狩るのは幼少時から慣れ親しんでいることだ。
ゆえに、咄嗟にはその醜怪さにも思い至らない。
顔を上げ、立ち上がりながら麝香牛もどきの角を掴み、未だに点々と血を落とすその頭部を持ち上げて、無頓着に口を開く。
「こいつ、頭ごと持って帰って。それで多分、あいつらに差し出す成果としてはもう十分だよ。戻ろう」
四人の戦慄の眼差し。
束の間ぽかんとしてから、そのときようやく、リベルは気づいた。
「――あ、血塗れで気味が悪いか」
「――――」
ゆっくりと息を呑んでから、ベンノが強張った声で言った。
「お――俺の麻袋に入れて。それで……持って帰るから……」
「ありがとう」
リベルはほっとして礼を口に出してから、「そもそも、この一連の行動は全部こいつらのためなのでは?」と思い出した。
だがそれでも、
(……ヴィリーだって、あれだけのことしてくれたのに、俺にもエルカにも恩着せがましいことは言ったことないもんな……)
そう考えて、リベルは繰り返す。
「――ありがとう。
結構重いから、気をつけてな」
ケルンを頼りに来た道を引き返す。
往路よりも明らかに足取りが重いのは、荷物が増えているからだ。
麝香牛もどきの首から漂う血の臭いに鉱路生物が集まってくることを、常ならばリベルも警戒するが、今に限っては運が悪くなければ大丈夫だろうと判断する。
(何しろ、これより強烈な臭いがしてるわけだしな……)
残してきた麝香牛もどきの身体から。
ベンノが抱える麻袋は、刻一刻と血が滲んでその色に染まっていっている。
ベンノは泣きそうな顔をしているが、泣き言は漏らしていない。
さすがに彼が気の毒になり、リベルは「しばらく俺が持っていようか?」と打診したが、空振った。
戦慄と恐怖の表情で後退ったベンノを見て、リベルが落ち込むこととなったのである。
――そのときようやく、リベルは、そばの四人が怯えているのは、何も鉱路そのものに対してばかりではないと気づいた。
他ならぬリベル自身にも、彼らが怯えていることを。
(――マジかよ、俺、怖い? それとも血塗れなのが怖いだけ?)
思わず額を押さえてしまう。
そしてふと、初めて一緒に鉱路探索をしたときの、ヴィレイアの言葉を思い出した。
――『だっていきなり人が変わったみたいに惨殺し始めるんですもの。一度鏡を持参してみてください。顔。自覚してなかったんですか、なんかもう狂気の笑みでしたよ』
「…………」
リベルは顎を撫でる。
乾いた血がこびり付いているのか、顎に皮膚が強張る感覚があった。
(――そのせい……?)
アーディスたちと行動を共にしていたときも、「鉱路に入ると人格が変わる」と度々言われていた。
「いつもは大人しいのに、鉱路に入るとものすげぇ不気味な笑顔で虐殺開始するよな」とかなんとか。
だがそれを怖いと言われたことはない。
(なんか、疲れるな……)
はあ、とリベルが溜息を吐いた、そのとき。
ちら、と、視界の隅で光が瞬いた。
「――――?」
リベルが足を止めたのは、それが他の勇者隊の明りクラゲのランタンの光ではないかと思ったためだ。
――他の勇者隊に合流できれば、勇者組合の陸艇に乗り込むことが出来る。
降り立つのがどこの町であれ、それで――
足を止めたリベルを、他の四人が振り返る。
どうしたの、と不明瞭な声が上がり、リベルはそちらに視線を戻し、瞬間、逡巡する。
ここで待っていて、と伝えるべきか、あるいは先に行っていてくれ、と伝えるべきか。
だが、その逡巡は一瞬だった。
リベルはすぐさま口を開く。
「――今、明かりが見えたんだ。他の勇者隊の明かりかも。見てくるから、先に行ってて。
――ベンノ、」
名前を呼ぶと、ベンノがあからさまに怯えた目でリベルを見る。
護衛なしでの鉱路は怖いだろうが、それ以上にリベルのことも怖がっていると分かる、大きな瞳。
苦笑して、リベルは告げる。
「――俺がケルン……あー、目印を作ってたのは見てただろ?
ここまで戻って来たのと同じように、あれを辿れば最初の場所まで戻れるから」
「――分かっ……た」
吃りながらもベンノが応じる。
不安げに目を見交わしながらも、四人がそれぞれケルンを確認して、たどたどしく鉱路を歩き出すのを見守ってから、リベルは身を翻した。
鉱路において、素人は本当に無力だ。
四人とも――鉱路に下ろされたのだから――加護持ちとはいえ、その強運で無限の勇気が湧いてくるはずもない。
鉱路の経験があるのはリベルだけ、となれば、リベルが離脱するのを拒否されると厄介だ――とは思っていたが、まさかリベル本人を彼らが怖がり、そそくさと離れていくとは。
なんとなく空しい気持ちになりつつも、これも土産話にしよう、とリベルは考える。
「助けたはずが怖がらせちゃって」と話せば、エルカが息も出来ないほど笑ってくれるだろうし、ヴィレイアも苦笑交じりに慰めてくれるはずだ。
そんな益体もないことを考えながら、リベルは分岐した坑道に踏み込む。
ちら、と、また光が瞬くのが見えた。
が、今度はリベルはがっくりと項垂れる。
光の色が違う――目を凝らせば、明りクラゲの白い色ではなく、どことなく金色味を帯びた光だと分かったために。
(なんだよ……)
期待させやがって、と、誰とも知れぬ存在に悪態を吐きながら、それでもリベルは義理のようにそちらに進んだ。
よしんば当てが外れていたとして、リベルの足ならば、先に進んだ四人に追い着くことなど訳ないし、仮にどこかの勇者隊が何かの事情で明りクラゲのランタンではなく、他のものを光源としているのであれば万々歳だ。
足許の岩場が小さく急峻な上り坂を描く。
暗い視界にあって慎重に、リベルはその短い坂道を登り、
「――ん」
思わず声を漏らす。
はっきりとは見えないが、その上り坂の上は広い空間に通じているようだった。
音がはね返ってくる気配がない。
一方、遠くからの音が遮蔽物なしに聞こえているような、そんな気がする。
水音が、眼下から響いている。
どれほどの距離がある下かは分からないが、ここが広い空間に通じているとすれば、真下は川になっているらしい。
明りクラゲがいないことも納得だ――竜の眷属には陸棲のものが多いから、明りクラゲも殆どは陸上に棲息する。
先程見えた煌めきを捜して、暗闇の中で視線を動かす。
息を詰め、もし他に誰かがいるならば、その気配を聞き逃さぬよう、耳を澄ます。
――きらり。
正面よりやや左に逸れた位置で、何かが光る。
暗すぎて見えないが、対岸というべき位置にも一面の岩壁が聳えていて、そこに洞穴が開いているのかも知れない。
その洞穴に、何かがある――そのような。
(光晶かなあ……)
落胆に溜息を吐きつつ、リベルはそう思って目を凝らす。
岩壁から露出している光晶の明かりならば動かない。
そこに何かの生き物が介在している明かりならば、動く。
ゆえに、光点が動くか否かを少しのあいだ見守ることとしたのだ。
(光晶なら、ずっと光ってるはずなんだよな……)
リベルがそう思った、そのとき。
背後で何かが動いた。
喩えるならばそれは、誰かがよろめきながら歩いて来るような気配。
リベルはぱっと振り返る。
つい先程まで一緒にいた四人のうちの誰かが戻って来たのかと訝ったために。
だが、不用意に声を上げることはしない。
近付いてきたのが誰なのか、それが確定するまでは。
――足を引き摺っているような気配が接近する。
動きの鈍さからして鉱路生物とは考え難いが、そういった動きで相手を油断させる鉱路生物がいないこともない。
リベルは足を引いたが、少し後退れば高さの分からない絶壁から転落する立ち位置だ。
どちらかといえば、接近してくる相手を回り込もうとする動きになった。
――が、
「――――!?」
驚いた。
相手が、まるでリベルが予定調和の動きしかしていないかのように――そしてこの暗闇にあって、はっきりと目が見えているように、真っ直ぐに距離を詰めてきたから。
(鉱路生物かよ……!)
辟易しながら考える。
鉱路生物は――光源のない地下に棲むのだから当然に――視覚に代わる、光に依存しない状況把握の器官を備えているものが殆どだ。
獅鷲であれば、視覚も鋭敏だが聴覚はそれ以上というように。
そのとき、再び、視界の隅で金色の瞬き。
太い弦を爪弾くような荘厳な音がして――
「え――」
リベルは凍りつく。
――この音、いや、この声は、
(――亜竜――?)
少なくとも、亜竜によく似た――
眼前の何ものかから目を逸らし、声が聞こえた方を振り仰ぐ。
どんな鉱路生物も、亜竜と比べれば脅威ではない。
そして、見た。
どこからか射す微かな光に照らされた、――優美に伸びる黄金の竜の首。
その、琥珀の目。
――全ての鉱路生物に共通する、亜竜でさえも例外ではない目の色、血の色とは違う、年月を経た樹液の琥珀色――
その目が、対岸にもここと同じように口を開く洞穴があるのだろう、そこと思しき場所から伸びて、距離がある中でなおはっきりと、
――こちらを見ている。
「――は……?」
リベルは目を見開く。
――これが何か、もちろん知っている。
〈言聞き〉の黄金竜。
常に〈言聞き〉と行動を共にする、姿を消していない唯一の真正の竜――
(どうして――)
確かに〈言聞き〉は地上のものでも鉱路のものでもないが、誓約のために呼ばれればそれを仲介するのが彼らの在りようだ。
鉱路で誓約をする生き物はまずいないから、彼らは大抵、地上にいる。
どうしてここに、その〈言聞き〉の黄金竜が。
目を疑うリベルの視線の先で、黄金竜がゆっくりと頭を動かす。
夢では有り得ない、巨大なものが確かに動く気配、微かに聞こえる関節の軋み、黄金竜の呼吸の音。
――黄金竜を照らしている光源が、ようやくリベルにも分かった。
明りクラゲだ。
それも、夥しい数の。
黄金竜――真正の竜の生命の揺らぎこそ、明りクラゲにとっては極上の養分だ。
その香気に呼び寄せられて、凄まじい数の明りクラゲが、黄金竜の後ろ――その坑道を埋め尽くさんばかりに集まってきている。
ここは真っ暗といって差し支えない暗闇に鎖されているが、黄金竜の背後は陽が射しているかの如き明るさ。
黄金竜の巨躯が洞穴に蓋をする格好になって、これまで明かりが漏れていなかったのだ――リベルが見たのは、明りクラゲの白い光を弾いて黄金色に煌めく黄金竜の鱗の輝きだったのだ。
黄金竜の巨大な琥珀の眼が、ゆっくりと瞬きし――
――厳かに弦を弾くような、玲瓏たる響きの声。
直後、リベルのそばに迫っていた、姿の仔細の分からない何か、それが愕然として立ち尽くすリベルを強く押した。
あるいは、よろめいてリベルに向かって倒れ込んだ。
黄金竜が頭をもたげる。
優美な動きではない、竜にあるまじき焦燥の窺える動き。
その動きに押されて、明りクラゲの一部が、ふわ、と、洞穴から広い空間に押し出される。
待ちかねた光源の到来ではあったが、リベルには落ち着いて周囲を見渡す余裕はなかった。
倒れ込んで来た何者かの身体は予想よりも重い――彼は堪りかねて体勢を崩している。
――一歩、二歩、よろめいて下がる。
踵の下で細かな砂利が虚空に転落していく気配があり、これ以上は下がれないことに気づいて踏ん張る。
――しかし、
「――――っ!!」
がくん、と足許が沈む――否、消失する。
がらっ、と重い音がして、足許の岩場に罅が入り、崩れたのだ。
「嘘だろ……っ!」
このときばかりは声が出た。
リベルに向かって倒れ込んできた何者か、その身体が今もリベルに圧し掛かるように体重を掛けてきており、体勢を立て直せない。
リベルの足が空しく宙を泳ぐ。
胃袋が持ち上がるような不快感。
咄嗟に伸ばした手が宙を掻き――
――転落。
高さも分からぬ崖の上から、暗闇に沈む水流へ、真っ逆さまにリベルは落ちていく。
*◇*◇*
エーデルの町に帰り着いたその日の夜。
ヴィレイアは勇者組合の食堂にいた。
勇者たちの寛いだざわめきを聞きながら、行儀悪くもテーブルに片頬をつける形で突っ伏している。
白百合色の長い髪が背中に流れ、テーブルに落ちた髪は艶やかに優美な曲線を描いている。
首飾りにしている青い時精時計がテーブルの上に載っており、ちょうど目の前で灯火を反射して煌めいていた。
浮かぶ数字は「九六〇」。
エルカは顔馴染みに会って来ると言って姿を消した。
あの様子からすると今夜は戻って来ないだろう。
「……退屈だ」
呟いて、ばたばたと足を動かす。
声に出してしまったせいか、耳聡くもそれを聞きつけた近くの勇者から、「おう、姉ちゃん、こっちで酌してくんねぇか」と柄の悪い声が掛かったが、ヴィレイアはそれを黙殺し、顔を顰める。
そしてふと、「生家だったらこんな態度は許されないな」と、考えたくもないのに思い浮かべてしまった。
――つい昨日に、本当に久しぶりに、姉の顔を見たせいだ。
「……ああ、もう」
引き摺られるように、視界の真ん中で煌めく青い時精時計を意識してしまって、ヴィレイアは息を吸い込む。
「――――」
ややあって、はあ、と息を吐き、ヴィレイアは濃緑の双眸を閉じる。
――緑青の瞳とあの善人面が瞼の奥を過る。
胸の中に苦いものが込み上げて、一瞬でも早くこんな感情は消してしまいたい、と彼女は思う。
――だから、
「早く戻って来ないかなぁ、――リベル」
ヴィレイアは呟いて、こつん、と、時精時計に額を当てる。
*◇*◇*
どぼん、と、水に沈む衝撃。
思っていたよりも水の流れが速く、押し流されながらもリベルは浮上しようともがく。
不意打ちの着水の衝撃で息を吐いてしまっている。
肺が呼吸を求めて悲鳴を上げる。
水中は真っ暗で、たとえ目の前に怪魚がいようと気づくまい。
水底と水面、どちらがどちらかも分からない。
落ち着いて上下を見極めなければ深みに嵌まることになると分かってはいたが、それでもリベルは激しくもがいてしまった。
先程の、麝香牛もどきの角で切った掌が鈍く痛む。
流されていく身体に何かがぶつかる。
息を求めて気が狂いそうになる――
――そのとき、唐突に一方向が明るくなった。
考えたというよりは反射的に、リベルは懸命になってそちらへ手を伸ばして水を掻き、水を蹴る。
ややあって、はっきりと、光に揺らぐ水面が見えてきた。
(――空気)
切実にそう思った、その瞬間。
水面が割れた。
無数の小さな泡が発生し、水面の向こうの光を受けて黄金色に煌めく。
呼吸が出来ずに目が眩み、四肢から力が抜けていく中にあっては、水面が割れた原因の仔細までは見て取ることは出来ない。
――直後、目の前が暗くなった。
リベルは自分が気を失いつつあるのだと思った。
――だが違った。
何かが光を遮って、近づいてきている。
警戒よりも疑念よりも、今は焦燥と苛立ちが先に立つ。
(そこを退いてくれ……!)
もはや祈るようにリベルが考えた、その刹那。
――その近づいてきた何かが閃くように動いた。
水を切って更にリベルに接近し、
「っ――!?」
がっ、と、リベルの胴体を掴む。
突然の衝撃に、リベルは肺の中の貴重な空気を全て吐き切った。
――目の前が暗くなる。
今度こそリベルの意識の暗転のために。
強く身体を引かれるのを感じながら、リベルは意識を失った。
リベルが薄らと目を開いたとき、朧気ながらも纏まった思考は、「俺、生きてる……」というものだった。
(すげぇ……それとも夢かな……)
視界はぼやけて定まらない。
感覚すらも遠ざかって、自分が今どのような姿勢でどこにいるのか、それすら何も分からない。
かろうじて分かるのは、何かがそばで動いている気配。
だが、起き上がることも儘ならない。
(生きてるのが夢だったら、困るな……)
ぼんやりと、だが確かにそう思った。
(俺、まだ、ヴィリーに、――一緒にいてくれって言ってねえし……)
そばで動いている何かが、いよいよすぐ近くにまで寄ってきたことを感じた。
ごうごうと風が唸るような音が耳許に聞こえる。
リベルは身体を動かそうとしたが、指先すらも動かなかった。
リベルに出来るのは、近づいてくる何かがリベルの頸を喰いちぎったりしないよう、祈ることだけだった。
――何がどうなっているのか、さっぱり分からないが、
(会いたいな……)
そう思った。
胸が痛んだ――激しく。
リベルは己の感傷的な胸の痛みに苦笑しようとして、
「――――っ!」
(違う!)
気づいた。
この痛みは――胸の痛みは、物理的なものだ。
実際に胸の皮膚に刃物を這わされている、皮を剥がれようとしている、その奥の骨格と臓器を覗き込まれている――そのような痛み。
身体は動かない。
ぴくりとも動かない。
声を出そうにも喉が凍ってしまったかのよう。
だからのたうち回れない、だから悲鳴を上げられない。
感覚全てが遠ざかっているような現状にあって、なおそれだけ鮮明な痛み。
薄れゆく意識が激しく揺れ動く。
痛みの余りにこの場で飛び起きようとする一方、痛みが過ぎて意識が吹き飛びそうになっているのだ。
リベルの意識が、強風に吹かれる木の葉一枚の如くに錐揉みし、しかし長くはもたず、
(誰か来てくれ……)
そう縋るように考えたことを最後に、リベルは再び意識を手放した。




