12 暗転
「私もヘルヴィリーに残りたかった!」
「じゃあまた今度な。どうせまた呼ばれるだろうし、建国祭にも行くんだろ」
「それはそうだけど……」
はあ、と項垂れるヴィレイアを連れて、エルカはヘルヴィリーの駅にいる。
首都の駅となれば、人出は他の都市の比ではない。
だがともかくも、そう頻繁に軍の陸艇を使うわけにもいかず、エーデル行きの陸艇もちょうど今日に便があるということで、二人は駅にいた。
高い吹き抜け、その果てにある円蓋に覆われた巨大な駅。
夥しい数の陸艇が発着を繰り返し、あちこちに大声で誘導の声が響くほか、〈フィード〉も充実している。
渾然一体として個々は聞き取れないざわめき、誰かのくしゃみ、足音、時おり耳を劈く子供の泣き声。
休憩用に置かれた椅子の上で寛ぐ紳士、苛々と時間を窺う婦人。
〈フィード〉の前で二人は立ち止まった。
この〈フィード〉は、主に陸艇の運行状況が書かれたものだ。
大きな木の板に、適当な大きさの紙が次々に貼り出されていっている。
文字が読めないエルカは、じゃっかん気まずげにヴィレイアを見た。
ヴィレイアの濃緑の瞳が、目当ての陸艇の情報を探して動く。
彼女は両手で、「九六一」の文字が浮かぶ時精時計を、しっかりと握り締めている。
「――エーデル行きは……えーっと、どこだ……?」
呟き、何度か視線を往復させたあと、ヴィレイアがぱっと表情を明るくする。
「あったあった! えーっと、あと一時間もないね。どこから陸艇が出るかというと……」
うーん、と顔を顰めて目を細め、行きつ戻りつする人混みに揉まれながらも〈フィード〉を注視するヴィレイア。
彼女が転んで誰かに蹴られようものなら大変だと、エルカは慌てて彼女の左肘を掴む。
ヴィレイアが、左側にいるエルカににこっと微笑み掛けて、「ありがと」と。
それを見てエルカは、こいつは本当に表情豊かだな、と思う。
そして同時に弟分のことを考える。
リベルは意識もしていないのだろうが、彼はヴィレイアの表情の変化に釣られて、頻繁に同じように表情を動かしている。
ヴィレイアが嬉しそうにしていれば微笑み、彼女がしゅんとすると眦を下げるのだ。
そして、ヴィレイアが自分から離れると、必ずといっていいほどその行方を目で追う。
(本人たちが鈍いだけで、絶対……)
エルカがそう考え、一人でふむふむと頷いた、そのときだった。
「――ヴィレイア!?
ねえ、あなた、ヴィレイアでしょう!!」
出し抜けに名前が呼ばれた。
「ヴィレイアよね! そうよね?」
もの柔らかながらよく透る、鈴を振るような声――嬉しげな声。
エルカは眉を寄せて、振り返った。
――ヴィレイアの元の隊、フロレアの勇者隊の誰かが、たまたまヘルヴィリーにいるのかと思ったのだ。
そうなれば、取り敢えずのところは弟分に機会をやるため、お引き取り願わねばなるまい。
(ヴィリーと一緒にいた連中なら気のいい奴らだろうし、変な揉め事にはならないだろうけど……どうしよう、俺、口下手だからな)
ヴィレイアも、ぽかんとして振り返っている。
ヘルヴィリーで名前を呼ばれる心当たりはないと言わんばかりだ。
二人が、声の聞こえた方を振り返り、声を出した人物を探しているうちに、あちらの方でも人波をなんとか乗り越え、二人の方へ進み出ようとしていた。
――エルカは目を見開いた。
「――え?」
思わず声が出てしまう。
人波の熱気に頬を上気させ、軽く喘ぎながら、こちらに向かって人混みを縫い、走り寄ってくる女性。
――年の頃は二十歳か、それより少し上か。
裕福そうな身形をしており、実際に裕福な身の上なのだろう、彼女の荷物を抱えて人混みの中で右往左往している、従者と見える男性の姿が後ろに見えている。
青く染めた天鵞絨の小さな帽子をちょこんと頭に載せ、滑らかな毛皮の白い外套を纏い、同じく毛皮の襟巻を首に巻き、足許には高価な革の長靴。
だが、エルカが驚いたのは、その高価な身形に対してではない。
――彼女の容姿に対してだった。
帽子から覗いて流れ、襟巻から零れて顔の周りを縁取っているのは、滅多にない、白百合の色合いの長い髪。
眉の辺りで切り揃えられた前髪の下には、大きな扁桃型の緑青の瞳。
一目見ただけで分かる、ヴィレイアとよく似た容貌――姉妹と言われた方が自然なほどに。
瞬きして、ヴィレイアを振り返る。
(そういえば、家族の話は聞いたことなかったか――)
「ヴィリー?」
そうして振り返り、エルカはもうこのうえ見開きようもない双眸を、更に大きく見開いた。
――ヴィレイアは凍りついている。
議員を前にしても一歩も退かなかった彼女が、愕然として両目を見開き、呼吸も忘れた様子で凝然と立ち竦んでいる。
その頬から血の気が引いていく――音が聞こえそうなほどに素早く。
只事ではなかった。
エルカは覚えず、庇うようにヴィレイアの前に立っていた。
そうして、彼女の顔を覗き込む。
「ヴィリー? 大丈夫か?」
一方の女性は勢い込んでいた。
緑青の色合いの瞳がきらきらと輝いている。
「ヴィレイア? ヴィレイアよね? 会いたかったわ!
もちろん私のことは分かるでしょう?
――この方はどなた?」
女性の鈴を振るような声。
嬉しげに華やいだ声音。
――だが、エルカの声も女性の声も、ヴィレイアには聞こえなかったに違いない。
彼女は茫然としている。
それこそ時が止まったかのように。
「……ヴィリー……?」
エルカがおずおずとその肩に触れてようやく、ヴィレイアは浅く息を吸い込んだ。
喉に絡んだ、微かな震え声で、彼女は愕然と呟いていた。
「……なんで――、お姉ちゃん……」
*◇*◇*
リベルは凍りついている。
――幾つもの思考が並行して走った。
ヴァフェルムに連絡しなければならない。
ショーズ商会を警戒して取り決めたことを実行しなければならない。
――だが、どうやって。
ヴィレイアは、そしてリベルたちも、ショーズ商会がリベルをリベルだと認識した上で、買い戻しに掛かることを警戒していた。
まさか――まさかこのような、事故のような形で出遭うとは。
〈言聞き〉の誓約に対抗しなければならない。
そうしなければ身動きも儘ならない。
今、リベルは一歩も動けない。
主人の意思が分からないがために、ただ立ち尽くすことしか出来ない。
〈言聞き〉の神秘の瞳がリベルを見ている――彼の、ショーズ商会の意思に背かないという誓いが守られるかどうかを。
目の前にいるショーズ商会の人間が、自身がリベルに命令権を持っていることを知っているか否かを問わず、リベルがショーズ商会の人間の、彼の主人の前に立っていることだけを認識している。
――だが、〈言聞き〉への誓約に対抗すれば、禁則を心袋に封じ込めれば、
(どのみち俺は動けなくなる)
エルカのためにその行為に踏み切ったときは、そばに治癒精を扱える法術師がいた――しかも、治癒精と真契約を結んでいる法術師が。
その恩恵があってなお、リベルは短くない時間気を失ったのだ。
周囲への被害は言わずもがなで、
(――絶対に巻き込む……)
ショーズ商会の男のそばに立っている少女。
彼女の立場は分からない。
今まさに小舟の男からショーズ商会に買い上げられたところなのかも知れず、あるいは逆に、一度はショーズ商会の手許にいたものの、様々な理由で役立たずと見做されて、再び売られていくところなのか。
ショーズ商会の男が胡乱げに、そして小舟を係留する男が怯んだようにリベルを見上げる一方、少女は縋るようにリベルを見上げている。
声に出されなくとも分かる――彼女が助けを求めていることは。
――だが、それだけは、何があっても不可能なのだ。
この瞬間、リベルは屈辱的なまでに強く望んだ――ショーズ商会の男が一言、「失せろ」と言ってくれることを。
そうすればリベルはこの場から立ち去ることが出来る。
ショーズ商会の男が溜息を吐いて、小舟を係留する男を見遣った。
そして、そばに立つ少女の肩をやや乱暴に叩いて、小舟の方を指差す。
――その先の数十秒を、リベルは断片的にしか覚えていない。
早鐘を打つ鼓動と、その鼓動に合わせて脈打つように揺れる視界。
ショーズ商会の男が、まごつく小舟の男に言っている――「早くしろ、その辺りの餓鬼に見られるのとは訳が違う」。
そして再びリベルを振り仰ぎ――口を動かした、「そこから動かないでくれよ」、冷笑しながら。
リベルは動けない。
少女が、強く肩を押されて進み出る。
短い距離を歩く途中で彼女は躓く。
そうしながらも小舟の男に歩み寄って、彼から小舟を舫う綱を受け取る。
彼女が両手でぎゅっと綱を握り締め、地下水路の波などないも同然だから、小舟は流れていくことなくその場に留まる。
小舟の男が、嫌で仕方がない仕事を片付けるとき特有の表情で、その暗渠からリベルが立つ地上の道に攀じ登って来る。
両手を道に掛け、脚をばたつかせて。
リベルは動けない。
阿呆のように突っ立って、リベルはふと、ショーズ商会の男――冷然と水路の脇に立っているあの男も、地上の道に戻るときには、こうして不格好に攀じ登るのだろうか、と考える。
あるいは別の場所まで行けば梯子なり階段なりがあるのか。
真っ白になった頭の片隅に、そんな下らない思考が浮かんでいる。
まるで、正気が物陰に隠れてしまい、度外れて馬鹿な精神が顔を出したかのように。
リベルの目の前で立ち上がった小舟の男は、今や不審そうですらあった。
リベルがどうして動かないのかを不思議に思っている。
リベルが――見るからに気弱そうな――町民の格好をしていれば得心していただろうが、リベルの腰には鉱路の業物が下がっているのだ。
妙に思って当然だ。
だがそれでも、彼は時間を無駄にはしなかった。
ふう、と息を吐いて、彼が片手を振り被った。
リベルに見えたのはそこまで、感じられたのは背筋を走った戦慄だけだった。
痛みすら、今のリベルからすれば、感覚の埒外にあった。
――側頭部に衝撃があり、リベルは暗渠に転がり落ち、そして彼の意識は暗転した。
4章終了です。




